川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

善光寺(上)

2009-04-22 05:27:59 | 出会いの旅
2005年の春に善光寺を訪ねました。そのときに妻が書いた文章があります。7年ぶりのご開帳で忙しかろうと今回は挨拶も遠慮した若麻績さんという住職が案内してくれたのです。ぼくの文章よりはずっと面白いので 『木苺』122号から勝手に転載します。


  私の「善光寺参り」
                        鈴木倫子(川越市在住)

●「元祖渡来人」の寺 善光寺
 私、ことし年女、還暦、厄年。だからというわけでは全然ないけれど、善光寺サンに行ってきた。「牛に曳かれて善光寺」。昔々おばあさんが牛の角に引っかけられた布を追っかけていったら有り難や、信濃の善光寺サンにたどり着いた、という故事だが、私の場合は(当たり前だが)ちょと違う。何が縁かといえば、「在日コリアンの日本国籍取得権確立協議会」あるいは「近江渡来人倶楽部」ということになるのだろう。何とも無粋なキッカケだが、東京や埼玉ではとうに終わってしまっている染井吉野、郷桜、枝垂れ桜に八重桜、桃の花、すももの花、触れなば落ちむ海棠の花、群れ咲くかたくり、菊咲きいちげ、朧にかすむ菜の花畑と、まあ、花尽くしの「上越・北信濃春風ドライブ」の途次だった。
 善光寺で待っていてくれるのは、ここはもちろん「仏さま」と言うべきだが、わたし的にはまず、個性派俳優「すまけい」を彷彿させる若麻績敬史(わかおみ たかふみ)さんだった。善光寺徳行坊(とくぎょうぼう)の副住職をつとめるお坊さま。お近づきになれたのは昨年、確立協立ち上げ集会のあとのお酒の席。「渡来人倶楽部の河さんにこの集まりを教えてもらいました」と言って手渡してくださった名刺を見て(あ、これはこれはなんとまあ、元祖渡来人でいらっしゃる)と、感激してしまった。
 「こちらは、そのもとは長野県には‘麻績村’という地名で残っている姓ですね」「はい。一番ふるい記録には‘麻績王’というのが見られますが、後に‘中麻績’‘若麻績’などの枝族が出てきます。‘若麻績’という姓は、はっきりした記録としては中世からです。私で74代目になります」。手許の紙ナプキンにボールペンで書きながら、由緒正しい日本語で穏やかに、気の遠くなるようなことをおっしゃった。以来、読んでも端から忘れてしまう『日本書紀』(岩波文庫)を寝床に持ちこんで、この本のときに限ってすぐに訪れる睡魔には抗わず、読んでは忘れ、読んでは忘れ、再会に備えてきた。
 ことし2月にお会いしたとき、善光寺サンに行くときには連絡させていただいて良いですかとお願いした。こういうときには誰だってそう言わざるを得ないものなのだろうが、「もちろん。どうぞ、どうぞ」。というわけで、4月の末に、若麻績さんを訪ねたのだった。善光寺での滞在時間をKすけサンは1時間あまりと予想した。私は2時間と踏んでいたが、実際には3時間あまりもおじゃましてしまった。
 まず善光寺事務所の応接室で、国籍取得権の運動のことやら、長野県でのさまざまな市民の活動のこと、そして、善光寺というお寺さんのことや、若麻績家が代々続けてきた私的な祭祀にかかわる興味深い話などを聞かせていただいた。その後、本堂に行き、内陣にすわってお坊さんたちのお勤めに立ち会い、それから「お戒壇めぐり」。これはご本尊を安置した瑠璃壇の真下にある回廊をめぐり、「浄土」への扉の鍵をがちゃがちゃならして仏さまとの縁をいただくというものだが、すぐ前を歩く人の白い衣服も見えない真の真っ暗闇を手探りで歩いていく。地上に戻ってしばらく待ってもう一度お勤め。最後に忠霊殿にある史料館を見学。それをすべて若麻績さんが懇ろに案内してくださった。以下、その間にお聞きした興味深いお話の数々のうち、記憶の網の目にかろうじて止められたいくつかを紹介したい。

●百済から来た仏さま
 まず、なんで2度続けてお坊さんのお勤めが行われるかと言えば、善光寺さんには41の塔中(たっちゅう)、子院があるが、それぞれが天台宗かまたは浄土宗に所属している、つまり善光寺さんというのは二つの宗派が共存しているお寺で、だから本堂でのお勤めも天台宗、浄土宗それぞれに行う。なんと本堂のお住職も二人、天台宗と浄土宗から一人ずつ出ているそうでびっくりした。善光寺さんというと普通まず本堂のことを言うが、同時にそれら41カ寺の集合体でもある。そのうち15カ寺の住職が若麻績姓で、世襲されている。ちなみに若麻績さんの徳行坊は浄土宗である。
 絶対の秘仏とされているご本尊「一光三尊阿弥陀如来」はいわゆる念持仏サイズで、阿弥陀さまと脇侍の勢至菩薩、観世音菩薩の三体が一個の大きな光背でつつまれているそうだ。この仏さまは寺伝によれば欽明天皇13年(552年)、百済から招来された日本最古の仏像で、皇極天皇元年(642年)に今のところに祀られたそうだ。開山は「本田善光(ほんだよしみつ)卿」といい妻と息子をあわせ3体の木彫座像を安置した「御三卿の間」というスペースが瑠璃壇の向かって右隣にしつらえてある。寺号は開山の名に由来するというが、それにしては「新式」すぎる名前だ。「奥方は弥生の前」などというのも、なにやら中・近世の「説教もの」臭い。おそらく後世つくられた名前だろう。裳を着けて片膝を立てている奥方の姿勢や衣装から見て、あるいは名前より木彫座像の方が古いかもしれない。
 とはいえ、仏さまを百済から、さらに大和から、誰かがこの地にお連れしてきてお祀りしたことには違いない。若麻績さんは思慮深く誠実に、記録にない不確かなことをおっしゃらない。が、素人の蛮勇で憶測をたくましくすれば、この仏さまは若麻績さんの遠い先祖か、あるいは関わりの深い誰かとともに、この地にたどり着いたものだろうと思われる。
 若麻績さんの話によれば、‘若麻績’というのはご本尊にピッタリついて遍歴・流浪する一族であるらしい。この小さな仏さまは、古来、霊験あらたかな有り難い仏さまだった。それで、武田信玄が信濃を攻めたとき、これを奪って甲斐にお連れしてしまった。甲斐善光寺に納めたが、お守りしていた若麻績氏が甲斐の国まで追いかけていき、その一族は秘仏が返された後も甲斐の国にとどまり、今に至っているという。武田信玄は甲斐の国を仏国土とするために善光寺の仏さんを連れて行ったのだという説もあるそうだが、人様が大切にお守りしている仏さんを「拉致」して仏国土を創ろうなんて、ろくな後生であるわけがない。信玄の死後、息子の代になって善光寺にお返しされた仏様を、今度は松平時代の家康が奪い去った。それからさらに織田信長の弟・織田信雄を経て、豊臣秀吉の手に渡った。秀吉が死の床でみた夢にご本尊が現れて「私を信濃善光寺に帰してくれ」と言ったので、後生を怖れた秀吉によって仏様はようやく善光寺にお帰りになることができたという。
 若麻績一族は昔からここの仏さまをお守りしてきたが、初めのうちは僧職としての位階はもっていなかったそうだ。仏さまをお守りし、仏教に帰依しているが僧ではなく、また俗かと言えば俗でもない、「法然さんが説く理想的なありようだったようだ」と、若麻績さん。(つづく)