川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

朝鮮総連・朝鮮人学校と私(Ⅰ)

2010-08-14 18:56:39 | 韓国・北朝鮮
昨日、僕は「朝鮮高級学校への授業料実質無償化措置適用に反対する意見書」を政府あて送信した。1000字以内でという制約があったので結論だけを書いた。

 02年9月17日の衝撃以来、僕はそれまで「見て見ぬふり」をしてきた「北朝鮮(朝鮮総連・朝鮮学校)」と正面から向き合う活動を友人たちと一緒にやってきた。「見て見ぬふり」を続けることは北の独裁政権の犯罪に荷担することだと思い知ったからだ。「拉致被害者・家族の声を受けとめる在日コリアンと日本人の集い」(03・7)を皮切りに、<「北朝鮮へのまなざし」を考える連続講座>(03・10~05・10)を開催した。

 これらの活動を通して脱北してきたもと在日コリアンや日本人妻の方々と出会ったり、朝鮮高校OBとして自らのあり方を真剣に問う若者に出会ったりした。僕の今の考えはこうした出会いの中で確立されたものだ。

 僕らが学んだことはその時々に報告してきたが読者は限られている。ここに紹介する元さんの文章は朝鮮学校OBとして自分が受けてきた「民族教育」ときちんと向かい合って、これからの生き方を打ち立てようとする営みをつづったものだ。
 読者はどうおもわれるだろうか?僕はこういう人と出会えたことに感謝し、これからも共に生きていきたいと思っている。




  朝鮮総連・朝鮮学校と私  ある在日の告白 (Ⅰ)

            元 智慧 (うぉんちへ)
 
 はじめに

 「日本人」ではないことをはじめて意識したのは、いつの頃であろうか。自我が芽生えた頃には既に日本語と朝鮮語が飛び交う環境にいたように記憶する。

 私が生まれた1970年代は共産主義・社会主義国家、さらにはそれらを取り巻く国家にとってまさに激動の時代だった。1970年には「よど号ハイジャック事件」が起こり、日本で最初のハイジャック事件として衝撃を与えた。この北朝鮮への亡命劇と交差するように1972年には、雪の樺太国境を突破しソビエトへと消えた岡田嘉子がおよそ35年ぶりに祖国の土を踏み、おおいに世間を賑わわせた。

 中国においては1960年代後半から文化大革命が続いており、指導部に先導された暴力的な大衆運動によって多くの人材や文化財などが被害を受けたのである。1974年には韓国・ソウルにて朴正熙大統領(当時)が在日韓国人青年に銃撃された暗殺未遂事件(文世光事件)が起き、この国の未来の暗示的事件であったといえよう。

 そしてここ日本においてはその規模が縮小してきたとはいえ、在日の北朝鮮への帰還事業も細々と続いており、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)も今日のように弱体化してはいなかった。ある意味においてはその悪辣さをますます強めていったように思われる。様々な歴史的背景がうごめく中で、己も「民族教育」という名の、全体主義・偶像崇拝がまかり通る社会へと足を踏み入れたのである。

 さて、私が生まれ育った地域は、とりわけ民族的意識や同胞の連携が強いところだったように記憶する。親たちの教育観も受験戦争を突破しエリート街道を歩ませるというよりは、民族の誇りや母国語に堪能な人間へとわが子を育てるのが、在日、さらには朝鮮民族の一員としての務めであるというのがおおかたの考え方であり、当然であるという風潮すらあった。

 また、当時はまだ祖国統一こそ民族最大の帰結点であり、、ことに血気盛んな若者たちはかつての帰国事業で祖国建設のためにと「喜んで勇んで」渡っていった同胞たちのごとく、祖国統一をスローガンに掲げ燃えていた。

 そのためにも在日朝鮮人にとって、「学校」というものは単に教育の場というよりも政治的なことは無論、思想的なものを「お国」のためにわがものとせしめるという意欲をもって、輝いていた。

 私自身も他を知らないが故に学校というものはこのようなものであると、ある種、当然のように考えていた。そして、いつしか、教科書に「首領様」が当然のごとく登場しても何の違和感をも抱かぬ人間となっていた。その時はまだ…。


 当時の同胞や学生たちにとって「幸い」であったのは、あのベールに包まれた国の実態が今ほどマスコミを通して伝わらなかったことであろう。同胞系の機関紙「朝鮮新報」などはマスコミの一種などとはほど遠く、事実上北朝鮮と総連のための広報紙であり、「首領様」の偉大性や社会主義の存在意義、そして民族教育の「素晴らしさ」を連日載せており、それは現在に至るまで性懲りもなく続けられている。

 しかし、金日成というベールに包まれた人物が冷戦下における旧ソ連の傀儡であり、「国家の英雄」とはかけ離れたものであることは、もはや疑いようのない事実である。

 総連はかつて10万人の同胞を「地上の楽園」という名の地獄へと扇動し、送り込んだ。そして北朝鮮は彼らを人質にした。そして総連は中世の封建国家よりも遙かに無残な体制へと莫大な資金を送り続けた。

 そして、何にもまして大切なこどもの未来をも、全体主義国家への忠実な僕となるよう、「民族教育」を通して植え付けていった。その大罪は決して拭えるものではない。

 同胞の多くが、異国の地にありながらも遠く離れた地の独裁者を偶像化し、崇拝した。総連が推し進めた「民族教育」の中にそのなぞを解く鍵が隠されているような気がしてならない。

 20世紀の歴史の中でも極めて不可解なことの一つであるこれらが今後、旧ソ連崩壊後のグラスノスチ(情報公開)のように明らかにされるべきである。そして、今なお多くの北の人民が圧政に苦しめられており、また、拉致や核問題の解決は一刻も予断を許されない状況にある。

 今こそ、数々の蛮行を繰り返す、愚かなる体制を打倒するため、民族を超え、一致団結するときであると確信する。

 なお、今後記す事柄はすべて個人的なものであり、在日が共通して抱いている想いとは異なる部分があることをなにとぞご理解いただきたい。

              (「木苺」121号 05・3)

 

 日本人拉致問題が発覚

 2001年9月11日、歴史的な小泉首相の訪朝以降、日朝関係は現在に至るまで揺れに揺れている。そして、その余波は、在日社会にも大きく作用し続け、様々な変化をもたらしている。
 言うまでもなくそれは、拉致というにわかには信じ難い人権侵害を行ったという事実に加え、多くの在日にとってはその立場上、それは余りにも受け止め難い衝撃であった。換言すれば、在日の大多数の心に、恐らく初めて十字架を背負わなければならなくなった瞬間でもあった。
 さて、外界では、在日朝鮮人社会の民族教育というものは、どの様に認識されているのであろうか。自国の言語や歴史に通じ、民族の誇りを持った人材を育てる場所とでもいうのであろうか。勿論、表向きはこの様な事と記して、ほぼ相違ない。実際問題、当初はこれらの事が必要に迫られていた事も事実である。

 当初より民族教育の方針の一つには、正しい歴史認識というものがあった。それは、己が何故異国の地にあるのか、異国の文化を拒否し、日本に住みながら偶像崇拝を行うのか。そこには、理論や普遍的な意義などは微塵もなく、一方的に刷り込まれていくのみである。更には、民族愛というものを、政治体制を支持する事という誤った認識が植え付けられるのである。言うまでもなく、これらは全く別問題である。しかし、かつての共産圏の国々がそうであった様に、政権を支持しない者は、同時に国家に対する反逆者として徹底的に敵視され、それは在日社会とて同じであった。 

 日本人拉致問題が発覚して以来、帰化或いは韓国籍に変えた在日朝鮮人は数万人とも言われる。その中にはかつて民族教育を信じ、朝鮮総連や北朝鮮を信じた者も少なからず存在する。しかし、現在に至っても、それらを擁護し、拉致問題をかつての植民地問題と同列に語り、いつまでも被害者面をしている者が数多く存在するのも事実である。

 私自身、拉致という言葉を始めて耳にしたのは、かなり以前の事の様に記憶する。辿れば、それは中学生の時にまで遡る事となる。数年前、拉致問題が明らかになった際、友人に「この度の問題に対して、どう思うか」という事で議論した事があった。現在も朝鮮総連系の会社員である彼女は、私に対しこう言い放った。

「偉大なる首領様と親愛なる指導者同志が、この様な非人道的な過ちを犯す筈がない。何かの間違いである。しかも、植民地問題と比べれば大した事はない。」と。

 私同様、衝撃を受けていた事に違いはないのであるが、民族教育を受けた者の多くが抱く最も誤った認識がここに読み取れる。民族教育の中では、自分たちは常に被害者であり、罪を犯す事などあり得ない、という風潮が存在する。それは、植民地問題に始まり、戦後様々な面に於いて迫害を受け、差別を受けた事に認識の根底がある。

 そしていつしか、在日の多くは、被害者という名の上に胡坐をかき、現在に至るまで生きてきた。それがある日突然、拉致という前代未聞の人権侵害、況してやそれが国家によるものだという事に、誰しもが衝撃を受け、失望したのである。 
 
 当時、中学生の私は、現在程ではないにせよ、少なからず教壇に立つ教師の言動などへの不信感や、民族教育という事に対し、常に疑問を抱いていた。何かと聞かれれば定かではないのであるが、直感的ともいうのであろうか、何かが誤っているという思いを、密かに抱いていた。
 朝鮮総連が推し進めるこの教育の中では、韓国(※学校では、北朝鮮に対して南朝鮮と呼んでいた)も米国や日本同様、敵国であり憎むべき存在であると教えていた。今でこそ表向きは民主化した様に見える韓国だが、かつては軍事政権が長い間支配し、流血の革命も幾度となく起こった。そして、学校ではそれらを上手く利用し、この様な韓国に対し、北朝鮮では、市民は首領様の慈しみを受け何不自由なく平和に暮らしているのだという事を、繰り返していた。

 民族最大の悲願と謳っていた統一を妨げているのも、米国や韓国である事を強調し、赤化統一こそ、理想なのだと言う事を、声高に叫んでいた。しかし、その頃からそれらの声に、どこかきな臭いものを感じざるを得なかった。机上の理想論は、様々な政治的陰謀が渦巻く現実の前では、子供心にも虚しく響いた。

 北朝鮮帰国事業の罪
 
 民族教育を語る上で欠かす事の出来ないものの一つに、民族愛を育むというコンセプトがある。愛国心ともいうが、ほぼ同義語として使われていた。では、一体どの様な形でそれらが植え付けられていくのであろうか。戦後、日朝史を象徴する北朝鮮への帰国事業の真相は、今なお謎に包まれており、早急に解明が急がれるものである。この例を元に、記す事としよう。

 戦後、朝鮮に帰らず日本に残った在日の多くは、困窮状態の中で生活し、様々な生活場面に於いて差別等も著しかった。その様な状況のもと、日朝の陰謀の中で帰国運動が盛り上がり、多くはそこに爪の先程の疑いも持たず、片道切符の船に乗り込んだ。日本の生活に絶望し、「地上の楽園」などという扇動に煽られ、ほとんど逃げる様な形で日本を後にした。
 
 言うまでもなく当時は、正確な情報が伝わる時代ではなく、たとえ疑わしい事であっても、確認する術などは無論ない。まだ見ぬ新天地に夢を追い求め、海を渡った。
 
 これらの事は、映画「キューポラのある街」の中に垣間見る事が出来る。ここでは、政治的というよりは、帰国する在日朝鮮人との別れがテーマであるのだが、当時の時代背景を知る事が出来るという意味では、大変興味深い。
 
 帰国事業が盛んになり始めた1959年頃は、三年にも及ぶ朝鮮戦争が終結し間もない頃である。そんな荒れ果てた地が、「地上の楽園」と考える方が不自然である事は、現在ならばそう困難な事ではない。しかし、当時の在日の生活保護受給率が在日社会全体の23%であった事を見れば、溺れる者は藁をも掴むという人々の心情がそこに読み取れよう。
 関わった日本赤十字の責任問題はここでは触れないでおくとするが、北朝鮮と朝鮮総連はそこに目を付けた。まさに、彼らは「飛んで火に入る夏の虫」であった。しかも、戦争の最中、海を渡った彼らの出身地のほとんどは現在の韓国、つまり半島の南であり、北出身の者はごく少数でしかなかった。
 一方、韓国系の在日組織である民団はこの帰国事業を北送事業と呼び阻止する立場であったが、今なお対立する朝鮮総連と民団、「楽園」へと向かう彼らの耳に、その様な声が届く筈もなかった。貧困に喘ぐ多くの人々が、韓国政府による事実上の棄民政策と、左翼勢力の大量宣伝に乗せられ北へと渡っていった。
 
 近年、脱北者が後を絶たず、その中には、先の帰国事業の中、「地上の地獄」へと送り込まれた者も存在する。恐怖政治の下迫害され、決死の思いで逃れて来た彼らが、来日し真っ先にとった行動は、かつて地獄へと扇動し送り込んだ、朝鮮総連への責任追及であった。しかし、朝鮮総連側の余りにも無責任で野蛮な言動の中に、人間の理性や良心は微塵も感じられない。
 
 かつて、私が訪朝した際、時折しも黄長元書記が韓国に亡命した矢先であった。北朝鮮では、専ら民族の反逆者として、彼の行動は非難され、その一族は流刑されたという。
 
 恐怖政治による迫害を受け亡命する脱北者、そして真の民主化を望み家族までをも犠牲にし、独裁政権打倒を掲げる元幹部。そこには、反逆者の姿を見る事は出来ない。
 北朝鮮へ帰国した人々には、過酷な運命が待ち受けていた。そして、現在に至るまで、筆舌に尽くし難い悲劇が繰り返されている。先頃、北朝鮮における公開処刑の映像が、世界に発信されたばかりである。その末路は、惨憺たる悲劇と絶望のみであった。多くの者が、人間としての尊厳という尊厳は奪われ、廃人と化し死に行く運命にあった。
 在日朝鮮人の中には、金一族を無条件に崇拝し、まるで思考力を全て奪われたかの様な、不可思議な言動をする者がいる。そこに、民族教育の最大の罪がある。どの様な状況であれ、そしていつの時代であれ、人間を崇拝し偶像化するというのは、絶対にあってはならない事である。
 しかも、帰国こそしなかったが、日本に残った在日朝鮮人の多くも、朝鮮総連によって、直接或いは間接的に虐げられる存在である。全財産を奪取された者、北朝鮮へと渡った家族を皆殺しにされた者、そして日本人同様に拉致されていった者もいる。その様な境遇に陥らなかった者が、現在も盲目的に民族愛と政権支持を混同している姿の何と情けない事か。
 民族への愛着と政権支持は全く別のものである。この事を履き違え、相も変わらず体制を無条件に支持する者こそ、消え去るべきなのである。そして、この様な教育の中で、真の愛国心が育まれる事はない。

 反日教育について
 
 当時の民族教育のカリキュラムに登場する歴史の授業は、大別して三つであった。「世界史」、「朝鮮史」、そして特に重視されていたのが、「現代朝鮮史」であった。
 前二者はともかく、後者の現代朝鮮史は、要するに反日と反米教育の時間である。その名も「偉大なる金日成将軍の革命活動」といった感じの、何とも滑稽な授業であった。しかもこの教科書、他の科目の教科書と違い、使われる紙は最高に上質なもので、当局がいかに洗脳教育を重視していたかが伺えるというもの。
 
 その中身はというと、要は日本による植民地支配から終戦(北朝鮮や韓国では解放という)までが主なもので、その間、金日成が行ったとされる朝鮮半島及び中国でのパルチザン活動の展開が詳しく記述されており、子供心にも明らかにフィクションとも思える様な、それは見事な描かれ方なのである。

 しかし、彼が戦後まもなく、旧ソ連軍とともに入国した事実は一切触れられておらず、その際の写真も無論掲載されてなどいない。金一族の偶像化と、歪んだ形で愛国心を植え付け様とする当局の狙いは、火を見るよりも明らかであった。
 歴史教育の意義があるとすれば、それは常に様々な立場からの視点を養う事こそが、その一つである。
 
 大戦終結後、朝鮮半島は間もなく朝鮮戦争へと突入する。三年にも及ぶこの戦争に関しては、近年その実態が次第に明らかになりつつあるが、少なくとも、金日成が韓国を吸収し、半島全てを自らの支配下に治め様ともくろんでいた事は、現在では常識であり、又そうでないとこの戦争の全てのつじつまが合わなくなってしまう。

 にもかかわらず、授業に於いてはひたすら、先に侵攻したのは、韓国側だという偽りの記述が繰り返され、極めて不自然な歴史の流れとして描かれている。無論、その背景には、米ソの冷戦があった事はいうまでもないが、その様な事は、学校に於いてはどうでも良いのである。
 これらの事を検証してみると、当局が連呼している統一のスローガンが真実のものではないという事が安易に読み取れよう。何故ならば、仮に朝鮮半島が統一しようものなら、在日朝鮮人より略取した金品による贅を極めた生活、金一族と朝鮮総連の最高幹部らの強権や生活は全て失われる事になるからである。
 やがて、血で血を洗ったこの戦争は終わりを告げ、北朝鮮では権力を手にし始めた金日成による粛清の嵐が吹き荒れた。反動分子と思われる人々は、その地位を終われ、そして処刑、流刑された。これは、旧ソ連のスターリンや中国の毛沢東などと同様、共産圏の国々がかつて行った手法であり、やがて北朝鮮は、中国、旧ソ連を遥かに凌ぐ、独裁国家へと化していった。
 在日朝鮮人の多くは、北朝鮮や朝鮮総連が掲げる統一のスローガンを鵜呑みにし、それがやがて拉致を始めとする世にも恐ろしい犯罪へと駆り立てるのであった。
 正しい歴史教育とは何か。現在、中国などに於いても反日が声高に叫ばれる中、改めてその重要性が認識され始めている。
 朝鮮半島の植民地問題一つ見ても、様々な角度から検証が出来るのである。日本人と共存していく必要がある中で、反日教育は明らかに誤っている。かつて虐げられた先人がいるにせよ、歴史の流れというものは、それ程単純な事ではない。それは、どの民族であろうと、人間が人間たる所以である。常に過ちを犯すのが、人間なのである。自分たちが完全に正しいという視点しか植え付けられないのは、誤った教育というより他ない。
 現在騒がれている中国を始め、共産圏の国ではしばしば愛国教育というものが行われる。しかし、真の愛国とは何なのか。他を責め己が全て正しいと思う事なのか。他を許さず己は許す事なのか。
 金日成一味が、戦後血の粛清を行って絶対的な権力者になった事を教科書にありのままに綴り、それを正しく伝える事のできる教師が存在すれば、恐らく偶像崇拝といった事はまず縮小化するだろうし、又、そうであれば、民族教育というものは成り立たないであろう。
 前述した通り、体制支持と愛国心との区別がなされる必要がある事は当然であり、在日社会もここで一度、歴史への客観的なアプローチの必要性があるのではないだろうか。

           (「木苺」122号 05・5)