昼頃、貴子さんからお母さんの訃報がもたらされました。亡くなられたのは14日で僕が伊豆に出かけていたため知らせが遅れたようです。
絹子さん、僕の生徒だった貴子さんのお母さんです。貴子さんが池商に入学した1978年以来のおつきあいですからもう30年以上になります。
貴子さんを僕が担任したのは一年次だけですがつきあいの深い生徒で私たちは今も「たかこ」と呼んでいます。
一年の時、友人たちと僕の故郷で夏休みを過ごしたのを皮切りに、旅行も何度もしました。3年生の時には北海道の牧場で友人たち共々我が家の家族全員が夏休みを一緒に過ごしました。
お母さんも貴子さんもそれぞれに「我が強い」というのか、感情や生き方がすれ違うところがありました。貴子さんの結婚に際してもお母さんは最後まで反対し、結婚式にも出られません。北海道で出会った昆布漁師のおじさんまでが遠くから出席してくれたのですが…。
僕から観れば貴子さんは貴子さんでしっかり生きているように見えるのですが、お母さんには娘の生き方に対して危惧する気持ちが消えなかったのでしょう。
お母さんは僕のことを信頼してくれたのか、川越の我が家に来てくれたり、夏や暮れには欠かさず贈り物をしてくれたりしました。
「そんなことをしなくても貴子は僕の大切な娘のような者だから」といくらいってもその行為は変わることがありませんでした。母の子に対する想いがこんな形で表現され続けたのかと思います。
自分の体調が思わしくないのに僕が入院したときなどはあれこれと気にかけて励ましてくれました。
近年は、十分とは言えないけれど、親と子が交流する機会が次第に増えてきたかなと僕は安心していました。
最後にお話ししたのは去年の暮れでした。北海道の昆布を送ってくれたのでお礼を言うための電話です。
貴子さんが世話になった昆布漁師さんに会うために北海道の広尾を訪ねたこともあると言います。昆布はその方から買ったものだったのです。
入院していたことを僕は知らないままでした。貴子さんが毎日通ってお母さんを見舞うことが出来たと言います。
こどもがいくつになっても親にとってはこどものままです。母親にとっては特にそうなのかもしれません。
僕に何が出来るわけではありませんが貴子さんを大切な「娘」と思ってつきあい続けることに変わりはありません。どうぞご安心下さい。
ちょっとキザかもしれないけれどお見舞いに行ってこんな言葉をかけられたらよかったかなあ。
富岡絹子さん、どうぞ安らかにお休み下さい。(合掌)
絹子さん、僕の生徒だった貴子さんのお母さんです。貴子さんが池商に入学した1978年以来のおつきあいですからもう30年以上になります。
貴子さんを僕が担任したのは一年次だけですがつきあいの深い生徒で私たちは今も「たかこ」と呼んでいます。
一年の時、友人たちと僕の故郷で夏休みを過ごしたのを皮切りに、旅行も何度もしました。3年生の時には北海道の牧場で友人たち共々我が家の家族全員が夏休みを一緒に過ごしました。
お母さんも貴子さんもそれぞれに「我が強い」というのか、感情や生き方がすれ違うところがありました。貴子さんの結婚に際してもお母さんは最後まで反対し、結婚式にも出られません。北海道で出会った昆布漁師のおじさんまでが遠くから出席してくれたのですが…。
僕から観れば貴子さんは貴子さんでしっかり生きているように見えるのですが、お母さんには娘の生き方に対して危惧する気持ちが消えなかったのでしょう。
お母さんは僕のことを信頼してくれたのか、川越の我が家に来てくれたり、夏や暮れには欠かさず贈り物をしてくれたりしました。
「そんなことをしなくても貴子は僕の大切な娘のような者だから」といくらいってもその行為は変わることがありませんでした。母の子に対する想いがこんな形で表現され続けたのかと思います。
自分の体調が思わしくないのに僕が入院したときなどはあれこれと気にかけて励ましてくれました。
近年は、十分とは言えないけれど、親と子が交流する機会が次第に増えてきたかなと僕は安心していました。
最後にお話ししたのは去年の暮れでした。北海道の昆布を送ってくれたのでお礼を言うための電話です。
貴子さんが世話になった昆布漁師さんに会うために北海道の広尾を訪ねたこともあると言います。昆布はその方から買ったものだったのです。
入院していたことを僕は知らないままでした。貴子さんが毎日通ってお母さんを見舞うことが出来たと言います。
こどもがいくつになっても親にとってはこどものままです。母親にとっては特にそうなのかもしれません。
僕に何が出来るわけではありませんが貴子さんを大切な「娘」と思ってつきあい続けることに変わりはありません。どうぞご安心下さい。
ちょっとキザかもしれないけれどお見舞いに行ってこんな言葉をかけられたらよかったかなあ。
富岡絹子さん、どうぞ安らかにお休み下さい。(合掌)