渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

梅雨入り

2021年05月12日 | open


まだ5月半ばも過ぎてないのに、このまま
梅雨入りの様子。

難しさ

2021年05月12日 | open


ルーターでの彫りは、中華製2ストエンジン
のシリンダーのポートのバリ取りをするよ
り難しかったという現実これあり。

石に紋など刻む職人さんてのは、どうやっ
ているのだろう。型押しハンコじゃないん
だからさあ。


中国の今

2021年05月12日 | open




中国は古代から中世にかけて、地球上で
最先進国だった。
だが、清国が英国に陵辱されて領地を侵略
され、さらに日本がとどめを刺したのが
中国の文明破壊の決定打となった。
海を渡って欧米に渡航した中国人は奴隷の
ような生活をするしかなかった。
学問も思想も発明事物も古代文明にあって
は地球をリードした中国の姿はもうどこに
もなかった。あとは帝国主義国の侵略に
やりたいようにやられた。
太平洋戦争後にそれまでの国民主義と新興
の共産主義により闘われた反日反帝国主義
運動は、国共合作決裂後に赤い帝国の成立
により完結した。
だが、中国は、超後進国となり切ってい
た。

私が学生の頃、中国人は皆人民服を着て、
自転車に乗っていた。ジーンズなんてとん
でもない。
自動車?
国内に数える程しかなく、党幹部しか乗っ
ていなかった。
上海のみは租界なので西側国風だった。
しかし、同じ共産主義でもソ連は宇宙開発
においてアメリカを圧倒的に抜く先進国で
あったが、中国はまるで未開地のままのよ
うな国情だった。
中国でF1開催?あと200年後の事ですか?
というような様子がほんの40年程前の中国
だったのだ。
中国の近代化は香港返還以降の事だ。

中国は偉大な古代の先進性の意識さえ失っ
ていた。帝国主義が陵辱して、中国人から
いにしえの先駆としての誇りさえ持ち得よ
うもない程にズタズタにした。

よく日本人で中国人を格下に見て一から十
までとことん馬鹿にして見下して喜ぶ者が
いる。
アホかと思う。
お前、漢字なぜ使ってるの?と。
なんで中国があんなになってしまったの?
と。
あんなようにしたのは誰なのよ?と。

中国は、全体主義的超速近代化により、
いつのまにか日本を抜いて世界第2位の
経済大国になった。
なぜか、共産主義(エセだが)の国なのに
富豪が登場し、貧富の差がとんでもない
国になった。中国人の金持ちは日本人な
ど比べ物にならない。
また、中国人の貧困層は江戸期の日本人
以下だ。北朝鮮はさらにその下だ。食べ
物が亡くて土を食って子どもが死ぬのが
北朝鮮だから。ミサイルあっても食い物
無し。それが北朝鮮だ。
無論、中国も北朝鮮も共産主義どころか
その前段階の社会主義の国でさえない。
ただの全体主義だ。

自国のアイデンティティを失ったまま、
安い労働賃金により外貨獲得で経済大国
になった中国は資本主義の高度な段階の
帝国主義国に進まざるを得なかった。
マルクスの言った通りだ。
やがて、資源を狙って覇権主義的侵略行為
を始めるぞと1980年代に読んでいたが、
今世紀に入って環太平洋地域で中国は大手
を振って侵略行為をやり始めた。これまた
マルクスの言ってた通りだ。

しかし、全世界の流通物では、今や世界
は中国の生産物無くしては経済が動かない
ようになってしまった。
資本主義国は儲けの為には何でもやるの
で、中国の安い物品に手を出して、そこ
から抜けられないようになった。
現在、地球を実効支配しているのは中国
だ。
日本人もいくら国粋主義者を気取って中国
をレイシスト的に叩いても天に唾吐くよう
なものなのだ。てめえの履いてる下着の
糸は中国製なのだし、飲んでる味噌汁も
使う醤油も豆腐も中国製の大豆から作られ
ているのだから。
米軍にしろ、軍服の繊維の基は中国製品だ
し、今は廃止した米軍ブラックベレーは
全軍が中国製ベレーだった。
笑えない現実を中国はいつの間にか築いて
いるのである。

だが、中国には未だ以っていにしえの往年
のアイデンティティの誇りは無い。
西側先進国の猿真似をやって儲ける事しか
考えていない。
今後は、中国人が自ら自滅するだろう。
自分で自分たちの栄光の過去の世界史的
功績の偉大さを消し去ろうとしているの
だから。
今後は、我々先進国のせいではない。
自分らの責任だ。

さしあたり、人の国の領土を自分の物だ
とするのをやめろよ。
それ、帝国主義のやり口じゃねえか。
チベットでも人間とも思えぬひでえ事を
繰り返してから。
今の中国、大人(たいじん)無し。
国の人に仁無き有様、帝国主義国の如し。

ただ、なんでもかんでも自分らが世界の
中心、とする中華思想とは異なるパクリ
として最近のその傾向は面白く見える。
南朝鮮韓国なんて、日本の物は全て韓国
発祥とか大ねつ造を平気でやる程の恥知
らずなのだが、中国は同じパクリでもやり
方が異なる。完全なる贋物路線だ。韓国
はパクリではなく、完全なる盗み。盗んだ
物を自分の物だと言い張る類で、かなり
悪質だ。
ソメイヨシノや武士が韓国発祥だとかだけ
に留まらず、今やありとあらゆるものが
韓国起源とか本国では言い出していて、
在日韓国人の人たちにさえ笑われている。
そのうち、イエスキリストさえ韓国人だ
とか言い出しそうだ。

中国は、独自の「中国の」もので勝負し
てほしいが、一度壊れたアイデンティティ
はなかなか回復しないのかもしれない。
日本は固有の職人技とそれを保持する職人
が存在したが、それももう資本主義の論理
により、日本人によって破壊されようと
している。
もうしばらくしたら、日本からは職人は
全て消滅するだろう。
ホリエモンみたいな感覚が正義とするの
が資本の論理だからだ。
未来のその時、日本にはあらゆる分野で
マスタージェダイなどは必要なくなる事
だろう。
儲ける事のみが正義となり、仕事のプロ
フェッショナルはいなくなる。
その段階では、それは不必要、という思想
が世を席捲しているからだ。
輪島塗りも機械で作られ、日本刀も単なる
オブジェとして工場で作られるだろう。
日本刀においては、すでに「職人」たちに
よって手工業的オブジェ化が強力に進めら
れている。「伝統を守る」とうそぶきなが
ら。外見のみ刀に似た物体が量産されてい
る。個別製造としての全体的指向性の量産
が。

海辺のカフェ

2021年05月12日 | open


海辺のカフェはいいもんだ。
目の前に海が広がる。







原宿 1970年代

2021年05月12日 | open


英国風のカワサキのダブワンをアメリ
ン・チョッパーにしちゃう原宿の舘ひろし
さん(笑

喫茶店

2021年05月12日 | open


三原には「まきしむ」という1970年代初期
からやっていた喫茶店があった。
1970年代の高校時代や大学時代には東京
から三原に来た時にはよく行った。三原
に転住してからも何度も通った。
お化けのようなパフェが名物だった。










コーヒーも美味しく、味のある昭和風味
満載の純喫茶だったが、惜しくも数年前
に閉店した。
その少し前に、マスターが「そろそろ閉め
ようかと思っている」と話していた。
お客さんが激減したから、との事だった。
そういえば、1960年代、70年代は人は
よく喫茶店に行った。高校生も中学生も。
今はファストフード店だろう。マックなど
行くと高校生が集団で長居してノート広げ
てたりする。
1960年代のアニメ『アタックNo.1』でも
女子中学生が喫茶店に行ってるし、『巨人
の星』では、「話をしよう」となると喫茶
店だった。
これは現実世界もそうで、私も中高生の
頃は何かあると喫茶店だった。
喫茶店のマッチ集めが好きで、高校卒業
の頃には小さな蜜柑ダンボール2箱分の
喫茶店のマッチが集まっていた。
外出すれば喫茶店。首都圏だけでなく、
いつでもどこでも日本全国行くのは喫茶
店、だった。高校の時も学校帰りには連れ
だってサテン。池袋のロマンス通りやR大
付近が定番だった。
第一、高校の時は神田神保町の喫茶店で
私はバイトしていた。
喫茶店は私だけでなく、人々の生活と共
にあった。
喫茶店ではナポリタンとピザトースト、
これが昭和の定番だった。
日本初のナポリタンは横浜の喫茶店で作っ
たと言われている。(その店は現役)
そして、昔の喫茶店の特徴は、ファスト
フードやカフェのチェーン店ではないの
で、開店したり閉店したりを繰り返す事
は無く、腰を据えて永く店を開いている
事が多かった。
「行きつけ」の店を多くの人が持ち、常連
客というものが喫茶店にはあった。それが
昭和・平成の街と人々の姿だった。

戦前の昭和初期に「カフェ」が出来てから
その後「純喫茶」が登場し、日本人は親し
んで来た。
なぜ「純」がつくのかというと、昭和初期
のカフェはビリヤード等の遊興設備もあっ
たりしたからだ。そうではなく、純粋に
飲み物のみでの営業をする店を「純」と
したのだ。そこでは蓄音器でクラシックの
名曲のレコードをかけたりした。
このパターンは戦後、「名曲喫茶」として
純喫茶の定番パターンとなった。のちに
有線放送がレコードに代わった。
特に1960年代〜1980年代は喫茶店は大
繁盛だった。私も高校時代は神田神保町
の喫茶店でバイトた経験があるし、叔母
などは喫茶店を経営していた。そこに会社
経営を引退した友人の御祖父様が毎日通っ
て、カウンターでゆた〜と昼間からビール
を飲んでいたりした。
喫茶店とは、まさにそうした寛ぐ場所で
あった。
韓国には「喫茶」の文化が存在しなかっ
たが、日本には「茶を飲む」という風習
が中世には発生していたので、文明開花
以降に登場した店舗での喫茶も日本人は
すぐに親しむ事になったのではなかろう
か。明治に大流行したのは「洋食店」だ
ったが。多くは店内にはやはりビリヤード
置かれていた。
また、日本人にとって、喫茶店は男女の
恋愛譚での出会いと別れの場所でもあっ
たシーンも多かった。
吉田たくろうの曲の『外は白い冬の夜』
などは、もろにそれだ。

「まきしむ」が閉店して残念に思ってい
たが、暫くしたら「カサブランカ」とい
喫茶店が同じ場所で開店した。
なんでも、近所の閉店した喫茶店「ムシ
カ」の調度品を使った内装だといわれて
いた。「カサブランカ」になってからは
私は行った事がなかった。なぜならば、
即廃業したからだ。秒速のように。

三原では駅前の純喫茶がどんどん消滅して
いる。
だが、まだ残っている昭和の喫茶店もいく
つかある。
頑張ってほしい。

酉御門跡の向かいの喫茶店。


廃業した映画館「文映」の一階にある
喫茶店。


三原駅前残存カフェ。


JR三原駅