過去の時代と現代の貨幣価値の比較を
推し量る方法の一つに物価指数の推移
を用いる場合がある。
それを用いると、過去の貨幣価値のぼん
やりとした姿は見えるが、単純に特定の
指数を投入しただけでは真実の実体は見
えてこない。
例えば、60年前の10円は今の100円に
なるある指数計算があるとする。
それは、ある特定の事物についての事では
なく、単純に数字上の比較としての数値で
しかない。
実際には、その数値で出す時代に、ある
物が100円だったら今の1000円相当なの
か、あるいは逆に今の1万円はその時の
10万円相当なのかというと、これは物に
よって異なってくる現象が存在する。
事物により昔の100円が今の1000円相当
ではなくなるケースが出てくる。
換言すると、数字上は当時の100万円は
今の1000万円かというと、1000万円以上
の存在として機能していたという実相が
介在する事がある、という事。
単純比較で昔の百万円は今の一千万だと
する計算ができないケースが発生するの
だ。その時代には一千万円以上の価値と
なる事例が現実には出てきたりする。
卵は金額比較でいくと昔といまではこう
だけど、実際には卵はなかなか買えなかっ
た、とかの事例が発生する事がある。
金員の額面の問題だけでなく。
金額の数値的な一つの指数だけでは測れ
ない要素が時代の中には介在して影響して
くるのである。
計算式の指数は、あくまで数字的な目安
としての物価指数等であり、貨幣価値は
一つの計算方法ではなく、総合的な世相
を判断基準に加味しながらでないと実相
は掴めない。
ある時代の100万円はある計算では現在
の1000万円になるが、実際には1000万
円以上の価値がその時代にはあった、と
いう現象が発生するのだ。
それゆえ、時代が異なる経済をある特定
の計算方法を単純投入して数値を出し、
それを全てであるとするのは危険な事な
のである。
これは経済を知る人にとっては、よく
「単純比較はできないが」とか「物価指数
では」と前提を述べる事の意味を斟酌する
ことにも繋がる。
その過去の時点での国民総生産や国民所得
との関連も算入しなければならないし、
他にもいろいろな要素が入り込んで来て
実態解明は複雑になる。
要するに、ある過去の時代の100万円は
ある計算方法では現在の1000万円になる
が、では昔のその当時の1000万円の実相
としてその事物があったかというと、大抵
は「はるかに1000万円以上」という実態
となる事が対価を払う対象物により発生
していた、という現象がいろんな事物で
見られるのである。
ただ一つ、不動の定理はある。
貨幣だけを見ると、貨幣価値は時代により
変動する。
ある年の1両は今の12万円という計算の
弾き出しができたとして、それが江戸期
の特定時代の何年か後には1両が今の3万円
まで貨幣価値が下がるという事が起きて
いる。これは貨幣価値として。
ただ、1両は1両なのだが、時代と共に貨幣
としての価値が変わるのだ。
しかし、金額の数値としてのみの比較以上
の要素がその時代毎に加わるという問題が
ある。
米相場本位制の時代の米の価格と今の再建
金本位制崩壊以降の時代の米の価格の比較
などは典型例で、両時代の米の価値を単純
に貨幣の価値変動と同一視でスライド指数
とはできないのである。
特定計算式や計算方法だけを用いると過去
の時代の実態は解明できない。
特定計算式での貨幣価値の比較として出た
ある年の100万円が今の1000万円になる
として、ではその時の1000万の感覚なの
かというと、事物全体にはあてはまらな
い現象が発生するのだ。
特定計算方法や物価指数のみで過去の経済
の実相を見ようとするのは、実相の真実を
見る事からかけ離れる事がえてして多い。
陥りやすい落とし穴なので注意を要する。
単純金銭価額比較で行くと、1966年私立
高校入学の星飛雄馬の入学金は20万円で、
物価指数4.9を投じると今だと約100万円。
しかし、巨人の星では、お金持ちの層しか
行けない「とんでもない高額入学金の高
校」という当時の実相として描かれてい
る。
今の私立高校の入学金は平均約100万円で
単純に金員額面比較では当時と変わらな
い。
しかし、「お金持ちしか行けない学校」と
して描かれた。
これはなぜか。
当時の20万円は、単純に指数計算で今の
100万円、とはできない社会的な実体が
存在した、という事だ。20万円は100万円
以上の実態として人々にふりかかる金額で
あったという事なのである。
そこを押さえないと、歴史の実相、時代
時代の真実の姿は見えて来ない。
車両の価格の実相が過去のある時期
と現代ではどのような同位性をみる
かという判断は極めて難しい。
例えば1960年の勤め人の月給平均
は賃金センサスによると約1.8万円。
現在では仮に近い数値で10倍とする。
現在500万円の自動車は、単純金銭
の指数計算で行くと、給与をベース
とした場合、1960年では10倍の
5000万円となってしまう。
しかし、実相はその当時の時点で
クラウンが約100万円強が事実。
では、スライド計算で今の1000
万円の価格実相だったのかというと
単純に指数計算では測れない。
「誰もが乗れない車」として存在
した自家用車として当時は自動車
が存在した事の説明がつかなくなる。
また、単純比較では5000万円の
車となるのに実際には100万→1000
万円だ。給与比較の率より安い。
それだけ単純指数スライド方式では
「高額」の給与を得ていた当時の
人々が「誰もが買えない」という
のはどう説明すればよいのか。
これは、ここでは車両については
給与比較での金額比較が該当する
ような現象だったということだ。
給与の額面の指数計算での比較では
当時を1とすると現在は10となる
が、当時の実際の100万円は今の
1000万円の実相なのかというと
そうはならず、矛盾が生じるのだ。
これが給与1.8万→現在の18万以上、
という比率で当てはめると、現行
500万が5000万円となる。
クラウン今のほうが高いの?と
なる。
だが、5000万円とすると、「誰も
がおいそれと買えない金額」という
事とも偶然だがほぼ合致する。
今500万円の車が給与比例計算では
当時は5000万円に相当することに
なるのだが、実際にはクラウンは当時
100万円であり、給与レート比較で
行くと現在の貨幣価値では1000万円
となる。
だが、それは今の感覚での1000万円
の実相としては存在していなかった
という事実がある。
ここに物価指数等だけでは測れない
落とし穴がある。
とりわけ、経済成長の中での特定
事物にそうした現象が発生する。
日本刀の価格などは(刀は相場物
ではあるが)比較的単純指数比較
で数字をはじき出せるが、歴史的な
経済発展、国力および富国政策の
発展段階状態と密接な関係にあった
事物は単純な指数投入での計算は
できない。全社会的な「貧困度」を
みないと実体が見えて来ないのだ。
もっとも今でも1000万円の車は誰
でも買える物ではないが、車は今
ある自動車と当時の自動車では金員
の額面を単純に物価指数等の計算で
測る事以上の要素が加わって、当時は
「誰でも買えない存在」となっていた
のが歴史的事実だ。
当時の100万円は今の1000万円以上
に相当した、という事が車両の場合
には事例として生じて来るのだ。
モーターリゼーションが発達する
前の時代の車両、進学率が低かった
時代の入学金、それら特定事物と
現在の実相とを単純に貨幣価値の
指数導入で推し量ることはできない、
という事実が厳然と存在するので
ある。
これ、ここを見るのは歴史を読み
解く時に結構大切。
私の二輪仲間の証言を紹介しよう。
昭和10年代生まれの私の母も叔母もまっ
たく同じ事を言っていた。
「1960年は私が8歳、小学2年生です。
その頃、車を持っている庶民は医者も含
めていなかったです。車なんて夢のまた
夢で買えるとは普通の人は思ってもいな
かった時代です。
車が庶民でも買えるようになってきたの
は昭和40年代中頃からだったように記憶
しています。
昭和30年代は100万長者と言われ、貨幣
価値は現代とは感覚的にも大きく異なる
ように感じます」