渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

東京からこんにちは

2021年05月17日 | open


ほんの先程の虹。
友人が住宅街から撮影。

移動販売車

2021年05月17日 | open


スーパーの敷地に出張販売しているこの
焼き鳥屋さんの焼き鳥は、めちゃくちゃ
美味しい。
三原市内でも大人気のようだ。
その場で焼くのは間に合わず、予約して
頼んでからあとで取りに行くパターンだ。
ここの焼き鳥ヤッキーはかなりウマいす。

屋台焼き鳥といえば、28年ほど前に都営
地下鉄の板橋本町下り線の階段上がって
国道17号沿いによく出ていた屋台焼き鳥
が殊の外美味しかった。
おじちゃんがやってたから、もういない
だろうなあ。
屋台ラーメンは多いけど、屋台そば屋て
のは見ないねえ。
やったらアタりそうに思えるけど。

三原市内には移動お豆腐屋さんが来るけ
ど、掴まえられないの。走行が速すぎて。
パァ〜プゥ〜という音楽流しながら来る
のだけど、時速40キロ規制速度で走って
るから止められない。買うには走行ルート
を読んでいて、遥か遠くにパープーが聞こ
えたら道に出て待ってないとならない。
あれ、売れないと思いますよ。もっと、
人が歩くような速度で進行しないと。

きょうも大人気のようです。
お客さんは間隔取りながら待ってる。
この画像だけでなく、見てるとお客さん
はひっきりなしです。


薬研藤四郎

2021年05月17日 | open


剣友の乗り屋に贈り物が届いたという。
すげえ名称だなと思ったら、とうらぶとの
コラボだった(笑
キレも良く美味かったそうです。


速度についての雑感

2021年05月17日 | open


私が17才の時初めて乗った競技車両。
ホンダMT125R。
1976年製。123cc、25PS/10500rpm。
前に進む体感は、5年後に登場した公道車
のヤマハRZ350によく似ていた。
ヤマハTZ125が発売保留の期間だったの
で、ヤマハ系チームのライダーでもプライ
ベーターはホンダのMTに乗っていた。
逆に250クラス、350クラスはヤマハTZ
しか無かったので、TZワンメイクレース
となっていた。ホンダ系の人たちもヤマハ
に乗っていた。

81年から市販車改造クラスのF3カテゴリー
が新設されて、2スト250と4スト400の
混走カテゴリーが全レースの中で一番人気
となった。84年には全日本選手権にも組み
こまれた。
クラスも70年代のノービス、ジュニア、
セニア、エキスパートではなく、ノービ
ス、国際B級、国際A級の3種になった。
1980年代はモーターサイクルスポーツが
先進国で大隆盛の時代だった。

80年代は純ロードレーサーのみを用いる
GP250クラスと、公道車改造のF3にダブル
エントリーのライダーも多かったが、ダブ
ルはほぼ有力ショップ系。
ただ、F3マシンはレーサーにすると改造
度合いが天井知らずで、純レーサーのGP
クラスよりも費用が膨大にかかった。
また、鈴鹿4時間耐久では1980年には
純レーサーでの参加も認められていたが、
のちにF3クラスとプロダクションクラス
からのマシンエントリー縛りとなった。
2ストはばかっぱやだったが、やはり排気量
の差、4スト400が最高速は速かった。
ただ、インフィールドに入ると2ストの
突っ込みと高速度旋回と脱出スピードの
速さが見られて、混走レースとしては非常
に面白かった。

125クラスは、純レーサーの速度として、
筑波最終コーナーの旋回速度が速い人で
164km/h位だったようだ。
これは1970年代も80年代も変わらない。
変わったのは最高速だ。
GP125クラスが消滅する前あたりでは、
125の最高速は260km/h程出ていた。
2スト単気筒でだ。500では300数十キロ
だった。

競技は速度を出す事が必須だ。
毎年、どんどん速度は上がって来る。
だが、危険度が上がるのではない。
速度と危険度は直接は関係がない。
公道では、建造物、対向車、歩行者、飛び
出し、信号、いろいろなものが沢山ある
から、その中で自己制御できる運行に適し
た速度が規制速度として決められている。
サーキットにはピットレーン以外の本コー
スには速度規制も信号も無い。
走り方もだが、存在基盤が別物なのだ。
ただ、サーキットには強制減速させるシケ
インが設けられる事がある。
これは、高速度で危険な為ではなく、別
なファクターとしてレイアウトの設計思想
がある。表面上は速度を出ないようにする
のがシケインだが、「速度が出過ぎる為に
危険だから」とシケインを設置するのでは
ない。安全性の確保とバトルポイントの
増加の為だ。マシンの性能次第ではなく、
乗り手の技能の勝負をさせる場所として
シケインが実体的機能を持っている。

しかし、オートバイの操作原理は一緒だ
し、車の構造も一緒だ。
そして、乗り方も実は公道も競技も、基本
軸は同じなのである。
心構えとしては、公道はコース以上に別物
要素に多く注意を払う必要がある。
単純比較はできないが、危険度だけで言っ
たら、公道のほうがサーキットよりはるか
に危ない。
ただ、危険の種類が異なる事は識別しない
と安全性を確保できない。
公道もサーキットも「一か八か」は存在
しない。
簡単に死んじゃうからだ。

ブレーキやシャシフレーム等、世界最高の
安全性を持っていたホンダNSR250Rだっ
たのに、なぜ多くの人が死んでしまったの
か。
NSRは、昔のカワサキマッハスリーのよう
にパワーだけあって曲がらない、止まらな
いという二輪ではない。最高の制動力と
フロント周りの剛性とリヤのよじれの無さ
を持っていた。
なのになぜ多くが乗って死んだのか。
スピードなのか?
答えはノーだ。
スピード出し過ぎで死んだのではない。

モーターリゼーションという社会発達を
見る観点においては、安全のために速度
が出ない車にしてしまうというのは、見
誤った視点である。
もっとも、別カテゴリーとして、別な楽し
みを想定しての設計ならばよいだろうが、
スポーツマシンに速度のタガはめをするの
は、見誤りだ。
速度とパワー。これは高ければ高い程良
い。「高性能」としては。

そして、高性能であることは安全と結び
ついていなければ意味がない。機械だけ
走行するのではないのだから。
ホンダは、単にエンジンパワーだけでな
く、常に安全性の確保にも配慮した車作り
をしている。二輪車も四輪車も。
「一か八か」は、当然にしてやらない。

二輪で死なない事。
それはどうしたらよいか。
答えは、ある。
それは、頭を硬直させず、よく考える事
から始まる。

前回東京オリンピックの時代と今

2021年05月17日 | open



今から57年前、東京オリンピックがあった
1964年。私が幼稚園の時のこの頃、50cc
未満のオートバイは時速100km/h出た。
その後、自主規制が開始されて速度が出
ないようにされた。
しかし、1982年にホンダがMBX50で100
km/hオーバーで復活させた。
公称7.2PSは多分ホントではないだろう。
体感は他社の7.2公称よりずっとパワフル
だったし、RZ50よりも確実に速かった。
パワーがあるのでノーマルチェーンがすぐ
に伸びた。
ブレーキも物凄く利いて、ホンダの底力を
見た思いがした。ホンダは2ストでもその
うちヤマハを抜いて一発大逆転を世界の中
でやらかすかも知れない、と予感させた。
現実的に、世界最高峰の二輪競技でホンダ
は翌1983年に世界王者となった。以降、
2スト撤退まで、ホンダはヤマハを一歩
リードして世界に君臨した。ヤマハも健闘
したが、80年代後半は世界王者だったスズ
キも世界グランプリに復活して三つ巴の
乱戦となった。世界選手権のトップを走る
のは常に日本製の二輪車である時代が30年
程続いた。70年代から90年代末期までは、
日本製二輪車が圧倒的な戦闘力を持って
いた。
地球上で一番。
これは凄い事だ。


しかしながら、振り返るに1964年時点
で49ccで100km/h超えというのは今でも
驚く。
いや、今の時期は「速度は出ないが当た
り前」のお行儀よい忖度コンプライアンス
時代だから、なおさら実感が湧かない。
もしかすると、若い世代では、「50ccで
100km/hオーバー?またそんな大風呂敷
広げてから」とばかりに信用しない人間
もいるのかも知れない。歴史の事実、真実
を見る事に今の人たちは疎くなるように
洗脳されて育ったから。
もっとも、レーサーなどは50ccクラスで
は最高速160km/hを雄に超えていたのだ
が、それさえも知ろうともしないのかも
知れない。
昔自慢にしか聞こえないとしたら、愚者
は歴史からは学ばない、というものを地
行く有様そのものだ。

スズキなどは16段ギアマシン等を作り、
世界GPの一戦だったマン島TTを制して
いる。
これまで日本人でマン島TTレースで優勝
したのはただ一人だけだ。1962年の事で
ある。
1962年、63年、64年と、スズキの2スト
マシンは世界戦で王者となった。
日本の世界的二輪車大躍進は1960年代に
開始された。

マン島TTレースで世界戦を制したスズキ
の伊藤光夫さん。
映画『キリン』で夏木陽介さんが演じた
老人の役のモデルとなった人だ。世界で
たった一人。マン島を制した唯一の日本
人。



歴史を俯瞰するに、日本製のオートバイ
は、1960年代以降は常に世界のトップ
であった。
さらに、1980年代に入ると、世界選手権
はほぼ日本製オートバイのみで戦われた。
日本は二輪排除というクソバカ国家教育を
憲法違反と道交法違反を犯してまで若者に
強いたが、日本は世界に冠たるオートバイ
の国だったのだ。
日本が世界に誇れる二大生産物に日本刀と
オートバイがあった。
早期交通教育を放棄していた教育関係機関
は無責任そのものだった。
数年前に最高裁で3ない運動に対して違憲
判決が確定してから、ようやく文科省は
各高校に通達を出して、早期交通教育を
成す事を命じた。
しかし、まだまだ憲法と法律を冒している
高校は沢山ある。
16才で国民は等しく運転免許を取得できる
法律があるのに、免許を取得したり運転を
させないという珍妙な日本の風習は世界の
笑い物だった。国や学校が法律違反して
いたからだ。
その上、その頃の日本は世界一の二輪大国
であったのだ。この矛盾。
人を殺すと罰せられるとする法律がありな
がら、公的に人殺しをしていたようなもの
であり、法の平等と立法精神をも踏みにじ
る日本人のその姿勢は、まったく民主主
義と法治国家を無視するものだった。
そりゃあ、世界の先進民主主義国からは
冷笑される。

今、同じような轍を踏んでいる。
パンデミックに対し、世界的後進国である
頭の弱さを日本の政府と日本人が世界に
さらけ出しているからだ。
日本は、インドを除けばアジアで最悪。
中国、韓国のコロナ完全封じ込めの実績
には遥かに及ばない。
なぜ?
それは、3ない運動の時と同じく、「社会
的な発展、好転」に対して日本人が興味が
ないからだ。てめえの事しか考えていな
い。

1964年東京オリンピック。
もう57年前の事になる。
日本人は上を向いて頑張っていた。
貨幣の価値がどんどん下がるから物価は
上がる。10円で買えていた物が100円出
さないと買えなくなるのは10円の価値が
1/10になったからだ。
なぜ物価は上がるのかの説明は割愛する
が、固定物価指数を全ての物販にはあて
はめられない。生活には生活水準の時代
があるからだ。
ただ、1960年頃、四輪自動車は今でいう
と1台5000万円近くした。二輪車でさえ
も今の数百万円する価格だった。
四輪車を所有できるのはかなりの金持ち
しか可能ではなく、二輪車を持つのがよう
やくというのが国民全体の実相だった。
1950年代というのはそうだった。
現代のように誰もがマイカーというのは、
1960年代後半に入ってからで、完全に
現代のような様子になったのは1980年代
からだ。

前回の東京オリンピック開催年の1964年
今から7年前の2012年では貨幣価値はどれ
ほど違うのか。



平均物価指数は4.9程だが、実質的な所得
からの換算では約10倍+アルファとみれば
遠くない。
日本最速だったトーハツの6万円のバイク
は今の70万円位だろう。

もしかして

2021年05月17日 | open


サバコスで銃を構えるヒロスエがかっこ
いいとネットで話題のようだが・・・。
これ、もしかして、コミックレジェンドの
「ちょろいもんだぜ」フォームなのでは?


コルト・ピースメーカー

2021年05月17日 | open


それでも、ピースメーカーは果てしなく
可愛い。
これは私のピーメ。
HW樹脂なので、20年ほど前にブルー液
でブルーイングした。

オールドビューティー

2021年05月17日 | open


美しい。
ピースメーカーよりもずっと美しいと
感じる。

東京にある特別区

2021年05月17日 | open
 
東京23区は特別区だ。他の国内の地方
自治体にある政令指定都市の中にある区
とはまるっきり異なる。区議会を持ち独立
しているのだ。東京23区の特別区は地方
での市にあたる。
 
私は目黒区の生まれだが、都内23区はもち
ろん全て行っている。何度も。山の手も
下町も。
ただ、唯一、江戸川区だけが馴染みが少
ない。武道の大会で大型新設体育館に行っ
た事があるくらいか。
ド下町番長の墨田区に第二東京タワーが
出来るとは夢にも思わなかった。地盤の
問題で。
東京タワーは超硬質岩盤の上に建ってい
る。墨田区で大丈夫なのかなあとか思っ
ていたが、日本の建築技術は昭和33年と
は比べ物にならなくなっていた。
 
東京は江戸城=宮城を中心に円のような
幹線道路がいくつも作られている。それが
環状線だ。環状六号が山手通りね。環五
が明治通り。
通常、環状七号(カンナナ)と八号(カンパ
チ)以外は通りの名称で呼ばれる。
そして、皇居を円の中心として、放物線状
に街道が八方に延びている。八方ではな
い。無数にだ。(有数だけど)
まず、ドカンと真北に中山道(なかせんど
う)。これは国道17号だ。
そして、江戸城半蔵門から真西にズドンと
一直線の甲州街道。これは国道20号。甲府
まで続く。
そのほんのちょい北には五日市街道。
そして、南を国道246号青山通り。
少し南が目黒通り。その南が中原街道。
そして東海道、国道1号線。通称ニコク。
その南が国道15号、通称イチコク。
さて東のほうは、北に向かう中山道の
東隣りが国道122号だ。赤羽超えて埼玉
の川口から産業道路と国道本線に分かれ
る。
さらに東には将軍家御用達の日光街道
国道4号線が延びる。
そしてその南、皇居から2時の方角に
延びるのが国道6号線、国道4号と同じ
く仙台まで至る。しかし、4号と異なる
のは内陸部ではなく、水戸から海岸線
を北上する。
国道6号は千葉県松戸から国道464号線
と別れて、R464は3時の方向に延び、
成田へと向かう。
その南は中央区から千葉まで国道14号
が走る。
おおまかな東京のロードはそのように
なっている。

都内全域、幹線道路はすべて走った事
があるが、下町から東の旧江戸では
ないエリアより東はあまり詳しくは
ない。千葉県内などはほぼサッパリだ。
逆にやはり神奈川県は細部まで知悉
していて土地勘が強い。
意外なとこで埼玉はあまり知らない。
真北に延びる京浜東北線と国道17号
沿線以外はほとんど知らない。
やはり神奈川のほうがよく知っている。
神奈川といっても京浜地区から湘南に
かけてのエリアだが。

都内を四輪や二輪で走る時、夜が面白
い。かなり。
東京の道は分かりやすいので、道を
間違えてもすぐに修正が利く。ナビ
など使わなくとも。同心円と放射線で
あるので、すぐに同一方向に向かえる
のが都内の道路の特徴だ。
ナイトドライブ、ナイトツーリングは
都内走りが相当楽しいので、おすすめ。
マフラーは車検通る音量値の車でね。

そして、東京は狭い。とても狭い。
横浜の鶴見から東京杉並の新高円寺
までは26kmしかない。ニコクから
カンナナを左折し五日市街道を左折の
下道ルートで、真夜中に二輪で17分で
着いた事がある。昼間だと自然渋滞で
1時間程か。

東京走りはミッドナイト。
明け方と夕暮れは湘南。
これ、鉄板です。



飲み比べビール

2021年05月17日 | open


東京の姉が飲み比べビールを12本送って
くれた。こりゃ、今の時期ありがたい。


それと、東京下町の煎餅。
これまた広島では売ってねえからありが
てえ。素朴な田舎の味なんだよ、東京の
下町の煎餅は。メーカー品のようなゴー
ジャスな味ではなくて、道端で煎餅屋さん
が焼いてるような、そんな素っ気ない味。
でも、それがまたいいんだよ〜。


キャンプ用吊るし鍋

2021年05月17日 | open












バッキャロ。来たぜ!これだよ!
こんなのを待っていたんじゃねえよ。
これだよ、これ。これそのものを待って
いたんだよ。
どうして、キャンプメーカーが超絶便利
なジャパニーズ吊るし鍋を作らないのか
不思議でしかたなかった。メスティンと
称した弁当箱形飯盒とか筒形鍋ばかりで。
この古代からある純和風形状の吊るし鍋
は囲炉裏専用の物だったのだが、囲炉裏
なんてのはまさに室内焚火でしてね。
野外での三叉のトライポッドでの吊るし
鍋物なども、この形状の大鍋が非常に使い
易い。明治以降にすき焼き用に発達した
のも和式吊るし鍋からだ。
何度かこの日記でも和式鍋がいいぜ、野外
用が欲しいぜ、でも作られてねえよ、と書
いて来たが、やっとメーカー品が出た。
これが欲しかったのよ、これが。
こういう類ではなく、もろにこれ。

ただ、奈良時代からある伝統的な和式の
吊るし鍋は鋳鉄製のため、厚くて重いし、
とても錆び易い。
アルミの鍋で、和式形状のキャンプ用アル
ミ吊るし鍋が出ないかなあとずっと思って
いた。鉄板叩き出しフライパンは自作でき
ても、打ち抜き成形のアルミ物は無理だ。
だが、ようやくキャンプメーカーから和式
アルミ吊るし鍋が登場した。ツルの部分も
かなりゴツくてしっかりとしている。
これは買いだ。暁光なり。

和式吊るし鍋使うと分かるけど、もんの
すごく使い勝手いいから。
でも重いしなあ、と思い続けていた。
さすがユニフレーム。やるね。
これは、あたくしは買います。

もしかすっと、これ入手したら鋳鉄蘭鍋
は登場シーンが少なくなるかも。
焚火鍋だと芋煮もできちゃうもんね。

ダッヂは重い。ブツは良いのだけどね。