清水ミチコ
私の好きなシンガーソングライターの作曲法
天才(笑
舞踏もできなければならないし、
以前、河川敷のフィールドで
前に進めない程にブッシュが
生い茂っていたため、仲間内で
多少その場を刈り開こうという
事になった。
何名かがマシェットを持って
来た。マチェットとかマチェテ
とも呼ばれる長く薄い刃物だ。
日本語では山刀とも呼ぶ。
主として中南米や東南アジア
の熱帯雨林地方でジャングル
で木の枝を打ち落としたり、
草を刈りながら進む時に使わ
れる。
ベトナム戦争でも米軍装備必須
の草刈り刃物だった。
焼き入れはしておらず、軟鉄の
鉄板を型抜きした物が殆どだ。
河川敷フィールドでの休み時間
に、友人が持ってきていた短め
の手さばきが良いマシェットで
遊び心で立木の枝打ちをした。
左右の袈裟と逆袈裟で。
箱出し状態のようで刃は付けら
れていない。
だが、スッパスッパ切れた。
それを観ていた人が何人か自分
もやらせてと申し出てやって
みた。
誰も小枝や太めの雑草を切れない。
私のように切った瞬間にポトリ
と落ちるように切れないだけで
なく、全部枝負けしたり雑草の
茎が折れ曲がったりする。
私ができるのは斬刀法を使って
いるからだ。
なので刃物の刃先にとがった鋭利
な刃が付いていなくとも切断でき
る。
ある時、斬刀術をやっている
九州の友人がうちに遊びに来た。
庭先でバラとサクランボの木の
小枝を刃長7センチのナイフで
切断する遊びをやってみた。
友人は全く切れない。
私は一度もしくじらずに何度
やってスッパスパと切る。
ナイフは私の研ぎ上げたナイフだ。
これは、刃が付いているいないに
関わらず、「物を切る」という
事には一つの術的要素を以て
運用しないと全く切れない、とい
う定理を指し示すものだ。
大昔、ある場所で仕事仲間たちで
出張待機していた。
目の前に銀杏があり、人間の目の
高さあたりに幹から葉が出ていた。
私は文房具の15センチのプラス
チックものさしで右から左袈裟に
一閃した。
袈裟切りのあとからはらりと落
ちるように刃と子葉部が落ちた。
それを見ていた同僚が、俺にも
やらせろと別な葉でやってみた。
何度やっても切れるどころか
葉と細い部位を叩くのみだ。
これらの「切れる⇔切れない」は
刀術を知っているかどうかの違い
だ。ただそれだけ。
実は神奈川県湘南の小学校に通っ
ている時、学校帰りの通り沿い
に公園があり、そこで伸びた雑草
の茎などを竹の30センチのモノ
サシで袈裟で切断する事をずっと
小学校1年の時からやっていた。
また、雨傘でも切る。
これは傘の先の金属部分(昔は
全部金属)のキャップで切る。
間合いを取る訓練と振りと切り
の訓練になった。
傘は思いっきり勢いよく振って
切りつけても止めた時に軸が曲が
らないようにする。これで抜重
を体得する。
また、切っ先にあたる傘の先を
真下に向くまで振り抜いて地面
に当たったりしないように振る。
この訓練は実はかなり少年剣道
に役に立った。
私は竹刀を担ぐ事をせず、ピシャリ
と「斬る」刀法で打突を繰り出す
事ができるようになったからだ。
剣道において、よく「下手くそ
が打つと痛い」とかいわれるが
それは嘘だ。練達者の小手など
は決まるとピシャリとして竹刀
を落としそうになる。真剣ならば
肘から下は切断されている事だ
ろう。
痛くない剣道はポンポン叩く当
てっこ剣道であり、真剣と同じ
斬刀法を使っていたら、例え
竹刀であろうともビシッとした
傷みを伴う。
私は小枝打ち、雑草切りによって
刀法の手の内を小学生の時に
体得する事ができた。
担ぐ事をしなくなった剣筋は、
真っ向も横面も、面がピシャリ
と決まるようになった。
ボーンポンポンのポンポン当て
をしなくなったからだ。
竹の刀でも鋼の刀と同じ事をやる。
それが本当だろう、と小学生の時
に思っていた。
幕末撃剣時代にすでに竹刀さばき
が曲芸師のような「竹刀お化け」
は存在したが、戦後昭和の時代、
私の剣筋は時代には即してはいな
かった。周囲では似た刀法を用い
る子どもたちはいなかった。
家の倣いで私の子が剣道をやり
初めて10年近くが過ぎた頃、
子から剣の要諦について質問され
た事がある。
「斬れ」とのみ私は答えた。
そして、真剣と刃引きと拵に入れ
たツナギの木製刀身で刃筋を立て
て振る事をさせた。毎日のように。
私の子の剣道が変わった。
中学の時には二年連続で県代表
として東京の北の丸武道館の
全国大会に出場した。
斬撃で本当に切れる運刀を実現さ
せる事が可能なのは、刀法の存在
の有無なのだ。
刀法を以てすれば、刃引き日本刀で
畳表巻を切断することも容易い。
これは本当だ。
私が実際にできるし、刀術錬磨の
稽古の中で現実に実践していたの
だから。
(刃引き日本刀による試斬。上部
畳表は置いているだけである)
試斬は、刀の具合を検証する場合
と己の腕の如何を確認する場合
のどちらであるのかを予め明瞭
に自己認識する必要がある。
切れたか切れないかだけに目が
行くのは、斬刀法を実行するに
おいて意識水準が低すぎて話に
ならない。
切れるのは当たり前の事であり、
箸の持ち方と同じ、剣持つ者の
大前提だ。
いつまで箸の持ち方をどうかと
考えているのか、そのレベルから
脱せられないのかと、己の目線の
大元に自ら刃を向ける事が必要
だ。
一般人は在りようはどうでも
いい。剣士ではないから。
だが、剣士であるならば、心の
在り方、目線の先と大元の思考
の発現位置はとても重要だ。
剣術、抜刀術、斬術の刀法の深淵
は、たかだか畳表や竹が切れたか
切れないかなどという些末なもの
ではなく、もっと深い。
箸の持ち方でつまずいてそこに
留まるのは、心がすでに外の道に
外れているからだ。
そもそも藁ではなくイグサ巻きの
畳表であるのに巻き藁とかいつま
でも言っている時点で、識別能力
の完全不在を露呈させている。
剣の技法や心法を語り説く以前に、
論外。
レスト「メカニカルブリッジ」
ビリヤードキュー取付加工
これはいい。
参考になります。
既製品でこのタイプの物はあるが、
自作加工というのも手ですね。