ハマ帰りのため暖機中。
1980年代初頭。於広島県
福山市内。季節真夏。
のちのカタナ乗りの齢下の
イトコが撮影。カメラ好き
で、あえてモノクロフィル
ムで撮るのが好きだった奴。
残念ながらそのイトコはバ
イクで16年前に即死した。
ハンドルは広島行きの時と
異なり、裏返しセットでか
なり下げてセットしている。
カワサキARのハンドルは三
又ブラケットとハンドルバ
ーが一体型のセパハン似の
形状という特殊なハンドル
だった。
裏返しに組み直す事で低い
セッティングにできた。
岩城滉一さんの原付で東京
新宿から大阪まで走る番組
映像の中で、岩城さんが
「しかし、壊れないもんだ
ねぇ、あんだけ走って」と
言うシーンがある。
1980年代初頭、既に日本人
は「壊れない原付」を作る
事に成功していた。
私が神奈川から広島まで往
復した原付50も、新車とは
いえ全く壊れる様子もなく、
全開走行を続けてもピスト
ンもシリンダーもクランク
も全くなんともなかった。
マシンからしたら、新車の
ゼロkmから納車後いきなり
3,000kmを走られた感じだ
ろうが、びくともしなかっ
た。
それ以前の50原付とかはよく
トラブルになっていたのは
事実だ。
広島県の三原まで原付に乗っ
て行った時、昔古い時代にバ
イクに乗っていた親戚の叔父
や叔祖父たちは一様に言って
いた。
「ようエンジンが焼けんかっ
たのう」「ほうよ。今のは
丈夫なもんじゃのう」「これ
で来たんきゃ?くぁ~。よう
走るのう」と。
叔父たちの時代のオートバイ
は、排気量に関係なく、よく
壊れたのだ。
私が生まれて初めておしめが
取れたばかりの頃にYDS1に
乗せてくれた叔祖父が一番
驚いていた。私が長距離走行
をしたという事ではなく、そ
れをして壊れないというカワ
サキの2スト原付に驚愕してい
た。なめ回すようにAR50を見
回していた。
壊れないオートバイの先駆者
はホンダとスズキだが、ヤマ
ハとカワサキも頑張っていた。
カワサキは壊れてナンボとい
う感覚をファンは持っていた
が、1980年代以降は、品質が
格段に向上して壊れにくくな
っていた。原付でも空冷2スト
のAR50などは最高だった。
但し回転は9000rpmで頭打ち。
ホンダのMBX50はレーサーの
ように上まで回った。(あれ
は絶対に7.2PS以上だと私は
読んでいる。1988年のNSRの
公式馬力が嘘だったように)
1970年代にホンダとヤマハの
いわゆるHY戦争が開始され、
80年代には激烈な市場争いが
展開されていた。
そうした中で、他社よりも優
れた品質を開発する事に磨き
がかかった。
特に原付買い物スクーターの
品質向上が著しかった。
バイクブームも去った1990年
代末期に、原付の売れ行きに
陰りが見えた頃、ヤマハが
当時人気だったパフィをCM
に採用して原付スクーター
VINOを発売した。
これがもう爆発的ヒット。
斜陽に向かいかけた原付スク
ーター市場に再び火をつけた。
ヤマハ初期ビーノは、ヤマハ
の2ストエンジンを搭載して
いるのでかなり丈夫で壊れな
い。
私の個体も乗り潰しのように
乗りに乗って、実走行距離が
45,000kmを超えてもピンピン
だった。なんだこれ?と正直
思った。
ヤマハのバイクは壊れない。
ホンダのバイクも壊れない。
スズキのバイクは壊れようが
ない。
カワサキのバイクは凡そ壊れ
ない。
そういうのが日本製オートバイ
になっていた。
外車はかみさんの2ストベスパ
にしか乗った事がないが、何
かと不具合も発生しやすかっ
たし、友人のドカもよく不具
合を発生させていたし、アメ
車もそうだった。
米国の某メーカーなどは日本
製パーツを使い始めてから壊
れなくなったというし、映画
『バックトゥザフューチャー』
でも「日本製が今は世界一」
というシーンが出て来る。
日本の工業技術力の最頂点が
1980年代~90年代だったとい
えるだろう。ITの世界でも日
本が世界トップの技術だった。
今は見る影もない。
ショボ~ンというのが日本の
産業界だ。
その原因は主として世代交代
によるものだろう。
工業力や技術は、人間が実行
するものだからだ。
担う層の人の中味が変質すれ
ば、それは即座に国力に現れ
る。
頭を馬鹿に作為的に作られた
ゆとり世代が担う今の日本に
未来が見えるとは思えない。
これは先入観ではなく、あり
とあらゆる分野での現実を
見て。
私の二回り齢上の世代の日本
人が一番凄かったのではない
かなぁ。
戦後の日本を土台で支え、か
つ最先端部分でも支えていた
年代の人たちが。
そういう年代層の人たちが作
ったのが歴史上最高峰の1980
年代~90年代の二輪だったし、
他の産業分野でもそうだ。
日本人がフロッピーディスク
を発明して世界革命を起こし
たのも、そうした世代の人た
ちが世界を変えていた現実の
一つだった。