岡田紗佳、国士無双13面待ち!!
【麻雀最強戦2022】
こりゃすげえ。
時代劇ドラマの最高傑作の
『JIN -仁-』(2009~)が映像
配信サイトのネットフィリ
ックスで配信中。
これは実にドラマとしても
映像作品としてもよく出来
た作品だ。
よく「原作を超える実写作
品は少ない」といわれる。
だが、この映像作品は原作
の軸線を辿りながらも原作
とは大幅にラスト間際から
展開する。
原作ではタイムスリップし
た現代医師の南方仁は現代
には帰って来られない。
だが、旗本娘の橘咲と共に
新時代の医療に携わって行
く。
原作では結ばれた二人だが、
実写版映像作品では南方仁
は単独で現代に再びタイム
スリップする。
原作では坂本龍馬が過去か
ら現代に意識の上で飛び、ま
た幕末に戻って斬られる。
実写作品での最終回での咲
が残した手紙が百数十年後
に咲の家族の子孫から南方
仁に手渡される。
その手紙を読んだ仁は泣き
崩れる。
二度と会えない時間の隔た
り。
このドラマは、南方仁の物
語というよりも、橘咲のけ
なげで一途な心が描かれた
物語だ。
そして、橘咲を演じた綾瀬
はるかの熱演。
さらに、南方仁を演じた大
沢たかおの好演。
特に大沢は、現代時に自身
満々ながら失敗により心に
影を落とす若い医師を巧み
に演じ、江戸期にタイムス
リップしてからは、どんど
ん素直に人々に溶け込んで、
学び、熱く活き、そして医
学に携わる者としての大切
な部分に目覚めて行く。
原作とはかなりキャラクタ
が異なるが、その変化を大
沢は実に見事に演じている。
さらに再び現代にタイムス
リップした後は、堂々とし
た「先輩医師」としての態度
を見せる。
また、同僚の医師たちもいか
にも「大学病院にいる医師」
らしい態度と演技を見せる。
町医者のような親しみやすい
お医者さんではなく、大学の
医師という特殊な人たちを。
本作の主人公は、実は南方仁
ではなく、橘咲だ。
そこが原作とは大きく異なる。
それを演じきった綾瀬はるか
の演技力に瞠目する。
ただ、やはり背が高過ぎるの
が難。江戸期には綾瀬さん
(身長165)や咲の兄の橘恭太郎
が心寄せる吉原の女郎役の水
沢エレナ(身長170)のような
女性はまずいない。男子の平
均身長が160程であり、女性
は150を切るのが当時の日本
人の平均だった。
現代(2020)の日本人の男子の
平均身長は171で女子は159
だが、私が中1の1973年頃の
平均は男子が167だった。
日本人男子の平均身長は1973
年生まれあたりまでは伸びる
一方だったが、それ以降は微
細ながら平均身長が下降して
いる。なお、あくまで行政の
データだが、一番脚の長い世
代が1973年前後生まれの世代
であり、その後は平均身長は
同じでも現代人の今の日本人
の脚は実はどんどん短くなっ
ている。現代の20代の若者た
ちは現在40代の中年たちより
も脚が短い。
私は中2の初めで身長の伸びが
止まって当時173.8だったが、
当時としてはそれは背が高い
ほうだったし、成人と比較し
ても男子の平均身長以上だっ
た。
江戸期の女性で身長170とい
うのは、事実上はまずいなか
っただろう。
そのため、女郎役の水沢さん
は寝ているか座っているかの
シーン撮りだったのだろう。
旗本橘咲役の綾瀬さんは、
南方仁役の大沢たかおさんが
身長181なので違和感なく絵
になったが、時代劇に出る役
者は並びのシーンではかなり
身長が絵柄的なネックになる
場合も多い。
名優萬屋錦之介さんは身長
163だったが、単独カットの
シーンが多く、実身長を感じ
させない写真撮りで映像作品
が作られていた。
現実の宮本武蔵などは身長が
180に迫る江戸初期では滅多
にいない大男だったが、武蔵
を演じる萬屋錦之介=中村欽
之助は豪壮な武蔵を巧みに演
じていた。
吉原の女性を演じる水沢エレ
ナ。実は本映像作品の中では
水沢さんが一番原作劇画の橘
咲の顔に近い。面立ちも吉原
の女というよりは気丈な旗本
娘のような表情を出しており、
顔が原作の咲に似ているだけ
ではない目力ならぬ顔力を見
せている。良い女優さんだ。
(最近は女優とはいわず男女
区別なく俳優と呼ぶようだが)
プロ中のプロの俳優内野聖陽
は、本作において坂本龍馬を
演じるにあたり、プライベー
トで生の土佐弁を学ぶために
高知に何度も秘密裡に通って、
何気ない顔して居酒屋で飲ん
で現地の客と話をしたりして
「活きた土佐弁」を学ぼうと
したという。
最近、デニーロのようなそう
した役者魂を見せる俳優は少
ない。
映像作品に坂本龍馬は数々あ
れど、このドラマ『JIN -仁-』
の坂本龍馬像が一番龍馬らし
いのではなかろうか。
土佐の坂本君とは会った事が
ないので、実像はよく分から
ないが。
内野さんの龍馬は名演。
家から煎餅届く。
戦前から芝区新橋の生まれ
育ちだ。
新橋駅(明治時代)
東京もんはよく煎餅を食う。
子どもも大人も大好きだ。
この草加せんべい、殊の外
美味。
ただ、煎餅にしちゃぁ、ちょ
いと高級品だよな、これは。
駄菓子屋で売ってた馴染み
の煎餅とは趣が異なる。
外側と中側では味が違う。
見た目は中が日本刀の甲伏
せみたいな断面(笑
それが噛むと合わさってと
ても美味しい。
あと、とらやのようかん送っ
てくれた。
本郷三丁目の藤むらの羊羹は
なくなっちゃったからね。
あれは地球上で最高だったが、
とらやもいける。
ありがとん。
この古刀には心が奪われた。
典型的なお手本のような「古
三原作」なのである。時代は
鎌倉~南北朝。
しかも瑕疵が一つも無く、重
ねも十分、かつすべてにおい
て健全だ。
昭和26年登録の大名登録だ。
さる旧家から出た物で、戦後
登録の際には錆が生じていた
身だったが、ある研ぎ師が研
ぎ上げたら往年の立派な姿を
蘇らせた。大磨り上げ無銘。
このような見事な三原は私自
身はそうそう経眼したことが
ない。
「伝三原」ということで、
「二王あるいは国分寺助国の
三原逃げ」かと思ったが、そ
うではない。完璧なほどの刀
剣書籍に載せてもよいほどの
古三原の典型作だ。
三原といっても、現在の三原
城がある三原の場所で作られ
たのではないことは明白だろ
う。今の三原は三原城が400
数十年前に出来る前は海だっ
たのだから。
古三原のうちでも古刀最末期
の作は貝三原あるいは「三原~」
と銘された物で、それは三原
城内三の丸の鍛冶屋敷で作ら
れた可能性はあるが、それ以
前のいわゆる「三原極め物」
は、現在の三原城下であろう
はずがないのである。これは
地質学的に。
唯一広島県で一番古い神社が
存在する糸崎の半島突端付近
での作刀という可能性はある
が、物流的な観点から非常に
可能性が低い。
今でいうならば、網走岬の突
端に刀鍛冶が住して作刀した
という程の地形だからだ。
三原正家の井戸と称される井
戸は現存しているが、俄かに
は措信し難い。後世の創作だ
ろう。航路以外道さえまとも
に無かった場所であり、その
ような場所では炭の流出入や
製品化した刀剣を物流に乗せ
ることはできない。
旧年代の刀鍛冶は、全員が街
道のそばに住し、製品原料で
ある炭や製品鉄あるいは自家
製鉄のための鉄原料が採掘で
きる場所にて炉を構えた。安
藝國大山鍛冶がそうであった
ように。
出来上がった刀を運ぶにして
も、突拍子もない辺鄙な場所
ではなく街道沿いの駅家と旧
街道を利用したのは当然のな
りゆきだ。
事実、日本国内の刀工群は、
運行に利便性が高い水路の河
川と陸路の街道の沿線に住し
て作刀にあたってきていた。
これまで、刀剣界では「三原」
とされる作の作刀場所を「現
在の三原」とする明らかに地
質学的見地からも誤っている
所見を「定説」としてきた。
だが、海の上では人も住めな
いし、刀も作れない。
「三原」の場所は、旧山陽道
内陸部である現在の三原市の
山陽自動車道三原インターチェ
ンジ付近の「謎の駅名不明の
駅家(うまや)があったであ
ろう(なければおかしい地点)
場所」のことを指したことだ
ろう。
現在の三原市八幡町垣内(か
いち)のあたりを古代の往時
には「柞原=みはら≒みわら」
と呼んだのではなかろうかと
いうのが私の所見だ。
そもそも八幡という古くから
残存する地名自体が製鉄と関
与していることを表している。
地名は古代史の遺跡だからだ。
そして、付近には古代二次植
林による木炭材料の松が群生
しており、まさに「柞原(み
はら、くはら、くのはら)」
という地名に合致する植生を
見せている。
また、付近には製鉄の大鍛冶
や小鍛冶に必要不可欠な水流
もある。
さらに、近隣山域にはカネク
サと呼ばれる産鉄原料埋蔵を
示す植物が生えているし、鉱
山も存在する。
そして、現在のところ、日本
国内で最古の製鉄遺跡とされ
ている炉の遺跡は三原市八幡
町垣内(かいち)にあるので
ある(弥生時代)。
中世から近世に続く刀鍛冶や
他の鉄鋼鍛冶がポッと突然鍛
冶技術を天から授かったとい
うことはあり得ない。
そこには連綿と続く超古代か
らの製鉄および鍛冶という冶
金の技術の継承があり、その
技術の継承事象として日本刀
鍛冶は発生したことだろう。
いうならば、上代も超えて、
古墳出土の剣や鉄刀、他の武
器、生産鉄器等を創り出す鍛
冶(かぬち。別表記「鍛人」)
による生産製造技術がずっと
伝承されて、それの一形態と
して刀剣の鍛冶職の技術が成
立していったことだろう。
韓鍛冶(からかぬち)と倭鍛
冶(やまとかぬち)は二分化
された原初から高次に両者の
技術が融合して昇華して結実
したのが日本刀の鍛法技術だ
と私は思料する。
製鉄の原材料は、縄文末期か
ら弥生時代の赤土焙焼による
初期製鉄にはじまり、やがて
鉄鉱石による還元、鉄鉱石よ
りも効率のよい日本で技術革
新され完成確立された独自の
固有製鉄である砂鉄による製
鉄(たたら製鉄)での小規模
の「鉄吹き」と移って行った
ことだろう。
さらにそれが中世に入ると、
規模が増大し、製鉄炉はたた
ら製鉄からたたら吹きになる
が、中世末期までは、全国で
まだ往年のように小規模製鉄
で生産効率は悪いが刀剣材料
としては質が良い鋼原料が生
産されていたことだろう。
大規模生産の必要の発生は、
完璧に軍需要求の増大による
膨大な量の「鉄」の求めによ
るものだった。
政治と軍事の歴史的要求に連
動して国内産業が推移するの
は中世も現代もなんら変わり
はない。
預かった「三原」の一刀を観
るに、非常に刀としての鉄が
良い。
日本刀の場合、一般的には
「鉄が良い」というのは、こ
れは肉眼で目視上の鉄味良さ、
ということであり、金属学的
な優劣のことではない。
ここを混同すると、江戸期の
ような大量生産工法で作られ
た流通製品鋼=たたら製鉄で
はないたたら吹きによって作
られた鋼のことを「刀剣に適
した最良の鋼」であるなどと
思い込む誤謬を生じさせる。
真実はそうではない。現代と
同じく「その時代にそこにあ
った鋼」を使用したのが実態
であり、「戦闘刀剣として最
適の材料」を圧倒的大多数の
刀工の趨勢として江戸期初期
以降の刀鍛冶が求めたのでは
ない。
要するに現代と同じく、流通
製品鋼を一般的には使用して
いたのである。
金属学的に精良である鋼と、
武器である刀剣に適している
鋼は、必ずしも同一の成分や
質性を有しない。
だが、小鍛冶が鉄をも作る時
代は遠く南北朝以前の遥か彼
方にほぼ消滅していた。例外
的に安芸国大山鍛冶のように
近隣の小規模製鉄エリアと自
家製鉄を合体させて適宜適し
た鉄と鋼を選択していたよう
な刀工もいるが、それは「時
代遅れ」の生産効率において
非生産的な工法となっていた。
戦国期には膨大な数の刀剣が
即座に必要だったからだ。
そのために、最初から材料を
板状にして作り置いておく
「作り置き」の工法が登場し、
それと同時に鋼使用部分を減
らす増量剤としての低炭素鉄
の再利用=作り込み餡子構造
が登場した。
鍛着においては、陶芸の一挙
的発達と密接なカルシウムと
カリウムの化学反応への着目
もあったことだろう。
当然にして牡蠣殻のような触
媒や藁などによるケイ素への
反応条件も満たさなければな
らないことに気付き、折り返
し鍛着のために、泥をかけ、
藁にまぶすことが陶芸技術の
援用で導入されたことだった
だろう。
泥かけ藁まぶしは脱炭防止の
ためだけではない。鍛着材=
フラックスに化学変化させる
役目があることに中世の量産
工法を導入した鍛冶仕事に従
事したカヌチたちは熟知して
いた筈だ。
また、武器は量産できなけれ
ば軍需の要求を満たせない。
それは法度的な領主による御
触れを以て刀工たちを抱えよ
うと武将たちは躍起になった
筈だ。
そして、量をこなせなければ、
そうした当時の法定果実の満
足を得る事はできなかったの
である。槍や薙刀や長巻や太
刀等の刀剣は軍事と政治の行
く末を決定する武器であった
からだ。また、鏃は必要不可
欠な武器の頂点だった。
そして、そうした時代の要求
の中で、刀鍛冶たちは死にも
の狂いで、時の材料に最適合
した工法を探りまくっていた
ことだろう。
そうした光景は、往時として
は、ごくごくありふれた「当
たり前」の風景として、鍛冶
職の鎚音が響くシーンのビジュ
アル的景色の中に存在していた
筈だ。
日本国内の美術刀剣史観の人
たちは、ここのところを見る
視点を現代では完全に欠落さ
せてしまっているので、刀身
の肉眼的な見た目が良い物が
まるで武器としての刀剣の質
性をも担保するものだとの誤
解を自らをして生じせしめる
ことをやらかしがちだ。
例えば、包丁に極めて適して
いる現代鋼である日立の白紙
1号などは腕の良い包丁人に
よる料理包丁の巧みな技術を
発揮するためには適している
素材だが、白紙1号をそのまま
刀剣に使用して鍛刀しても戦
闘に使える刀にはならない。
青紙のほうがずっと頑丈さな
どにおいては優れている。し
かし、白紙や青紙での日本刀
の製作は現代では認可されて
いないので、日本刀の材料と
して使用することはできない。
それは別問題として、重要な
ことは、「用途に適した鋼」
というものが金属の種別類別
には存在するのであり、本来
の武器としての日本刀には日
本刀に適した材料があったの
である。
それが崩れたのが慶長以降の
刀剣であることは、いまから
数百年前の江戸期の多くの武
士たちによって証明されてい
るのだ。
やがてそれまでの日本刀の製
作方法は江戸中期に完全失伝
し、これではまずいというこ
とで幕末の一刀工が大ルネッ
サンスの啓蒙活動をして、失
伝した古刀製作法を史料から
「想像で」復元したのが現代
刀工がすべて行きつく幕末水
心子伝ということになる。
日本刀は大きく分けて質性と
しては以下に大別できる。
・上古刀~応永までの古刀
・応永~慶長初期までの古刀
・慶長~江戸中期までの新刀
・幕末の新新刀とよばれる復
古気運の中での実用刀模索
研究刀群
・昭和大戦時の科学的工法を
導入した純実用刀
・戦後現代刀(特定一種の鋼
による幕末工法オンリー)
このうち江戸中期の数十年間
のまったく日本刀が作られな
かった時期に日本刀の製造工
法は完全に失伝したと思われ
る。
単に組み合わせ工法か無垢か
とか、そのような単純なステ
レオ的なものではない。もっ
と多岐に亘る製造技法が失伝
している。
私が歴史の中で一時的に預か
った「三原」は、出来が見紛
うことなき名刀だと思える。
これ・・・今は鑑定書の紙無
しだが、審査に出せばゆくゆ
くは重刀あたりまでは行くの
ではなかろうか。
本作を預かっている間、使わ
れた鉄について精査しようと
思っている。
解体検査することはできない
し、炭素年代測定などにも興
味はないが、いろいろな視点
で個体を見ることによって、
新たな発見が日本刀には必ず
ある。新発見のない日本刀な
どは存在しない。
この刀、観ていると、すぐに
数時間は経過してしまう作で
ある。
何故登録証に当該個体と関係
のない法律文書である書面上
に「伝三原」などと書かれて
いるのか。
これは、昭和26年当時は、登
録審査員がこうした自己鑑定
などを書き添えることが多か
ったからである。
この昭和26年時の東京都の鑑
定審査員、そこには著名高名
な刀剣界の先生方も名を連ね
たことだろう。つまり日刀保
の鑑定のようなことが書き添
えられてしまったのだが、正
真を担保するものではない。
私の昭和34年登録の無銘刀に
も「豊後」と登録証に書かれ
てしまっている。
こういうのは刀剣業者の業界
では「悪戯書き」と呼ばれて
いる。
だが、本作のように、極めて
良刀の場合にそうした添え書
きが見られることが多いのも
事実である。
こうしたことは、刀剣書など
には勿論載っていないことで、
刀剣界の先達たちから教えて
貰わないと知り得ないことで
あろう。
私も斯界の先達から教えて頂
いた。有り難いことである。