


市街地西方。

東の空が赤らんで来ています。

JR三原駅では始発の新幹線が待機

見えている街は全部三原城内です。














三原市というのは、江戸期からの

同地点からの現在。

元々は浅瀬の海だ。


宮浦という地名は、三原西宮八幡宮



閉店店舗も多く、シャッター通り

閉店店舗も多い。




1階には台湾料理屋さん。

凄いですよー。

帝人通りから港側を見る。

右側の建物がカネショウ。


カネショウ横は海運回送業の老舗







この埋立地には様々な市の施設や

なんだあの煙幕は?と思い、望遠に






アパートの階段。

路地の坂で見送るミーヨ。

仕事でコオが外出中にミーヨが

アパートの玄関1階脇の階段下に
を持ち上げて180度ターンで方向
転換をする。

似ている場所。新宿区。


雰囲気はとても似ているが、ここ
が不能ならばみなし道路とはならず、
コオのアパートのロケ地建物は建て
直しはできない。

新宿区は現在でもコオのアパートと
に見なされないならば、更地にして
も建物を新築できないので売れない。
火災が発生したら消防車も入れない
し、救急車も物理的に来れない。
大規模な一択地上げが東京では実行
できた。地価が高いから転用方法は
多くあるし、転がせば莫大な利益が
出た。それゆえ、みなし道路も含め
てガバッと土地を筆数まとめて買収
交渉するのが地上げだ。
それを元手に広大な都心部エリ
アを一括で個別毎に順次買取
交渉を実行したのだった。
筋者たちを使って嫌がらせをして
立ち退きを迫った。暴対法成立
により、それが不可能となった
が、それ以前に政府の予告なき
金融引き締めにより、バブル狂乱
時代は風船が割れたように終焉し、
土地転がしたちは倒産が相次いだ。

に不景気という資本主義経済のよじ
れ)から一気に景気回復を見せるの
は1987年あたりからだ。
回復してきたが、87年から91年ま
証券金融関係の社員は20代で軽く
1千万近くの年収があった。
転じたが、テレビ局などは景気反映
が早、電通、博報堂等の広告代理店、
番組製作者、映像製作会社、メディア、
が花形として注目され始めた。
マイコンという名称からパソコンと
いう名称に変更になったのが80年代
中期。ちょうど言語がベーシックから
DOSに変わった頃だった。
日本語ワードプロセッサーが発明
され、それが一気に普及したのが、
ファクシミリがこの世に登場して
から数年後だった。
ワープロ専用機はやがてソフト
としてパソコンに搭載されるよう
になって行く。それが1980年代末期
だ。
1980年代は、バブル期に向けて
電子通信機器の大革命が起きて
いた時代で、ビデオデッキの普及
も挙げられる。
ただし、簡易OSを使ったインター
ネットが簡便な物として登場する
のは1995年からで、パソコンの
一般家庭への普及は2000年代に
入ってからだ。これは通信回線
速度が高速化した事で可能と
なった。
また、携帯電話が一般的に登場
したのが90年代に入ってからだった。
バブル期に登場し、インフラ整備
と共に急増したが、一般会社員が
誰もが携帯電話を持つようになった
のは90年代末期からだった。
景気が良くなるのは世の中明るい
話題ばかりかというとそうでは
ない。
社会的な格差は広がったし、バブル
が何を変えたかというと、日本人
を根本から変えた。
一番変わったのは女で、金にしか
興味がない女がわんさかと増えた。
そして、それと同調して男が自堕落
になって行った。
もともとその道の裏筋者たちのみ
がカネカネとゼニの亡者だったが、
日本人全体が金の亡者になった。
それまでは社会全体として「貧乏は
貧乏になる制度や世の中が悪い」
という包括認識を社会の人間が
持っていたのだが、バブル以降は
「貧乏人が悪」というような思い
違いを正しい事だとするような
発想が日本人に発生して定着
した。
そして、人が人を虐げて自分だ
け安全地帯にあろうとする、それ
までに無い日本人像が多く登場
した。
その結果、生まれたのが子ども
たちによる「いじめ」だ。
バブル以前にはバブル期に登場
したパターンの「いじめ」は
地方の大人たちの閉鎖コミューン
でしか存在しなかった。
都会は開明的で、「人が人を大切
にする教育」が戦後から実行され
ていたが、教師が教育をバブル期
に放棄したので、学校教育では
人間形成の道は閉ざされた。
また、親たちもカネカネ人間に
なったので、子どもへの教育
なども一切しない。
「いい学校」へ進学すれば「いい
就職」ができて、それは「高額収入
になるから」という図式を子ども
たちに強いる親だらけになり、
「お受験」などが大流行したのも
バブル期からだ。
銭金亡者の大人たちが作り上げた
世界で子どもたちは、それ以前の
子たちがやったような「反抗」を
忘れ、「犯行」のみを行なうよう
になった。
1980年代のバブル期以前の東京
の風景を映画で観ていると、いろ
いろなことが見えてくる。
映画を観るのは、それは映画を
見るのではない。
作品を通して、作者の世界観や
役者の表現世界や、そして、現実
の社会や世界とのリンク点を見る。
映画から学ぶ事は多い。
例えそれはファンタジーの物語
であろうとも。
『彼のオートバイ.彼女の島』は
35年前の映画作品だ。
今ではとても使えない台詞も脚本
には出てくる。「女のくせに」と
か。
ただ、この時代を知るものとして、
そうした表現も勉強材料にもなる。
これも映画の一つの観方。
そして。
誰か、東京在住の探検マニアの人。
橋本コオのアパートの場所を比定
してくれ。
いや、ください。
お願いします(笑)。
おいら、今は750km離れたとこに
住んでるからサクサクサクッとは
調査探査探検に行けないのよ(笑)。
多分だけど・・・女子医大近辺だと
思うのだけどね。そのあたりから
市ヶ谷付近にかけて。
若松町の柳生但馬殿のお屋敷跡付近
から、飯田橋のお堀あたりまでの
範囲。神楽坂近辺なんてくさい。
凸版印刷そばの坂でずーとるびの
新井君の車ひっくり返したし。
この原付、すんげかっこいい。
なんだか押井守のアニメに出て
きそうな車だ。
ただただ、かっこいい。
原付だから、自動車専用道も高速道
も走れないけど、ここまで各部が
決まってると言う事ない。
非ABS。それでいい。それが正解。
解説サイトなどでは、それを指して
「125だけに装備が不十分」とか
「貧弱」とか訳わからん事書いて
いる御用おためごかしモノカキも
今の時代は多い。
二輪のABS装備などは、過剰品質
どころか、運転技術を消滅させる
悪の装置だ。必要ない。
真に人々の安全に腐心する立場に
立たずに、お上の上からの法規制
措置に無思慮に尻尾を振りながら
物を書いて発信するその姿勢に
真のジャーナリズム精神やリーガル
マインドは無い。
最近の二輪モノカキに蔓延している
いい子ちゃんぶった忖度文章などは
くそくらえだ。
信号の色は赤青黄色だ。
オレンジや紫や茶色や黒も白も
無い。
そのままの事を指摘してそれを
指摘した人を批判する現代風潮
にも呆れるが、モノを仕事で書く
連中がヨイショの幇間作文しか
書かない。
それね、人の世が闇って事。
それは、王様の耳がロバ耳だった
り、何も着ていない裸の王様で
あるのに「ご立派なお召し物で」
と手もみしている行為を正義と
するような暗黒社会ということだ。
ジャーナリズムではない私的文章
においても、他人へのおべっか
遣いやナアナアべたべたの幼児
神経受けの文しかうけつけない
という現代若者たちの脳の思考
機能のおかしさはあるにせよ、
世の中、白は白であり、黒は黒
だ。白に他は無いし黒にも他は
ない。グレーはグレーである。
ただし、かっこいい悪い、美味
しい美味しくないの類は人それ
ぞれの価値観による。
隙なきレーシングポジション
フォームで走行している画を
見ても「こんなに乗れてない奴
見た事ない」とか全世界に発信
している薄らボケも世の中にいる。
技術に関する事の善し悪しの何
たるかが皆目理解できない奴も
多いので、それは仕方ない。
できない奴にしたらできる奴
のまっとうな事が「かっこ悪い」
とも映るかもしれないからだ。
ただ、「できる奴」と同じ事は
技術的にもそれらの種族は到底
できない事はガチだろう。
自分ができない事だからかっこ
悪いと決めつけているのかどう
かはよく分からない。不知。
私は与り知らない。

というお店。

私は決めた。台湾チャーハン。

それと台湾味噌麺。

お店の許可を取り、店内撮影させて



来ました。

こちら台湾味噌麺。
クセになりそう。

チャーハンこうなります。

台湾麺もこうなります。


ここは紹介しないで、そっととって
この帝人プラザビルの1階にあります。

三原港沿いの通りの一本西通り。

【超ロングラン】約140kmを一度に走破する
『ヤバい列車』に乗った!!
京急 三崎口発成田空港行
三崎マグロ駅(笑)から成田空港
へ。
神奈川県の海岸線を走る京浜急行。
かつて80年代には品川止まりだっ
た。
神奈川県民は京急と東急東横線
が私鉄としては馴染み深い。
ただ、京急はローカル色が濃く、
東急東横線とは全く乗客層が異
なる。