
最近、不動産屋さんと話す機会があって、彼から「知り合いの話なんですが」として、聞いたのですけれど。
ある壮年のご夫婦がマンションを借りたいと言ってきたそうなんです。旦那さんは日本の大企業の海外支社で、長く支店長として働いていたのですが、このほど、日本へ転勤になったので、それで住むところを借りたかったんだそうです。
しかし、その知り合いの不動産屋は、彼らが中国人だと知った途端、「いや、部屋は貸せません」と、一切話も聞かなかったそうです。そして、「とにかく、もう二度と中国人にだけは絶対に家を貸さない」って言うんだそうです。「嫌な思いをしたから。だって、いつの間にか契約した人と違う人が住んでるし、ゴミ出しも守らないし、トラブルばっかりで。」ということだったそうです。
中国人、とひとくくりにする。その日本の常識を知らなかった中国人(おそらく若い出稼ぎ労働者だったのでは、とのこと)と、ご夫婦とは別な人間ですよね。これは、人種差別ですよね。でも、「中国、嫌い。中国人、なんかヤ」という日本人が、また今も増えている現実。
さらに踏み込んだ話を書きます。こういう話は、今でもタブーとされているんですが。
ちょっと前の話ですが、ある知人の妹さんに彼氏が出来たんです。とってもいい人で、家にも遊びにきて、その妹さんの家族とも仲良くご飯を食べたり、時には家に泊まっていったりしていたそうです。そして、やがて結婚の話になりました。
そこで、その妹さんのご両親が、彼の身元調査をしたんですね(こういう時に、興信所を使って身元調査をする習慣は、まだ結構残っているそうです)。娘を可愛いと思うからこそ、だったとは思うんですが。
しかし、調査結果を知って、ご両親は突然その結婚に猛反対をしました。彼が・・・いわゆる被差別民の出身だったから、ということです。妹さんは、勿論ご両親を説得しようととっても努力をしました。でも、ご両親は、頑なに首を縦には振らなかったんです。僕も、その妹さんのことは良く知っていましたから、とても心が痛んだものです。
現代を生きる僕達は、もう、日本にも凄い差別の歴史があったことなんて、ほとんど忘れてしまっています。
学校で習った、「士農工商」。これは歴然とした身分制度です。これを超えて結婚など、まず許されませんでしたし、それどころか、それぞれ職業の自由もなかった。そして、その「士農工商」の後に続く、被差別民として定められてしまった人々の呼び名をご存知の方も多いでしょう。そして、今でもこの名残は、一部で強く残っているんですよ。とても理不尽で、悲しい事ですが。
ではそもそも、なぜそのような人々が存在しなければならなかったか。
日本は「殺生を嫌う」仏教と、「血を穢(けが)れ」とする神道の影響の強い国です。しかし、動物を殺さずに生きる総ベジタリアンの国ではありませんから、誰かがこれをしなくてはならない。そこで、動物を殺す仕事、その肉を扱う仕事、皮革工業、また、人の死に関わる仕事をする人などが必要でした。人の嫌うこういう仕事をしてもらう代わりに、彼らにいくつかの特権を与え、その仕事を保護したのです。そして、・・・一般の人々は、彼らを自分たちとは違う、と「差別」したんですね。これは、「殺生」「穢れ」という、宗教上の(つまり心の)理由が深くからんできますので、理屈じゃなかったわけです。明治になって身分制度が廃止され、それから100年以上の長い年月を経た今でも残る、この差別と戦っている人々、そして団体も実際にあるんです。俳優の三國連太郎さんも養父が被差別民だったことを自ら公表し、差別に関する多数の著作・講演をしておられます。
わたしは(人種)差別なんてしないよ、してないよ、と思っていても、それは理性的な部分であって、無意識下では、恐ろしい事に、結構しているものではないでしょうか。僕達の一世代、ニ世代上になると、その意識を根深くもってしまっている人も多いのです。インターネットなどでグローバル化の進んだ今に生きる僕達にはその意識が薄くとも、ちょっと昔を振り返れば、お隣の国からに移民の人々に対して、今は日本になってしまいましたが、アイヌの人々、琉球の人々に対しても。差別している側は、それと気づかなくても、傷つけていることは、往々にしてあるわけです。今だって、男女差別だって、職業差別だって、あるでしょう。他にも沢山ありますよ。たとえば、本当に僕達が絶対に人を外見で判断してないとしたら・・・、世の中の色々な事は、もっと違っているはずです。
誰だって、他人と自分を区別しますよね。そして、「人よりも出世したい」とか、「人よりもお金持ちになりたい」とか「人よりもカワイイとおもわれたい」とか、人よりも・・・
これは、競争社会である以上付いてまわります。しかし、この競争意識こそが、社会を発展させてきたわけです。人より沢山働いても、別にお給料が上がるわけでもないし、みんな同じ服で、同じ仕事で。でもそういうところで差別はないよ、というのが社会主義国家ですが、日本はそうはならないでしょう。イギリス、アメリカの資本主義が世界の隅々にまで広がりつつある今、これからこういう国が増えるとも思えませんし。日本も、これからどんどん格差が広がり、色んな「差別」がまた生まれてくるかもしれません。「みんな中流」だった高度成長時代は終わってしまいましたからね。
平和の祭典とされるオリンピックだって、明らかに国と国の代表の競争ですよね。スポーツはすべからくそうだと思うのですが、一種の代理戦争ですから。わかりやすいところでは、槍投げなど元々、そのまんま、兵士の強さを競った競技だったんじゃないでしょうか。射撃もそうでしょう。勿論、今はスポーツとして定着してますけれど。
あれ、ちょっと話がずれました。
差別はね、あるんですよ。さっきの「士農工商」の話にもどりますが、その下とされた身分の人々の存在理由は、さっき挙げた職業のことと別に、もうひとつあるんです。
一番身分の低い、当時の言葉で言えば「卑しい」と位置された商人。その、商人達の精神的な不満の捌け口として、の役割があったんだ、と指摘する人もいます。「自分たちが一番卑しいんじゃない。もっと下がいるんだ」と思わせる事で、彼らの心の安定を図った、と。これは実に人間の心理を知り、そこをついた計画だったんだろうと思います。
・・・お金持ちを見ればなんだか嫉妬する、貧乏な人をみれば、ちょっと安心する。現代人にも、十分に当てはまりませんか。それが醜いことだと、知っていても。
ちなみに、商人ですが、なぜ身分が低かったのでしょう。お金を扱うからですね。このお金を扱うのが卑しいとされた感覚は、ユダヤ人が昔「金貸ししか仕事がなかった」、というのと共通するところがありますね。世界的なものなんですね。しかし、ユダヤ人は今や世界の経済を牛耳る大富豪。日本でも、銀行と商社が経済を握っていますもんね。・・・皮肉な話ですね。お金は、ありがたいけど、・・・卑しいもの。うーん、なんだか納得できるような気もしますね。
昨日のコメントで、幾人かの方も指摘されてましたが、黒人にビッグ・スターが多いのは頷けるんです。被差別は、時にものすごいハングリーさと、力を生むことがありますから。
しかし、やっぱり差別はいけません。なぜなら、もったいないことだからです。双方にとって。
ではー。