○剣道は殺人剣であってはならない。
活人剣にするには自分自身を生かさなければならない。
殺人剣、活人剣は自分自身の行いに在り、
活人剣は人生を生かした世相であるから、
剣道は日常生活に役立つものでなくてはならない。
○剣道の修業に当たって大切なことは自然を中心に考える。
自然には無理がない。従って剣道も、足の爪先から手の指先まで自然であること。
無理がなければ、あらゆるものに通ずる。
そこで始めて「静中の動」、「動中の静」ありと言うことが出来る。
磐石の精神と言うだけでは、まだまだ不充分で進歩がない。
このような剣道はこちこちになって堅く、心に余裕が無いからである。
「受けて立つ」でなければならない。
「必死」だけではそれ以上のものが出ない。
強い人に勝とうとすると無理(理に叶っていない技)が出て不自然(自然体でない)である。
上の人にかかるには自然の力だけしか出せないものである。
剣道は剣を通じて立派な心と肉体を作る一つの修養機関と心得、
常に正しい剣道に精進し、人類愛に目覚めなければならない。
○アメリカの剣道は無理がなく素直である。
これは精神的に我が無いからである。
即ち「日本の先生方に指導して頂く」という気持ちがあるからである。
この我のない素直な気持ちをもって修業すれば他を抜いて上達疑いなし。
人の話は素直に聴くことである。
○剣道→命を懸けての修養、禅→佛からわり出した修養・・の差がある。
従って剣道は禅の上ではなければならない。
「剣禅一如」と言う言葉は尊重して言った言葉である。
戦後の剣道は悟りを考えていない。
剣道を修業する者が禅を批評する立場まで昇華しなければ眞の剣道とは言いがたい。
これは生涯通じて至難のことと思うが、
世に言う「好きこそものの上手なれ」のように不断の精進によって
一歩でもこの境地に近づきたいものである。
(昭和45年6月28日、大阪府剣道優勝代会、長井長正と小森園正雄の剣道形)
活人剣にするには自分自身を生かさなければならない。
殺人剣、活人剣は自分自身の行いに在り、
活人剣は人生を生かした世相であるから、
剣道は日常生活に役立つものでなくてはならない。
○剣道の修業に当たって大切なことは自然を中心に考える。
自然には無理がない。従って剣道も、足の爪先から手の指先まで自然であること。
無理がなければ、あらゆるものに通ずる。
そこで始めて「静中の動」、「動中の静」ありと言うことが出来る。
磐石の精神と言うだけでは、まだまだ不充分で進歩がない。
このような剣道はこちこちになって堅く、心に余裕が無いからである。
「受けて立つ」でなければならない。
「必死」だけではそれ以上のものが出ない。
強い人に勝とうとすると無理(理に叶っていない技)が出て不自然(自然体でない)である。
上の人にかかるには自然の力だけしか出せないものである。
剣道は剣を通じて立派な心と肉体を作る一つの修養機関と心得、
常に正しい剣道に精進し、人類愛に目覚めなければならない。
○アメリカの剣道は無理がなく素直である。
これは精神的に我が無いからである。
即ち「日本の先生方に指導して頂く」という気持ちがあるからである。
この我のない素直な気持ちをもって修業すれば他を抜いて上達疑いなし。
人の話は素直に聴くことである。
○剣道→命を懸けての修養、禅→佛からわり出した修養・・の差がある。
従って剣道は禅の上ではなければならない。
「剣禅一如」と言う言葉は尊重して言った言葉である。
戦後の剣道は悟りを考えていない。
剣道を修業する者が禅を批評する立場まで昇華しなければ眞の剣道とは言いがたい。
これは生涯通じて至難のことと思うが、
世に言う「好きこそものの上手なれ」のように不断の精進によって
一歩でもこの境地に近づきたいものである。
(昭和45年6月28日、大阪府剣道優勝代会、長井長正と小森園正雄の剣道形)