稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.6(昭和59年9月14日)

2018年03月07日 | 長井長正範士の遺文
○剣道は心身の鍛錬を言うが、精神的な問題が、
肉体的に如何に及ぼすかをはっきり知らなければならない。
心に感謝報恩の念があれば肉体のあらゆる所に至るまでこだわりがない。

こだわりがなければ体が柔軟になる。
怒ると血液が沸き、血管を圧迫して血液の循環をさまたげる。
そうすれば肉体が堅くなり、運動をさまたげ、筋肉の発達を阻害する。
故に剣道の稽古の時は敢闘精神の中にも、喜びのある感謝の気持ちが剣先に表れなくてはならない。
しかも自己の最高の道徳を竹刀に表現していくのである。

○「参りました」と言うことは、自己の隙(欠点)を
打突によって教えてくれたことに対して言う人間最高の表現である。
「神仏に参る」から来た言葉である。

○敢闘精神(勇敢に闘う)と敵愾心(敵と戦う心)をはき違えてはいけない。
剣道は命をかけて修養するもので、ここに真剣味があり敢闘精神が生まれる。
敵愾心を抱いて叩きあいするのは剣道ではない。

○刃筋を立てると言うことは、人間としての律義
(人として当然なすべきさだめ、きまりの道)を立てると言うことである。

○人間は正しいだけでは何にもならない。
正しさの中に人間の奥ゆかしさが出来、人間自体にワビとかサビとかが出来なければならない。
言うに言われない、他から見て、どこか感じさすものがなければならない。
例えば刀剣の美術品として言うに言われないニエとかあるように
人間の奥底に巾と深みがなければならない。
それを剣道によって養うのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする