今回も「ねずさんのひとりごと」に感銘を受けたので紹介します。
私はこの文章を読んで涙が止まりません。
大和心を語るねずさんのひとりごと
「昭和天皇行幸」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1322.html
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お腹を空かせた者がいたら、パンを与えても、それでは一時しのぎにしかならない。
だから、お腹を空かせた者がいたら、パンを得る方法を諭すのが
より良いことだという話を聞いたことがあります。
けれど日本には、それ以外の第三の道があります。
昭和20年8月の終戦後のことです。
日本は未曾有の食料危機となりました。
物価も高騰しました。
食料の配給制度は人々の生活を賄うに足りませんでした。
不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並びました。
それまで、東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、
価値観を根底から否定され、
いかに生きるべきか、
どう生きるべきかという規範さえも失い、
呆然とし頽廃と恐怖と飢えが人々を支配していました。
その日本人が、ある事件をきっかけに、
国土復旧のために元気になって立ち上がりました。
きっかけとなったのが、
「昭和天皇の全国行幸」です。
そこで昭和24年5月に行われた佐賀県行幸のときのお話しを書いてみたいと思います。
きっと感動されると思います。
昭和天皇の行幸は、
昭和21年の神奈川県を皮切りに、
昭和29年の北海道まで、
足かけ8年半にかけて行われました。
全行程は3万3000km、
総日数は165日です。
実はこれはたいへんなことです。
そもそも陛下の日常は、
我々平民と違って休日がありません。
一年365日、常に式典や祭事、
他国の元首その他の訪問、
政府決定の承認等があり、
その数なんと年間約2000件を超えるご公務です。
そうしたお忙しい日々を割いて、
昭和天皇は、全国行幸をなさいました。
この巡幸を始めるにあたり、
陛下はその意義について
次のように述べられています。
「この戦争によって祖先からの領土を失い、
国民の多くの生命を失い、
たいへんな災厄を受けました。
この際、わたしとしては、
どうすればいいのかと考え、
また退位も考えました。
しかし、よくよく考えた末、
この際は全国を隈なく歩いて、
国民を慰め、励まし、
また復興のために立ちあがらせる為の
勇気を与えることが責任と思う。」
当時、焼け野原になった日本で、
人々はそれまでの悠久の大義という価値観を失い、
正義が悪に、悪が正義とされる世の中を迎えていました。
しかも、たいへんな食料不足です。
物価は日々高騰していました。
お腹を空かせた家族のために闇市に買い出しに行けば、
そこは暴力が支配するドヤ街です。
嫁入り道具の着物を持って、
ようやく物々交換で米を手に入れると、
それを根こそぎ暴力で奪われる。
まるで無政府状態といえるような
たいへんな状況だったのです。
そういう状況から
国内が一日も早く脱皮し、
日本人が普通に生活できるように
しなくてはならない。
そんなときに陛下が選択されたのが、
全国行幸だったのです。
未曽有の戦災を被った日本を
不法な闇市を通さなくても
十分に食料が分配できるように
するために何が必要か。
いまの世の中なら、
すぐに財政出動だ、
何々手当の支給だ等という話になるのでしょうが、
あの時代に陛下が選択されたのは、
全国民の真心を喚起するということでした。
国民の一人ひとりが、
炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、
あるいは工場で真心をもって生産に勤しむ。
ひとりひとりの国民が復興のために、
未来の建設のために立ち上がる。
そのために陛下は、
「全国を隈なく歩いて、
国民を慰め、
励まし、
また復興のために
立ちあがらせる為の
勇気を与え」
ようと全国を回られたのです。
ところが共産主義に感化された一部の人々は、
そうした陛下を亡き者にしようとか、
あるいは陛下を吊るし上げようと、
各地で待ち受けました。
そんな中での陛下の行幸のご様子を、
佐賀のケースで見てみようと思うのです。
陛下が佐賀県に行幸されたのは、
昭和24年5月24日のことです。
この日陛下は、
たってのご希望で、
佐賀県三養基郡にある
「因通寺」というお寺に行幸されています。
因通寺は、
戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、
皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、
それを百万人の女性たちの手で歌を刺繍して
天皇陛下と皇后陛下の御許に
奉じ奉ろうとされていたのです。
その歌というのが、
昭和13年に皇后陛下が
戦没者に対して詠まれた次の二首です。
やすらかに
眠れとぞ思う きみのため
いのち捧げし ますらをのとも
なぐさめん
ことのはもがな たたかいの
にはを偲びて すぐすやからを
陛下は、このことをいたく喜ばれ、
皇后陛下はすぐに針をおとりになって、
御みずからこの大幟に
一針を刺繍してくださったという経緯があります。
また終戦後には因通寺は、
寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、
そこで戦争で羅災した児童
約40名を養っていました。
陛下が寺におこしになるという当日、
寺に至る県道から町道には、
多くの人が集まっていました。
道路の傍らはもちろんのこと、
麦畑の中にも、
集まった方がたくさんいました。
その町道の一角には、
ある左翼系の男が麦畑を作っていました。
この男は、行幸の一週間くらい前までは、
自分の麦畑に入る奴がいたら
竹竿で追っ払ってやるなどと豪語していたのですが、
当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、
感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、
すっかり心が変わってしまい、
自ら麦畑を解放して
「ここで休んでください、
ここで腰を下ろしてください」
などと集まった方々に声をかけていました。
朝、8時15分頃、
県道から町道の分かれ道のところに、
御料車が到着しました。
群衆の人達からは、
自然と「天皇陛下万歳」の声があがりました。
誰が音頭をとったというものではありません。
群衆の自然の発露として、この声があがりました。
御料車が停車しますと、
群衆の万歳の声が、ピタリとやみました。
一瞬、静まり返ったところに、
車から、まず入江侍従さんが降り立たれ、
そのあとから陛下が車から降りられると、
入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。
その瞬間、再び群衆の間から、
「天皇陛下万歳」の声があがりました。
陛下は、その群衆に向かって、
御自らも帽子をとってお応えになられる。
その姿に、群衆の感動はいっそう深まりました。
ここに集まった人達は、
生まれてこのかた、
お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない。
その陛下が、いま、目の前におわすのです。
言い表すことのできないほどの
感動が群衆を包み込みました。
お車を停められたところから、
因通寺の門まで約700メートルです。
その700メートルの道路の脇には、
よくもこんなにもと思うくらい、
たくさんの人が集まっていました。
そのたくさんの人達をかきわけるようにして、
陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。
町役場のほうは、
担当の役席者が反日主義者
(当時、まともな人は公職追放となり、
共産主義者が役席ポストに座っていた)
で、まさかこんなにも
多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、
道路わきのロープもありません。
陛下は、ひとごみのまっただ中を、
そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。
そして沿道の人達は、
いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返しました。
その声は、まるで大地そのものが
感動に震えているかのような
感じだったと言います。
陛下が寺の山門に到着されました。
山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、
その坂を上り詰めると、23段の階段があります。
その階段を登りきられたとき、
陛下はそこで足を停め、
「ホーッ」と感嘆の声をあげられました。
そうです。
石段を登りきった目の前に、
新緑に彩られた因通寺の洗心の山々が
グッと迫っていたのです。
陛下は、その自然の織りなす姿に、
感嘆の声をあげられた。
陛下が足をお留めになられている時間が
あまりに長いので、
入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、
何らかの言葉を申し上げると、
陛下はうなずかれて、
本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされました。
そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれました。
寮の二階の図書室で、机を用意して、
そこで佐賀県知事が
陛下にお迎えの言葉を申し上げる
という手はずになっていたのです。
図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、
当時佐賀県知事だった沖森源一氏が、
恭しく最敬礼をし、
陛下にお迎えの言葉を述べました。
「本日ここに、
90万県民が
久しくお待ち申し上げておりました
天皇陛下を目の当たりに・・・・」
そこまで言上申し上げていた沖森知事は、
言葉が途切れてしまいました。
知事だって日本人です。
明治に生まれ、
大正から昭和初期という
日本の苦難の時代を生き、
その生きることの中心に陛下がおわし、
自分の存在も陛下の存在と受け止めていたのです。
知事は陛下のお姿を前に、
もろもろの思いが胸一杯に広がって、
嗚咽とともに、
言葉を詰まらせてしまったのです。
するとそのとき入江侍従さんが、
知事の後ろにそっと近づかれ、
知事の背中を静かに撫でながら、
「落ち着いて、落ち着いて」と申されました。
すると不思議なことに
知事の心が休まり、
あとの言葉がスムーズに言えるようになったそうです。
この知事のお迎えの挨拶のあと、
お寺の住職が、
寺にある戦争羅災孤児救護所について
ご説明申し上げることになっていました。
自分の前にご挨拶に立った知事が、
目の前で言葉を詰まらせたのです。
自分はあんなことがあってはいけない、
そう強く自分に言い聞かせた住職は
奏上文を書いた奉書を持って、
陛下の前に進み出ました。
そして書いてある奏上文を読み上げました。
「本日ここに、
一天万乗の大君を
この山深き古寺にお迎え申し上げ、
感激これにすぎたるものはありません」
住職はここまで一気に奏上文を読み上げました。
ところがここまで読み上げたところで、住職の胸に
ググっと熱いものが突き上げてきました。
引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、
戦争で亡くなった
小学校、中学校、高校、大学の
級友たちの面影、
「天皇陛下万歳」と
唱えて死んで行った戦友たちの姿と、
一緒に過ごした日々、
そうしたありとあらゆることが
一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、
目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、
陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが
目の前に浮かんで、
奏上申し上げる文さえも
奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのです。
意識は、懸命に文字を探そうとしていました。
けれどその文字はまったく見えず、
発する言葉も声もなくなってしまいました。
ただただ、目から涙がこぼれてとまらない。
どう自分をコントロールしようとしても、
それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。
そのとき誰かの手が、
自分の背中に触れるのを感じました。
入江侍従さんが、
「落ち着いて、落ち着いて」と
背中に触れていてくれたのです。
このときのことを住職は、
前に挨拶に立った知事の姿を見て、
自分はあんなことは絶対にないと思っていたのに、
知事さんと同じ状態になってしまったと述べています。
こうしたことは外国の大使の方々も
同様のことがあるのだそうです。
外国の大使の方々は、
日本に駐在していていよいよ日本を離れるときに、
おいとまごいのために
陛下のところにご挨拶に来る習わしになっています。
駐日大使というと、長い方で6~7年、
短い方でも2~3年の滞在ですが、
帰国前に陛下にお目にかかって
お別れのご挨拶をするとき、
ほとんどの駐日大使が
「日本を去るに忍びない、
日本には陛下がおいでになり、
陛下とお別れをすることが
とても悲しい」と申されるそうです。
この言葉が儀礼的なものではないことは、
その場の空気ではっきりとわかります。
陛下とお話しをされながら、
駐日大使のほとんどの方が、
目に涙を浮かべて、言葉を詰まらせるのです。
特に大使夫人などは、
頬に伝わる涙を拭くこともせず、
泣きながら陛下においとまごいをされるといいます。
こうしたことは、
その大使が王国であろうと
共和国であろうと、
共産圏の方であろうと、
みな同じなのだそうです。
むしろ共産圏の国々の方々のほうが、
より深い惜別の情を示される。
さて、ようやく気を取り直した住職は、
自らも戦地におもむいた経験から、
天皇皇后両陛下の御心に報いんと、
羅災孤児たちの収容を行うことになった
経緯を奏上しました。
この奏上が終わると、
何を思われたか陛下が壇上から床に降り立ち、
つかつかと住職のもとにお近寄りになられました。
「親を失った子供達は大変可哀想である。
人の心のやさしさが
子供達を救うことができると思う。
預かっているたくさんの仏の子供達が、
立派な人になるよう、
心から希望します」と住職に申されました。
住職はそのお言葉を聞き、
身動きさえもままなりませんでした。
この挨拶のあと陛下は、
孤児たちのいる寮に向かわれました。
孤児たちには、あらかじめ
陛下がお越しになったら部屋で
きちんと挨拶するように申し向けてありました。
ところが一部屋ごとに足を停められる陛下に、
子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしません。
昨日まであれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、
みな、呆然と黙って立っていました。
すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。
頭をぐっとおさげになり、
腰をかがめて挨拶され、
満面に笑みをたたえていらっしゃる。
それはまるで陛下が
子供達を御自らお慰めされているように
見受けられました。
そして陛下はひとりひとりの子供に、
お言葉をかけられました。
「どこから?」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました。」
すると陛下は、この子供らに
「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。
そして、
「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」と子供達が答える。
すると陛下は、子供達ひとりひとりに
まるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、
「立派にね、元気にね」
とおっしゃる。
陛下のお言葉は短いのだけれど、
その短いお言葉の中に、
深い御心が込められています。
この「立派にね、元気にね」の言葉には、
「おまえたちは、
遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどから
この日本に帰ってきたが、
お父さん、お母さんがいないことは、
さぞかし淋しかろう。悲しかろう。
けれど今こうして寮で立派に日本人として
育ててもらっていることは、
たいへん良かったことであるし、
私も嬉しい。
これからは、
今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、
立派な日本人になっておくれ。
元気で大きくなってくれることを
私は心から願っているよ」
というお心が込められているのです。
そしてそのお心が、短い言葉で、
ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。
陛下が次の部屋にお移りになると、
子供達の口から
「さようなら、さようなら」
とごく自然に声がでるのです。
すると子供達の声を聞いた陛下が、
次の部屋の前から、
いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、
その子に
「さようならね、さようならね」
と親しさをいっぱいにたたえたお顔で
ご挨拶なされるのです。
次の部屋には、
病気で休んでいる二人の子供がいて、
主治医の鹿毛医師が付き添っていました。
その姿をご覧になった陛下は、
病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、
鹿毛医師に
「大切に病を治すように希望します」と申されました。
鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、
「誠心誠意万全を尽くします」
と答えたのですが、
そのときの鹿毛医師の顔は、
まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。
こうして各お部屋を回られた陛下は、
一番最後に禅定の間までお越しになられました。
この部屋の前で足を停められた陛下は、
突然、直立不動の姿勢をとられ、
そのまま身じろぎもせずに、
ある一点を見つめられました。
それまでは、どのお部屋でも
満面に笑みをたたえて、
おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、
この禅定の間では、
うってかわって、
きびしいお顔をなされたのです。
入江侍従長も、田島宮内庁長官も、
沖森知事も、県警本部長も、
何事があったのかと顔を見合わせました。
重苦しい時間が流れました。
ややしばらくして、
陛下がこの部屋でお待ち申していた
三人の女の子の真ん中の子に
近づかれました。
そしてやさしいというより静かなお声で、
「お父さん。
お母さん」
とお尋ねになったのです。
一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、
何事があったのかわからりません。
けれど陛下の目は、一点を見つめています。
そこには、
三人の女の子の真ん中の子の手には、
二つの位牌が
胸に抱きしめられていたのです。
陛下はその二つの位牌が
「お父さん?お母さん?」
とお尋ねになったのです。
女の子が答えました。
「はい。これは父と母の位牌です」
これを聞かれた陛下は、
はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」とお尋ねになられました。
「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。
母は引揚途中で病のために亡くなりました」
この子は、よどむことなく答えました。
すると陛下は
「おひとりで?」とお尋ねになる。
父母と別れ、
ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。
「いいえ、奉天からコロ島までは
日本のおじさん、おばさんと一緒でした。
船に乗ったら船のおじさんたちが
親切にしてくださいました。
佐世保の引揚援護局には、
ここの先生が迎えにきてくださいました」
この子がそう答えている間、
陛下はじっとこの子をご覧になりながら、
何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は
「お淋しい」と、
それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらました。
しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、
この子は
「いいえ、淋しいことはありません。
私は仏の子です。
仏の子は、
亡くなったお父さんともお母さんとも、
お浄土に行ったら、
きっとまたあうことができるのです。
お父さんに会いたいと思うとき、
お母さんに会いたいと思うとき、
私は御仏さまの前に座ります。
そしてそっとお父さんの名前を呼びます。
そっとお母さんの名前を呼びます。
するとお父さんもお母さんも、
私のそばにやってきて、
私を抱いてくれます。
だから私は淋しいことはありません。
私は仏の子供です。」
こう申し上げたとき、
陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。
この子も、じっと陛下を見上げていました。
陛下とこの子の間に、
何か特別な時間が流れたような感じがしました。
そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。
部屋に入られた陛下は、
右の御手に持たれていたお帽子を左手に持ちかえられ、
右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。
そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。
これからも立派に育っておくれよ」と申されました。
そのとき、陛下のお目から、
ハタハタと数的の涙が、
お眼鏡を通して畳の上に落ちました。
そのときこの女の子が、小さな声で、
「お父さん」
と呼んだのです。
これを聞いた陛下は、
深くおうなずきになられました。
その様子を眺めていた周囲の者は、
皆、泣きました。
東京から随行してきていた新聞記者も、
肩をふるわせて泣いていました。
子供達の寮を後にされた陛下は、
お寺の山門から、お帰りになられます。
山門から県道にいたる町道には、
たくさんの人達が、
自分の立場を明らかにする掲示板を持って
道路の両側に座り込んでいました。
その中の「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまで
お進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、
「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、
そのためにみんなが悲しんでいるが、
自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、
遺族の方達に、深々と頭を下げられました。
遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえました。
陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられました。
「どなたが戦死されたのか?」
「息子でございます。
たったひとりの息子でございました。」
そう返事しながら、
老婆は声を詰まらせました。
「うん、うん」と頷かれながら陛下は
「どこで戦死をされたの?」
「ビルマでございます。
激しい戦いだったそうですが、
息子は最後に天皇陛下万歳と言って
戦死をしたそうででございます。
でも息子の遺骨はまだ帰ってきません。
軍のほうからいただいた白木の箱には、
石がひとつだけはいっていました。
天皇陛下さま、
息子はいまどこにいるのでしょうか。
せめて遺骨の一本でも
帰ってくればと思いますが、
それはもうかなわぬことでございましょうか。
天皇陛下さま。
息子の命はあなたさまに差し上げております。
息子の命のためにも、
天皇陛下さま、長生きしてください。
ワーン・・・・」
そう言って泣き伏す老婆の前で、
陛下の両目からは滂沱の涙が伝わりました。
そうなのです。
この老婆の悲しみは陛下の悲しみであり、
陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあったのです。
そばにいた者全員が、この様子に涙しました。
遺族の方々との交流を終えられた陛下は、
次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれました。
そして「引揚者」と書かれた人達の前で、
足を停められました。
そこには若い青年たちが数十人、
一団となって陛下をお待ちしていました。
実はこの人達は、
シベリア抑留されていたときに徹底的に洗脳され、
日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、
誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達でした。
この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、
陛下に戦争責任を問いつめ、
もし陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、
暴力をもってしても
天皇に戦争責任をとるように発言させようと、
待ち構えていたのです。
そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、
ただちに全国の同志にこれを知らしめ、
日本国内で一斉に決起して
一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、
共産主義国家の樹立を図る手はずになっていました。
そうした意図を知ってか知らずか、
陛下はその一団の前で足をお止めになられました。
そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、
深々とその一団に頭を下げられました。
「長い間、
遠い外国で
いろいろ苦労して
大変であっただろうと思うとき、
私の胸は痛むだけでなく、
このような戦争があったことに対し、
深く苦しみをともにするものであります。
みなさんは外国において、
いろいろと築き上げたものを
全部失ってしまったことであるが、
日本という国がある限り、
再び戦争のない平和な国として
新しい方向に進むことを希望しています。
みなさんと共に手を携えて、
新しい道を築き上げたいと思います。」
陛下の長いお言葉でした。
そのときの陛下の御表情とお声は、
まさに慈愛に満ちたものでした。
はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、
陛下のお言葉を聞いているうちに、
陛下の人格に引き入れられてしまいました。
「引揚者」の一団の中から、
ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきました。
そして、
「天皇陛下さま。
ありがとうございました。
いまいただいたお言葉で、
私の胸の中は晴れました。
引揚げてきたときは、
着の身着のままでした。
外地で相当の財をなし、
相当の生活をしておったのに、
戦争に負けて帰ってみればまるで赤裸です。
生活も最低のものになった。
ああ、戦争さえなかったら、
こんなことにはならなかったのにと
思ったことも何度もありました。
そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。
しかし苦しんでいるのは、
私だけではなかった。
天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、
いま、わかりました。
今日からは決して世の中を呪いません。
人を恨みません。
天皇陛下さまと一緒に、
私も頑張ります!」
と、ここまでこの男が申した時、
そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、
ワーッと泣き伏したのです。
「こんな筈じゃなかった。
こんな筈じゃなかった。
俺が間違えていた。
俺が誤っておった」
と泣きじゃくるのです。
すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、
ほとんどが目に涙を浮かべながら、
この青年の言葉に同意して泣いている。
彼らを見ながら陛下は、
おうなずきになられながら、
慈愛をもって微笑みかけられました。
それは、何も言うことのない、
感動と感激の場面でした。
いよいよ陛下が御料車に乗り込まれようとしたとき、
寮から見送りにきていた
先ほどの孤児の子供達が、
陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
「また来てね」と申しました。
すると陛下は、この子をじっと見つめ、
にっこりと微笑まれると
「また来るよ。
今度はお母さんと一緒にくるよ」と申されました。
御料車に乗り込まれた陛下が、
道をゆっくりと立ち去っていかれました。
そのお車の窓からは、
陛下がいつまでも御手をお振りになっていました。
宮中にお帰りになられた陛下は、
次の歌を詠まれました。
みほとけの
教へ まもりて すくすくと
生い育つべき 子らに幸あれ
※出典:しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」
私はこの文章を読んで涙が止まりません。
大和心を語るねずさんのひとりごと
「昭和天皇行幸」
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お腹を空かせた者がいたら、パンを与えても、それでは一時しのぎにしかならない。
だから、お腹を空かせた者がいたら、パンを得る方法を諭すのが
より良いことだという話を聞いたことがあります。
けれど日本には、それ以外の第三の道があります。
昭和20年8月の終戦後のことです。
日本は未曾有の食料危機となりました。
物価も高騰しました。
食料の配給制度は人々の生活を賄うに足りませんでした。
不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並びました。
それまで、東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、
価値観を根底から否定され、
いかに生きるべきか、
どう生きるべきかという規範さえも失い、
呆然とし頽廃と恐怖と飢えが人々を支配していました。
その日本人が、ある事件をきっかけに、
国土復旧のために元気になって立ち上がりました。
きっかけとなったのが、
「昭和天皇の全国行幸」です。
そこで昭和24年5月に行われた佐賀県行幸のときのお話しを書いてみたいと思います。
きっと感動されると思います。
昭和天皇の行幸は、
昭和21年の神奈川県を皮切りに、
昭和29年の北海道まで、
足かけ8年半にかけて行われました。
全行程は3万3000km、
総日数は165日です。
実はこれはたいへんなことです。
そもそも陛下の日常は、
我々平民と違って休日がありません。
一年365日、常に式典や祭事、
他国の元首その他の訪問、
政府決定の承認等があり、
その数なんと年間約2000件を超えるご公務です。
そうしたお忙しい日々を割いて、
昭和天皇は、全国行幸をなさいました。
この巡幸を始めるにあたり、
陛下はその意義について
次のように述べられています。
「この戦争によって祖先からの領土を失い、
国民の多くの生命を失い、
たいへんな災厄を受けました。
この際、わたしとしては、
どうすればいいのかと考え、
また退位も考えました。
しかし、よくよく考えた末、
この際は全国を隈なく歩いて、
国民を慰め、励まし、
また復興のために立ちあがらせる為の
勇気を与えることが責任と思う。」
当時、焼け野原になった日本で、
人々はそれまでの悠久の大義という価値観を失い、
正義が悪に、悪が正義とされる世の中を迎えていました。
しかも、たいへんな食料不足です。
物価は日々高騰していました。
お腹を空かせた家族のために闇市に買い出しに行けば、
そこは暴力が支配するドヤ街です。
嫁入り道具の着物を持って、
ようやく物々交換で米を手に入れると、
それを根こそぎ暴力で奪われる。
まるで無政府状態といえるような
たいへんな状況だったのです。
そういう状況から
国内が一日も早く脱皮し、
日本人が普通に生活できるように
しなくてはならない。
そんなときに陛下が選択されたのが、
全国行幸だったのです。
未曽有の戦災を被った日本を
不法な闇市を通さなくても
十分に食料が分配できるように
するために何が必要か。
いまの世の中なら、
すぐに財政出動だ、
何々手当の支給だ等という話になるのでしょうが、
あの時代に陛下が選択されたのは、
全国民の真心を喚起するということでした。
国民の一人ひとりが、
炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、
あるいは工場で真心をもって生産に勤しむ。
ひとりひとりの国民が復興のために、
未来の建設のために立ち上がる。
そのために陛下は、
「全国を隈なく歩いて、
国民を慰め、
励まし、
また復興のために
立ちあがらせる為の
勇気を与え」
ようと全国を回られたのです。
ところが共産主義に感化された一部の人々は、
そうした陛下を亡き者にしようとか、
あるいは陛下を吊るし上げようと、
各地で待ち受けました。
そんな中での陛下の行幸のご様子を、
佐賀のケースで見てみようと思うのです。
陛下が佐賀県に行幸されたのは、
昭和24年5月24日のことです。
この日陛下は、
たってのご希望で、
佐賀県三養基郡にある
「因通寺」というお寺に行幸されています。
因通寺は、
戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、
皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、
それを百万人の女性たちの手で歌を刺繍して
天皇陛下と皇后陛下の御許に
奉じ奉ろうとされていたのです。
その歌というのが、
昭和13年に皇后陛下が
戦没者に対して詠まれた次の二首です。
やすらかに
眠れとぞ思う きみのため
いのち捧げし ますらをのとも
なぐさめん
ことのはもがな たたかいの
にはを偲びて すぐすやからを
陛下は、このことをいたく喜ばれ、
皇后陛下はすぐに針をおとりになって、
御みずからこの大幟に
一針を刺繍してくださったという経緯があります。
また終戦後には因通寺は、
寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、
そこで戦争で羅災した児童
約40名を養っていました。
陛下が寺におこしになるという当日、
寺に至る県道から町道には、
多くの人が集まっていました。
道路の傍らはもちろんのこと、
麦畑の中にも、
集まった方がたくさんいました。
その町道の一角には、
ある左翼系の男が麦畑を作っていました。
この男は、行幸の一週間くらい前までは、
自分の麦畑に入る奴がいたら
竹竿で追っ払ってやるなどと豪語していたのですが、
当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、
感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、
すっかり心が変わってしまい、
自ら麦畑を解放して
「ここで休んでください、
ここで腰を下ろしてください」
などと集まった方々に声をかけていました。
朝、8時15分頃、
県道から町道の分かれ道のところに、
御料車が到着しました。
群衆の人達からは、
自然と「天皇陛下万歳」の声があがりました。
誰が音頭をとったというものではありません。
群衆の自然の発露として、この声があがりました。
御料車が停車しますと、
群衆の万歳の声が、ピタリとやみました。
一瞬、静まり返ったところに、
車から、まず入江侍従さんが降り立たれ、
そのあとから陛下が車から降りられると、
入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。
その瞬間、再び群衆の間から、
「天皇陛下万歳」の声があがりました。
陛下は、その群衆に向かって、
御自らも帽子をとってお応えになられる。
その姿に、群衆の感動はいっそう深まりました。
ここに集まった人達は、
生まれてこのかた、
お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない。
その陛下が、いま、目の前におわすのです。
言い表すことのできないほどの
感動が群衆を包み込みました。
お車を停められたところから、
因通寺の門まで約700メートルです。
その700メートルの道路の脇には、
よくもこんなにもと思うくらい、
たくさんの人が集まっていました。
そのたくさんの人達をかきわけるようにして、
陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。
町役場のほうは、
担当の役席者が反日主義者
(当時、まともな人は公職追放となり、
共産主義者が役席ポストに座っていた)
で、まさかこんなにも
多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、
道路わきのロープもありません。
陛下は、ひとごみのまっただ中を、
そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。
そして沿道の人達は、
いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返しました。
その声は、まるで大地そのものが
感動に震えているかのような
感じだったと言います。
陛下が寺の山門に到着されました。
山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、
その坂を上り詰めると、23段の階段があります。
その階段を登りきられたとき、
陛下はそこで足を停め、
「ホーッ」と感嘆の声をあげられました。
そうです。
石段を登りきった目の前に、
新緑に彩られた因通寺の洗心の山々が
グッと迫っていたのです。
陛下は、その自然の織りなす姿に、
感嘆の声をあげられた。
陛下が足をお留めになられている時間が
あまりに長いので、
入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、
何らかの言葉を申し上げると、
陛下はうなずかれて、
本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされました。
そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれました。
寮の二階の図書室で、机を用意して、
そこで佐賀県知事が
陛下にお迎えの言葉を申し上げる
という手はずになっていたのです。
図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、
当時佐賀県知事だった沖森源一氏が、
恭しく最敬礼をし、
陛下にお迎えの言葉を述べました。
「本日ここに、
90万県民が
久しくお待ち申し上げておりました
天皇陛下を目の当たりに・・・・」
そこまで言上申し上げていた沖森知事は、
言葉が途切れてしまいました。
知事だって日本人です。
明治に生まれ、
大正から昭和初期という
日本の苦難の時代を生き、
その生きることの中心に陛下がおわし、
自分の存在も陛下の存在と受け止めていたのです。
知事は陛下のお姿を前に、
もろもろの思いが胸一杯に広がって、
嗚咽とともに、
言葉を詰まらせてしまったのです。
するとそのとき入江侍従さんが、
知事の後ろにそっと近づかれ、
知事の背中を静かに撫でながら、
「落ち着いて、落ち着いて」と申されました。
すると不思議なことに
知事の心が休まり、
あとの言葉がスムーズに言えるようになったそうです。
この知事のお迎えの挨拶のあと、
お寺の住職が、
寺にある戦争羅災孤児救護所について
ご説明申し上げることになっていました。
自分の前にご挨拶に立った知事が、
目の前で言葉を詰まらせたのです。
自分はあんなことがあってはいけない、
そう強く自分に言い聞かせた住職は
奏上文を書いた奉書を持って、
陛下の前に進み出ました。
そして書いてある奏上文を読み上げました。
「本日ここに、
一天万乗の大君を
この山深き古寺にお迎え申し上げ、
感激これにすぎたるものはありません」
住職はここまで一気に奏上文を読み上げました。
ところがここまで読み上げたところで、住職の胸に
ググっと熱いものが突き上げてきました。
引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、
戦争で亡くなった
小学校、中学校、高校、大学の
級友たちの面影、
「天皇陛下万歳」と
唱えて死んで行った戦友たちの姿と、
一緒に過ごした日々、
そうしたありとあらゆることが
一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、
目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、
陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが
目の前に浮かんで、
奏上申し上げる文さえも
奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのです。
意識は、懸命に文字を探そうとしていました。
けれどその文字はまったく見えず、
発する言葉も声もなくなってしまいました。
ただただ、目から涙がこぼれてとまらない。
どう自分をコントロールしようとしても、
それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。
そのとき誰かの手が、
自分の背中に触れるのを感じました。
入江侍従さんが、
「落ち着いて、落ち着いて」と
背中に触れていてくれたのです。
このときのことを住職は、
前に挨拶に立った知事の姿を見て、
自分はあんなことは絶対にないと思っていたのに、
知事さんと同じ状態になってしまったと述べています。
こうしたことは外国の大使の方々も
同様のことがあるのだそうです。
外国の大使の方々は、
日本に駐在していていよいよ日本を離れるときに、
おいとまごいのために
陛下のところにご挨拶に来る習わしになっています。
駐日大使というと、長い方で6~7年、
短い方でも2~3年の滞在ですが、
帰国前に陛下にお目にかかって
お別れのご挨拶をするとき、
ほとんどの駐日大使が
「日本を去るに忍びない、
日本には陛下がおいでになり、
陛下とお別れをすることが
とても悲しい」と申されるそうです。
この言葉が儀礼的なものではないことは、
その場の空気ではっきりとわかります。
陛下とお話しをされながら、
駐日大使のほとんどの方が、
目に涙を浮かべて、言葉を詰まらせるのです。
特に大使夫人などは、
頬に伝わる涙を拭くこともせず、
泣きながら陛下においとまごいをされるといいます。
こうしたことは、
その大使が王国であろうと
共和国であろうと、
共産圏の方であろうと、
みな同じなのだそうです。
むしろ共産圏の国々の方々のほうが、
より深い惜別の情を示される。
さて、ようやく気を取り直した住職は、
自らも戦地におもむいた経験から、
天皇皇后両陛下の御心に報いんと、
羅災孤児たちの収容を行うことになった
経緯を奏上しました。
この奏上が終わると、
何を思われたか陛下が壇上から床に降り立ち、
つかつかと住職のもとにお近寄りになられました。
「親を失った子供達は大変可哀想である。
人の心のやさしさが
子供達を救うことができると思う。
預かっているたくさんの仏の子供達が、
立派な人になるよう、
心から希望します」と住職に申されました。
住職はそのお言葉を聞き、
身動きさえもままなりませんでした。
この挨拶のあと陛下は、
孤児たちのいる寮に向かわれました。
孤児たちには、あらかじめ
陛下がお越しになったら部屋で
きちんと挨拶するように申し向けてありました。
ところが一部屋ごとに足を停められる陛下に、
子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしません。
昨日まであれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、
みな、呆然と黙って立っていました。
すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。
頭をぐっとおさげになり、
腰をかがめて挨拶され、
満面に笑みをたたえていらっしゃる。
それはまるで陛下が
子供達を御自らお慰めされているように
見受けられました。
そして陛下はひとりひとりの子供に、
お言葉をかけられました。
「どこから?」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました。」
すると陛下は、この子供らに
「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。
そして、
「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」と子供達が答える。
すると陛下は、子供達ひとりひとりに
まるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、
「立派にね、元気にね」
とおっしゃる。
陛下のお言葉は短いのだけれど、
その短いお言葉の中に、
深い御心が込められています。
この「立派にね、元気にね」の言葉には、
「おまえたちは、
遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどから
この日本に帰ってきたが、
お父さん、お母さんがいないことは、
さぞかし淋しかろう。悲しかろう。
けれど今こうして寮で立派に日本人として
育ててもらっていることは、
たいへん良かったことであるし、
私も嬉しい。
これからは、
今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、
立派な日本人になっておくれ。
元気で大きくなってくれることを
私は心から願っているよ」
というお心が込められているのです。
そしてそのお心が、短い言葉で、
ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。
陛下が次の部屋にお移りになると、
子供達の口から
「さようなら、さようなら」
とごく自然に声がでるのです。
すると子供達の声を聞いた陛下が、
次の部屋の前から、
いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、
その子に
「さようならね、さようならね」
と親しさをいっぱいにたたえたお顔で
ご挨拶なされるのです。
次の部屋には、
病気で休んでいる二人の子供がいて、
主治医の鹿毛医師が付き添っていました。
その姿をご覧になった陛下は、
病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、
鹿毛医師に
「大切に病を治すように希望します」と申されました。
鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、
「誠心誠意万全を尽くします」
と答えたのですが、
そのときの鹿毛医師の顔は、
まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。
こうして各お部屋を回られた陛下は、
一番最後に禅定の間までお越しになられました。
この部屋の前で足を停められた陛下は、
突然、直立不動の姿勢をとられ、
そのまま身じろぎもせずに、
ある一点を見つめられました。
それまでは、どのお部屋でも
満面に笑みをたたえて、
おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、
この禅定の間では、
うってかわって、
きびしいお顔をなされたのです。
入江侍従長も、田島宮内庁長官も、
沖森知事も、県警本部長も、
何事があったのかと顔を見合わせました。
重苦しい時間が流れました。
ややしばらくして、
陛下がこの部屋でお待ち申していた
三人の女の子の真ん中の子に
近づかれました。
そしてやさしいというより静かなお声で、
「お父さん。
お母さん」
とお尋ねになったのです。
一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、
何事があったのかわからりません。
けれど陛下の目は、一点を見つめています。
そこには、
三人の女の子の真ん中の子の手には、
二つの位牌が
胸に抱きしめられていたのです。
陛下はその二つの位牌が
「お父さん?お母さん?」
とお尋ねになったのです。
女の子が答えました。
「はい。これは父と母の位牌です」
これを聞かれた陛下は、
はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」とお尋ねになられました。
「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。
母は引揚途中で病のために亡くなりました」
この子は、よどむことなく答えました。
すると陛下は
「おひとりで?」とお尋ねになる。
父母と別れ、
ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。
「いいえ、奉天からコロ島までは
日本のおじさん、おばさんと一緒でした。
船に乗ったら船のおじさんたちが
親切にしてくださいました。
佐世保の引揚援護局には、
ここの先生が迎えにきてくださいました」
この子がそう答えている間、
陛下はじっとこの子をご覧になりながら、
何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は
「お淋しい」と、
それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらました。
しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、
この子は
「いいえ、淋しいことはありません。
私は仏の子です。
仏の子は、
亡くなったお父さんともお母さんとも、
お浄土に行ったら、
きっとまたあうことができるのです。
お父さんに会いたいと思うとき、
お母さんに会いたいと思うとき、
私は御仏さまの前に座ります。
そしてそっとお父さんの名前を呼びます。
そっとお母さんの名前を呼びます。
するとお父さんもお母さんも、
私のそばにやってきて、
私を抱いてくれます。
だから私は淋しいことはありません。
私は仏の子供です。」
こう申し上げたとき、
陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。
この子も、じっと陛下を見上げていました。
陛下とこの子の間に、
何か特別な時間が流れたような感じがしました。
そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。
部屋に入られた陛下は、
右の御手に持たれていたお帽子を左手に持ちかえられ、
右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。
そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。
これからも立派に育っておくれよ」と申されました。
そのとき、陛下のお目から、
ハタハタと数的の涙が、
お眼鏡を通して畳の上に落ちました。
そのときこの女の子が、小さな声で、
「お父さん」
と呼んだのです。
これを聞いた陛下は、
深くおうなずきになられました。
その様子を眺めていた周囲の者は、
皆、泣きました。
東京から随行してきていた新聞記者も、
肩をふるわせて泣いていました。
子供達の寮を後にされた陛下は、
お寺の山門から、お帰りになられます。
山門から県道にいたる町道には、
たくさんの人達が、
自分の立場を明らかにする掲示板を持って
道路の両側に座り込んでいました。
その中の「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまで
お進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、
「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、
そのためにみんなが悲しんでいるが、
自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、
遺族の方達に、深々と頭を下げられました。
遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえました。
陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられました。
「どなたが戦死されたのか?」
「息子でございます。
たったひとりの息子でございました。」
そう返事しながら、
老婆は声を詰まらせました。
「うん、うん」と頷かれながら陛下は
「どこで戦死をされたの?」
「ビルマでございます。
激しい戦いだったそうですが、
息子は最後に天皇陛下万歳と言って
戦死をしたそうででございます。
でも息子の遺骨はまだ帰ってきません。
軍のほうからいただいた白木の箱には、
石がひとつだけはいっていました。
天皇陛下さま、
息子はいまどこにいるのでしょうか。
せめて遺骨の一本でも
帰ってくればと思いますが、
それはもうかなわぬことでございましょうか。
天皇陛下さま。
息子の命はあなたさまに差し上げております。
息子の命のためにも、
天皇陛下さま、長生きしてください。
ワーン・・・・」
そう言って泣き伏す老婆の前で、
陛下の両目からは滂沱の涙が伝わりました。
そうなのです。
この老婆の悲しみは陛下の悲しみであり、
陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあったのです。
そばにいた者全員が、この様子に涙しました。
遺族の方々との交流を終えられた陛下は、
次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれました。
そして「引揚者」と書かれた人達の前で、
足を停められました。
そこには若い青年たちが数十人、
一団となって陛下をお待ちしていました。
実はこの人達は、
シベリア抑留されていたときに徹底的に洗脳され、
日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、
誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達でした。
この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、
陛下に戦争責任を問いつめ、
もし陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、
暴力をもってしても
天皇に戦争責任をとるように発言させようと、
待ち構えていたのです。
そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、
ただちに全国の同志にこれを知らしめ、
日本国内で一斉に決起して
一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、
共産主義国家の樹立を図る手はずになっていました。
そうした意図を知ってか知らずか、
陛下はその一団の前で足をお止めになられました。
そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、
深々とその一団に頭を下げられました。
「長い間、
遠い外国で
いろいろ苦労して
大変であっただろうと思うとき、
私の胸は痛むだけでなく、
このような戦争があったことに対し、
深く苦しみをともにするものであります。
みなさんは外国において、
いろいろと築き上げたものを
全部失ってしまったことであるが、
日本という国がある限り、
再び戦争のない平和な国として
新しい方向に進むことを希望しています。
みなさんと共に手を携えて、
新しい道を築き上げたいと思います。」
陛下の長いお言葉でした。
そのときの陛下の御表情とお声は、
まさに慈愛に満ちたものでした。
はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、
陛下のお言葉を聞いているうちに、
陛下の人格に引き入れられてしまいました。
「引揚者」の一団の中から、
ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきました。
そして、
「天皇陛下さま。
ありがとうございました。
いまいただいたお言葉で、
私の胸の中は晴れました。
引揚げてきたときは、
着の身着のままでした。
外地で相当の財をなし、
相当の生活をしておったのに、
戦争に負けて帰ってみればまるで赤裸です。
生活も最低のものになった。
ああ、戦争さえなかったら、
こんなことにはならなかったのにと
思ったことも何度もありました。
そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。
しかし苦しんでいるのは、
私だけではなかった。
天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、
いま、わかりました。
今日からは決して世の中を呪いません。
人を恨みません。
天皇陛下さまと一緒に、
私も頑張ります!」
と、ここまでこの男が申した時、
そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、
ワーッと泣き伏したのです。
「こんな筈じゃなかった。
こんな筈じゃなかった。
俺が間違えていた。
俺が誤っておった」
と泣きじゃくるのです。
すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、
ほとんどが目に涙を浮かべながら、
この青年の言葉に同意して泣いている。
彼らを見ながら陛下は、
おうなずきになられながら、
慈愛をもって微笑みかけられました。
それは、何も言うことのない、
感動と感激の場面でした。
いよいよ陛下が御料車に乗り込まれようとしたとき、
寮から見送りにきていた
先ほどの孤児の子供達が、
陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
「また来てね」と申しました。
すると陛下は、この子をじっと見つめ、
にっこりと微笑まれると
「また来るよ。
今度はお母さんと一緒にくるよ」と申されました。
御料車に乗り込まれた陛下が、
道をゆっくりと立ち去っていかれました。
そのお車の窓からは、
陛下がいつまでも御手をお振りになっていました。
宮中にお帰りになられた陛下は、
次の歌を詠まれました。
みほとけの
教へ まもりて すくすくと
生い育つべき 子らに幸あれ
※出典:しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」