【山陰加春夫氏講演、「入定信仰と高野山信仰を前提として構成」】
今年は弘法大師空海が高野山を開創して1200年の節目。高野山ではこの春、記念の大法会が営まれ、霊宝館では三大秘宝といわれる空海直筆の「聾瞽指帰(ろうこしいき)」(写真)などが特別公開される。そんな折、京都府精華町で31日、高野山霊宝館副館長で高野山大学名誉教授の山陰加春夫(かずお)氏を講師に迎え、精華町文化財愛護会主催の公開講演会が開かれた。『「平家物語」と南山城・高野山』と題して講演した山陰氏は、高野山に関する多くの挿話が「平家物語」に鏤められている背景について、当時民衆の間に広がりつつあった入定(にゅうじょう)信仰と高野山信仰があったとの見方を示した。
「平家物語」覚一別本は巻十「高野巻」で「高野山は、帝城(ていせい)を避って二百里、京里をはなれて無人声……」と高野山を詳細に紹介。他にも大塔修理を終えた平清盛が奥之院で弘法大師に出会った話、熊谷直実が蓮花谷に住んで一ノ谷で討った平敦盛を弔った話、横笛との恋が叶わず出家した滝口入道が清浄心院谷に居を構え修行に専心した話、屋島から戦線離脱した平維盛が高野に登り出家した話など、高野山が多くの場面で登場する。
山陰氏は「これらの挿話群は13世紀以降、人口に膾炙(かいしゃ)しつつあった入定信仰と高野山信仰を前提として、またはそれらの信仰のさらなる流布を企図して構成されていると言えるのではないか」と話す。空海は835年に入定し(即身仏になって)、今なお奥之院の御廟内で生き続けて人々を救済している――。「平家物語」の高野山にまつわる挿話群はそんな入定信仰の広がりを反映しているというわけだ。
その入定信仰について「延慶本平家物語」は第三本「白河院、祈親持経(きしんじきょう=聖人)の再誕の事」にこう記す。「我朝高野の御山に、目当り生身の大師入定しておわします(中略)生身普遍して、慈尊の出世をまち、六情(喜怒哀楽愛悪の情)かわらずして、祈念の法音を聞召(きこしめ)す……」。また高野山信仰についても「一度(ひとたび)も此地をふむ者は、界外無漏(かいげむろ)の功徳(現実を超越した清らかな最上の功徳)を備て、四重五逆の罪障を滅ぼす……」とお参りのご利益を記す。
平重衡といえば、南都(興福寺、東大寺)焼き討ちの張本人として悪名高い。一ノ谷の合戦で生け捕りにされた重衡は身柄を南都に引き渡され、泉木津(京都府木津川市)で斬首、その首は奈良坂(般若寺門前)にさらされた。ただ「平家物語」覚一別本の巻十「千手前」は「先年この人々(平家一門)を花にたとへ候しに、此三位中将(重衡)をば牡丹の花にたとへて候しぞかし」とある。山陰氏は「牡丹の花のように華やかで気品のある、誰からも愛される人物だったようだ」と話す。
重衡最愛の妻(藤原輔子)は重源(のちに東大寺を復興)に頼み込んで首をもらい受け遺骸とともに火葬にする。お骨は高野山に納め、自身の住む京都・日野にお墓を建てたという。伽藍焼き討ちのいわば〝仏敵〟を高野山は受け入れたというわけだ。山陰氏によると「高野山は大師以来、怨親平等観念、すなわち敵も味方も平等に愛憐しなければならないという考えが嫡々と受け継がれてきた」。
開創1200年を迎える高野山では4月2日~5月21日、記念の大法会が行われる。山陰氏は「お参りすると5つのご利益があり、奥之院の御廟前で手を合わせると56億7000万年後に出現する弥勒菩薩の説法を聞く予約券が手に入ります。まだの方はこの機会にぜひお参りを」と話していた。霊宝館では期間中、三大秘宝の空海直筆の「聾瞽指帰」、空海が唐から請来した「諸尊仏龕(ぶつがん)」(上の写真)、空海が唐からの帰途に投げて高野山に飛来したという「飛行三鈷杵(ひぎょうのさんこしょ)」などが特別公開される。