く~にゃん雑記帳

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<BOOK> 『地方官人たちの古代史 律令国家を支えた人びと』

2015年02月02日 | BOOK

【中村順昭著、吉川弘文館発行】

 歴史学を中心とする専門出版社吉川弘文館が出している「歴史文化ライブラリー」シリーズの1冊。著者中村順昭氏は1982年、東大大学院人文科学研究科博士課程中退。文化庁の文化財調査官などを経て、現在、日本大学文理学部教授(文学博士)。著書に『律令官人制と地域社会』など。

    

 古代の律令国家を支えた班田収授制。国が戸籍に基づいて6歳以上に口分田を与え、収穫に応じて租税を徴収する。その8世紀の戸籍が今も奈良の正倉院に残されている。戸籍の作成や租税徴収といった実務を担っていたのは郡など地方の役所。本書では古文書や木簡などを基に地方官人、とりわけ郡司に焦点を当てて当時の地方行政の実態に迫る。

 8世紀には全国が60余りの国に分かれ、約550程度の郡があった。地方の役所は古代の史料では「郡家(ぐうけ)」と呼ばれた。郡家と推定される遺跡は中心となる正殿とその南側の東西の脇殿が「コ」の字形に配置されていた。その近くには穀物を保管する倉庫群の正倉院もあった。正殿には郡司の代表である大領や少領が座り、脇殿で下級役人が事務を執っていたらしい。

 郡司の定員は「養老令」で郡の規模に応じ細かく規定されていた。国司には中央官人が任じられたが、郡司は全員、現地の人の中から採用された。これが州の官人も県の官人も中央から派遣された唐の地方制度との大きな違い。「郡司のあり方は律令制度を唐から取り入れるにあたって、現地で実際に民衆を支配していた豪族の力に頼らなければならなかったことを表している」。郡司の下には稲の徴収・管理に当たる税長や書記官の書生など「郡雑任(ぐんぞうにん)」と呼ばれる多くの下級職員がいた。

 郡司の中には中央貴族と直接つながりを持つ者もいた。長屋王家木簡の中にあった荷札の「宗形郡大領鯛醤」は筑前国宗像郡の郡司のトップから直接物品が送られていたことを示す。他に「案麻郡司進上」という木簡もあった。郡司クラスの地方豪族から中央官人となった人もいる。その代表として挙げるのが和気清麻呂。清麻呂は備前国藤野郡の出身で、姉広虫が采女だったと推定されることから郡司の家柄だったとみる。

 8世紀後半から9世紀にかけて諸国の正倉院では「正倉神火事件」と呼ばれる原因不明の火災が頻繁に起きた。火災の原因として主に2つが考えられた。1つは国司・郡司が保管していた穀物を使い込み、隠蔽するため空の倉庫を焼いた。もう1つは次の郡司を狙う人が現職の郡司の失脚を狙って放火した。「続日本紀」によると、国はその対策として官物焼失の場合は郡司全員を解任すること、また郡司失脚目的で放火した者は次の郡司の選考対象外とすることを命じたという。 

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