く~にゃん雑記帳

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<ぐるっと南紀③> 日本・トルコ友好の架け橋「トルコ記念館」「遭難慰霊碑」

2015年07月13日 | 旅・想い出写真館

【串本町5年に1回追悼式典、トルコの2つのまちと姉妹交流】

 大島の「トルコ記念館」はひと月ほど前の6月4日リニューアルオープンしたばかり。入館券には「№000654」という番号が刻まれていた。再オープン後の入場者数を表しているのだろうか。今から125年前のこと。トルコの軍艦エルトゥールル号が親善訪問した日本からの帰途、大島の樫野埼灯台直下の岩礁で難破、587人もの尊い命を失った。記念館に入ると、正面に犠牲者1人1人の名前が刻まれた銘板が飾られていた。

 沈没したエ号からはこれまでに7000点を超える遺品が引き上げられている。展示品の中に銃や巨大な調理鍋などとともに楽器のクラリネットのキーがあった。軍艦には24人の楽団員が乗っていたという。他に日本の皇室を表す菊花紋入りの磁器、当時ヨーロッパで最高級品といわれた有田焼(伊万里焼)、オスマン帝国皇帝から生存者を送り届けた日本海軍大尉に贈られた勲章なども。館内の小窓からは遭難現場の「船甲羅」と呼ばれる岩礁を見ることができた。そのあまりにも近いことに驚くとともに、胸を締め付けられる思いがした。(下の写真㊨がトルコ記念館)

 

 30年前のイラン・イラク戦争の渦中、日本政府が手をこまねく中でトルコ政府が2機の特別機を飛ばし置き去りにされたイラン在住日本人200人余を救出した。なぜトルコが日本を助けてくれたのか。当時の日本政府もマスコミもよく分からなかった。展示していた全国紙の新聞記事も「理由は明らかでない」と断ったうえ、「①日本もトルコもイラン・イラク両国にほぼ等距離外交姿勢をとっている②日本が対トルコ経済援助を強化している」ことなどを挙げていた。(下の写真は㊧遭難慰霊碑、㊨樫野埼灯台)

 

 その後、駐日トルコ大使が背景をこう明らかにした。「特別機を派遣した理由の1つがトルコ人の親日感情でした。その原点となったのは1890年のエルトゥールル号の海難事故です」。当時、大島の島民は言葉が通じない中、懸命に負傷者の救出と遺体の収容に当たった。その結果、乗組員69人が祖国に戻ることができた。展示品の中にトルコの小学校の教科書があった。そこには日本から遭難直後多くの義援金が届けられたこと、大島に慰霊碑や記念館が設けられていることなどが細かく紹介されていた。

 串本町は5年に1度、駐日トルコ大使館との共催で追悼式典を開いている。その5年目に当たる今年は日本・トルコ協会総裁の彬子女王をお迎えして6月初めに式典を行った。同町はトルコの2つのまち、ヤカケント町とメルシン市と姉妹都市提携を結んで相互に訪問し合うなど交流を続けている。

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