く~にゃん雑記帳

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<五條市「藤岡家住宅」> 「南方熊楠からの手紙」展を開催中

2015年07月27日 | メモ

【藤岡家先々代当主への手紙やはがきなど、初公開18点】

 奈良県五條市の旧家で登録有形文化財になっている「藤岡家住宅」で、「『南方熊楠からの手紙』展~新発見18の資料など」が開かれている。同住宅を管理するNPO法人「うちのの館」が昨年10~12月、藤岡家所蔵の書簡類を調査したところ、民俗学者南方熊楠(1867~1941)が先々代当主の藤岡長和(1888~1966)に宛てた直筆の封書やはがきなど18点が見つかった。その中には珍しい自画像が描かれたはがきも。会期は9月25日まで。

 藤岡長和が熊楠と知り合ったのは和歌山県理事官として和歌山に赴任した1918年(大正7年)。そのとき熊楠52歳、藤岡30歳。藤岡は熊楠の研究活動の良き理解者で支援者でもあった。その後、神戸、金沢、長野、岐阜などに転勤するが、1934年に官選知事として和歌山に戻ってきた。藤岡は俳人としても知られ(俳号・玉骨)、与謝野鉄幹・晶子とも交流があった。

 新発見の18点は1920年(大正9年)から22年(同11年)までの3年間に送られてきたもの。21年4月2日付の手紙では細かい字で闘鶏神社(田辺市)の社叢保全を切々と訴えている「凡そ此神林ほど天然記念物に富たる例なき……私人や私営会社の利益の為にかく迄よく保存し来りし神林を荒さる々は実に惜しむべきの至りに御座候」。

 そのひと月ほど前の3月9日付の手紙(上の写真)では「最も困るのは不意に色々のことを起す隣家のやり方にて、小生は妻子の為に少しも外出するを得ず」とぐちをこぼす。隣家とは「鶏小舎(とりごや)事件」で一悶着あった。熊楠は庭先の境界いっぱいに鶏舎を建てようとする隣家に対し、日陰になって粘菌の発生条件が変化して研究に支障が出ると抗議した。しかし隣家は聞く耳を持たなかった。下の写真㊧の短冊はその鬱憤晴らしのため「犬の糞の仇討」として描いたユーモラスなもの。

  

 藤岡が和歌山を離れてからも手紙のやり取りは続いた。1922年4月23日付の封書は「日本植物研究所」設立のために上京中の熊楠から神戸在住の藤岡に宛てたもの。その中で熊楠は「総理大臣其他諸大臣歴訪種々厚配に預かり……」「数日内に頭山満、三宅雪嶺二氏と談し致すつもり」と記す。当時の総理は高橋是清、頭山は右翼の超大物、三宅は哲学者・評論家で国粋主義団体「政教社」設立者の1人。熊楠の政界などとの幅広いつながりを示す。

 自画像のはがきは1920年11月、高野山滞在中の熊楠から送られてきた。黒い着物姿で、上部に「おや方がおや方那(な)くて暮の秋」と書かれていた。財布が空になったとして藤岡に資金援助をお願いしたものとみられる。水墨で雌雄のシオマネキとみられるカニを描いたものもあった。熊楠は採集した植物や菌類の綿密な写生画を大量に残しているが、これらの手紙や短冊に描かれた絵からも熊楠の鋭い観察眼と手慣れた筆致がうかがわれる。(下の写真は「藤岡家住宅」の外観と室内の広間)

 

 

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