く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<春日大社の鼉太鼓> 目を瞠るほどの巨大さと煌びやかさ!

2015年02月07日 | アンビリバボー

【宝物殿改修のため奈良県立万葉文化館に移して公開中】

 鎌倉時代に源頼朝が寄進したといわれる春日大社所蔵の「鼉太鼓(だだいこ)」(重要文化財)の複製1対が、奈良県立万葉文化館(明日香村)で公開されている。春日大社の式年造替に伴い宝物殿の改修工事が始まるため、同文化館の展望ロビーに移されたもの。以前「春日若宮おん祭」の御旅所で遠くから拝見したことはあったが、今回間近で目にして、その巨大さと煌びやかさに改めて驚かされた。

 鼉太鼓は舞楽演奏に用いる楽器の一種。その形から火焔太鼓とも呼ばれる。春日大社のものは高さが6.5mもあり、大阪・四天王寺所蔵のものに並ぶ大きさという。頼朝寄進という伝承があり、約40年前までおん祭で使われていたが、傷みが激しいため1976年に数年がかりで複製、本来の極彩色を取り戻した。万葉文化館には昨年12月のおん祭終了直後に4㌧トラック4台で運び込まれた。

 

 桶造りの胴の両側に牛革製の鼓面が取り付けられ、その周りは陰陽思想に基づいて左方(陽)に龍、右方(陰)に鳳凰が彫刻されている。鼓面の模様も左方が三つ巴なのに対し右方は二つ巴。合計4面の鼓面にはそれぞれ大きな牛の革が1頭分ずつ使われたそうだ。本来ならそれぞれの火焔模様の上部に金色銀色の太陽をかたどったような飾りが載るが、スペースの関係で台座の下に収納されているという。

 

 春日大社の式年造替は20年に1度。第60次に当たる今回は今年3月27日に仮殿遷座祭、来年11月6日に天皇のお使いを迎えて本殿遷座祭が執り行われる。それに併せ宝物殿も改築するもので、改築後には1~2階の吹き抜け空間にこの鼉太鼓が収蔵展示される予定。万葉文化館が預かるのは来年6月末まで。このため、今年12月のおん祭ではここから鼉太鼓が御旅所まで運ばれ、また戻ってくることになる。(鼉太鼓の「鼉」はオオトカゲあるいはワニを意味するとか)

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<京都府立植物園> 京都府所蔵の『蘭花譜』を19年ぶりに公開

2015年02月05日 | 花の四季

【マッサンと「大日本果汁」を興した加賀正太郎刊行の植物図譜】

 ボタニカルアートが注目を集める中、京都府立植物園でランの花を精細に描いた木版画などの「蘭花譜展」が開かれている。「蘭花譜」は実業家加賀正太郎(1888~1954)が自らの邸宅だった大山崎山荘(現アサヒビール大山崎山荘美術館)で栽培したランをモチーフに、戦後間もない1946年に監修・刊行した図譜。加賀はNHK連続テレビ小説「マッサン」のモデル、竹鶴政孝と共に大日本果汁(現ニッカウヰスキー)を設立したことでも知られる。8日まで。

 

 加賀は渡欧中、英国キュー・ガーデンで見たランの美しさに感動、帰国後に建設した山荘内に温室を設けて栽培に乗り出した。栽培したランは1万鉢を超えるという。「蘭花譜」にはその中から選んだ優良種104種の細密画などが収められている。木版画が大半(他に油絵印刷や白黒写真など)で、原画のほとんどを金沢出身の池田瑞月(1877~1944)が描いた。原寸大で色彩や形を忠実に描写しているのが特徴。彫師は東京の大倉半兵衛、摺り師は京都の大岩雅泉堂による。合計300部が刊行された。(上の写真は作品番号№1「バンダ・サンデリアナ」)

 京都府には1992年に孫の加賀誠太郎氏から寄贈された。「蘭花譜展」の会場は植物園会館で104枚中40枚が展示されている。加賀は人工交配で多くの新種を生み出したが、「蘭花譜」に収められたランの学名にも「○○オオヤマザキ」と命名されたものがかなり含まれる。「○○ワカクサヤマ」と名付けられた緑花のランもあった。別会場の観覧温室内では「洋ラン展」も同時開催中。その一角では「蘭花譜」に描かれたランの実物15種も展示されている(下の写真㊧)。

 

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<八坂神社の節分祭> 舞妓さんが「祇園小唄」などの舞で華を添え

2015年02月04日 | 祭り

【2日は先斗町と宮川町、3日には祇園甲部と祇園東】

 節分の3日、京都市東山区の八坂神社では花街の芸舞妓による舞踊の奉納と招福豆まきが行われた。同神社の節分祭は2~3日の2日間。2日には京都五花街のうち先斗町と宮川町、そして、この日は祇園甲部と祇園東の舞妓さんたちが登場した。残る1つの花街、上七軒は例年通り、地元北野天満宮の節分祭に参加して彩りを添えた。

 この日の京都は小雨が降ったり止んだりの生憎の天候。しかし、午後1時と3時の奉納舞踊と豆まきの時間が近づくと、境内の舞殿の周りは多くの参拝客で埋め尽くされた。午後3時に登場したのは祇園東歌舞会の舞妓さん5人。だらりの帯のあでやかな姿で「祇園小唄」など2曲の舞を奉納し、続いて豆まきが行われた。境内では空くじなし景品抽選券付きの福豆(300円)の授与も行われ、その前には終日長い行列が絶えなかった。

 

   

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<BOOK> 『地方官人たちの古代史 律令国家を支えた人びと』

2015年02月02日 | BOOK

【中村順昭著、吉川弘文館発行】

 歴史学を中心とする専門出版社吉川弘文館が出している「歴史文化ライブラリー」シリーズの1冊。著者中村順昭氏は1982年、東大大学院人文科学研究科博士課程中退。文化庁の文化財調査官などを経て、現在、日本大学文理学部教授(文学博士)。著書に『律令官人制と地域社会』など。

    

 古代の律令国家を支えた班田収授制。国が戸籍に基づいて6歳以上に口分田を与え、収穫に応じて租税を徴収する。その8世紀の戸籍が今も奈良の正倉院に残されている。戸籍の作成や租税徴収といった実務を担っていたのは郡など地方の役所。本書では古文書や木簡などを基に地方官人、とりわけ郡司に焦点を当てて当時の地方行政の実態に迫る。

 8世紀には全国が60余りの国に分かれ、約550程度の郡があった。地方の役所は古代の史料では「郡家(ぐうけ)」と呼ばれた。郡家と推定される遺跡は中心となる正殿とその南側の東西の脇殿が「コ」の字形に配置されていた。その近くには穀物を保管する倉庫群の正倉院もあった。正殿には郡司の代表である大領や少領が座り、脇殿で下級役人が事務を執っていたらしい。

 郡司の定員は「養老令」で郡の規模に応じ細かく規定されていた。国司には中央官人が任じられたが、郡司は全員、現地の人の中から採用された。これが州の官人も県の官人も中央から派遣された唐の地方制度との大きな違い。「郡司のあり方は律令制度を唐から取り入れるにあたって、現地で実際に民衆を支配していた豪族の力に頼らなければならなかったことを表している」。郡司の下には稲の徴収・管理に当たる税長や書記官の書生など「郡雑任(ぐんぞうにん)」と呼ばれる多くの下級職員がいた。

 郡司の中には中央貴族と直接つながりを持つ者もいた。長屋王家木簡の中にあった荷札の「宗形郡大領鯛醤」は筑前国宗像郡の郡司のトップから直接物品が送られていたことを示す。他に「案麻郡司進上」という木簡もあった。郡司クラスの地方豪族から中央官人となった人もいる。その代表として挙げるのが和気清麻呂。清麻呂は備前国藤野郡の出身で、姉広虫が采女だったと推定されることから郡司の家柄だったとみる。

 8世紀後半から9世紀にかけて諸国の正倉院では「正倉神火事件」と呼ばれる原因不明の火災が頻繁に起きた。火災の原因として主に2つが考えられた。1つは国司・郡司が保管していた穀物を使い込み、隠蔽するため空の倉庫を焼いた。もう1つは次の郡司を狙う人が現職の郡司の失脚を狙って放火した。「続日本紀」によると、国はその対策として官物焼失の場合は郡司全員を解任すること、また郡司失脚目的で放火した者は次の郡司の選考対象外とすることを命じたという。 

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<精華町文化財愛護会講演会> 『「平家物語」と南山城・高野山』

2015年02月01日 | メモ

【山陰加春夫氏講演、「入定信仰と高野山信仰を前提として構成」】

 今年は弘法大師空海が高野山を開創して1200年の節目。高野山ではこの春、記念の大法会が営まれ、霊宝館では三大秘宝といわれる空海直筆の「聾瞽指帰(ろうこしいき)」(写真)などが特別公開される。そんな折、京都府精華町で31日、高野山霊宝館副館長で高野山大学名誉教授の山陰加春夫(かずお)氏を講師に迎え、精華町文化財愛護会主催の公開講演会が開かれた。『「平家物語」と南山城・高野山』と題して講演した山陰氏は、高野山に関する多くの挿話が「平家物語」に鏤められている背景について、当時民衆の間に広がりつつあった入定(にゅうじょう)信仰と高野山信仰があったとの見方を示した。

  

 「平家物語」覚一別本は巻十「高野巻」で「高野山は、帝城(ていせい)を避って二百里、京里をはなれて無人声……」と高野山を詳細に紹介。他にも大塔修理を終えた平清盛が奥之院で弘法大師に出会った話、熊谷直実が蓮花谷に住んで一ノ谷で討った平敦盛を弔った話、横笛との恋が叶わず出家した滝口入道が清浄心院谷に居を構え修行に専心した話、屋島から戦線離脱した平維盛が高野に登り出家した話など、高野山が多くの場面で登場する。

 山陰氏は「これらの挿話群は13世紀以降、人口に膾炙(かいしゃ)しつつあった入定信仰と高野山信仰を前提として、またはそれらの信仰のさらなる流布を企図して構成されていると言えるのではないか」と話す。空海は835年に入定し(即身仏になって)、今なお奥之院の御廟内で生き続けて人々を救済している――。「平家物語」の高野山にまつわる挿話群はそんな入定信仰の広がりを反映しているというわけだ。

 その入定信仰について「延慶本平家物語」は第三本「白河院、祈親持経(きしんじきょう=聖人)の再誕の事」にこう記す。「我朝高野の御山に、目当り生身の大師入定しておわします(中略)生身普遍して、慈尊の出世をまち、六情(喜怒哀楽愛悪の情)かわらずして、祈念の法音を聞召(きこしめ)す……」。また高野山信仰についても「一度(ひとたび)も此地をふむ者は、界外無漏(かいげむろ)の功徳(現実を超越した清らかな最上の功徳)を備て、四重五逆の罪障を滅ぼす……」とお参りのご利益を記す。

 平重衡といえば、南都(興福寺、東大寺)焼き討ちの張本人として悪名高い。一ノ谷の合戦で生け捕りにされた重衡は身柄を南都に引き渡され、泉木津(京都府木津川市)で斬首、その首は奈良坂(般若寺門前)にさらされた。ただ「平家物語」覚一別本の巻十「千手前」は「先年この人々(平家一門)を花にたとへ候しに、此三位中将(重衡)をば牡丹の花にたとへて候しぞかし」とある。山陰氏は「牡丹の花のように華やかで気品のある、誰からも愛される人物だったようだ」と話す。

 重衡最愛の妻(藤原輔子)は重源(のちに東大寺を復興)に頼み込んで首をもらい受け遺骸とともに火葬にする。お骨は高野山に納め、自身の住む京都・日野にお墓を建てたという。伽藍焼き討ちのいわば〝仏敵〟を高野山は受け入れたというわけだ。山陰氏によると「高野山は大師以来、怨親平等観念、すなわち敵も味方も平等に愛憐しなければならないという考えが嫡々と受け継がれてきた」。

    

 開創1200年を迎える高野山では4月2日~5月21日、記念の大法会が行われる。山陰氏は「お参りすると5つのご利益があり、奥之院の御廟前で手を合わせると56億7000万年後に出現する弥勒菩薩の説法を聞く予約券が手に入ります。まだの方はこの機会にぜひお参りを」と話していた。霊宝館では期間中、三大秘宝の空海直筆の「聾瞽指帰」、空海が唐から請来した「諸尊仏龕(ぶつがん)」(上の写真)、空海が唐からの帰途に投げて高野山に飛来したという「飛行三鈷杵(ひぎょうのさんこしょ)」などが特別公開される。 

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