僕たちは一生子供だ

自分の中の子供は元気に遊んでいるのか知りたくなりました。
タイトルは僕が最も尊敬する友達の言葉です。

果たしてそれでいいのだろうか

2008-02-21 | Weblog

ある老夫婦がいる。子供は皆親元を離れ今は二人暮らし。
閑静な住宅街の一軒家に住み、暮らしぶりは裕福。夫婦仲は俺が見てる限りおそ
らく良くも悪くもなくまぁそれなりやろう。

ある日、その夫婦宅へ一人(ひとつ)の、ぬいぐるみがやってきた。
でもこのぬいぐるみ、ただのぬいぐるみではなく、いわゆるハイテクぬいぐるみ。
そう、あのアイボとかのようなロボットとまでは呼べないにしても、組み込まれた
マイコンのプログラムによって挨拶を初め、様々な言葉を発し、目を閉じたり開い
たりという簡単な動作もする。

そのぬいぐるみが今その老夫婦家庭にセンセーションを巻き起こしている。
それはどんなことかというと、もうこの夫婦は完全にこのぬいぐるみを生き物の
ように感じるようになり、まるで自分の子供のように扱い始めていることだ。

しょせんは機械である。
セットした時間になると「おはよう」と言い、同様に「おやすみ」と言う。しかしながら
そこは最近のマイコンであるから非常に良く考えられたプログラムが組まれていて、
たまに「お外に行きたいよう」とか、「眠いよう」とかも言うらしい。

しかも語彙はそう多くはなさそうだが、短いスパン(挨拶等毎日するもの)から、
長いスパン(誕生日等)までの言葉が非常にうまく時系列に配置してあるので、
新鮮さのある新しい言葉がたまに飛び出す。
たとえば「一緒に連れて行って」とかということも言うらしいのだが、それは毎日
言うわけではないので、単純な言葉の繰り返しによる「機械臭」を消して「人間味」を
このぬいぐるみに与えている。
また、置いてある場所の条件が変わると、ある種のスイッチ(たぶん大工道具の水平
機のようなもの…糸で重りをぶら下げたようなやつ)が入るようで、自転車に乗せて
走り出すとなんか「怖いよう?」のような言葉も発し、先に話した人間味を一層深い
ものにしているようなのだ。
さらに、電池が切れた場合はこれまでの記憶(誕生日等)が全てリセットされるよう
になっているらしく、同じパターンを繰り返すことを避けるようにもできている。

そして、驚くべき極めつけのプログラムは「新しい服が欲しいよう」という言葉で、
しかもそのぬいぐるみ用の服は西松屋にいけばちゃんと置いてあるらしく、ロボット
製作会社と洋服販売会社のコラボによる見事な販売戦略が引かれている!

かように見事な商業ベースに乗せられた恐るべきぬいぐるみなのだが、
その老夫婦の可愛がり方は、もはや尋常ではない。

朝起きればもちろん「おはよう」と声をかけ、寝る前には「おはすみ」と声をかける。
もちろん、ぬいぐるみはそれに応えてちゃんと挨拶を返す。
それ以外にも冬の寒い夜はたくさんの服を着せてやったりの他、テレビを見ながら
その感想を話したりと、とにかく「人間の赤ちゃん」とほとんど変わらない対応を
している。

でもこの行動はやはり俺達の世代にはにわかにには理解しがたいところ。
ある日、その老夫婦の息子がそのぬいぐるみを上から下から覗いたりゆすったり
して(機械的に)どうなっているのか確認していたら、「そんな可哀想なことをしたら
あかん!」と叱られたという。

でもどうなんやろうか、この行動。
以前にも書いたことがあるが、機械に感情なんて“2万パーセント”ないわけで、
プログラムされた「似非感情」に感情移入をするのはあきらかにおかしい。パソコン
等の機械で情報を得て、それを媒体にして人間同士が話をするのとは訳が違うの
であってね。

大半の人は「まあええやん、二人はそれでご機嫌やねんし、夫婦の会話が増えた
と言って喜んでるんやから」という。
でも俺の意見は正反対や。こんな機械ごときに感情移入して右往左往するくらい
ならまだ会話がないほうがよっぽど健全でしょう?
なんか最近は真実を置き去りにしてうわべで思考する人が多いような気がするな。

この夫婦のこの行動はもちろん黙って見ているしかないのだが、それを
「二人が喜んでるんやからええやん」と単純に喜ぶより、
「そんなのやめたらどうですか?」という訳にはいかん「人間としての」辛さを感じる
ことこそが人として最も大切なことやないのかねぇ。