・・・9月22日、今朝TVで「弘前城」をそのまま移動させるスゴイ「職人」さんを紹介していた。「江戸時代に築城された弘前城(青森県弘前市)で17日までに、国の重要文化財で重さ400トンの天守をジャッキで持ち上げ、解体せずに移動させる曳屋(ひきや)工事」・・・昨夜は某番組では「清水寺」の紹介を「爆笑問題」がやっていたが、昔の「木造建築」には「出雲大社」、「東大寺大仏(銅造-盧舎那仏坐像)殿」もそうだが、その「建築」には感心させられるモノばかりである・・・そして、「年代の数字(元号も西暦も含めて)」の「?」にも・・・多分、「古事記・日本書紀の原作者」は「土木、建築」の知識と技術を有していた・・・なんせ、「日本建」だから・・・
以下、「ウイッキペデア」などから参考、参照し、若干改作して添付・・・
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1590年(天正十八年)・・・壱拾捌念(今の心・ネン=音務)
南部氏
に臣従していた
大浦為信は、
小田原征伐の際に
豊臣秀吉より
南部氏に先駆けて
4万5千石の
所領安堵の
朱印状を受ける。
大浦を津軽と改姓。・・・通掛留
1594年(文禄三年)・・・纂念
為信、
堀越城(弘前市堀越)を築き
大浦城より移る
新城の候補を
鷹岡(弘前城の地)に選定・・・鷹(たか・ヨウ)
1600年(慶長五年)・・・・・・語念(今の心・ネン=音務)
為信は
関ヶ原の戦い
で
東軍に付き、
徳川家康より
2千石の加増を受け
4万7千石の弘前藩が成立
江戸時代
1603年(慶長八年)・・・・・16-03
捌念(今の心・ネン=音務)
為信、
鷹岡に築城を開始
1611年(慶長十六年)・・・・16-11
壱拾陸念(今の心・ネン=音務)
1年1か月で
鷹岡城がほぼ完成
1627年(寛永四年)・・・・・肆念(今の心・ネン=音務)
落雷により、
鷹岡城の天守で炎上し
内部の火薬に引火して大爆発
五層六階の
天守、本丸御殿、諸櫓を焼失
1628年(寛永五年)・・・・・16-28
語念(今の心・ネン=音務)
鷹岡を信枚の帰依する
天海大僧正・・・・・・・・・展開・転回
典改-竄?
が名付けた
「弘前(ひろさき・コウゼン)」に改称
城名も弘前城とした
1810年(文化七年)・・・18-10
「文化漆念(今の心・ネン=音務)」
九代藩主津軽寧親、
三層櫓を新築することを幕府に願い出て、
本丸に現在見られる
三層三階・・・・参・纂
篸(かんざし・サン・シン)=簪=櫛
髪飾り・髪挿し→「𠂉」
産・讃
の
御三階櫓(天守)
が建てられた
明治時代
1898年(明治三十一年)・・・18-98
明示参拾壱念(今の心・ネン=音務)
三の丸が
陸軍兵器支廠
(第8師団兵器部)
用地となる
1906年(明治三十九年)・・・19-06
明治参拾九念(今の心・ネン=音務)
北の郭の
「子の櫓」・・・・子=北=玄武(蛇と亀)=ゲンブ
「蛇=剣」、「亀=甲羅=鎧(兜)」
・・・ココで前回の述べた
「草薙剣・叢雲剣」
「草那芸之大刀・草那芸剣」
を補講・・・
「尾羽張剣」→「尾(羽)張」の「剣」
「天之尾羽張(あめのおはばり)」
「天之尾羽張神(あめのおはばりのかみ)」
「伊都之尾羽張(いつのおはばり)」
「伊邪那岐命が迦具土神を斬った
十挙剣」
「都牟刈大刀(つむがりのたち)」
「都牟羽大刀(つむはのたち)」
「八重垣剣(やえがきのつるぎ)」
「沓薙剣(くつなぎのけん)」
「蛇行剣=蛇の曲がりくねった形状の剣」
↓↑
「おうわばり=剣」
「蛇=矛」、「亀=盾」
「玄」=赤または黄を帯びた黒色
「玄黄・玄米」
奥深くて暗い
「玄関・玄室・玄妙・幽玄」
「玄猿(手長猿)」
「玄奥」
奥深い道理
「玄学」
「玄人(くろうと・professional)」
「玄人裸足=玄人跣足=プロ並み」
はるかに遠い
やしゃご=「玄孫」
つばくらめ=「玄鳥」=乙鳥=燕
「玄=黒・暗闇」の「武」とは
「玄(もと)=亠(音)+幺(おさない・ヨウ)」
音が小さい暗闇→静寂
音=日の立つ日=夜明け前
闇=門の朝夕の開閉の音
鍋蓋(亠)の音が鳴る前
黒=里+烈火→焦土・廃墟
・・・ヒトや鳥獣の騒音音声が少ない時間帯・・・
は
「武=一+弋+止=矛(戈)と盾」で
色々な説があるが・・・
「弋(ヨク・イキ)」=杙(くい)
繳(いぐるみ)
鳥をとる道具
矢に糸をつけ、
射た時に
鳥をくるんで落とす道具
「弋(ヨク・イキ)」は
「戈(ほこ・カ)」とは異なる漢字である
・・・しかも
「一+弋」の部分を構成する漢字は
「弐=貮=貳(異字体)」である・・・
「武」には
「矛(戈)を止める」意味は無い
↓↑
「鳶(とんび・とび・エン)」
の漢字は
「弋+鳥」である
ぐるぐる動き回る=「遊弋」する鳥
「鳶(とんび・エン)
鷲(わし・シュウ)
鷹(たか・オウ・ヨウ)
隼=(はやぶさ・シュン・ジュン
鶻=(はやぶさ・コツ・ゴチ・ゴツ)
鸇=(はやぶさ・セン)」
などは
猛禽類の肉食の鳥である・・・
「とんび」がクルリと輪(わ)を描いた意味が
「弋」の漢字で、「遊弋」である
「鳶職(トビショク)」の職人が天守閣で下を
見下ろせば、まさに「鳥瞰する」だろう・・・
「鳥瞰(チョウカン)」は
「俯瞰(フカン)」と同義である・・・
そして、
「長官」の「調巻」の「帳換」の
「諜間」の「朝刊」の「重環」の
「俯瞰」は
「不堪=耐えられない・我慢できない」
「不堪回首=昔の痛ましい事柄を
顧みるに忍びない」・・・である
↓↑
「鳶口(とびぐち)」はトビの嘴状の鉄製の
穂先を長い柄の先に取り付けた道具
丸太や原木など木材の
移動・運搬・積み上げや、
木造建築物の解体や移動(曳き屋)に使用
古くは鳶職に組織された
町火消の消防作業に使われた・・・
「武」は「一に鳥瞰してトして丄(ジョウ)」
「丄=上=うえ・のぼせる・かみ」
であるカナ・・・
「丅(ゲ)=下」である・・・
「丄」も「丅」も「T字形定規」である・・・
↓
「ウラル=アルタイ語」には
日本語文法の膠着語系としては同系である
「わし座=Aquila」の「α星」
「アルタイル星(Altair)」は
「七夕の彦星=牽牛星(Altair)」である
アラビア語で
「飛翔する鷲(わし)」の意味
「琴座のベガ(Vega)
=「急降下する禿鷹・禿鷲」=「織姫」
ラテン語起源の固有名=リュラ (Lyra)
アラビア語で
「白鳥座のデネブ (Deneb) 」は
「雌鶏(めんどり)の尾」
とともに、
夏の大三角を形成
↓
「弋」が構成される漢字で、
「レ(乚=L=乙)+一+丶」
「𢍺=弋」であるとは・・・?
「𢍺」=「七点・七天」で、
「七夕」そのものである・・・
「七(ヒ)+丶」
「七・牝(めす)・匙(さじ)・匕首(あいくち)」
+
「丶(チュウ・ぽち)」
「丶=灯火・火主=丶=𪐴点」・・・黒主の点
で、「武」は「一+弋+止」であり
「一=イチ・ひとつ・はじめ
の
𢍺七のヽ
弋(ヨク・イキ)=(杙=杭・くい)
を
止(とめる・シ)」である
弌・弍
式(ショク・シキ)
弐・貮・貳(ニ・ジ)
代
杙
𢎑(サイ)
忒(たがう・うたがう・かわる・トク).
㢤(?)
㢥(トウ・ドウ
船を繋ぎ止める綱を
結わく船の左右にある杭)
弑(シ・シイ
目上、君主などを、道徳、倫理に
悖る殺人・弑逆)
弒(メとナ、乂が異なる)
㢦(カ・積み重ね・堆積・山)
𢎒(𢎒=矰・ソウ・短い矢
射た鳥に絡まるように
紐を結わえ付けた矢)
𢎕(?)
𢎖(ク・グ?)→「瞿(懼・おそれる)弋」
鸜=ははつちょう=鵙
ムクドリ(椋鳥)・百舌鳥・鵙
鸜鵒眼=端渓の硯にある丸い斑紋)
音のヤグラ(矢倉・櫓・樓)
と
西の郭の
「未申櫓」・・・坤(コン)
ミシンのヤグラ
ひつじさるのヤグラ
羊猿(ヨウエン)のヤグラ
の
櫓二棟が焼失
2015年(平成二十七年)8月
天守を持ち上げる
「揚屋(あげや)」工程が行われた
9月3日・4日の両日で、
「一次曳屋(ひきや)」の作業が行われた
13日には
方向転換のために
25度回転させられた
↓
最初の天守は、
鷹岡藩
二代藩主の
津軽信枚により
1609年(慶長十四年)頃に
本丸南西隅に建てられた
五重の建物・・・・・・語重の建モノ
内部六階と
推定される建築は
東北地方では
若松城天守に次ぐもの
1627年(寛永四年)9月の落雷で出火
天守内部に収納されていた火薬に引火して
(四重目に吊るされていた
釣鐘が落下して
下層に収納してあった
火薬に引火したとも・・・)
大爆発を起こして
本丸御殿や諸櫓とともに焼失
この天守火災は当時、
藩主・信枚の
伯母
(初代津軽為信の正室
阿保良の姉)・・・・「阿保良」
の
祟りだと信じられていた
伯母は
為信のために、
横内城城主で
南部氏一族の夫
堤弾正左衛門から
離縁され
失意の内に病没
城はそれから
三十年ほども経ってから完成
時折、
伯母の
怨霊・・・・音量・音例
が
城内に現れていた・・・?
↓
天守(御三階櫓)
本丸唯一の
現存建築である天守は
層塔型
三重三階の建物
往時は北側に
多聞櫓を付属させた
複合式であった
この
多聞櫓・・・・他聞
多問・多文・多分
は
明治二十九年(1896年)ごろまでに破却
1627年(寛永四年)
大爆発に焼失した
五重天守の
代用として、
また
ロシア船の・・・露西亜・魯西亜
津軽海峡
往来などの事態により
幕府の許しを得て、
本丸南東隅の
辰巳櫓の改修を
名目として建てられた
1810年(文化七年)着工・・・・漆念
1811年(文化八年)に竣工・・・捌念
往時は幕府への配慮から
天守とは見なさず、
櫓(御三階櫓)として扱われていた
「事実上の天守」
として書籍などの多くで
天守として扱われている
昭和二十四年(1949年)
松前城天守が焼失したため、
最も北に位置する
現存天守
外壁は
白漆喰塗籠で、・・・白-漆-喰
塗籠(ぬりごめ
ぬりかご
トロウ)
・・・ココでは塗り込むの意味
塗籠=寝殿造りの
母屋の一部に設けられ
厚い壁で囲まれた部屋
板扉をつけて出入りする
本来は寝室
後には納戸などとして用いられた
窓と狭間の上下に
長押形を施し、
屋根瓦には
寒冷地のため
「銅瓦(どうがわら)」・・・同臥話等
を葺いている
櫓・門
二の丸の現存櫓は三層の
辰巳櫓・丑寅櫓・未申櫓
の三棟
門は、
三の丸追手門・三の丸東門
二の丸南門・二の丸東門
北の郭亀甲門
の五棟
が築城時の姿で現存
二の丸東門
与力番所が移築復元
築城当初は十棟の城門があった
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以下は「株式会社 我妻組」の「曳屋(ひきや)工事」プロセスの写真添付があるブログ記事を勝手に添付させてもらいました・・・
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弘前城動く - 株式会社 我妻組
http://www.wagatsumagumi.jp/category/2017033.html
現在、弘前城本丸の石垣が外側に膨らむ「はらみ」がみられ、大地震などが発生した 場合、崩落する危険性があると指摘されています。そのため約3か月かけて弘前城を移動します。
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・・・ひろさきじょう・・・「弘(コウ)の前(さき)の条」・・・「弘」とは・・・隋王朝の煬帝の「広」、あるいは「大友皇子」の「弘文天皇」・・・
今日も旧約の究訳はサボリ・・・