・・・昨日は茨城県の鬼怒(きぬ)川、25名行方不明、未だ「580人+α」が救助待ち。それに周辺住宅では停電、断水・・・未明から今朝は宮城県の渋井(しぶい)川、河川決壊ですか。キッと昨日はTVの災害ニュースに齧りついて見ていた人々もイタダろうに、「我が身の安全確保の危機意識」はドウだったんだか・・・「線上降水帯」・・・夜明け過ぎから早朝から今現在、午前11時、ココは不気味なくらい雲間から日差しもあり、風も無いが・・・嵐の前の静けさ・・・危険な状態での「自衛隊のヘリコプター」の緊急救助活動には感謝。接触事故で墜落しないように救出活動を唯、ただ祈りたい・・・
ーーーーー
旧約聖書
エズラ記・・・以斯拉記
第3章
3:1
こうして
イスラエル
の人々は
その町々に住んでいたが、
七月(シチガツ・なながつ)・・・文月・文暴月
になって、
民は
ひとりのように・・・・比訳理之与得似
エルサレム・・・・・・重留作(差)例務
に集まった。
3:2
そこで
ヨザダク・・・与挿(指・覚)拿句
の子
エシュア・・・重取蛙(阿・吾)
とその
仲間(なかま・チュウゲン・チュウカン)の
祭司(サイシ)たち、
および
シャルテル・・・写留氐(弖・手・𠂤・堆・弟・出)
の子
ゼルバベル・・・是留葉部留
と
その
兄弟(キョウダイ・えと)
たちは
立って、
イスラエル
の神の祭壇を築いた。
これは
神の人
モーセ・・・申せ・望是
の律法(リッポウ)に
しるされたところに従って、
その上に
燔祭(バンサイ)を
ささげるためであった。
3:3
彼らは
国々の・・・・・・異国・他国・外国
民を・・・・・・・異邦人・異人・外人
恐れていたので、
祭壇を
もとの所に設けた。
そしてその上で
燔祭を
主(あるじ・ぬし・シュ)・・・有字・塗師・取・諏・首・種
にささげ、
朝夕(あさゆう・チョウセキ)
それをささげた。
3:4
また、
しるされたところに従って
仮庵(かりいお・カアン)の祭
を行い、
掟(おきて)に従って、
毎日(マイニチ・マイジツ・バイカ・ごとひ・か)
「毎=ごと・かず・つね・マイ・バイ
毎回・毎号・毎週・毎食・毎度
毎日・毎年・毎晩・毎毎
人毎(ひとごと)・夜毎(よごと)
毎=髪飾りをつけた女
毎=𠂉(かみさし)+毋(なかれ・ない・ブ・ム)」
毋=女+一
禁女犯の字形
女の一=巫女
壱(壹→臺)與(与)
覡・坊主の禁女犯・禁戒
母親との関係の禁犯
類字は毌(囗+十)=つらぬく=貫
毌(口+十)
𠂉(髪挿し・櫛・串
𠂉=簪・笄・鈿・篸=かんざし=金指
「毎」=~ごとに・~たびに・など・どの~もみな
日毎=ひごと=比語訳
阿毎王朝(隋書)=肥後・熊本←(随処)
ズイショ=図医書・事遺書
瑞 書=高野長英=瑞皐(ずいこう)
久坂(日下)玄瑞=諱は通武
通称は実甫・誠
義助
妻は吉田松陰(寅二郎)
の妹、
杉文(ふみ)→みわ(美和)
ささぐべき
数(かず・スウ)の・・・・・・数=かず=和=下図=下圖
歌事・掛事
スウ
素得・蘇得・諏得
通(とお・ツウ・ツ)りに、・・・・・・通理似
日々(ひび・ニチニチ・ジツジツ)・・・比備
似知
実實・字通事通
の
燔祭(バンサイ・ハンサイ)
を
ささげた。
3:5
そして
その後(ゴ・あと・のち・うしろ)は
常燔祭(ジョウバンサイ)、・・・常陸版歳(載)
新月(シンゲツ・つきたち)・・・朔(ついたち)
追意多知
と
主
の
すべて
定められた
祭とに
ささげる供え物
および
各自(カクジ)が・・・「各似・各字・各事・各時」臥
書く字・斯く字・欠く字
郭児(廓の子)→郭務悰
花魁(藝妓)の児
主にささげる
真心よりの
供え物をささげた。
3:6
すなわち
七月・・・・・・文月・文暴月
文通記
名納通記
一日(ついたち)・・・朔
通意多知
から
燔祭を
主に
ささげることを
始めたが、
主の宮の
基礎(キソ)は・・・記素・起訴
木曽・木曾・木祖
木曾の御嶽山
長野県木曽郡木曽町王滝村
と
岐阜県下呂市・高山市にまたがる
乗鞍火山帯の南端にそびえる複式火山
剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳、継子岳
からなる
まだ
据(す)えられて・・・饐(す)えられて
なかった。
3:7
そこで
石工(いしく・セキコウ・たくみ=匠)
と
木工(きく・モッコウ・たくみ=匠)
に
金(こがね・かね・キン)を渡し、
また
シドン・・・詞度務
と
ツロ・・・・通賂
の人々に
食い物、・・・句意摸之
飲み物・・・・埜視摸之
および
油(あぶら・ユ)を・・・蛙部(分)等
阿武等・・・阿礼と天武
与えて、
ペルシャ・・・・波斯・経留写
王
クロス・・・・・句賂素(諏・蘇・数・州・子)
から得た
許可(キョカ)に
従って、
レバノン・・・・例葉(馬・萬=万・蔓)之務
司馬宣・太安万侶・鶴→鶴ヶ城
敦賀城
から
ヨッパ・・・・与通葉
の
海(うみ・カイ)に・・・産み・生み・宇美
甲斐・蝦夷
會津・会津・相津
歌意・下意
香柏(コハク・コウハク)・・・琥珀・高伯
項葉句
を運ばせた。
3:8
さて
エルサレム・・・重留作例務
の神の宮に
帰った
次の年の
二月(ニガツ・ニゲツ・きさらぎ)に、
似画通・似解通・如月=ごとしつき
語訳詞通記
後訳詞通記
シャルテル・・・写留弖(氐)留
写留照
の子
ゼルバベル・・・是留葉部留
と
ヨザダク・・・・与挿拿句
与指濁→濁点
ガギグゲゴ・ザジズゼゾ
ダジズゼゾ・バビブベボ
ヴァ・ヴィ・ヴゥ・ヴェ・ブォ
の子
エシュア・・・重取蛙
は
その
兄弟(キョウダイ・ケイダイ・えと・あにおとうと)
で
ある他の祭司、
レビ・・・例備
びと
および
捕囚(ホシュウ)から・・・補修・補習・捕集
エルサレム
に帰って来た
すべての人々と共に
工事(コウジ)を始め、
二十(ニジュウ・はたち)・・・弐拾・念=二十
二重・似重
葉多知
歳(サイ・とし)
以上(イジョウ)の・・・・・・移譲・委譲・移乗・囲繞
意定・意常
異常・異状
レビ・・・・・・・・・・・・・例備(尾)
びとを立てて、
主(あるじ・シュ)の・・・・・在る字
宮(みや・く・キュウ)の・・・視哉(埜)
句
究
記瑜得・・・賢瑜
宄諭得
工事(コウジ)を・・・考字
監督(カントク)・・・感得
寛徳・・・寛永年間の徳川?
↓↑
・・・以下は「ウイッキペデア」を
参照、参考にし、少々改作して添付・・・
↓↑
元和十年二月三十日(1624年4月17日)
讖緯説に基づく
「甲子革令」に当たり
「寛永」に年号改元
この時期の天皇は
後水尾天皇、
明正天皇、
後光明天皇
↓↑
讖緯説(シンイセツ)=讖緯思想・図讖
「讖=未来予言書」
「予言書=讖記」
「緯=儒教経典の書物=緯書」
後には、
双方、予言を指す言葉、書物とされた
「讖緯」=「予言」
↓
「隋書・経籍志」に、
「説者又た云う、
孔子は既に六経を叙し、
以って
天人の道を明らかにするも、
後世には、
その意に
稽同すること能わざるを知り、
別に
緯
及び
讖を立て、
以って
来世に遺す」
↓
讖緯説が盛んになったのは
「王莽(西暦元年~)の新の時代」
王莽の即位を予言する
「瑞石が発見された」とされ、
王莽はそれを利用して
漢朝を簒奪
儒教の
「経書」に
対する
「緯書」が後漢代にも盛んに述作
後漢の
光武帝も、
讖緯説を利用して即位
↓↑
春秋戦国時代の
「天文占」などに由来する
「讖記」が、
「緯書」の中に採り入れられ
それらも、
「孔子の言」であるとされた
儒者であった
「鄭玄」や・・・・鄭(奠阝)の玄(もと)
「馬融」らも、・・馬(瑪太)を融(とかす)
「緯書」を用いて経典を解釈した
「論語」に対する
「論語讖」まで登場
↓↑
「桓譚」や
「張衡」は、
讖緯説を否定した
「讖緯説」
新の時代以来、
王朝革命
易姓革命
に結びつき
時の権力から危険視
南北朝以来、
歴代の王朝は
「讖緯書」を
禁書にし、販売を禁圧した
王朝交代の革命の年である
「辛酉(シンユウ)の年」の
四年後で、
天意が革(あらた)まり、
「徳を備えた人に天命が下る」
「革令=甲子の年」は、
変乱の多い年とされた(甲子革令)
それを防ぐ目的で、
日本の平安時代以降
毎度、
この年(甲子=六十周期に一回)に
改元が行われた。
1024年の甲子改元以降で、
「甲子改元」が無かったのは
永禄七年(1564年)のみ
桓武天皇は、
同母兄弟の
天智系の王子(大友皇子)を殺害し
即位した
天武系の王統が断絶した後に
即位した
光仁天皇(天智天皇系)から
皇位を継承したことから、
王統交代を強く意識し
「革令の年・784年」
に
「長岡京」・・・長岡市は
出羽、山形県である
に遷都・・・?
明治(一世一元の詔)で
天皇在位中の改元は廃止された
↓↑
184年
後漢末期に起こり、
漢の解体を決定付けた
「黄巾の乱」は、
「蒼天已死
黃天當立
歲在甲子
天下大吉
(後漢書・七十一巻
皇甫嵩朱列傳・第六十一・皇甫嵩伝)
とした
↓
1384年
南北朝期
「陸奥の国(福島県)」で発見された温泉は、
「甲子の年」にちなんで
「甲子温泉(かしおんせん)」と名づけられた?
カッシ・コウシ
元治元年(1864年)の
甲子の年
「伊東大蔵(大藏)」は
「伊東甲子太郎(かしたろう・きねたろう)」
と改名
大正十三年(1924年)
兵庫県西宮市に作られた野球場名
「甲子園(こうしえん)大運動場
(阪神甲子園球場)」
と命名
↓
甲子の月
西暦年の下1桁が
3・8
(十干が癸・戊)の年の
十一月が甲子の月となる
旧暦の十一月、
節月(大雪~小寒の前日)
↓
甲子の日
干支の組合せの1番目
甲子の日は吉日
「子=鼠」と結び付かせ、
鼠=大黒天の使者
大黒天祭(甲子祭)
↓
甲子待(かっしまち)
子の刻(23時~翌日1時迄)まで起きて
大豆
黒豆
二股大根・・・二又・二俣
を供え、大黒天を祀った
松浦静山の随筆集
「甲子夜話」
1821年
文政六年
十一月
十七日
の
甲子日に書き始めた・・・
↓↑
・・・随分と横道にソレた・・・
↓↑
寛永年間(1624~1645年)
徳川家光(第三代将軍)は
コトバに吃音(どもり)があったらしい・・・
諡号は
「大猷院」
寛永六年
紫衣事件
寛永十二年
柳川一件・生駒騒動
寛永十四年
島原の乱
寛永十七年
大飢饉
↓↑
寛永寺(上野)は
幕軍の江戸の最期の拠点
寛永二年(1625)
慈眼大師
天海大僧正の創建である・・・
させた。
3:9
そこで
ユダ・・・委拿・諭拿・喩妥・由妥
の子孫である
エシュア・・・重諏蛙
と
その子ら
および
その兄弟、
カデミエル・・・歌で見える
掛出視重留
と
その子らは共に立って、
神の宮で
工事をなす者を
監督した。
ヘナダデ・・・経那拿出
の子ら
および
レビ・・・例備(尾)
びとの子らと、
その兄弟たちも
また
一緒であった。
3:10
こうして
建築者(ケンチクシャ)が
主の宮の基礎をすえた時、
祭司たちは
礼服をつけて
ラッパ(喇叭)・・・等通葉
をとり、
アサフ・・・・・・・蛙差附
の子らである
レビ
びとは
シンバル・・・・・・新葉留
をとり、
イスラエル・・・以色列・伊色列・以斯来
伊斯列児・衣斯辣衣耳
の王
ダビデ
の指令に従って
主を
讃美(サンビ)した。・・・愛媛・伊予・讃岐
纂尾(備)
3:11
彼らは
互に歌いあって
主を
誉(ほ)め、
かつ
感謝(カンシャ)し、
「主はめぐみ深く、
その
慈(いつく・ジ)しみは
とこしえに
イスラエル・・・以色列・伊色列・以斯来
伊斯列児・衣斯辣衣耳
に
絶えることがない」
と言った。
そして
民は
みな主を
さんびするとき、
大声をあげて叫んだ。
主の宮の基礎が
すえられたからである。
3:12
しかし
祭司、
レビ・・・例備(尾)
びと、
氏族の長である
多くの人々のうちに、
もとの宮を
見た老人たちがあったが、
今この
宮の基礎の
すえられるのを見た時、
大声(おおごえ・ダイセイ)を
あげて泣(な)いた。
また
喜びのために
声をあげて叫ぶ者も
多(おほ・タ)かった。
3:13
それで、
人々は
民の喜び叫ぶ声と、
民の泣く声とを
聞きわけることが
できなかった。
民が
大声に叫んだので、
その声が遠くまで
聞えたからである。
ーーーーー
・・・豪雨、大洪水の後にくるモノは・・・飢饉・・・