「囚首喪面(シュウシュソウメン)」
終 始 双 面?
「囚=囚人」
「首=頭⇒髪」
「喪=喪中の人」
髪を梳かさない囚人のように乱れた髪
顔を洗わない喪中の人のように汚れた顔
顔や髪を整えないこと
容貌を飾らないことのたとえ
(蘇洵「弁姦論」)・・・強姦の弁の論?
↓↑
蘇洵
唐宋八家(唐、宋代の八人の文章家の一人)
蘇軾(東坡)の父
「弁姦論(ベンカンロン)・唐宋八家文」
「弁姦=恩人の見分け方」
・・・ベンカン=弁韓・冕冠・弁官・便管
弁韓=紀元前2世紀末~4世紀
朝鮮半島南部に存在した三韓の一
馬韓、辰韓、弁韓(弁辰)
弁辰とも・弁韓は12の諸小国に分立
後に加羅 (から)・任那 (みまな)
6世紀に新羅に併合
↓↑
「大姦は忠に似たり」
「宋史-呂誨伝」
「劾安石曰、大姦似忠、大詐似信」
「王安石」を弾劾した
御史中丞
呂誨(リョカイ)
・・・呂=背骨の形象・ならんで続くの意
侶=「膂=旅+月」で背骨)
↓↑ ↓↑
呂禦梅・・・呂を禦す梅(梅里=徳川光圀?)
唐朝の学者
朝鮮氏族の
咸陽呂氏の始祖
↓↑ ↓↑ ↓↑
・・・咸陽郡ー大韓民国
慶尚南道にある郡
朝鮮半島南東部に位置する行政区
全羅南道、全羅北道、慶尚北道に接する
慶尚=慶州(新羅の古都)
と
尚州を組み合わせ「慶尚」
この周辺地域を慶尚道
↓↑ ↓↑ ↓↑
前350年
中国
咸陽
秦の
孝公が
流域の関中に築いた都
陝西省の省都
西安の北西
渭水の北岸
始皇帝の統一で秦の都が全中国の首都
始皇帝は
咸陽に天下の富豪12万戸と移住させた
↓↑ ↓↑ ↓↑
渭水・・・渭=氵+胃=氵+田+月
渭樹江雲(イジュコウウン)
遠くにいる友人を気遣うこと
「渭樹」=渭水のほとりの樹木
「江雲」=長江の空に浮かぶ雲
渭水の北の地にいる
杜甫が
長江にいる
李白を思って詩を作った
渭川漁父(イセンのギョホ)
太公望=呂尚
優れた能力をもつ人物のたとえ
「渭川」=渭水
「漁父」=漁師・・・
呂尚は、周の文王に見出された人物
渭浜之器(イセンのウツワ)
渭浜漁父(イヒンのギョフ)
渭浜漁父(イヒンのギョホ)
渭=氵+田+月・・・
謂=言+胃・・・謂れビコ・・・磐餘彦・・・
↓↑ ↓↑ ↓↑
呂禦梅・・・呂を禦す梅(梅里=徳川光圀?)
唐朝の
翰林学士
翰林院=唐の玄宗が
↓↑ 738年(開元二十六年)に
設けた翰林学士院が起源
唐中期以降、主に詔書の起草に当たった役所
元代には国史院と統合され
「翰林国史院」と呼ばれていた
明代には旧に復し「翰林院」
「大順(順=1644年に明朝を倒した
李自成が建国
内地18省を実効支配
満洲や新疆東部に羈縻機構を設置
建国当初は西安を首都
李自成が北京を攻略後
北京を改めて首都)」
では
「弘文館」・・・ 江戸初期の林家の家塾
↓↑ ↓↑ ↓↑寛永七年(1630)
林羅山が江戸上野忍岡に創立
元禄三年(1690)
五代将軍
徳川綱吉が湯島に移し
後の「昌平坂学問所」
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
水戸藩「弘道館」
弘道館=水戸藩主
徳川斉昭によって創設された学校
天保十二(1841)年
青山延于 (のぶゆき)
↓↑ ↓↑ ↓↑会沢安を総裁として開校
水戸藩「彰考館」
寛文十二年(1672)春
徳川光圀は
駒込屋敷の史局を
小石川上屋敷故世子
綱方の旧殿に移転し
「彰考館」とした
館名は、中国晋代
杜預の「春秋左氏伝序」
にある
「彰往考来」
(過去を明らかにして
将来行うべき道を考える)
という語句
↓↑ ↓↑ ↓↑
と呼ばれた
清代では
皇帝直属の
秘書室で書物の編纂、詔勅の起草
「貯才の地」ともいわれ
有為な人材を確保し、勉強や実務の見習
必要があるときに中央官庁や地方の要職に任命
学問や政治の最高の人材が揃う
Academy (アカデミー)と英語訳
↓↑ ↓↑
黄巣が反乱
↓↑ ↓↑ (黄巣=唐末の反乱指導者=塩商人
874年~10年間
全土を転戦しながら反乱を指揮
姓・諱 黄巣
諡号 承天応運啓聖-睿文-宣武-皇帝
↓↑ ↓↑ 国号 斉)
の時期に
新羅に帰化し
慶尚北道星州郡の
碧珍面に定着・・・碧の珍の面
高麗時代に典書を務めた
↓↑ ↓↑
↓↑ 誨=言+𠂉+母=カイ(クヮイ)
知らない者を教えさとす
誨(おし)える
誨淫・教誨
訓誨(クンカイ・訓戒)
誡誨(カイカイ)
教誨師=監獄内の受刑者へ
徳性涵養のため講説する者
受刑者にその非を
↓↑ 悔い改めよと教えさとす人・・・後悔・更改・・・
の
『弁姦論』にある言葉・・・ム(よこしま・私)+廾(こまぬく・拱)
弁(辨・瓣・辯)
弁(弁当)
辨(辨官・辨捌・辨証)
瓣(瓣膜・花瓣)
辯(辯明・辯説・辯護)
↓↑
蘇 洵(ソ ジュン)
↓↑ 蘇=よみかえる・よみがえる・蘇生・蘇我
蘇=艹+魚+禾(ノ十八)
丿=ヘツ・へチ=経通・経知
↓↑ ・・・洵=氵+旬=氵+勹+日
「上旬・中旬・下旬」は
1カ月30日を10日ずつに分けた
旬=10日間=干の陰陽サイクル
甲乙丙丁戊己庚辛壬癸
↓↑ ↓↑ ↓↑
洵=氵(水が)勹(包む)日=壬癸
まことに・本当に
涙が流れる
うずまき(渦巻き・竜巻)・・・津波?
栒=木+旬
異体字「簨」
栒=木+旬=木+勹+日
シュン
鐘(ショウ)・磬(ケイ)
などを掛けるための台の横木
左右の柱は「虡」
バラ(薔薇)科の木
↓↑
蘇 洵(ソ ジュン)
大中祥符二年四月二十五日・・・「大中祥符中、天下大蝗」
(1009年5月22日)
~
治平三年四月二十五日
(1066年5月21日)
北宋時代の文人・唐宋八大家の一人
蘇軾・蘇轍の父
字は明允
老翁井という泉のそばに亭を結んで
老泉と称された
眉州
眉山(四川省眉山市東坡区)の出身
唐の前期に
眉州刺史を務めた
蘇味道・・・・・蘇(よみがえらす)味(あじ)の道(みち)?
の次男の
蘇份の末裔
・・・蘇の份=イ+分
=分=八+刀
=邠=分+阜
あきらか・うるわしい
↓↑ ヒン・フン
蘇 洵は・・・よみがえらして「洵=浮か」ばせる
蘇我いるか(入鹿・海豚)・・・蝦夷の俘囚・浮浪児
至和・嘉祐年間(1055年~)
↓↑・・・至(いたる)和(倭・話・輪・窪・環)
日本
干支=乙未
天喜三年
↓↑ ↓↑ ↓↑
中国
北宋 至和二年
遼 重熙二十四年・清寧元年
↓↑ 西夏 福聖承道三年
蘇軾
蘇轍の二子を連れ都に行き
翰林学士であった
欧陽脩に・・・欧=歐=匚+品+欠
=体を曲げてかがむこと
=は(吐)く・もどす
欧羅巴=欧州の略
↓↑ 陽=阝+昜(日一勿)・・・≠易
左辺の阝=阜(こざと)=𠂤+十
𠂤=つちくれ・タイ・シ
=丿+㠯
通仮字「魁」
異体字「堆」・・・タイ=碓
右辺の阝=邑(むら・くに)
脩=イ+丨+攵+月=修
=ほじし・おさめる・ながい
シュウ
干し肉・束脩
脩身・ながい・脩竹
棗脩(ソウシュウ)
↓↑ 束脩(ソクシュウ)
「権書」
「衡論」ほか二十二篇を献呈
↓↑
宰相
韓琦・・・韓の琦(王奇)?
の計らいで
舎人院・・・舎の人のイン
に召されたが
病気を理由に辞退
秘書省・・・秘の書
校書郎となる
後に
太常寺・・・太の常の寺(字・事・時・示)?
の命を受け
覇州
文安県・・・文案に懸ける?・・・文・在?・・・虎相のW文?
↓↑ 文・喜(ムン・ヒ? 1945年3月3日)
乙酉(庚 辛)・偏財比肩 建禄
戊寅(己丙甲)・印綬偏印 胎
辛未(丁乙己) 偏印 衰
戌亥=空亡・・・ナルホド・・・
↓↑ ・・・厚顔無恥・・・ホトケのカホも・・・ナンカイ・・・
主簿の禄を受け
陳州
項城令・・・項(工の頁)の条の令・・・1965年?
姚闢・・・姚=女+兆=オンナのキザシ
↓↑ 美しい
ヨウ(エウ)・ヨウ(エウ)
闢=門+辟=ひらく左右に押し開く
しりぞける
闢・開闢
壁・城壁・外壁・牆壁
・障壁・岩壁・絶壁
璧・完璧・双璧
和氏の璧⇔厲王・足切
碧・碧玉・碧瑠璃玉・碧海
・碧空・碧水・碧潭
・紺碧・丹碧
劈・劈開・劈頭
さく・つんざく・ひきさく
擘・ハク・バク
おやゆび・さく・つんざく
特にすぐれたもの
巨擘・擘裂・巨擘
躃・𧾷+辟=足が不自由
異体字「躄」
悶絶躃地
苦しみ悶え転げまわること
癴躃(レンビャク)・痙攣
甓・瓦甓(ガヘキ)
=塼・専・磚・甎
僻・僻地・僻隅・僻案
・僻見・僻在・僻説・僻論
𠒱=辟+儿
ひがむ・拗(すね)ねる
𠪮=狭い
霹・霹靂(ヘキレキ)=礔礰
癖・潔癖・性癖・盗癖・難癖
避・避難・回避
𪇊=鳥+辟=鷿鸊䴙𩁊
𪇊鷈・𪇊鵜(ヘキテイ)
カイツブリ(鳰)
澼=水+辟=氵+尸+口+立+十
ただよい・ただよう
ヘキ・ヒャク・ケキ
辟=𡰪+辛
=尸+口+立+十
=尸+口+辛
𡰪=異体字「䐁・ぶた」
↓↑ ・・・壁を造る意味?・・・トランプ?
と
建隆・・・建の隆・・・隆(西郷隆盛)を建?
(960年~963年)
↓↑=宋朝最初の元号
元年正月甲辰(4日)
陳橋の変
趙匡胤・・・北宋の初代皇帝
開封で後周の
恭帝から禅譲を受け皇帝即位
元年乙巳(5日)
国号を宋とし、
建隆と建元
2年 杯酒釈兵権
4年2月 荊南が宋に降る
4年4月 建隆応天暦が施行される
↓↑4年11月 乾徳と改元
以来の
礼書を編纂
太常院革礼100巻をつくり
完成後すぐに死没
光禄寺丞を贈
↓↑
蘇洵は
王安石が
新法を実施するより以前に死去しているが
蘇洵の『弁姦論』が
新法・旧法の争いの時代に
「姦」が
王安石
のことであるとされた
↓↑
王 安石(オウ アンセキ)
天禧五年十一月十二日
(1021年12月18日)
~
元祐元年四月六日
(1086年5月21日)
北宋の政治家・詩人・文章家
字は介甫
号は半山
撫州臨川(江西省撫州市)の人
「新法党の領袖」
「神宗」の政治顧問となり
「制置三司条例司」
を設置して新法を実施
政治改革・・・
「仁宗」に上奏した
「万言書」は名文
唐宋八大家の一人
儒教史上、新学(荊公新学)の創始者
『周礼』『詩経』『書経』
に対する
注釈書
『三経新義』
を作り、学官に立てた
↓↑
1067年(熙寧二年)
神宗に一地方官から
皇帝の側近、
翰林学士に抜擢され
↓↑
1069年
副宰相となり、政治改革
↓↑
「王安石の新法」
大商人・大地主達の利益を制限
中小の農民・商人たちの保護
↓↑
1058年
「万言書」
と呼ばれる
建白書を
仁宗に奏上
↓↑
1067年
神宗が即位し
王安石は抜擢
↓↑
1069年
富弼が宰相となり
参知政事(副宰相)
政治を主導
煕寧二年~九年
王安石は
呂恵卿・曾布
と一緒に
富国強兵をめぐって次々と新法を実施
↓↑
第一
国家供給の調整と
商人に対する制限
均輸法・免行法・市易法
均輸法=都の実需と在庫状態を調査させ
「貴を徙して賎に就け、
近を用いて遠に易える」
「便宜蓄買」させ
従来の定額制より
供給が保障され
政府の支出と民の負担を軽減した
市易法=市易務を設け
商人が財産を抵当に入れて
二割の利息を払って
政府から融資をうけたり
平価で買い付けた貨物を掛売り
最初は都に実施された市易法
後にほかの商業都市にも実施
免行法=政府への物品供給を引き受ける
開封の各業種の商店が
利潤の多寡によって
市易務に免行銭を納め
従来の順番に現物。人力を
政府に提供することを廃止するもの
免行法の実施後
宮廷が雑売場と雑買務を通して
物品を購入
商人の利益を保護しながら
政府の収入増加を目指した
第二
国家と農民との関係を調整する政策
農業生産を発展させる措置
青苗法・募役法・方田均税法・農田水利法
青苗法=凶年に備える
常平倉・広恵倉の
銭穀を元金として
正月と五月という端境期に
自由意志で農民に貸付をし
収穫のときに
夏秋の両税と一緒に返済する
農民が高利貸しの
搾取を避けながら
政府も利息の収入を得られる
ことになった。
募役法=免役法
宋代
家庭の財産収入状況によって
戸の等級が分けられ
戸等によって
順番に衙前などの州県の小役人を担当
このやり方を廃止し
州県の官庁によって
役人を雇う形に変わった
毎年の雇用経費は
州県官庁がその予算を作り
戸等によって割り当てて
免役銭を納めさせる
従来の小役人を担当しないと
女戸も相応する戸等で
免役銭の半額である助役銭を納めた
政府の収入が増加
役を担当しなかった特権者も
役銭を納めなければならなくなった
方田均税法=毎年九月に土地を測量し
肥沃の程度によって帳簿に登録
それによって納税額を決めた
地主の脱税を防止し
政府の土地税が増収した
農田水利法=戸等によって資金を寄せ集め
水利工事を興すこと
王安石の地方官時代の拡大化
第三
統治基盤と軍事を強化する措置
将兵法・保甲法
将兵法=北方の各路に百余りの将を設け
各将に
実戦経験と武芸を有する
正・副将を置き、軍事訓練
将兵法が行われる州県では
地方官は軍政に関与できない
実施は軍隊の戦闘力を高めた
保甲法=農民を十家で一保
五保を一大保
十大保を一都保とし
一家庭に二人の成年男子がいれば
一人が保丁を担当し
住民の中で財力と能力がある人によって
保長・大保長・都保長を担当させる
同じ保の人が
相互に監督し、治安を維持
農閑期には軍事訓練
保甲法の実施目的
農村に民兵組織を立て
軍事費を節約し
地方自治による反乱防止
戦時に兵隊に徴兵編入できること
↓↑
王安石は科挙と学校教育制度の改革
王安石の『三経新義』は教科書とし
人材養成を目指す三舎法が実施
既得の利益が犯される
改革の理念が違うとか
王安石の新法は
内外から強い反対があったが
改革は長く堅持された
ーーーーー
・・・???・・・「原文=by ウィキペディア(Wikipedia)」・・・