何時から「国家」と言うコトバが出来ちゃったんだろ・・・
共同体の指導者の出現の契機・・・自然災害、人造災害・・・
「家族」である集団のリーダーは
家族構成員を食わせ、養い、外的から守る父か母である・・・
父母が健康上に障害、あるいは欠落した場合は
子供の兄弟姉妹のダレかである・・・
その時のリーダーは
男女の性別、
歳の長短のいずれかは問わなかっただろう・・・
家族のリーダーシップを摂る人間は
飢えからの回避する為の
知力、体力、行動力、
外敵からからの暴力に対抗する為の
統率能力を有する者で
その時の家族構成の事情、状況によっただろう・・・
家族生活、社会生活をする
スベテの生物の生活のあり方は
つくづく「ダーウインが来た」の
観察映像で知らされてきた・・・
生物の生命生活とは
食うために
生産活動で採取し
狩猟活動で攻撃、捕獲し
外的から身を守る為に
個々としても、組織員としても
防衛活動をする
人間も含めて
生命活動の限界枠内で
基本的な生き方は「お変り無し」でアル・・・
饑饉・飢饉・飢餓
↓↑
「餓死(starvation)=食物の摂取を絶たれ
栄養失調から死に至ること」
「人間の餓死=ヒトは、理論上は水分の補給さえあれば
絶食状態で2~3ヶ月程度生存が可能
この限界を越えれば餓死に至る」
(by 「wikipedia.org/wiki/餓死」)・・・
「72000kcal(体内蓄積脂肪10kg) ÷ 2000kcal(1日消費熱量) = 36日」
(by 「知恵袋」)
どっちにしても結構、しぶとく生きるコトが出来るらしい・・・
「絶食状態で2~3ヶ月程度生存」とは驚きだが・・・
↓↑
・・・「子供が保護者から虐待を受け食事を与えられずに餓死」
・・・「拒食症での餓死」
・・・「国民防衛軍事件=朝鮮戦争中の1951年1月
韓国の国民防衛軍司令部の幹部らが
国民防衛軍に供給された
軍事物資や兵糧米などを横領し
横領により
9万名余りの韓国軍兵士が餓死した
事件の黒幕は
申性模・・・「申(サル)の性(サガ)を模(モス)」
韓国
国防部長官が・・・
不正に兵糧物資を処分・着服したのが原因」
by (wikipedia.org/wiki/国民防衛軍事件)
・・・「尖閣諸島戦時遭難事件・1945年7月3日午後2時頃
アメリカ軍機が日本の疎開船団を攻撃撃沈
生存者は尖閣諸島に漂着
戦闘と飢餓などにより50人以上が死亡・・・
(乗船者180人余のうち死亡75人・沖縄県史)
尖閣諸島戦時遭難事件について
生存者の多くが口を閉ざし
明らかになったのは1974年
日本政府は、犠牲者は恩給対象外とし
特別支出をすべき事情も無い、としている」
by (wikipedia.org/wiki/尖閣諸島戦時遭難事件)
ーーーーー
「飢え・飢饉=饑饉・食糧不足」の対策には・・・
「備蓄された剰余食料」の「管理」人と
その「提供」の「協力」人と、
その「公平配分」する「分配」人が必要だ
「社会主義組織」とは
「上下関係のヒエラルキー」
↓↑ ・・・ヒエラルキー
(独語 Hierarchie、ヒエラルヒー
卑重(稗)羅留比意?
日枝羅留日出
日枝神社=山王信仰の比叡山麓(滋賀県大津市)の
日吉大社より勧請を受けた神社の社号
788年(延曆七年)
最澄が地主神として
天台宗・延暦寺の守護神とし
寺の周囲に結界を定め
その地主神を比叡山の
「諸山王」として
比叡山延暦寺
東塔に
比叡社の
山王=「大物主神(おほものぬしのかみ)」
を「山王」とし祀った
↓↑ ↓↑
英語 hierarchy、ハイァラーキ)
葉意鴉羅阿記?
拝アラー記?
825年(天長二年)
天台宗の第二代座主
圓澄=円澄が
延暦寺の西塔に
八王子山の磐座の神である
大山咋神が勧請し
小比叡峯に
小比叡神として
山王=「大山咋神(おほやまくいのかみ)」
とし祀った
↓↑ ↓↑
「山王」は東塔と西塔で二極化し
円珍に夢で入唐を勧めた
「山王明神」を、自身の坊に祀って
大比叡神(東塔)
小比叡神(西塔)
比叡山王(山王明神)
の「両所三聖」が成立した
↓↑ ↓↑
968年(康保五年)
972年(天禄三年)
延暦寺の第十八代座主
比叡山中興の祖
良源により
大比叡神(東塔)
小比叡神(西塔)
聖真子(横川)の
「地主三聖」が成立し
山門派・寺門派の分裂の切っ掛けとなった・・・
↓↑ ↓↑
↓↑ ・・・ヒエラルキー
=階層制や階級制
ピラミッド形に上下に序列化された
↓↑ 位階制の秩序や組織
で
組織化された「武装組織」である
・・・軍隊アリ(蟻)・・・白 アリ(蟻)
アリ(蟻、螘)・・・蟻=虫+義(羊の我)
螘=虫+豈(山の豆)
・・・豆の形態=勾玉⇔胎児
御玉杓子=カエル(蛙)の子
未成魚
稚魚・幼魚
幼生⇒仔魚⇒稚魚⇒幼魚(未成魚)⇒成魚
壹與=「十一冖豆」をアタエル
豆=脚付き、ふた付きの食器
黒灰色の土器で,、竜山文化以降つくられ
青銅製もつくられた
日本の高坏 (たかつき)
中国では礼器
・・・蜜 バチ(蜂)・・・蜂蜜⇔密教
・・・密=日曜=太陽=大日=摩訶毘盧遮那如来
肢長ハチ(蜂)
雀 バチ(蜂)=胡蜂
端赤雀蜂・端黒雀蜂
ハエ類、ミツバチ類、トンボ類を捕食
攻撃性は高く、巣に近づいたものは執拗に追跡
・・・「サムライ(侍・武士)アリ」の種族・・・
戦闘と支配に特化した、奴隷狩りをする
サムライアリに支配される
クロヤマアリ(黒山蟻)
↓↑ ↓↑
サムライアリ(侍蟻)・学名 Polyergus samurai
ハチ目(膜翅目)・アリ科・ヤマアリ亜科
クロヤマアリ(黒山蟻・Formica japonica)
などの巣を襲って
働きアリやその蛹を攫い
「奴隷」として働かせる
サムライアリの新女王は
クロヤマアリの巣に単身で侵入し
その巣の女王を殺して巣を乗っ取る
↓↑ ↓↑ ↓↑
奴隷アリ=テムノトラックス・ロンギスピノスス
サムライアリの幼虫の養育放棄
時に積極的にサムライアリの幼虫を殺す
反乱を起こし
集団で主人のサムライアリを襲う
だがサムライアリの武力で
反乱した奴隷アリは鎮圧され皆殺し
反乱で棄命する奴隷アリと
奴隷に甘んじる奴隷アリは
・・・奴隷刈りされる一族の絶滅を防ぐ・・・?
by 「asahi2nd.blogspot.com/2017/12/4.html
アリは本来自由であった」・・・?
・・・ハキリアリ(葉切蟻)=Leaf-cutter ant・Leaf-cutting ant
女王アリ
大型兵隊アリ、大型働きアリ
中型兵隊アリ、中型働きアリ
小型兵隊アリ、小型働きアリ
繁殖に生まれるオスアリ
分業形態の四肢で
農業国家(巣)を守る
葉っぱを切って集め
集めた葉っぱを培地、肥料にして
アリタケ(蟻茸)
キノコ(茸・菌・木の子)を栽培
アリマキ(蟻牧)・・・アリに外敵から守ってもらい
共棲(共生)するアブラムシ(油虫)
・・・強請・矯正・恐喝?
蟻に「牧虫」されるアリマキ・・・
アリマキの師管液には大量の糖分が含まれ
アリはこれを食料としている
アブラムシは
虫癭(チュウエイ・虫瘤=むしこぶ・gall
寄生による植物組織にできるコブ状の突起)
を形成する
ーー↓↑ーー
食べ物を得る・食い物を得る・・・
働かなくちゃぁ~・・・
自分の為の食い物を得る前に・・・カネがぁ~・・・
他人の為に働かなくちゃぁ~・・・カネがぁ~
↓↑
物々交換の市場での「交換媒介物=金銭・貨幣・紙幣」の登場・・・
・・・「富の源泉」・・・「交換価値物」の蓄積の多寡・・・
「交換価値」物(貨幣)としての
「使用価値」の交換格差・・・インフレ⇔デフレ・・・為替変動
「好感・交換・交歓・交感・巷間」の
「質量」の格差・・・?
・・・「詐欺・搾取」・・・「ぬすむ」って?
単純な「足し算」と「引き算」の算数
「会稽=会計」・・・ナゼ、「会稽=會稽」
↓↑・・「計其道里,當在會稽、東冶之東(魏志倭人伝)」
「三國志・卷三十
魏志・烏丸・鮮卑・東夷傳
第三十 倭人傳.
撰者
西晉(晋)朝
陳壽(寿)
計其道里 當在-會𥡴-東冶之東. (会稽-東治之東) 」
冶=冫+ム+口
異体字「𠘦=冫+䖝+䖵+皿」
とける・いる・なまめかしい・ヤ
熔かす・鋳る・金属を精錬する
冶金(ヤキン)・鍛冶(タンヤ・かじ)
なまめく・なまめかしい
艶冶(エンヤ)
李冶(1192年~1279年)=李𠘦
金末から元初にかけての数学者の名
「天元術=代数学の問題の解法」を発展させた
字は仁卿、号は敬斎・真定
欒城の出身
金の1230年に進士・河南・鈞州の知事
1232 年にモンゴル軍の侵入で鈞州を脱出し隠退
↓↑ 治=氵+ム+口
おさめる・おさまる・なおる・なおす
チ・ジ
はる=治
多治比県守(たじひのあがたもり)
多治比県守(おほのハルヒあがた守)?
720年
征夷大将軍として初見の人物・・・
天智天皇7年(668年)
~
天平9年6月23日(737年7月25日)
多治比氏(多治、丹治、丹比、丹治比)
↓↑ ↓↑ ↓↑
第28代
宣化天皇・・・父=継体天皇
母ー尾張目子媛(尾張連草香女)
皇后, 橘仲皇女
子女, 石姫皇女
小石姫皇女倉稚綾姫皇女
上殖葉皇子
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
勅旨をのべ伝える・宣旨文書
宣(のたまい)を化す
建小広国押楯命(古事記)
武小広国押盾天皇(日本書紀)
↓↑ ↓↑ ↓↑ ↓↑
上殖葉皇子(かみつうえはのみこ・かみつうゑはのみこ)
↓↑ ↓↑ ↓↑
十市王・・・十市姫=弘文天皇(大友=伊賀の皇子)の妃
↓↑ 天武天皇(大海人皇子)と額田王の娘
「鮒の包み焼きに密書を隠して
父親(大海人皇子)に
夫側(大友=伊賀の皇子)の情報を流した」?
高知県長岡郡
「十市村」・・・「拾・足」のイチ?
「村=むら=閭・闒・閭・邨・茽
邑・党・群・羣・黨」
村=木+寸
異体字「榯・屯・𡵭・邨」
・・・駐屯・屯田兵・・・
↓↑ ↓↑ ↓↑
多治比彦王・・・多(おほの)治比彦(はるびこ)?
↓↑ ↓↑ ↓↑
多治比嶋=多治志摩(624」~701)
妻=家原音那・・・加減の音名?
兄弟=三宅麻呂、(丹治真人家範 ?)
682(天武朝)年宮廷で活躍、多治比氏の地歩
「公姓」を改め
「眞人姓」を授かる
↓↑ ↓↑ ↓↑
・・・真人=眞人=七+県+人
=佐賀の七賢人?
鍋島直正=弘道館・好生館・種痘普及
反射炉の設立・大砲の鋳造
大隈重信=立憲改進党・憲政党・内閣総理大臣
早稲田大学
副島種臣=外務卿・樺太境界線・中国人奴隷解放
江藤新平=司法卿、廃藩置県、三権分立、議会の開催
島 義勇=蝦夷・樺太探検・北海道開拓判事
大木喬任=東京府知事・民部、文部、司法卿
文部卿・学制・学校令・教育勅語
佐野常民=パリ万国博覧会視察・赤十字
博愛社(日本赤十字社)創設
人道博愛精神
女真(眞人)⇔天渟中原瀛(眞人)
by プラトンの七賢人
クレオブロス・ペリアンドロス・ピッタコス
ビアス・タレス・キロン・ソロン
↓↑ ↓↑ ↓↑
690(持統朝)年右大臣・太政大臣=高市皇子
701年42文武朝正二位、左大臣・藤原不比等=大納言
↓↑ ↓↑ ↓↑
多治比県守
717年~718年
養老の遣唐使で遣唐押使を務めた
720年・・・日本書紀
按察使、征夷将軍などを歴任
729年
長屋王の変で臨時の参議
後、中納言、正三位
↓↑ ↓↑ ↓↑
治癒
世の中をおさめる・政治・治水・治療
病気をなおす・病気がなおる
灸治(キュウジ)・湯治・難治・不治・療治・主治医
↓↑ ↓↑ ↓↑
↓↑ 手塚治虫=目医者・眼科医・「鉄腕アトム」
が出来る人間の必然的な登場である
↓↑
「武力(暴力)で支配した
領域に住む人々に対する
命令と
収奪
生殺与奪権を
有すると主張した
人間(族長)組織
あるいは
その組織を支配する族長の独裁組織」
↓↑
「国家」=「みかど・ミカド・帝(天皇)・御門」
「朝庭(みかど・おほば)」
「天皇の居所=大殿にあった大門⇒御門(みかど)」
「その前庭を朝庭(みかど)」
「遠(とほ)の朝庭(みかど)」
=都から遠く離れた行政官庁(大宰府や国府)
そこへ派遣される官人
「大君の遠の朝廷」
あるいは
「スメロキの遠の朝廷」
「天皇の領知する遠方の世界」
原文 by 「万葉神事語辞典」
「the mikado=みかど=昔、外国人が日本の天皇に対して用いた敬称」
「天下を治める最高君主」
↓↑
国家(こっか)
国境線で区切られた国の領土に成立する政治組織
その地域に居住する人々に対して
統治機構を備えるもの
領域と人民に対して
排他的な統治権を有する
(生殺与奪の権利を独占する)
政治団体もしくは
政治的共同体である
政治機能により
異なる利害を調整し
社会の秩序と安定を
維持していくことを
目的にし社会の組織化をする
またその地域の住民は国家組織から
「国民」
あるいは
「公民」
と定義される
by 「wikipedia.org/wiki/国家」
↓↑
国(くに、こく)
住民・領土・主権
及び
外交能力(他国からの承認)を備えた
地球上の地域のこと
ほとんどの国が憲法を成文法で作成し
自国の権利や能力を他国に表明している
by 「wikipedia.org/wiki/国」
↓↑
国家
一定の領土と国民と
排他的な統治組織とをもつ政治共同体
また一定の地域 (領土) を基礎に
固有の統治権によって
統治される継続的な公組織的共同社会
by 「kotobank.jp/word/国家」
↓↑
国家の「消滅」・・・「196か国を消滅」させる・・・
「国家」をどのように考えるか?(3)
http://haa98940.wixsite.com/mysite/single-post/2018/07/12/「国家」をどのように考えるか?
http://haa98940.wixsite.com/mysite/blog/page/1
ーー↓↑ーー
邑=口+巴
くに・みやこ・むら・うれえる・・・唈える
・・・邑える?・卹・憂える・愁える・戚える
ユウ・オウ
領地・食邑・邑落
忿邑
於邑(オユウ)・村邑(ソンユウ)・都邑(トユウ)
邑=囗+巴
囗=村の囲い
巴=跪(ひざまず)いている人
合わせて「邑=村・都」
邑犬群吠(ユウケングンバイ)
小人がこぞって集まり
人の噂さなどを盛んに言い合うこと
小人が多く賢人を非難するたとえ
愚者が賢者を非難する喩え
村里にすむ犬が群がって吠えるの意
『楚辞』九章
屈原(B.C.343~B.C.277)の作った
「懐沙(カイサ)の賦(フ)」
「誰が清潔の身に汚れた垢など受けようか
揚子江の流れに身を投げて
魚の腹中に葬られた方がましだ
節操を守り、義に死するだけである」
屈=尸+出
異体字「𡕜・𡲒・𡲗・𡲬・𡲶・𣮈・詘・诎・𧬲」
かがむ・かがめる・ちぢむ・おれまがる
屈曲・屈折
くじける・負けてしたがう
屈辱・屈服
ゆきづまる・きわまる
窮屈
つよい
屈強
詰屈(キックツ)・窮屈(キュウクツ)
後屈(コウクツ)・退屈(タイクツ)
卑屈(ヒクツ)
倔=亻+屈
異体字「𥪊・誳・𩋎・崛・崫
𠡰・𡶏・𡼿・𡽈・𥖚」
つよい・クツ・ゴチ
倔強=倔彊
つよい(彊い)
彊冨(キョウフ)=富んで強い
つとめる・はげむ
自彊(ジキョウ)=自ら勉めて励む
さかい・くにざかい=疆
疆=弓+土+畺=国境を弓で守る
疆=土+彊
異体字「彊・壃・畕・畺・疅」
さかい・かぎる・かぎり・はて
キョウ
疆宇・疆土
無疆
さかい・境界=疆域・疆界・辺疆
果て・限り
無疆・彊記
新疆=新的疆土=新しい領土
new frontier=辺境・開拓地
ウイグル=回鶻・廻紇・畏兀児・維吾爾
Uyghur
袁紇・烏護・烏紇・韋紇
迴紇・回紇・迴鶻・回鶻
=テュルク語で「同盟・協力」
モンゴル帝国、ジュンガルへの服属を経て
18世紀半ばにジュンガルを清朝が滅ぼすと
「ムスリムの土地」を意味する「回疆」
また
「失った土地を取り戻す」を意味する
「新疆」と呼ばれた・・・
タリム盆地
ジュンガル盆地
東トルキスタン(イリ地方)
一帯に独立的な軍閥を形成した
盛世才-政権が
1934年に「ウイグル=維吾爾」という
呼称、漢字表記を定めた
盛世才
字は晋庸・・・「新疆王」
1917年明治大学留学
日本陸軍大学校に留学
1930年・新疆の軍官学校の教官に任命
1933年・新疆省臨時督弁に推挙
8月・新疆辺防督弁に任命
1934年
3月・新疆省政府主席に任命
1949年・国民政府と共に台湾に逃亡
遼寧省開原生まれ
1892年1月8日(清光緒17年12月初9日)
1970年(民国59年)7月13日台湾で死去
1892年1月8日~1970年7月13日
辛卯(甲 乙)食神・正官 病⇔庚戌
辛丑(癸 辛 己)食神・食神 墓⇔癸未
己亥(戊 甲 壬) ・劫財 胎⇔甲午
辰巳=空亡
ーーーーー
島津亜矢さんが「クイーン (Queen) 」の
「Bohemian Rhapsody」を歌った・・・
Too late,your & me time has come,
Sends shivers down your& me spine-
Bodys aching all the time,
Nothing really matters,
Anyone can see,
Nothing really matters-,
nothing really matters to you & me,
Any way the wind blows….
・・・???
ーーーー↓↑ーーー
国・國・六合・邦・郁・那・故郷・邑
徳川光圀=水戸黄門の御老公
↓↑
彰考館
寛文十二年(1672)春
光圀は駒込屋敷の史局を
小石川上屋敷
故世子綱方の旧殿に移し
彰考館と名づけた
中国晋代
杜預の
「春秋左氏伝序」にある
「彰往考来」
(過去を明らかにして
将来行うべき道を考える)
という語句を光圀みずから選んだ
↓↑
寛永九年(1632年)
水戸城に入城
寛永十年(1633年)十一月
光圀は世子に決定
翌月には江戸小石川邸に入り
徳川頼房の付家老
中山信吉が水戸へ下向して行われ
第三代将軍
徳川家光や英勝院の意向もあった
翌寛永十一年(1634年)
英勝院に伴われて
徳川家光に拝謁
↓↑
承応三年(1654年)
前関白
近衛信尋の娘
尋子(泰姫)と結婚
↓↑
明暦三年(1657年)
駒込邸に史局を設置
紀伝体の
『大日本史』の編纂作業に着手
↓↑
万治元年(1658年)閏十二月二十三日
妻・泰姫が21歳で死去
↓↑
寛文元年(1661年)七月
父
徳川頼房が水戸城で死去
家臣の殉死を禁じ
光圀は自ら殉死の噂された家臣宅を廻り
「殉死は頼房公には忠義だが
私には不忠義ではないか」
と問いかけ殉死をやめさせた
幕府の殉死禁止令はその2年後
8月19日
水戸藩28万石の第2代藩主となる
『桃源遺事』
寛文二年(1662年)
町奉行・望月恒隆に水道設置を命じた
望月は笠原不動谷の湧水を水源と定め
笠原から細谷まで全長約10kmを埋設した
岩樋でつなぐ笠原水道を着工
約1年半で完成
↓↑
寛文三年(1663年)
領内の寺社改革
村単位に「開基帳」の作成
寛文五年(1665年)
寺社奉行2人を任じ
翌年寺社の
破却・移転などを断行
開基帳には
2,377寺が記されているが
処分されたのは
1,098寺
破却は713寺
神仏分離を徹底
藩士の墓地とし
特定の寺院宗派に属さない
共有墓地を
水戸上町・下町に設けた
(常磐共有墓地 ・酒門共有墓地)
長勝寺 (潮来市)や願入寺(大洗町)
などについては支援・保護
静神社(那珂市)
吉田神社 (水戸市)
などの修造を助け
神主を京に派遣、神道を学ばせた
↓↑
寛文五年(1665年)
明の遺臣
朱舜水
を招く
朱舜水は
天和二年(1682年)死去
瑞竜山に葬られた
↓↑
延宝元年(1673年)
鎌倉で
英勝寺を拠点として名所・名跡を訪ね
旅の記録を
『甲寅紀行』(1674年)
『鎌倉日記』(同年)として纏めた
貞享二年(1685年)
「鎌倉日記」をもとに
河井恒久らにより
地誌『新編鎌倉志』が編纂
↓↑
延宝七年(1679年)頃
諱を光圀に改める(光圀52歳)
↓↑
貞享~元禄の初め
建造した巨船
快風丸を使い
蝦夷地探検を三度行う
二度目までは松前までの航海
元禄元年(1688年)
三度目は松前から北上して石狩まで到達
ラッコやトドの皮などを積んで帰還
光圀の死から3年目に快風丸は解体
↓↑
元禄三年(1690年)十月十四日
幕府より隠居の許可
養嗣子の
綱條が水戸藩主を継いだ
翌十五日、権中納言に任じられた
十一月二十九日
江戸を立ち
十二月四日
水戸に到着
元禄四年(1691年)五月
久慈郡
新宿村
西山に建設された
隠居所(西山荘)に隠棲
佐々宗淳ら60余人が伺候
↓↑
水戸藩領
那須郡
馬頭村近隣の
湯津上村(旗本領)にある
那須国造碑の周辺の土地買い取り
佐々宗淳に命じて
碑の修繕、鞘堂の建設
碑のそばの
古墳(上侍塚・下侍塚)を
那須国造の墓と推定し発掘調査
翌元禄五年(1693年)四月に終了
六月
光圀が湯津上村を訪れ
那須国造碑と両古墳を視察
古墳の調査を終えた
同年四月
佐々を
楠木正成が自刃したとされる
摂津国
湊川に派遣し
楠木正成を讃える墓を建造
光圀の筆をもとに
「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻む
藩医であった
穂積甫庵(鈴木宗与)に命じて
『救民妙薬』を編集
薬草から397種の製薬方法を記させた
↓↑
元禄六年(1693年)から数年間
水戸藩領内において
八幡改めまたは八幡潰しと呼ばれる
神社整理
神仏習合神である
八幡社を整理し、神仏分離を図った
藩内66社の八幡社の内
15社が破却
43社が祭神を変更
↓↑
元禄七年(1694年)三月
五代将軍
徳川綱吉の命により
隠居後江戸にのぼり、小石川藩邸に入った
十一月二十三日
小石川藩邸内で
幕府の老中や諸大名、旗本を
招いて行われた
能舞興行の際
重臣の
藤井紋太夫
を刺殺
光圀が自ら能装束で
「千手」を舞ったのち
楽屋に紋太夫を呼び
問答の後
突然刺殺
紋太夫が
柳沢吉保と結んで
光圀の失脚を謀ったため・・・
元禄八年(1695年)一月
光圀は江戸を発ち、西山荘に帰った
↓↑
元禄九年(1696年)十二月二十三日
亡妻・泰姫の命日に落飾
↓↑
元禄十三年十二月六日(1701年1月14日)
食道癌で死去・・・・食道癌・・・半分は飢えカモ・・・?
享年73(満71歳没)
↓↑
明暦三年(1657年)
駒込邸に史局を設置
紀伝体の歴史書
『大日本史』の編纂作業に着手
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万治元年(1658年)閏十二月二十三日
↓↑・・・萬の年の元の年・・・太安万(萬)侶・・・
和銅五年(712年3月9日・古事記完成)
1月4日・正税を向こう3年は無利子
12月2日・運脚の福利の勅
運脚=担夫=脚夫
貨物をになって運送した人夫
調,庸 (→租・庸・調 ) を
↓↑ 地方から京師に運んだ
妻・泰姫が21歳で死去
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寛文五年(1665年)
明の遺臣・朱舜水を招く
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延宝七年(1679年)頃
諱を光圀に改める(光圀52歳)
天和三年(1683年)に改名したとの説
「圀」字は則天武后の
「則天文字」の一字
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・・・???・・・「國=囗+或=囗+口+一+戈」・・・
或=ある・あるいは・もしくは・ワク
=不確かなもの、未知のものを示す語
「或問」・・・「古史通或問」は新井白石の著書
1716年
「正徳六年丙申三月上澣
筑後守従五位下-源-朝臣-君美-撰」
「古史通」の付録「古史通或問・三巻」
「誘惑」
「魅惑」
聝に作る(或字)・・・感・減・緘(緘口令)
鍼(はり⇔鍼灸)・憾(遺憾)
・・・「咸=厂+一+口+戈」⇔「或」
異体字「鹹」
みな・すべて・カン・ゲン
口を封じる・口を閉ざす
馘=首+或
くびきる・カク
異体字「𩠲・𩉕・聝・䤋・𢦛」
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???・・・カンコクジジョウ・・・