女帝達の時代・・・女に課せられた義務ではなく、女が序列で得た独裁権利・・・
則天武后の時代の倭国・高句麗・百済・新羅・・・
新羅・第二十七代王・善徳女王(在位632~647年)・姓は金、諱は徳曼
新羅・第二十八代王・真徳女王(在位647~654年)・姓は金、諱は勝曼
日本・第四十一代 ・持統天皇(在位690年2月14日
~697年8月22日)・諱は鸕野讚良
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則天武后
在位期間 690年10月16日~705年2月22日
都 洛陽
姓・諱 媚娘→武照(武曌)
諡号 則天大聖皇帝
則天順聖皇后
生年 武徳七年1月23日
(624年2月17日)・・・645年(大化の改新)
没年 神龍元年11月26日・・・ 660年(百済滅亡)・663年(白村江の戦)
(705年12月16日)・・ 703年1月13日(大宝二年十二月二十二日
持統天皇死没・大宝三年・12月17日の火葬?)
大宝二年(702年)12月13日に発病
12月22日崩御・1年間の殯(もがり)の後
大宝三年(703年)
火葬され天武天皇陵に合葬
天皇の火葬はこれが初
父 武士彠
母 楊夫人
ーーーーー
景龍四年(710年)・・・・・・・・710年
干支=庚戌
日本
和銅三年
皇紀1370年
中国
唐 景龍四年
唐 隆元年
景雲元年
四月十三日(和銅三年三月十日)
元明天皇
藤原京~平城京に遷都
唐で、安西節度使が設置
劉知幾、『史通』を撰述
↓↑
死去
1月28日(和銅2年12月20日)
下毛野古麻呂、飛鳥時代の貴族
11月9日(和銅3年10月14日)
黄書大伴、飛鳥時代の守
安楽公主、唐の中宗の娘(684年~)
韋皇后、唐の中宗の皇后
実叉難陀、唐代の訳経僧(652年~)
僧伽、唐代の僧(628年~)
中宗、唐の第4代皇帝(656年~)
李重福、唐の皇族、中宗の庶長子(680年~)
↓↑
711年
干支 辛亥
日本
和銅四年
皇紀1371年
中国
唐 景雲二年
↓↑
伏見稲荷建立。
上野国に多胡郡設置
(日本三大古碑の一・多胡碑建立)
万廻(マンエ・萬迴)
632年・貞観六年~711年・景雲二年)
唐代の神異・風狂の僧
号は法雲公
『宋高僧伝』巻十八
「唐-虢州-閿郷-萬迴伝」の記録
↓↑
712年
干支 壬子
日本
和銅五年
皇紀1372年
中国
唐 景雲三年、太極元年、延和元年、先天元年
3月9日(和銅五年一月二十八日)
「古事記」完成、元明天皇に献上
出羽国を新たに設置
誕生
杜甫、唐の詩人(詩聖)
(~770年)
770年
干支 庚戌
日本
神護景雲四年、宝亀元年
皇紀1430年
中国
唐 大暦五年
8月
弓削道鏡が失脚、下野に配流
9月
和気清麻呂らを召還
10月23日(神護景雲四年十月一日)
瑞亀献上により改元
10月23日(宝亀元年十月一日)
白壁王即位
第四十九代
光仁天皇
↓↑
8月28日(神護景雲四年八月四日)
正徳・孝謙天皇(阿部皇女)・・・阿部
第46・48代天皇(718年~)
↓↑
10月31日 (宝亀元年十月九日)
文室浄三 (693年~)
阿倍仲麻呂・・・・・・・・・・・阿部
奈良時代の遣唐留学生(698年~)
中国名
朝衡=晁衡
筑紫大宰帥・阿倍比羅夫の孫
中務大輔・阿倍船守の長男
弟は阿倍帯麻呂
唐王朝
玄宗皇帝の
図書館長
秘書監・衛尉卿
左散騎常侍(従三品)
鎮南都護・安南節度使(正三品)
ベトナム総督
天平宝字五年(761年)から
神護景雲元年(767年)まで6年間
ハノイの安南都護府に在任
天平神護二年(766年)
安南節度使を授けられた
最後は潞州大都督(従二品)
↓↑
岑参、唐の詩人 (715年~)
杜甫、唐の詩人、詩聖(712年~)
ーーーーー
650年2月15日
孝徳天皇
白雉改元・・・白雉=しろキジ
=白 記事・白生地
=斯盧黄地・新羅木地
白雉献上の儀式に
豊璋が出席
豊璋は日本の百済人質
太安万侶の一族の
多蒋敷・・・多蒋敷(おほのこもしき)
↓↑ 「出自謚神武皇子神八井耳命」
『古事記』中巻
『日本書紀』巻第四綏靖天皇即位前紀に
『和州五郡神社神名帳大略注解』所引の
久安五年(1149年)の
「多神社注進状」に
「蒋敷は太安万侶の祖父」とされている
『日本書紀』巻第二十七
天智天皇即位前紀
斉明天皇七年(661年)
同母妹を
百済王族の
扶余豊璋の妻とした
↓↑ 豊璋には織冠が授けられた
の妹を
豊璋に娶わせていた・・・
倭兵5000と
軍船170艘で
百済へ30年ぶりに帰国
↓↑
663年8月27、28日
倭国水軍は唐-新羅軍と
白村江(白江、白馬江)で衝突し
大敗
豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃亡
高句麗も
668年
に唐に滅ぼされ
豊璋は高句麗王族らと
唐都に連行
高句麗王の
宝蔵王らは許され唐の官爵を授けられ
豊璋は嶺南地方に流刑
↓↑
「日本書紀(推古三十五年・627年)」
「夏五月、蝿有り、聚集れり
その凝り累なること十丈ばかり
虚に浮かびて以て信濃坂を越ゆ。
鳴く音雷の如し。
すなわち東のかた上野国に至て散りぬ」
「蝿の群れ」=蜜蜂?
↓↑
「日本書紀(皇極二年・643年)」
「百済の太子余豊、
蜜蜂の房四枚をもって三輪山に放ち、養う。
しかれどもついに蕃息(うまわ)らず」
養蜂の初め
↓↑
奈良時代
三韓からの蜂蜜献上
天平十一年(739年)
渤海国から
「文王致聖武天皇書」に添え
「大虫皮、羆皮各七張
豹皮六張、人参三十斤
蜜三斤」
と記録
天平宝字四年(760年)
五大寺に使を遺わし
毎寺雑薬二櫃と
蜜缶1口とを施す
と記録
↓↑
平安時代
「延喜式(905~927年)」
「蜜、
甲斐国一升
相模国一升
信濃国一升
能登国一升五合
越後国一升五合
備中国一升
備後国二升」
別の箇所に
「摂津国蜂房七両
伊勢国蜂房一1斤十二両」
を献上と記録
↓↑
柞=木+乍
ははそ=コナラの別名
クヌギ(櫟・国木・歴木・樟・椚木)
↓↑ ↓ ↑ ↓ ↑ ↓
句抜き(櫟=木+楽・國+木・木+章・木+門+木)
↓↑ ↓ ↑ ↓ ↑
記紀 記紀 記紀 記紀 記紀
楽学 古句 章 文 聞
↓↑
ミズナラ(水楢)などを含めて呼んだ・・・
観事奈良(名等・あすか=飛鳥・明日香)
↓↑
誤って
カシワ(柏=記紀+新羅
栢=記紀+百済
槲=記紀+斛(コク=國・ゴク=語句)
斛=角+斗
ます・ますめ
桝・舛・枡・升
斗斛⇔北斗七星
小熊座⇔大熊座=大隈座
大隈重信?
柄杓(ヒシャク)
容量の単位・十斗
斗斛(トコク)・万斛(バンコク)
訳古句・都國 萬古句・萬國
神集=神代・記紀上記
示し申す隹
(舊とり・旧とり・古とり
尾短の鳥
毘胆・尾譚・備譚
短尾の鳥
「耽美・嘆美・歎美」
舊とり=舊字體=舊漢字
篩(ふるい・sieve)
郡柏=君阜(岐阜)・紀伯・記紀新羅
膳=肉(ジク・にく)+善
字句・似句 羊(筆字)が晋
=かしわで=柏手=膳部=高橋
可士和)
↓↑
をいうこともある・・・
(季 秋⇔記 安芸・阿記)
語頭の
2音が同音(はは・ハハ)で
母の意にかけて用いる・・・双葉
↓↑
「いかにせん
結ぶ木の実を・・・・掬ぶ
記紀の
實
(拾・日・昵・暱・字通)
待たずして・・・・・眞多事史(詞・氏)照(弖・氐))
秋の・・・・・・・・安芸・亜紀
ははそ(柞)に・・・母祖・葉把素(蘇・會・措)
落つる・・・・・・・乙津留
山風」・・・・・・・纂(サン=簒・篹・籑・算)
封(附得・符有)
↓↑
海道記=かいどうき・カイダウキ
鎌倉時代の紀行・一巻・作者未詳・・・時代もんかどうか?
貞応二年(1223)・・・・・・・帝王(綴負似撚)?
京都と鎌倉間の
東海道を往復した際の紀行・・・
文体は漢文脈の濃い和漢混交文
仏教思想の影響が強い
↓↑
「膳夫」の長官を「膳臣」
『日本書紀』・『高橋氏文』によると
「大彦命の孫
磐鹿六鴈(いわかむつかり)命が
景行天皇53年10月の東国巡幸の際に
供膳の功績で
膳臣(かしわでのおみ)の姓と
膳大伴部を賜った・・・」
「武蔵国造や
安房国造の名前に
膳大伴部
膳大伴直」
「膳臣」の
若狭国造も存在した
これらの集団は
海産物を掌握する
安曇連配下の
海部(あまべ)とともに
大王(天皇)への食料供給を担当
養老令制で
膳部が品部として所属し
宮内省
大膳職が160人
内膳職が40人
東宮主膳監が60人とある
このほか
大神社にも
膳夫が設置された
↓↑
天武天皇十三年(684年)十一月1日条
膳氏は「朝臣」の姓を与えられた
膳朝臣はのちに氏名を
「高橋」に改めた
平安時代
高橋氏
と
安曇氏
が膳部を担当し
内膳司長官の奉膳職を世襲した
↓↑
貞応二年(1223)・・・1+2+2+3=8
干支=癸未
日本
貞応二年
皇紀1883年・・・1+8+8+3=20⇔2+0=弐・似・仁
中国
南宋 嘉定十六年
金 元光二年
大真国 天泰九年
中国周辺
西夏 光定13年、乾定元年旧12月~
モンゴル 太祖(チンギス・ハーン)十八年
大理国 天開十九年
朝鮮
高麗 高宗十年
↓↑
誕生
一条 実経 は、鎌倉時代の公卿
従一位、摂政 関白、左大臣
五摂家の一・一条家の祖
号に円明寺殿、後一条入道関白
法名に行雅、行雄、行祚
通称は円明寺関白
死没
宣宗、金の第8代皇帝(~1163年)
↓↑
1222年
干支 壬午
日本
承久四年、貞応元年四月十三日~
皇紀1882年・・・1+8+8+2=19・・・1+9=10
中国
南宋 嘉定十五年
金 興定六年、元光元年8月9日~
大真国:天泰八年
中国周辺
西夏 光定十二年
モンゴル帝国
太祖(チンギス・ハーン)十七年
大理国 天開十八年
朝鮮
高麗 高宗九年
↓↑
誕生
3月30日(貞応元年二月十六日)
日蓮
鎌倉時代の僧
日蓮宗開祖(~1282年)
唯円、鎌倉時代の浄土真宗の僧(~1289年)
↓↑
死亡
6月29日(貞応元年五月十九日)
河野通信
平安時代、鎌倉時代の武将(1156年~)
伊予水軍の将 時宗開祖
一遍の祖父・・・「自修改組一変」?
ーーーーー
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