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コジキジゲン

多胡=おほのえびす・たこ=鮹・章魚・蛸・おくとぱす?

2019-02-25 23:02:37 | 古事記字源

 作史三長・・・錯視三帳(纂調・簒貼・算重)?
 作史三長(サクシのサンチョウ)
 歴史書を
 著作・編集するのに
 歴史家に必要な三つの長所
  才知・学問・識見
 (『唐書(劉知幾伝)』・『新唐書(劉知幾伝)』)
  ↓↑   劉 知幾(リュウチキ)
      661年(龍朔元年)~721年(開元九年)
      唐代の歴史家
      字は子玄
      名の「知幾」と
      玄宗の諱である「隆基」の同音を避け
      字の劉子玄=リュウシゲンで知られる
      徐州彭城郡(江蘇省徐州市)の人
      史学批判および体系史学理論の
      歴史書編纂の大要を記した
      最初の書
      景龍四年(710年)の・・・ 和銅三年・元明天皇
      隆元年               藤原京~平城京遷都
      景雲元年・・万廻(マンエ )=萬廻
       ↓↑    632年(貞観六年)~711年(景雲二年)死亡
       ↓↑    唐代の未来予知・予言・神異・風狂の僧
       ↓↑    号は法雲公         
       ↓↑景雲二年(711年)和銅四年・上野国に「多胡」郡設置
            多胡=おほのえびす・たこ=鮹・章魚・蛸
            タコは八本肢(Octopus)
             octo =ラテン語「8」=8本足のタコ(octopus)
            October=10月なのに「Octo(8)」 の理由は
            古代ローマ歴で3月が年始(正月・最初の月)で
                   3 月から数えて8番目の10月だった
            1・2・3・4・5・6・7・8・9・10
               1・2・3・4・5・6・7・8
       ↓↑kite(カイト)=凧=たこ=octopus(オクトパス)
       ↓↑  甲斐都・蝦夷都        奥 都八州               
       ↓↑景雲三年(712年)太極元年、延和元年、先天元年
       ↓↑    (712年)和銅五年・古事記
       ↓↑
     「史通・二十巻」を著作
      長男の
     「劉貺」・・・貺=貝+兄=目+ハ+口+儿
              カイのアニ
            通仮字
           「況」=氵+兄=いわんや
              =様子・状態
            比較する・譬える・益す
            ますます・まして・いわんや
            ここに・(貺と通じて)賜う
           「況」の
            異体字「𧵙・贶・𣍦・𧵦・𧵮」
            たまう(賜う)・キョウ・コウ
            主人が部下・使用人に物や位などを与える
      の罪に連坐し
      安州
      別駕
      の地方の属官に降格左遷
      61歳で病死
      前漢の
      楚の元王の
      劉交・・・交=亠+ハ+乂
      あるいは
      宣帝の子である
      楚の孝王の
      劉囂・・・囂=口口+頁+口口
           かまびすしい・やかましい・わずらわしい
           ゴウ・キョウ
           さわがしい
           囂囂・囂然・喧喧囂囂 (ケンケンゴウゴウ)
      の末裔
      父は侍御史の
      劉蔵器(リュウゾウキ)
        ・・・劉の蔵器
        ・・・龍 造記・・・景山 龍造?
           龍造寺 隆信
           肥前の戦国大名・龍造寺家19代当主で周家の子
           龍造寺家の中でも本家村中龍造寺家ではなく
           分家水ケ江龍造寺家の出身・「肥前の熊」と呼ばれた
  ↓↑
   サイチ=齋(歳・祭・差異)智・差位置(差位地)
   ガクモン=諤(額=客の頁)文・樂文・顎分・鰐文
   シキケン=私記(始期・屍鬼・死期・厶記・己記)懸(建)・・・?
  ↓↑
 作文三上(サクブンサンジョウ)
 文章を作る工夫をするのに、適した三つの場所
 馬上(馬に乗っているとき)
 枕上(寝床に入っているとき)
 厠上(便所にいるとき)
 三上=馬上・枕上・厠上
 (宋の欧陽脩・『帰田録』)
  ↓↑
 作礼而去(サライニコ・さらいにこ)
      讃良意似拠・拐 意爾拠?
 礼を作して去りにき
 仏の説法を聞き終えた大衆が
 仏を礼拝して去っていったこと
  ↓↑
 作物所(つくも-どころ)
 ↓↑・・・九十九・津雲・津久茂・津久毛?
     「つくも(付喪・九十九)=妖怪の名
      九十九年目に器物、道具に
      とり憑く妖怪・物の怪(もののけ)
 ↓↑    ↓↑
      百鬼夜行
     「百済=久太良=百残」の
      最期一年前(九拾九=玖拾苦)?
      660-1=659 or 663-1=662
      鬼室福信・・・
      百済の
      鬼の室の福の信が
      物の怪(もののけ)になった?
      扶余豊璋は・・・扶余豐璋=百済-義慈王(在位641年~660年)
                   の王子
           650年2月15日
           孝徳天皇
           白雉改元
        ・・・白雉=しろキジ
             =白 記事・白生地
             =斯盧黄地・新羅木地
           白雉献上の儀式に
           豊璋が出席
           豊璋は日本の百済人質
           太安万侶の一族の
           多蒋敷(おほ の こもしき)
              「出自謚神武皇子神八井耳命」
              『古事記』中巻
              『日本書紀』巻第四
              「綏靖天皇即位前紀」に
              『和州五郡神社神名帳大略注解』所引の
              久安五年(1149年)の
              「多神社注進状」に
              「蒋敷は
               太安万侶の祖父」とされている
              『日本書紀』巻第二十七
               天智天皇即位前紀
               斉明天皇七年(661年)
               多蒋敷(おほ の こもしき)の
               同母妹を
               百済王族の
               扶余豊璋の妻とし
               豊璋には織冠が授けられた・・・
 ↓↑    ↓↑
      多蒋敷(太安万侶の祖父)の妹を
      豊璋に娶わせていた・・・
 ↓↑    ↓↑
      豊璋は
      倭兵5000と
      軍船170艘で
      百済へ30年ぶりに帰国
 ↓↑    ↓↑
      663年8月27、28日
      倭国水軍は唐-新羅軍と
      白村江(白江、白馬江)で衝突し
      大敗
      豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃亡
      高句麗も
      668年
      に唐に滅ぼされ
      豊璋は高句麗王族らと
      唐都に連行
      高句麗王の
      宝蔵王らは許され唐の官爵を授けられ
      豊璋は嶺南地方に流刑
 ↓↑    ↓↑
 「日本書紀(推古三十五年・627年)」
 「夏五月、蝿有り、聚集れり
  その凝り累なること十丈ばかり
  虚に浮かびて以て信濃坂を越ゆ。
  鳴く音雷の如し。
  すなわち東のかた上野国に至て散りぬ」
 「蝿の群れ」=蜜蜂?・・・「蠅=はえ」・・・銀ばえ
  蝿伊呂泥  =意富夜麻登久邇阿札比売
 (ハエイロネ)(オホヤマトクニアレヒメノミ)
  別名
  絚某姉   =倭国香媛
 (ハエイロネ)(ヤマトノクニカヒメ)
 ↓↑    ↓↑
 「日本書紀(皇極二年・643年)」
 「百済の太子余豊、
  蜜蜂の房四枚をもって三輪山に放ち、養う
  しかれどもついに蕃息(うまわ)らず」
 養蜂の初め・・・
 蜂子皇子(はちこのおうじ・波知乃子王)
 法名を弘海
 欽明天皇二十三年?(562年?)
  ~
 舒明天皇十三年十 月二十日?(641年11月28日?)
 崇峻天皇の第三皇子・聖徳太子の従弟
 父の崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺され
 山形に逃亡
 羽黒山、月山
 出羽三山を開基し
 能除仙(のうじょせん)
 能除大師、能除太子(のうじょたいし)
 などと呼ばれる
 ↓↑    ↓↑
 奈良時代
 三韓からの蜂蜜献上
 天平十一年(739年)
 渤海国から
 「文王致聖武天皇書」に添え
 「大虫皮、羆皮各七張
  豹皮六張、人参三十斤
  蜜三斤」
 と記録
 天平宝字四年(760年)
 五大寺に使を遺わし
 毎寺雑薬二櫃と
 蜜缶1口とを施す
 と記録
 ↓↑
 平安時代
 「延喜式(905~927年)」
 「蜜、
  甲斐国一升
  相模国一升
  信濃国一升
  能登国一升五合
  越後国一升五合
  備中国一升
  備後国二升」
 別の箇所に
 「摂津国蜂房七両
  伊勢国蜂房一1斤十二両」
 を献上と記録
 ↓↑    ↓↑
      扶余豊璋は
      662年5月に百済に入国し
      鬼室福信は
      豊璋を王とし迎え国政を委ね
      倭国は
      鬼室福信あてに軍需物資を送り
      鬼室福信も捕虜の唐人の
     「続守言(持統朝で帰化し音博士)」・・・続を守る言?・音博士
      らを倭国に送った
      663年6月
      百済王となった豊璋は
      鬼室福信の謀反を疑って捕らえ
      扶余豊(扶余豊璋)は
      663年7月
      鬼室を殺害
      首を塩漬けにした・・・・高橋景保も塩漬け
      倭国は水軍を朝鮮半島へ派兵
      天智天皇2年 8月27日~ 8月28日
         663年10月 4日~10月 5日
      白村江(白馬江)で
      劉 仁軌
     (唐の武将・字は正則・楽城文献公・汴州尉氏県の人)
      の唐軍
      文武王
      の新羅軍連合に敗北
 ↓↑    ↓↑
      鬼室集斯(鬼室福信の子、縁者
        集(隹+木)の斯(其+斤)
           百済における官位は達率
           日本亡命帰化後の
           官位は小錦下・学職頭)・・・学の職の頭
 ↓↑    ↓↑
  作物所(つくも-どころ)
      つくも (福井市) - 福井県福井市の地名
      つくも (長崎市) - 長崎県長崎市の地名
      つくも町 - 広島県安芸郡海田町の地名
      石川県鳳珠郡能登町付近にある九十九湾
       かつて運行されていた列車名」     
     「九十九髪(つくもがみ)」の略」
     「植物フトイ(太藺・莞)の古名・抽水性多年草(和名抄)」
     「八十八(やそや)」
 ↓↑    ↓↑
 作物所(つくも-どころ)
 作物所
 平安時代に成立した天皇の家政機関の1つ
 天皇・皇后・東宮などが
 宮中で用いる調度品(銀器・木器など)を
 製作する「所」
 令外官の一つ
 職員には
 別当・預 ( あずかり)・内竪 (ないじゅ)・冶師
 蔵人頭を別当に補す
 作物司 (つくもづかさ)
    ・九十九・津雲・津久茂・津久毛
  ↓↑    ↓↑
  雑=杂(卆八・九十八)+隹
      九拾・・・杂⇔染⇔そめる=涅・初・襲
             色を襲(かさねる・龍+衣)
              踏襲=継=繼=蹈襲
 雜=卒(亠人人十)+八+隹=雜
      音人々乂(交)捌 舊鳥(短尾の鳥)
   まじる・まぜる・ザツ・ゾウ
   卆=卒=襟元
   乱雑・粗雑・煩雑・雑炊・雑念・雑文
 ↓↑    ↓↑
 難=「𦰩=廿+中+夫」+「隹」
 ↓↑ ↓↑↓↑
  「𦰩=動物を火で炙ってカタク燻製にする」
   +
  「隹=鳥」
 ↓↑ ↓↑
  「鳥を火で炙る・火で炙られるような辛さ」
  「𦰩=火矢の意で、鳥を火矢で射る儀式や呪い」
 ↓↑ ↓↑
  「𦰩=火矢」・・・?
  「𦰩=缶(廿=凵+一⇔棺・柩)の中に
       閉じ込められた夫=死骸・屍骸」
       の
      「短尾の小鳥の
       囀り(嘆き・歎き)」だろう・・・
       廿=十十=音読み ジュウ
            訓読み にじゅう
            意 味 二十・十の二倍・20=念
  「𦰩」⇔「嘆=口+𦰩」
  「嘆=かなしむ・嘆願・嘆息・悲嘆
     たたえる・ほめる・感心する
     嘆賞・感嘆
     永嘆・詠嘆・慨嘆・驚嘆・賛嘆・賞嘆
     長嘆・悲嘆
     嘆息・感嘆
  「𦰩」⇔「歎=𦰩+欠」
  「歎=災難で声をたてる、なげく」
  「𦰩+欠」=通仮字「嘆」
        異体字「嘆・𣥁=𦰩+鳥+欠
              𪇽=𦰩+欠+鳥=歎+鳥」
     悲歎・感歎・歎賞・賛歎
        簡体字「叹=口+又」
  「歎」の熟語「歎喟(タンキ)=溜息ついて歎く」
 ↓↑ ↓↑
  「𦰩=廿(念)の中の夫(二人)」
   が
  「災いに祈る
   巫女(みこ)
   巫覡(フゲキ)
  (かんなぎ=神巫・神和ぎ・神薙ぎ・神凪)」
   ・・・?
 ↓↑      ↓↑
 難=「𦰩+隹」・・・焼鳥の燻製
        ・・・象徴の君制(訓所為)?
   かたい・むずかしい・にくい・ナン・ダン
   むずかしい・かたい・たやすくない
   しがたい=し難い
   欠点
   わざわい・せ(責)める・とがめる
   なじる
   いくさ・争い・戦乱
 ↓↑    ↓↑
   難解・難関・至難・難儀・災難
   難詰・非難・批難・避難・無難
   一難(イチナン)・万難(バンナン)
   海難(カイナン)・遭難(ソウナン)
   艱難(カンナン)・危難(キナン)
   救難(キュウナン)・苦難(クナン)
   国難(コクナン)・困難(コンナン)
   災難(サイナン)・受難(ジュナン)
   殉難(ジュンナン)・多難(タナン)
   七難・盗難
   ・・・難字⇔漢字・・・難⇔難
   難=「艹+口+夫」+隹
    =「艹+口+二+人」+隹
    =「艹+口+一+一+人」+隹
 ↓↑    ↓↑
 難い・難易・難行苦行(ナンギョウクギョウ)
 難局・難癖(ナンくせ)・難航
 難攻不落・難産・難治・難渋・難所
 難色・難船・難題・難聴
 難点・難破船・難平(ナンピン)
 難物(ナンブツ)
 難民・難問
 難い(にくい)
 難しい(むずかしい)
 ・・・なるほど、「灘(なだ)=水の難」
         「儺(おにやらい)=鬼遣・人の難」
 ・・・水と魂魄は「焼き鳥(火葬)」にするのは難しい・・・
 ↓↑
 漢=氵(水)+𦰩(棺、柩の中の夫)・・・水槽(水葬)の夫
   漢人=河川に水槽の夫を水葬する
      孀(ソウ)=女+霜=夫に死に別れた女性
      喙息(カイソク)=喙(くちばし)と呼吸
 ↓↑    ↓↑
     淮河の源流は
     河南省の
     桐柏山・老鴉叉
     淮河(ワイガ)=淮水
      黄河と長江の南北間を東西に流れ
      下流の
      江蘇省の
      洪沢湖
      で二手に分かれ
      放水路は黄海に注ぎ
      本流は
      三江営で
      長江に流入しつながる
      下流は平坦な低地で
      流路が複雑で
      洪水が起こりやすく
      治水が難しい
      異名は
     「壊河(Huai He)」・・・
      淮河(ワイガ)は
      華北(小麦)
      と
      華南(水稲)
      の境界線で
      運搬流通手段も
     「南船北馬」である
      准水・淮水
     『淮南子(エナンジ・ワイナンシ・Huainanzǐ)』
      前漢の武帝時代
      前漢の高祖の孫
      淮南王
      劉安(紀元前179年~紀元前122年)
      が学者を集めて編纂させた思想書
      呉音で「ヱナンジ」と読む
     『淮南鴻烈(ワイナンコウレツ)』
      とも
      劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作
     『漢書』芸文志に
     「内二十一篇、外三十三篇」とあるが
     「内二十一篇」しか伝わっていない
      道家思想を中心に
      儒家・法家・陰陽家の思想を交え
     「雑家の書」に分類される・・・
      巻一 原道訓
      巻二 俶真訓
      巻三 天文訓
      巻四 墬形訓
     (地形訓とも・「墬=阝+彖+土=地」に同じ
            「墜(墜落)・堕(堕落)」
            とは別字
      彖=エン・タン・テン=彖・𧰺・𢑡
        太って腹の垂れた豚・たれさがる
        にげて物かげに隠れる
        猪の子・猪の口ばし
        易では大川を渉るに利あり)
      古代の地理観を記す。36の異国の記載
      巻五 時則訓
      巻六 覧冥訓
      巻七 精神訓・・・・精神
      巻八 本経訓・・・・本の経
      巻九 主術訓
      巻十 繆称訓
      巻十一 斉俗訓・・・斉の俗
      巻十二 道応訓
      巻十三 氾論訓
      巻十四 詮言訓
      巻十五 兵略訓
      巻十六 説山訓
      巻十七 説林訓
      巻十八 人間訓
      巻十九 修務訓
      巻二十 泰族訓・・・泰の族
      巻二十一 要略
ーーーーー

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