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コジキジゲン

乾雲(カンウン)、坤龍(コンリュウ)、相響く

2013-09-03 00:36:51 | 古事記字源
 ・・・乾雲(カンウン)、坤龍(コンリュウ)、相響く・・・「関の孫六の作に、大小二口の稀代の業物がある。ともに陣太刀作りで、鞘は平糸巻き、赤銅の柄に刀には村雲、脇差には上り竜の彫り物があるというところから、大を乾雲丸、小を坤竜丸と呼んでいる・・・乾雲、坤竜の二刀、まことに天下の逸品・・・二つの刀が同じ場所に納まっているあいだは無事だが、一朝、乾雲と坤竜が所を異にすると、凶の札をめくったも同然で、たちまちそこに何人かの血を見、波瀾万丈、恐ろしい渦を巻き起こさずにはおかない・・・そして刀が哭く。
 ・・・離ればなれの乾雲丸と坤竜丸が、家の檐も三寸下がるという丑満のころになると、啾々としてむせび泣く。雲は竜を呼び、竜は雲を望んで、相求め慕いあい二ふりの刀が、同じ真夜中にしくしくと泣き出す・・・(林不忘原作・乾雲坤龍の巻)

 「大陸=乾=北西」からの寒気団、「南シナ海=坤=南西」からの暖気団・・・日本列島の日本海側での衝突・・・「乾雲坤龍の説明」は、まるで「竜巻発生の気象予報」で、その結果の「惨状予告事象」である・・・

 「竜巻の発生」は積乱雲から垂れた尻尾と地上から這い登る頭が相互に呼応するように咬みあってその積乱雲をも回転させ地上のモノを破壊していった・・・「スーパーセル」・・・

 ブログ記事から抜粋すると・・・「気温が大きく変化するような境界を前線・・・寒気団(密度が濃い・重い)と、暖気団(密度が薄い・軽い)の境界が「前線」で、暖気が寒気の上に乗り上げたり、寒気団が暖気団に潜り込んで行く・・・熱い空気は上昇し、大地の圧力を下げ、冷たい空気は下降する。上昇した空気は、膨張して冷え、積乱雲を発生させ雨を降らせる・・・前線が移動し、寒冷前線、温暖前線になり、動きの少ない停滞前線にもなり、前線面に別の前線が乗り上げた閉塞前線(三つ巴で3つの気団ぶつかった状態)になる」・・・である。「発生のメカニズム」は「学問」として「理解」出来るが、避けようが無い「自然災害」の「教訓」は「事後処理」である・・・事が起こった後、ドウするのかである・・・予報で「避難」したとしても「被害」は避けられない・・・生き残ったモノには「災害事後の救援援助の備え」でしかありえない・・・自然災害は諦めもつくが、「人災」は諦めるワケにはいかない・・・「人災」は避けられるべきモノだからである・・・

ーー
 「漢字漢音」、「漢字呉音」、「漢字唐音」が「発生地点を中心」に「周辺地方」に波及していったらどうなるのか・・・?・・・「中心部の漢字発音が変化」すれば、また「波状的にその音声発音」が「文字」自体は変わらず、「音声発音」のみの「変化」が「周辺地方」に伝播していくだろう・・・
ーー
 情報伝達の電子機器が無かった当時も今も、あらゆる「情報伝達」は「コトバ」のヤリトリであるが、当時の時間的系列では「同一漢字文字」の「新しく変化した発声音」は地域状況もあるだろうが「発生中心部」から離れるほど受け入れられるのが遅くなったであろう。しかも「漢字」を読む「発声音声」は「旧い発音」に慣れ、それを最初に学んだ人間ほど「発音変化」には保守的になるだろう。人間が歳をそれなりにとれば新しいナガレについて行けず、違和感を感じるのはどの時代でも同じであるだろう。だから「旧い漢字音」は、時間経過しても、その「発生中心部」より「遠方地方」に残るであろう。そして波及した地方の「政治状況」である。日本では歴史的に「坊主の読経習得」に「呉音」を禁止して「漢音」を優先させた・・・勿論、旧い「漢字字形」も残るであろうが、「漢字」を通訳した「訓読み」の必要性は「表音字形」として、その地方独自に「文字変形」されていく・・・
 「片仮名・ひらがな」は「音」からのみ、その「日本語」の「意味」が解る。だが、あらゆる「文字」は「表意文字=絵」から始まった・・・「音声コトバ」は「絵文字」以前に獲得され、その「絵文字」に「音声コトバ」を与えたのである。それを「理解する共同体」が形成された。そして、それは他の共同体へと「波及」した。
 「漢字」は「表意文字=形」であり「表音文字=音」でもある。「文字」も「音声」も「他共同体」に普及したが、当初は対象物に対する「言語音」が異なっていた。「アップル」が「リンゴ」で、当然「文法上のコトバの順序」も異なっていた。「漢字文字の意味」を理解するには時間がかかったろうが、「漢字」は元々が「絵」である。「絵=字形」が理解されれば「音→絵←異音」だが、「絵=文字の意味内容」は同じモノとして理解されたであろう。
 「文字の理解度」・・・先進共同体の「文明」、「文化」の波及とは、その「文字字形」の「理解度」である。そして日本では漢字を勉強し、その知識を持った人間が「万葉仮名=借字」で「日本語」を記録したのだ。「音」だけではない。「漢字の意味」をも「選択」したのである。「ア・イ・ウ・エ・オ」の「一音」にも「日本語」の意味があり、その「意味」の「漢字」を選択した・・・不思議と思うのだが「万葉歌」を「漢字の意味」で読んだ「人間(学者・研究)」はいないらしい・・・?・・・和歌の「同音異義ことば」を懸ける技法が頻繁に駆使され作られているのに・・・コレって「日本文化」だろうに・・・

 そして「時代」は「中心部」から遠方の「後進地域」へ、いきなり「新情報機器」を持ち込んでいる。電線が普及していない「後進地方」ほど「電波機器=携帯電話」の普及度は速くなっているのは当然至極である・・・「文明・文化」の「地方」への拡散は、原則「交易での儲けの拡大」である・・・

 イズレの「儲け」も「価値の差額」から出る。市場での儲けは本来、「物」の「使用価値→交換価値←使用価値」の「交換価格」から生じる。その「交換物」を媒介するモノは「貨幣・紙幣・クレジットカード」である。本来は殆んど「使用価値の無い物」である。ただ、それを「価値」として支えているのは「人間社会の相互約束上の信用」と言う「約束事」のみである。もっと言えば「国家」の、「国家間」の「約束事」に支えられているように見えるが「数字」は「為替市場」、「証券市場」、「商品市場」の「自由な取引=博打」の「不安定な所」で決定されているのである・・・
 儲け・・・前提的に「相互に交換物」が必要で、尚且つ「相手の購買力」が無くては無理である。「安価」が条件だが今現在の「購買力」が無くても、その人間の「将来的労働力」を担保に「前借・借金」の「経済方法」をも「波及」させた・・・「大衆社会の文明文化」への地球規模の波及原則は「薄利多売」である・・・常に「厚利少売」を狙うのは「支配階級」と結託した「御用商人」である・・・そして「御用商人」が「カネの力」で「支配者」を操るようになった・・・「戦争」で儲ける「人間」が存在する。「人間同士のトラブル」で儲ける「人間」が存在する。「人間社会」にとって「余剰価値」を還元せず「使用価値の無い人間」が存在する・・・ダレなのか・・・「正当な金貸し」を標榜し、「資本の枠内」で儲けようとする「半沢の意識」を持つ「人間」である・・・

 「漢字の波及」・・・中国大陸→半島→九州→近畿→関東→東北→蝦夷・・・「方言」・・・ドッと明治維新後、各地方から北海道へ移民した人々とともに「多方言(異言語)」が流れ込んで、混乱もあったろうが、「漢字音の読みの変化」はそれほどなかったのに違いない。だが国家的規模の「明治民族」の形成には「明治標準語」の確率と普及は急務だった。
ーー
 幕末、「アイヌ語」に「無理に漢字音?」を当てた・・・「当て字」は逆に「漢字文字の音」の「読み」に影響を与え混乱したが・・・多分、当てた「漢字」には、「音」のみならず、その人物にとっては「意味のある漢字」であったのに違いない・・・「同音異義漢字」はクサルほどあった・・・アイヌ語の「蝦夷地名」に選択された「漢字」には、その「アイヌ語の意味」は勿論、彼の意図する「裏の意味」が込められていたハズ・・・である・・・?

ーーーーー
 枕草子

 (一二七段)・・・百二十七段・壱佰弐拾七段・壱弐七段・陌念漆段

          1+2+7=10=十=拾=壱拾=足

          1×2×7=14=十四=壱拾四=足肆

 あつげ・・・ア-つ-げ

      「厚・熱・暑・篤」意の「通」の「解」

       蛙(ア・かえる)通解

       亜(ア・あまねし)通解

       唖(ア・おし)通解・・・手話

       鴉(ア・からす)接げ・・・「韓・唐」州

       阿(ア・くま・よこしま)告げ

       Y(ア・ふたまた)通解・・・柘植・柘

         Y=ワイ

          「話・和・倭・羽・輪・環・把」意

           大和・倭人・奥羽・三輪・把握

 なる・・・納留・名留・拿留

      鳴る・生る・成る・為る

 もの・・・

 隨身の・・・ズイ-シン-の

       ツイ-シン-の

      「追伸・追申」之

       随所・随処・随神・隋道・隋書

      「隋・髄・瑞・蕊・蘂・事意」審之       

 長の・・・・おさの・チョウの

ーーーーーーー↓

       訳語之

       すぐり=主村・勝村

           選り・勝り・優り

       古代朝鮮語で村長の意

       古代の姓(かばね)の一

       多く渡来人系の氏族に与えられた

       漢帰化族の西文氏族の村主氏

       百済氏族の村主氏と二系統

ーーーーーーー↓古代の氏姓

       公・君(きみ)

       臣(おみ)

       連(むらじ)

       直( あたい)

       首(おびと)

       史(ふひと)

       村主(すぐり)

ーーーーーーー↓

       氏姓

       血筋や家系

       株根(かぶね)、株名(かぶな)など意味

       崇名(あがめな)より変化

       新羅の類似した制度

      「骨品制」より家系を表す

       骨を「かばね」と読んだもの・・・?

ーーーーーーー↓

       骨品制は王都のみで導入

       王都内部での氏族の序列制度

       就任可能な官職や

       結婚の自由

       利用可能な服職

       乗り物

       贅沢品

       家屋

       が骨品制によって決められた

       上位の骨品を持つ者だけが高級官僚になれる

       新羅が百済と高句麗を滅ぼしたときに、

       新羅に移住した

       百済・高句麗の王族や貴族は

       等級を下げられて骨品を与えられた

       新羅の政治制度の骨格制度

       王族

       真骨(ジンゴル)・・・日本語にも「真骨頂」

       父母共に王族に属する者

       聖骨(ソンゴル)

       新羅時代の事実上の貴族は「真骨」のみ

       その下に

       六頭品、五頭品、四頭品、平民の

       順番で序列が決められていた

ーーーーーーー↓

     新羅の官位制度

     「三国史記・新羅本紀」官名

     「大輔」・・・最高位

      第三代

      儒理尼師今の九年(32年)

      下表の十七階級の官位(京位)が制定

      枠外の官位

      第二十三代

      法興王の十八年(531年)

     「上大等(上臣)」・・・宰相

      三国統一に功績のあった

     「金庾信」を遇するもの

      第二十九代

      武烈王

     (金春秋、キム・チュンチュ)

      七年(660年百済を滅ぼす)

     「伊伐飡(角干)」の更に上に

     「大角干(大舒発翰)」

      武烈王の息子の

      第三十代

      文武王

     (金法敏)

      八年(668年高句麗を滅ぼす)

     「太大角干(太大舒発翰)」

      という位が設けられた

ーーーーーーー↓

      新羅王が新たに即位すると、

      最高官位の

      上大等

     (古くは大輔、舒弗邯)が任命

      三国統一の後にも上大等任命の慣習は続くが、

     「真徳女王」の代

      651年

      国家機密掌握の執事部が設けられ、

      その

      長官の

     「中侍」が政治体制の要となった

ーーーーーー↓

     京位

     首都金城に居住する

     六部の身分体系

     外位

     地方に移り住んだものの別途の身分体系

     百済・高句麗を滅ぼした後、

     両国の遺民を取り込み

     唐に対抗していくため、

     京位・外位の二本立ての身分制度を再編

     673年

     百済から帰属してきた者のうち、

     百済の

     二等官の

     達率で

     金城に移住した者に対しては

     京位十等の

     大奈麻に当て、

     地方に留まった者には

     外位四等の

     貴干を当てた

     674年

     外位を廃止して、京位に一本化

     唐との戦闘を終えて

     684年に

     報徳国を滅ぼして半島内の混乱を収拾

     686年

     高句麗人に対しても官位(京位)を授けた

     高句麗の

     三等官の

    「主簿」に対して

    「京位七等」の

    「一吉飡」を当てた・・・

    「飡受」=「さんじゅ」

    「飡(サン・ソン)」は

    「飲む、喰らう」と訓む

    ・・・これなら「冫(氷)」+「食」である・・・

    「氷(こおり)」を「食らう」であるが「音」を採れば

    「桑折・小折・郡」である・・・

    「郡=君+阝」は地域区分であるが、

    「郡」の文字と発音(訓)からは理解できそうだ

    「訖(おわる・キツ・コチ)=言+乞」も理解ありだ

    「吃(ども)る」に類似の漢字だが

     会話での言い出しの音が容易に発音できない

     ある音が何度も繰り返されたりするコトである

       ↓

     乞食→こつじき・こじき→古事記

ーーーーーー↓伊伐飡/角干(ソポル-チ-ハンキ)

     伊伐飡(イバツサン)

     角干(カクカン)

     第十六代

     訖解尼師今(在位310年~356年)

ーーーー↓ブログからの抜粋記事です

 「三国史記・新羅本紀」

 「訖解尼師今」

 「奈解王の孫」

  父は「于老」の「角干」

  母は命元夫人・「助賁王の娘」

 「于老」は累進して「舒弗邯」となる

 「訖解」は

  嗣子がなかった

 「基臨」が薨じた後、

  朝議で彼を奉じて擁立された

 「三年春三月、倭国王遣使、為子求婚、以阿飡急利女送之」

   ↓

  三年(321年)春三月、

 「倭国王が遣使を以て王子の結婚相手を求めてきたので、

  阿飡の急利の娘を送った」

 「四年秋七月、旱蝗。民飢。發使救恤之」

    ↓

 「四年(313年)秋七月、

  旱魃、蝗が発生。民は飢餓。使者を発して救済」

 「五年春正月、拜阿飡急利為伊飡。

  二月、重修宮闕、不雨乃止」

    ↓

 「五年(314年)春正月、阿飡の急利に伊飡を拝命。

  二月、王宮を大々的に修築していたが、

  雨が降らないので止めた」

ーーー

  西晋の末期

  313年

  高句麗が勢いに乗って楽浪郡を滅ぼした

  315年に西晋が滅亡

  高句麗は玄菟郡を滅ぼし

  中華王朝の半島支配体制が終了

 「二十八年春二月、遣使聘百濟。三月、雨雹。夏四月、隕霜」

    ↓

 「二十八年(337年)春二月、遣使が百済を表敬訪問

  三月、雨と雹。夏四月、霜が降る」

 「三十五年春二月、倭国遣使請婚、辭以女既出嫁。

  夏四月、暴風、抜宮南大樹」

    ↓

 「三十五(344年)年春二月、倭国が遣使を以て

  婚姻の相手を求めてきたが、

  娘はすでに嫁に出したので辞退した。

  夏四月、暴風で宮殿の南の大樹が抜かれた」

 「三十六年春正月、拜康世為伊伐飡。二月、倭王移書絶交」

    ↓

 「三十六年(345年)春正月、康世に伊伐飡を拝命。

  二月、倭王が国書を送り届け、国交断絶を伝えてきた」

 「三十七年、倭兵猝至風島、抄掠邊戸。又進圍金城急攻。

  王欲出兵相戰、

  伊伐

  康世曰

 「賊遠至、其鋒不可當、不若緩之待其師老」

  王然之、閉門不出。

  賊食盡将退。命康世率勁騎、追撃走之」

    ↓

 「三十七年(346年)、

  倭兵が突如として

  風島に来襲、辺境の民家で掠奪を侵した。

  また、進軍して

  金城を包囲し、激しく攻撃して来た。

  王は出兵して合戦することを望んだが、

  伊伐飡の

  康世が

 「賊は遠方より到来しており、

  その先鋒と当たるべきではありません。

  これを油断させて緊張を緩めさせ、

  賊軍の疲労を待てば良いのです」

  王はこれに同意し、門を閉ざして出撃せず。

  賊は食糧が尽きて退却した。

  康世に命じて強靭な騎兵を率いて、

  賊軍を追撃させ、これを敗走させた」

 「四十七年夏四月、王薨」

    ↓

 「四十七年(356年)夏四月、王が薨じた」

ーーーーーーー↓

      上古代日本のカバネ

      「ヒコ(彦、比古、日子)」

      「ヒメ(比売、日女、媛)」

      「ネ(根、禰)」

      「ミミおよびミ(耳、見、美)」

      「タマ(玉、多模)」

      「ヌシ(主)」

      「モリ(守)」

      「トベ(戸部、戸畔)」など

       カバネは名称の語尾に付く

ーーーーー↓

     ヤマト王権が確立

     カバネ制度

     王権との関係・地位を示す称号

     制度化したのは

     成務天皇

     国造(くにのみやつこ)

     県主(あがたのぬし)

     ワケ(和気、別)

     稲置(いなぎ)などが定められた

     允恭天皇の時代に

     臣連制が導入

     公・君(きみ)

     臣(おみ)

     連(むらじ)

     直(あたい)

     首(おびと)

     史(ふひと)

     村主(すぐり)などが定められた

     この改革により以前の

     ワケ(和気、別)はキミ(君、公)姓

     国造・県主はアタイ(直)姓

     臣連制の中で最も有力な者に

     大臣(おおおみ)

     大連(おおむらじ)の姓が与えられた

     その他のカバネとしては、

     百済滅亡後に帰化した

     百済王族に与えられた

     王(こにきし)などがある

ーーーーー↓

    ヤマト王権から明治維新まで命脈を保った姓

    藤原朝臣永敏(大村益次郎)

    藤原朝臣利通(大久保利通)

    菅原朝臣重信(大隈重信)

    源朝臣有朋(山縣有朋‎)

    越智宿禰博文(伊藤博文)

    真偽は?

    天皇及び朝廷に仕えるため

    氏・姓が復古的に用意されたという意味合いが強い

    明治政府は、

    1870年(明治三年)

    平民苗字許容令

    1872年(明治五年)の

    壬申戸籍編纂の

    二段階によって

   「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」の

    一元化を成し遂げ、

    旧来の氏・姓を公称することを自ら廃止した

   「壬申戸籍」以後、

    旧来の姓は、それと

    一体化していた

    旧来の氏と共に、

    法的根拠をもって一本化され

   「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」に

    氏姓制度としいて日本国民全員に確立したのは

    1875年(明治八年)

    平民苗字必称義務令によってである

ーーーーーーーー↓

      「酸塊(すぐり)はスグリ科の植物

ーー↓枕草子

 狩衣。・・・

 衲の・・・

 袈裟。・・・

 出居の・・・

 少將。・・・

 いみじく・・・

 肥え・・・

 たる・・・

 人の・・・

 髮・・・

 おほ・・・

 かる。・・・

 琴の・・・

 袋。・・・

 六・・・

 七・・・

 月の・・・

 修法の・・・

 阿闍梨。・・・

 日中の・・・

 時・・・

 など・・・

 行ふ。・・・

 又・・・

 おなじ・・・

 ころの・・・

 銅の・・・

 鍛冶。・・・

ーーーーー

 ・・・

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独立愚連隊を思い出す・・・名前の変

2013-09-01 22:37:39 | 古事記字源
 「わびしげに見ゆるもの、六、七月の午未の時」は・・・?・・・「ウイッキペデア」から・・・の抜粋・・・ワビシイもの・・・
ーーーーー

 第6軍(だいろくぐん)は、大日本帝国陸軍の軍の一

 1939年8月4日に編制され関東軍に編入

 ノモンハン事件に投入

 以後、

 満州・・・・・・・・万集・万州・播州・蛮習・晩秋

 海拉爾・・・・・・・解拉字

 付近に駐屯

 1945年

 1月

 25日

 支那

 派遣軍に

 編入

 満州から

 華中へ移動

 5月

 28日

 戦闘・・・・・・・・撰等・潜等・尖塔

           選唐・撰当・撰藤

           尖(閣列)島

 序列を

 命ぜられ、

 終戦を

 杭州で迎えた・・・・甲州・光州・後周

           拘囚・考囚・講習・公衆

ーー

 通称号=守(まもる)

 編成時期=1939年8月4日

 最終位置=杭州

 上級部隊=関東軍。のち支那派遣軍。

 歴代司令官

 荻洲立兵 中将=1939年8月1日 -

 安井藤治 中将=1939年11月6日 –

 喜多誠一 中将=1941年10月15日 –

 石黒貞蔵 中将=1943年3月1日 –

 十川次郎 中将=1944年1月7日 -

 歴代参謀長

 藤本鉄熊 少将=1939年8月1日 –

 佐々木登 少将=1940年12月2日 –

 森赳 少将=1942年7月1日 –

 井桁敬治 少将=1943年2月3日 –

 工藤良一 少将=1944年2月25日 –

 参謀副長

 森赳 大佐=1941年7月7日 – 1942年7月1日

 最終司令部

 司令官=十川次郎中将

 参謀長=工藤良一少将

 高級参謀=岩崎春茂大佐

 高級副官=児玉義雄中佐

 兵器部長=田部聖少将

 経理部長=川島一之主計少将

 軍医部長=玉田政助軍医大佐

 法務部長=上村勇之法務大佐

 獣医部長=高橋雷次郎獣医

ーーー

 昭和十八年当時

 第二十三師団

 第八国境守備隊

 第八国境守備隊第一地区隊

 第八国境守備隊第一地区隊歩兵隊

 第八国境守備隊第一地区隊砲兵隊

 第八国境守備隊第二地区隊

 第八国境守備隊第二地区隊歩兵隊

 第八国境守備隊第二地区隊砲兵隊

 第八国境守備隊第三地区隊

 第八国境守備隊第三地区隊歩兵隊

 第八国境守備隊第三地区隊砲兵隊

 第八国境守備隊第四地区隊

 第八国境守備隊第四地区隊歩兵隊

 第八国境守備隊第四地区隊砲兵隊

 第八国境守備隊第五地区隊

 第八国境守備隊第五地区隊歩兵隊

 第八国境守備隊第五地区隊砲兵

ーー

 終戦時

 第七十師団

 第133師団

 独立混成第62旅団

 独立混成第89旅団

 独立混成第91旅団

 砲兵部隊

 独立野砲兵第7大隊=川上満治少佐

 独立野砲兵第8大隊=武智弘少佐

 独立野砲兵第29大隊=石橋伝少佐

 兵站部隊

 独立工兵第38連隊=五十嵐庄七大佐

 独立自動車第255大隊=田中七兵衛大尉

 第171兵站病院=高市太加一軍医中佐

 第191兵站病院=山崎新軍医大佐

ーー

 第七師団(だいしちしだん)

 大日本帝国陸軍の師団の一

 北海道に置かれた常備師団

 「北鎮部隊」と呼んでいた

 鎮台を母体に編成された

 道外の

 常設師団とは

 異なり、

 第七師団は1885年(明治十八年)

 北海道の開拓と防衛を兼ねて設置された

 屯田兵を母体とし

 1896年(明治二十九年)5月12日に編成

 補充担任は旭川師管区で、北海道内を旭川連隊区・札幌連隊区・函館連隊区・釧路連隊区と四つに分けて徴募に当たり、

 北海道の兵士で構成される建前であるが、

 北海道は人口が希薄であったために

 1万人の兵力は捻出できず、

 実際には

 東北地方出身の兵も加えられた。

 もとは四個歩兵連隊を基幹戦力とした

 4単位師団

 1940年(昭和十五年)に編制が改正

 歩兵第25連隊(札幌)を

 樺太混成旅団に転出して

 3単位師団となった

 屯田兵本部長

 永山武四郎 少将

 1885年(明治十八年)5月21日

   ~

 1889年(明治二十二年)8月1日

 屯田兵司令官

 永山武四郎 少将

 1889年(明治二十二年)8月1日

   ~

 1896年(明治二十九年)5月12日

 臨時第七師団司令官

 永山武四郎 少将

 1895年(明治二十八年)3月4日

   ~

 6月22日

 第七師団長

 永山武四郎 少将

 1896年(明治二十九年)5月12日~

 大迫尚敏 中将=1900年(明治33年)4月25日~1906年7月6日

 上田有沢 中将=1906年(明治39年)7月6日~1908年12月21日

 上原勇作 中将=1908年(明治41年)12月21日~1911年9月6日

 林太一郎 中将=1911年(明治44年)9月6日~

 宇都宮太郎 中将=1914年(大正3年)5月11日~

 藤井幸槌 中将=1916年(大正5年)8月18日~

 内野辰次郎 中将=1919年(大正8年)11月25日~

 国司伍七 中将=1923年(大正12年)8月6日~

 渡辺錠太郎 中将=1926年(大正15年)3月2日~1929年3月14日

 新井亀太郎 中将=1929年(昭和4年)3月16日~

 佐藤子之助 中将=1931年(昭和6年)8月1日~

 杉原美代太郎 中将=1933年(昭和8年)8月1日~

 宇佐美興屋 中将=1935年(昭和10年)8月1日~

 三毛一夫 中将=1936年(昭和11年)3月23日~

 園部和一郎 中将=1937年(昭和12年)8月2日~

 国崎登 中将=1939年(昭和14年)8月1日~

 鯉登行一 中将=1941年(昭和16年)11月6日~

 最終所属部隊

 歩兵第26連隊(旭川)=山口定大佐

 歩兵第27連隊(旭川)=長嶋秀雄大佐

 歩兵第28連隊(旭川)=新井花之助大佐

 山砲兵第7連隊(旭川)=佐竹千代光大佐

 捜索第7連隊(旭川)=西川勝雄少佐

 工兵第7連隊(旭川)=中村松寿少佐

 輜重兵第7連隊(旭川)=寺尾明中佐

 第7師団通信隊=山根福重少佐

 第7師団兵器勤務隊=西條初太郎中尉

 第7師団衛生隊=山根正純少佐

 第7師団第1野戦病院=小原徳行軍医大尉

 第7師団第2野戦病院=山田大秋軍医大尉

 第7師団第3野戦病院=青野茂軍医大尉

 第7師団第4野戦病院=鈴木鉄太郎軍医大尉

 第7師団病馬廠=岩上雄三郎獣医中尉

 第7師団防疫給水部=太田藤市郎軍医少佐

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 水淹七軍

 関羽、

 于禁率いる

 曹操軍を水攻め

ーーーーー

 枕草子

 (一二六段)・・・百二十六段・壱佰弐拾六段・壱弐六段・陌念弐足陸段

          1+2+6=9=九=玖

          1×2×6=12=十二=壱拾弐=壱足弐

 わびしげ・・・

 に・・・

 見ゆる・・・

 もの・・・

 六、・・・陸・陸奥・June

      水無月(みなづき).

 七・・・・漆・質・志知・死地・July

      文月(ふみづき)・文暴月

      文月=日本海軍の「睦月型駆逐艦」の七番艦

 月・・・・ゲツ・解通

      つき・通記

      ガツ・臥通

      マンス・month・・・真務諏

 の・・・・之

 午未の・・語視之・五味之・塵之・芥之・埃及之

 時・・・・字

 ばかりに、・・・秤爾

 穢げなる・・・穢=禾+歳・紀他名解納留

 車に・・・・・写字・写事

 えせ・・・

 牛・・・・うし・主・塗師

 かけて、・・・懸けて

 ゆるがし・・・喩留臥詞

 行く・・・・・行句

 もの。・・・・摸之

 雨・・・・・・亜目

 ふらぬ・・・・附等濡・振等又

 日・・・・・・比

 はり・・・・・貼り

 むしろ・・・・務詞賂

 したる・・・・史他留

 車。・・・・・写

 降る・・・・・振る

 日・・・・・・比

 はり・・・・・葉理

 むしろ・・・・務史賂

 せぬ・・・・・施又

 も。・・・・・摸

 年・・・・・・賭詞

 老い・・・・・於意

 たる・・・・・他留

 乞兒。・・・・考字・公示・後事・交字

        小路・孝治・孝事・高事

 いと・・・・・意図

 寒き・・・・・作務記

 をり・・・・・織・折・檻

 も、・・・・・模

 暑き・・・・・亜通記

 にも、・・・・似摸

 下種・・・・・下田音

 女の・・・・・音納之

 なり・・・・・納理・名理

 あしきが・・・亜史記臥

 子を・・・・・詞を・史を・塩・汐・潮

        志雄

 負ひ・・・・・於意

 たる。・・・・他留

 ちひさき・・・知比作記

 板屋の・・・・意他埜之

 黒う・・・・・句賂得

 きたなげ・・・記他名解

 なるが、・・・納留臥

 雨に・・・・・亜女爾

 ぬれ・・・・・又例

 たる。・・・・他留

 雨の・・・

 いたく・・・・依託・遺沢・意他句

 降る・・・・・附留・古・振る

 日、・・・・・比

 ちひ・・・・・事比

 さき・・・・・作記

 馬に・・・・・真字爾

 乘りて・・・・則出・法出・矩出・紀出

 前駈・・・・・真得化懸

 した・・・

 る・・・

 人の、・・・

 かうぶり・・・交振り

 も・・・・・・模

 ひしげ、・・・比詞解

 袍も・・・・わたいれ・ボウ・ホウ

       盤領(あげくび)

       束帯や衣冠の上着

       「うえのきぬ」ともいう

 下襲も・・・「したがさね」も

        詞多重ね・史他化作音

 ひとつ・・・

 に・・・

 なり・・・

 たる、・・・

 いかに・・・

 わびし・・・侘し・話備史

 か・・・

 らん・・・

 と・・・

 見え・・・

 たり。・・・

 夏は・・・・なつ・納通

       ゲは・解葉

       カは・化葉

 されど・・・作例度

 よし。・・・

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 ・・・


コメント
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