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口永良部島・沖永良部島・・・琉球列島・沖縄列島

2015-05-29 22:58:27 | 古事記字源

 ・・・「ひょうたん型」の「口永良部島(くちのえらぶじま・コウエイリョウブトウ?」・・・「考英領武闘・公営両部問う・後裔漁部当」の噴火?・・・島に住む人は怪我もなく避難できたらしい・・・屋久島の西方に位置する島。「火山島」で「1933年(昭和八年)~1934年 七釜集落は噴石により全滅、死者8名、負傷者26名」・・・「七釜集落の全滅」・・・「口永良部島」の呼称は「鹿児島県熊毛郡屋久島町の大字の口永良部島」・・・「口の選ぶ」・・・「口永良部」という地名は「江戸期」からで、当時は「口之永良部島村(くちのえらぶじま)・三国名勝図会,1843(天保十四年)」・・・琉球諸島からの船の停泊地で,馬の放牧も行われていた・・・「沖永良部島(おきのえらぶじま、おきえらぶじま)」は奄美群島の南西部に位置する島・・・「鹿児島県大島郡に属し、北緯 27度東経128度付近に位置し、「和泊町」と「知名町」の二町からなる。「隆起珊瑚礁の島」。「大山を中心とした知名町側の地域には、幾段かの段丘地形を呈し石灰岩が広く分布し、島には鍾乳洞が多い」・・・「西郷隆盛の流刑地」・・・「置きの選ぶ」・・・「1609年(慶長十四年)、薩摩藩の侵攻により薩摩の直轄領」、「1616年(元和二年)、徳之島に代官所が置かれ、沖永良部島と与論島を巡回して統治」・・・
 例の如く以上も以下も参照、参考の原文は「ウイッキペデア」や、他の「ブログ記事」・・・「妄想」個所はボクのオリジナル・・・


ーーーーー
 「ヒザマ」は、
 沖永良部島の伝説上の
 「魔鳥(HellHawk)」・・・・「hawk」=鷹(タカ)
                他人を食い物にする人
                強欲な人
                詐欺師
                タカ派の人
                強硬論者
                主戦論者
 家に憑いて火事を引き起こす
 姿は鶏(ニワトリ)に似て
 胡麻塩色の羽根を持ち、
 頬が赤い
 家に憑く際は
 「空(から)の
  瓶(ビン)や
  桶(おけ)」
 に宿る
 防ぐためには
 器(うつわ・キ)を
 伏せておくか、
 常に
 水で満たしておく
 沖永良部島では
 邪神
 ヒザマに似た
 鶏(ニワトリ)・・・隋書俀国
           「俀王
            姓
            阿毎
            字多利思北孤
            號
            阿輩(アワ?)→吾輩
               阿波
               安房
               粟→黍
               泡
               沫
               淡路島
               愍(ビン・ミン
                 あわ-れ
                 あわ-れむ
                 「愍笑・愍然
                  哀愍
                  憐愍(れんびん
                     れんみん)」
            雞彌(キミ?・ケミ)」
              ・・・・雞=鶏
               にわとり
             彌(ビ・ミ)=み・いよいよ
               わた-る
               ひさ-しい
           「王妻
            號
            雞彌・・・・雞=鶏
            後宮
            有
            女
            六七百人
            名
            太子
            爲
            利歌彌(リカミ?)
            多弗利(タフリ?)」
       「夷人
        不知里數但計以日
        其國境
        東西五月行
        南北三月行
        各至於海
        其地勢
        東高
        西下
        都
        於
        邪靡堆・・・・靡(なびく)
        則
        魏志
        所謂
        邪馬臺
  ↓     者也」
  ↓  流求=「隋書・帝紀・列伝
  ↓      貞観十年(636)
         魏徴の主編、
         志は顕慶元年(656)
         長孫無忌の監修」
         ↓↑
        「流求
         煬帝紀上(巻三・帝紀第三)
         大業三年三月癸丑条
         大業六年二月乙巳条)
         食貨志(巻二四・志第一九
             煬帝即位条)
         陳稜伝(巻六四・列伝第二九)
        「流求国伝(巻八一・列伝第四六
              東夷)」
         の
         四ヵ所に記録
         「隋書・流求国伝」
         「流求国は海島の中に居す
          建安郡の東に当り、
  ↓       水行五日にして至る」
  ↓        ↓↑
         「新約聖書の日本語訳」
         1847年~1855年の
  ↓      ベッテルハイムの日本語訳は
  ↓      琉球語   
 を飼うことを
 忌み嫌った
 「ヒザマ=火玉」という字が当てられ
 鳥ではなく
 読んで字の如く
 「火の玉」で、
 火事を引き起こすものとされている・・・
  ↓↑
 桃太郎
 「沖永良部」島では、
 「鬼が島」ではなく、
  ↓
 桃太郎は
 「ニラの島」へ行った・・・「ニラ」=似等?
              「ニ・ラ」の
              スベテの同音異字漢字
              似等
              螺・蠃・羅・覶・裸・・・
 龍宮である
 「ニラの島」で
 島民は
 鬼に食われていたが、
 唯一の生存者の老人の家に
 「羽釜」・・・・竃に架けるための
  ↓      鍔・鐔=「つば」があり
         それを羽根に例えて
         羽釜(はがま)と呼ぶ。
         蓋は木製
         釜は、
         茶の湯では
         湯を沸かす道具
         同音異字の「かま」
         鎌=草を刈る道具
         窯=ガラスや焼物などを作るのに使う
         竃=かまど・「釜」などの
           調理器具を乗せ、加熱設備
         罐=蒸気機関車などのボイラー
           電機、ディーゼル機関車を含め
  ↓        カマと呼ぶ
 があり、
 その蓋の裏に
 「鬼の島への道しるべ」が書かれており、
 その道しるべどおり
 地下の鬼の島へ行き、
 鬼退治した・・・
  ↓↑
 「もも太郎さん」の歌
 作詞者は不詳
 岡野貞一 作曲
  ↓↑
 岡野貞一
 1878年(明治十一年)
 二月十六日生
  ~
 1941年(昭和十六年)
 日本大学附属病院で死去
 63歳没
  ↓↑
 1892年(明治二十五年)
 キリスト教徒として
 鳥取教会(日本基督教団)で洗礼
 翌年、
 岡山の教会で
 宣教師からオルガンの演奏法を習った
 東京音楽学校(東京藝術大学)の
 第二代校長である
 同郷の
 村岡範為馳が
 1892年(明治二十五年)に
 鳥取で行った
 講演に影響され、
 1895年(明治二十八年)
 岡山の
 薇陽学院を中退
 上京して
 東京音楽学校に入学
 1900年(明治三十三年)
 卒業
 1924年(大正十三年)
 東京音楽学校(東京芸大)の教授
 「春が来た・水師営の会見
  春の小川・故郷(ふるさと)」
 などを作曲
  ↓↑
 「もも太郎さん」
 1911年(明治四十四年)五月
 『尋常小学唱歌(一)』
 歌詞

 桃太郎さん 桃太郎さん
 お腰につけた
 黍団子
 一つ
 わたしに
 下さいな
  ↓
 やりましょう やりましょう
 これから鬼の
 征伐に
 ついて行くなら
 やりましょう
  ↓
 行きましょう 行きましょう
 あなたについて
 何処までも
 家来になって
 行きましょう
  ↓
 そりゃ進め そりゃ進め
 一度に攻めて
 攻めやぶり
 つぶしてしまえ
 鬼が島
  ↓
 おもしろい おもしろい
 のこらず鬼を
 攻めふせて
 分捕物を
 えんやらや
  ↓
 ばんばんざい ばんばんざい
 お伴の犬や
 猿 雉は 
 勇んで車を
 えんやらや
  ↓↑
ーーーーー
 ヨシュア(Yehoshuʿa・Joshua)
 ヘブライ語
 イェホ(ー)シュア (Yehoshuʿa)
 英語
 ジョシュア (Joshua)
 スペイン語
 ホスエ (Josué)
 ポルトガル語ジョズエ (Josué)
 ドイツ語・オランダ語
 ヨ(ー)ズア (独: Josua・蘭: Jozua)
 ヨシアス (独: Josias)
 フランス語ジョジュエ (Josué)
 ↓↑
 アラブ語エッサ (Essa)
     イッサ (Issa)
 インドで
 「イエス」は「イッサ」・・・?
  ↓↑
 「エッサ」
  と
 「イッサ」
  と
 「一茶」
  を「発音」で「妄想」する・・・「与諏亜」・・・
「茶」=ちゃ・ダ・タ・チャ・サ(唐音)
 「荼」という字が
 「苦菜」ではなく現在の「茶」を指す最初の例
 「前漢の王褒」が記した
 「僮約」という文章
 「使用人(僮)」がしなければならない仕事に
 「荼を烹(に)る」、
 「武陽で荼を買う」
 という項がある
 茶の産地は武陽(彭山県、眉山茶の産地)
 で、苦菜ではなく茶である・・・
 この「僮約」には
 神爵三年(前59年)という日付
 紀元前1世紀には既に喫茶の風習があった・・・
 唐代
 茶の文化を初めて体系化したのは、
 唐の
 陸羽(? - 804年)
     「茶」→「木+茶」
     「茶」=サ(艸)+Λ+木
     「tea」=閩南語=中国南方方言
         (ミンナン・ビンナン)の
          茶の読み「tê・テ」が
          オランダ
          東インド会社経由で
          オランダ語
          「thee」として
          西ヨーロッパに広まった
          英語の
          「thee」は
          「汝(なんじ)・thy」
          「育つ」
          スコットランド語は
          「腿・太股・太腿」
      ↓↑
     「荼(ダ)=サ(艸)+余→Λ+禾」
      と
     「茶(チャ)=サ(艸)+ Λ+木」
      とは別字
      ↓↑
     「荼(ト)」
     「茗(メイ)」
     「荈(セン)」
     「檟(カ)」
      ↓↑
      といった文字が当てられていた
     「軍荼(ダ)利=クンダリンは水瓶
             とぐろを巻いた蛇
      曼荼(ダ)羅=聖域、仏の悟りの境地、
             世界観などを
             仏像、
             シンボル、文字、神々
             などを
             視覚的
             象徴的に表したもの
      鳩槃荼(ダ)」
  ↓↑
 小林      一 茶
 (こばやし   いっ さ
  ショウリン  イチチャ)
  ↓↑
 宝暦十三年五月五日
 (1763年6月15日)
   ~
 文政十年十一月十九日
 (1828年1月5日)
 江戸時代の俳諧師
 本名
 小林弥太郎
 別号
 圯橋・菊明・亜堂・雲外
 一茶坊・二六庵・俳諧寺
 など
  ↓↑
 宝暦十三年(1763年)
 信濃北部
 北国街道
 柏原宿(長野県上水内郡信濃町大字柏原)
 の中農の長男とし誕生
 3歳の時に生母を失い、
 8歳で継母を迎える
 継母に馴染めず、
 安永六年(1777年)
 14歳
 江戸へ奉公に出る
 25歳
 小林竹阿(二六庵竹阿)
 に師事して俳諧を学ぶ
 寛政三年(1791年)
 29歳
 故郷に帰り、
 翌年より36歳の年まで
 俳諧の修行のため
 近畿・四国・九州を歴遊
 享和元年(1801年)
 39歳
 帰省
 病気の父を看病したが1ヶ月ほど後に死去
 以後遺産相続の件で
 継母と
 12年間争う
 父の発病から死、
 初七日を迎えるまでの
 約1ヶ月を描いた
 『父の終焉日記』は、私小説の先駆け
 文化五年(1808年)末
 遺産の半分を貰う
 取り分は
 田4~6反、
 畑3反歩、
 山林3ヵ所、
 家屋敷半分、
 世帯道具一式
 文化五年以降
 柏原村の本百姓として登録
 文化六年
 弥太郎名義で年貢を納める
 文化九年(1812年)十一月半ば
 江戸を経ち郷里柏原村に向かった
 文化十年(1813年)
 弟との間に取り交わした
 熟談書付の事にある
 家屋敷分譲の実行と
 文化四年(1807年)以前の
 収入と利息を払えという中味で、
 遺産争い
  ↓↑
 文化九年(1812年)
 50歳
 信州柏原に帰り、
 2年後
 28歳の妻
 きく
 を娶り、
 3男1女をもうけるが
 何れも幼くして死亡
 きく
 も痛風がもとで37歳で死亡
 62歳で2番目の妻
 田中雪を迎えるが半年で離婚
 64歳で3番目の妻
 やを
 との間に
 1女
 やた
 をもうける
 やたは一茶の死後に出産
 文政十年閏六月一日(1827年7月24日)
 柏原宿大火で
 母屋を失い、
 焼け残った土蔵で生活
 十一月十九日
 64歳半で死亡
 法名は
 釈一茶不退位
  ↓
 俳号「一茶」の由来
 『寛政三年紀行』の巻頭で
 「西にうろたへ、
  東にさすらい
  住の狂人有。
  旦には上総に喰ひ、
  夕にハ武蔵にやどりて、
  しら波のよるべをしらず、
  たつ泡のきえやすき物から、
  名を
  一茶房といふ」
  と記述
  ↓↑
 代表的句
 雪とけて村いっぱいの子どもかな
 大根(だいこ)引き大根で道を教へけり
 めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春
 やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり
 悠然(いうぜん)として山を見る蛙(かへる)かな
 雀の子そこのけそこのけお馬が通る
 蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん
 やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする
 名月をとってくれろと泣く子かな
 これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
 うまさうな雪がふうはりふうはりと
 ともかくもあなたまかせの年の暮(くれ)
 我ときて遊べや親のない雀
  ↓↑
 一茶の作った句の数
 約22,000句
 平成に発見された一茶の句
 ちるひとつ咲のも一つ帰り花(2013年11月)
 けふもけふも霞はなしの榎かな(2011年4月)
 一株の芒をたのむ庵哉(2010年5月)
 稲妻のおつるところや五十貌(2010年5月)
 猫の子が手でおとす也耳の雪(2010年2月)
 菜の虫ハ化して飛けり朝の月(2009年4月)
 羽根生へてな虫ハとぶぞ引がへる(2009年4月)
 代表句集等
 生前の一茶の著書
 『旅拾遺』
 『さらば笠』
 『三韓人』
 などがあるが
 自身の俳書はない
 『一茶発句集』
 『おらが春』
 は没後に刊行
 「寛政三年紀行」
 「父の終焉日記」
 「我春集」
 「株番」
 「志多良」
 もいずれも遺稿
 「寛政句帖」
 「享和句帖」
 「文化句帖」
 「七番日記」
 「八番日記」
 「文政句帳」
 など克明な記録は、
 出版を意図して書かれたものではない
  ↓↑
 昭和十三年九月
 作詞者
 山上武夫は
 東京の
 大森の姉の嫁ぎ先で居候生活
 『お猿のかごや』の
 「小田原提灯」が縁となり、
 親しい関係にある
 小田原市から頼まれて書いた
  ↓
 「小田原提灯」
 折り畳んで懐中に入れる事ができる
 「懐中提灯」とも
 江戸時代、
 甚左ヱ門
 が作って売り出した
 雨にあたっても
 壊れにくく、
 材料に
 大雄山
 最乗寺の
 霊木を使って
 魔よけになると宣伝
 箱根の
 山越えをする旅人に重宝がられた
  ↓ 
 山上武夫は、
 作曲者の
 海沼實と
 同郷(長野市松代町)で
 後輩
 昭和十三年九月
 「お猿のかごや」
 九月中に作曲され、
 海沼が
 レコード会社へ持ち込み
 詩は、
 山上の自作発表
 童謡誌
 『ゆずの木』
 昭和十三年十二月号掲載
 昭和十四年秋
 レコード化
 ビクターから
 A面が「動物の大行進」
 B面が「お猿のかごや」
 として発売
 昭和十四年十二月に発売、
 昭和十五年正月新譜。
 歌手
 尾村まさ子
 大内至子
 山崎百代
 小林茂子
  ↓
 歌詞カードは
 カタカナと
 漢字書き
 山道を
 狐を乗せた
 お猿の
 かごやが駆け抜ける
 挿絵入り
 タイトルは
 「オ猿ノカゴヤ」
  ↓
 現在の歌詞
 海沼が
 作曲上の
 都合で改作・・・
 一番の一行目は、
 「エッサ ホイサ エッサ ホイサ」
 という
 「籠かき」のかけ声が、
 海沼が作曲する時、
 「エッサ エッサ エッサホイサッサ」
 に改めた。
 山上は反対したが
 海沼は自分の意見を通した
  ↓
 最後の「ホイ」を
 一つ減らして、
 「ホイ ホイ ホイ ホイサッサ」
 と四つにした
  ↓
 作曲家 
 海沼實の
 自筆楽譜(昭和二十一年)は
 「オダハラヂャウチン」
 長野市松代町の歌碑の
 楽譜(昭和六十三年建立)も
 「おだわらぢょうちん」
  ↓
 海沼は、
 二十四歳で東洋音楽学校入学
 バイオリンを専攻
 自筆楽譜(昭和二十一年)
  ↓
 戦後発売されたレコード
 童謡歌手
 大道真弓とゆりかご会
 「おだわらぢょうちん」
 録音
 昭和二十二年八月二十六日
 発売
 昭和二十三年三月(第十四回発売)
 踊の振り付け
 賀来琢磨
  ↓ 
 山上武夫
 昭和十三年(1938年)五月
 童謡誌『ゆずの木』
 (ゆずの木童謠社)の発行
 創刊号(昭和十三年五月十五日発行)
 同年九月
  ↓
 「お猿のかごや」を作詞
 海沼實が作曲
 同年十二月
 「お猿のかごや」を
 『ゆずの木』に発表
 昭和十四年(1939年)
 二十二歳、
 「お猿のかごや」を
 ビクターでレコード化
 昭和十五年(1940年)
 正月新譜発売の
 「お猿のかごや」がヒット
 その後も
 海沼とコンビを組んで
 『欲しがりません 勝つまでは』
 『見てござる』
 『農家の皆さん 今晩は』
 も作った
 松代で終戦
 故郷で
 書店を営みながら詩作
  ↓
 昭和四十四年(1969年)
 海沼とのコンビの曲
 『うまれたきょうだい十一人』が、
 「第十一回日本レコード大賞童謡賞」受賞
 昭和六十二年(1987年)十一月二日
 七十歳で死亡
  ↓
 海沼實
 明治四十二年(1909年)一月三十一日
 長野県埴科郡(長野市)
 松代町松代に生まれる
 昭和七年(1932年)
 音楽家を志望し上京
 昭和八年(1933年)
 東洋音楽学校(東京音楽大学)入学
 護国寺
 幼稚園に
 「音羽ゆりかご会」を開設
 「音羽ゆりかご会」の名前は
 「音羽」という地名と、
 海沼が師と仰ぐ
 草川 信 作曲
 北原白秋 作詞
 の
 『揺籠のうた』による
  ↓
 昭和十一年(1936年)
 東洋音楽学校卒業
 昭和十七年(1942年)
 川田正子(八歳)
 川田孝子(六歳)の姉妹が
 「音羽ゆりかご会」に入会
 昭和十八年(1943年)七月十日
 「音羽ゆりかご会」は
 『やさしいお母さま』を歌った
 大道真弓
 と
 『兵隊さんの汽車』を歌った
 川田正子
 が入会
 少女歌手
 川田正子、孝子の姉妹らと
 NHK専属になり、
 「東京放送児童合唱団」結成
 川田正子、孝子、美智子
 三姉妹
 ほかの童謡歌手を育て
 『みかんの花咲く丘』
 『お猿のかごや』
 『あの子はたあれ』
 など
 約三千曲を作曲
 昭和四十六年(1971年)六月十三日
 六十二歳で死亡
ーーーーー
 「お猿のかごや」
 山上武夫 作詞
 海沼 実 作曲

 エッサ
 エッサ
 エッサホイ
 サッサ
 お猿のかごやだ
 ホイサッサ
 日暮(ひぐれ)れの
 山道
 細い道
 小田原提灯
 (おだわらぢょうちん)
 ぶらさげて
 ソレ
 ヤットコ
 ドッコイ
 ホイサッサ
 ホーイ
 ホイホイ
 ホイサッサ
  ↓
 エッサ
 エッサ
 エッサホイ
 サッサ
 木(こ)の葉のわらじで
 ホイサッサ
 お客はおしゃれの
 こん狐(ぎつね)
 つんとすまして
 乗っている
 ソレ
 ヤットコ
 ドッコイ
 ホイサッサ
 ホーイ
 ホイホイ
 ホイサッサ
  ↓
 エッサ
 エッサ
 エッサホイ
 サッサ
 元気なかごやだ
 ホイサッサ
 すべっちゃいけない
 丸木橋
 そらそら小石だ
 つまずくな
 ソレ
 ヤットコ
 ドッコイ
 ホイサッサ
 ホーイ
 ホイホイ
 ホイサッサ
  ↓
 エッサ
 エッサ
 エッサホイ
 サッサ
 のぼって
 くだって
 ホイサッサ
 ちらちらあかりは
 見えるけど
 向うのお山は
 まだ遠い
 ソレ
 ヤットコ
 ドッコイ
 ホイサッサ
 ホーイ
 ホイホイ
 ホイサッサ
ーーーーー

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家族・親類・一族・隣人・・・村民・町民・国民・・・人間

2015-05-29 00:14:52 | 古事記字源

 ・・・17時、本日の国会中継が終わった・・・「首相」も「外相」も「ベトナム戦争」、「イラク戦争」を持ち出されては「真っ青」である・・・質問者は「日本政府」の提出法案である「集団的自衛権(アメリカとの軍事同盟)法案」も、「自衛隊PKO派遣法案」も「日本国憲法」を筋とした、あるいは「国連憲章、決議」を筋としたモノからイカに「理不尽」で、「不条理」なモノであるかを明らかにした・・・過去の日本政府に「主体性」は無かった・・・現今の「自民党」にも、「維新の会」にも「日本国憲法」を軸にした「独立日本国家」などは在り得ないのである・・・ 
 「国家存立の意思・意志」が「日本国憲法」にあるとしたならば、「国会議員屋」である「自民党」も「維新の党」も「国家反逆罪」の徒党で、尚且つ「国家司法屋」も「日本国憲法」を歪曲解釈し、その歪曲判断を公に告知する「国家反逆罪」の「不逞の輩」である。 
 当然、彼らを「選挙し、選出し、容認している国民」は「国家反逆罪」の同伴以上の「協働主犯格」である・・・ 
 「日本自民党」も「日本維新の党」も、勿論、「日本社会党・日本共産党」も「アメリカの属国・追従国」であることには「苦渋」しているのであるカナ・・・「日本」の「主体的判断」ですか・・・ 
 「日本国家の主体的判断」とはナニか? 
 彼らは「領域国家主義者」であり、その枠内の「国家エゴイスト(プチブル意識主義者)」であり、「日本国憲法」は「国家の対外暴力」を否定しているが、「地球人類の公平主義者」ではない。「領域階級国家の枠内の生活が最優先」なのである。 
 ・・・当然である・・・?・・・ 
 「日本国憲法」が「国家三原理の領域・主権・対外暴力行使」の「対外暴力行使」を否定しているが「プチブル私有財産自由選択主義者の階級妥協の民主国家」であるコトには変わりがない。 
 モチロン、どんな「外国国家」のイイナリになりたくないのは、コレも当然である・・・「自国の政治的判断で主体的に対外的にも暴力行使の自由選択をしたい独立国家」でありたいのだ・・・ナゼなのか? 
 「国家意思・意志=法」の「主体的判断」の基準とはナニか? 
 「階級社会の国家としての対外的な損得勘定貫徹の実力行使」である。そのほとんどの「実力(暴力)行使」は「領土、領海の領有権」である・・・ 
 例外は「国家の名誉棄損」や、「他国に存在する自国国籍民の生命の安全確保」での「実力行使」もあるらしいが・・・かっての「公明党の某大臣」は「外国渡航・在住」の不都合な自国国籍民に対しては「自己責任」であると公言していた・・・ 
 最近では「自己責任」での「外国渡航」は国家に不都合な人物と判断された人物のパスポートを取り上げている・・・ 
 兎に角、「国家の対外実力(暴力)行使」とは「戦争」である。 
 「日本独立国家」とはナニか?・・・ 
 国際的な対外諸関係での暴力抜きの「損得利害勘定の政治的な意思と、意志の追求」の「プチブル国家」である・・・ 
 そして、「過去の贖罪」を背負い、日本国家指導者は姑息な形であれ、「日本国居住民」を騙しつつ、励ましつつ、「理想、信念」を捨てきれずに、現実的に葛藤しながら「命の尊厳」を地球の重さと天秤に架け追求してきたのである・・・それが政治屋の損得勘定でのウソであっても痛みを現実的に知っている「戦中+戦後」の日本人世代の心情であった・・・ 
 「プチブル日本国家指導者」であっても、とってつけたような「過去の怨念の歴史」を声高でがなり、自己反省もせず、「信義」も護らず、自国国内問題を「日本国民」に振る厚顔無恥なイチャモン国家指導者とはレベルが異なるのだ・・・ 
 モチロン、中国であれ、アメリカであれ、アフリカ、アラブの諸国家であれ、国家組織にふんぞり返って政治屋のウソなどは人々には「百も承知」である・・・ 
 とは云え、情報乱舞の世界である・・・情報過剰の中で「百も承知」も「プチブル意識内」では右往左往の混乱状態である・・・「売れる情報は商品」である・・・カネになる・・・ 
 だが「日本国憲法」を基準に筋をたどれば、「百も承知の表裏」はもはや必要ではない。 
 しかしながら、現実の諸外国は「日本国憲法(戦争放棄)」の枠外に存在しているのだ・・・「国連」も国際信義を護らない「暴力大国」に翻弄され、あてにならない存在である・・・戦後七〇年間・・・「日本・独逸」は「国連加盟国」である。しかも「敵国」の記録は「国連」からは抹消されてはいない・・・ 


ーーーーー 
 旧約聖書 
 ヨシュア記 
 概略・・・参照原文は「ウイッキペデア」 
 ↓ 
 ヨシュア(Yehoshuʿa・Joshua) 
      ヘブライ語イェホ(ー)シュア (Yehoshuʿa) 
      英語ジョシュア (Joshua) 
      スペイン語ホスエ (Josué) 
      ポルトガル語ジョズエ (Josué) 
      ドイツ語・オランダ語 
      ヨ(ー)ズア (独: Josua・蘭: Jozua) 
      ヨシアス (独: Josias) 
      フランス語ジョジュエ (Josué) 
      アラブ語エッサ (Essa) 
          イッサ (Issa) 
      「イエス」はインドで「イッサ」・・・? 
                「一茶」の俳句 
 ↓    「やれ打つな、蠅が手をする、足をする」 
 ↓     ・・・ハエが殺さないでと懇願?・・・ 
 の指導の下、 
 イスラエル人が 
 カナンに住む 
 諸民族を武力で制圧し、 
 約束の地を征服 
 ユダヤ教においては 
 預言書に分類 
  ↓ 
 ヨシュアが記録し 
 (ヨシュア記24章26節) 
 彼の死後の記事を 
 アロン・・・・・・モーゼの兄 
 の 
 子 
 エルアザル・・・・獲(得・重)る 
          阿猿・・・漁る 
               吾申 
 と 
 エルアザル・・・・ 
 の 
 子 
 ピネハス・・・・・捻(ひね) 
          葉素(はす)・葉諏 
 が書いた 
 創世記~申命記の 
 モーセ五書に 
 ヨシュア記を加えて 
 「六書」 
 とする・・・リクショ=陸書 
   ↓   ↓ 
   ↓  日本の 
   ↓  「六国史」 
   ↓  明治維新後に 
   ↓  「六国史以降」を対象として、 
      史書編纂は計画されたが 
      実現せず、 
      代わりに 
      「大日本史料」が 
      編纂される・・・ 
   ↓   ↓ 
   ↓  「六国史(りっこくし)」 
      奈良~平安時代の 
      「修史事業」の完成結果 
      「日本書紀」 
      「続日本紀 (しょくにほん ぎ)」 
      「日本後紀」 
      「続日本後紀」 
      「日本文徳天皇実録」 
   ↓  「日本三代実録」 
   ↓  8世紀~10世紀の初頭 
      律令国家としての体制を整備した 
      天皇を中心とする 
      法典とあわせて、編纂した「六書」 
      六国史以前にも 
      「国記」 
      「天皇記」が編纂されたらしい記録 
   ↓  があるが現存せず 
   ↓  完成していたかどうかも不明・・・ 
   ↓ 
 1952~1957年 
 Kathleen M. Kenyon 
 らによって 
 考古学的発掘が行われた 
 エリコの城壁の崩壊は 
 紀元前3000年紀の出来事・・・ 
 ヨシュアたちが 
 エリコに来たときには、 
 エリコは 
 既(すで)に廃墟になっていた・・・ 
 したがって、 
 「ヨシュア記 
  6章」 
 に記されている 
 エリコ陥落物語は 
 歴史的事実ではない 
 原因譚として 
 後から 
 (2~7章の物語が)創作された・・・ 
 「10章」に記されている 
 「太陽と月の停止」は、 
 カナンの民間説話・・・ 
  ↓ 
 エジプト脱出時に 
 20歳を超えていた者のうち、 
 ヨルダン川を渡ることを許されたのは 
 ヨシュア 
 と 
 カレブ 
 の 
 二人だけ 
  ↓ 
 ルベン、 
 ガド、 
 マナセの半部族 
 は 
 ヨルダン川東岸に定住 
 同時に 
 ヨルダン川西岸に渡って 
 共に戦うと誓かわされた 
  ↓ 
 二人 
 の 
 斥候(セッコウ)・・・・斥侯・・・スパイ 
             間諜・偵察・・・京都祗園の 
                     芸鼓・芸子 
                     明石大佐 
                     マタ・ハリ 
                     ゾルゲ 
                     川島芳子 
                    (愛新覺羅顯㺭) 
                     007 
             石工・石膏 
             拙攻・拙稿 
 が 
 エリコに派遣 
 エリコの王は 
 斥候を捕らえようと 
 探索 
 ↓ 
 娼婦(ショウフ)・・・笑婦・遊女・夜鷹・廓女 
            章譜 
 ラハブ・・・・・・・・螺土生 
            蠃葉部 
            等葉分 
 は 
 斥候たちを 
 匿(かくま)う・・・・匿=匚(はこ)+若(わかい) 
                      もしく 
              和解・和歌意・倭甲斐 
              摸詞句・摸史句 
              匚=ホウ 
              若=ジャク・ニャク 
            隠匿(イントク) 
 ラハブ・・・・彼女は 
        斥候たちを 
        屋上の 
        亜麻の束の中に入れて隠した 
 は、 
 自分と親族の身の 
 安全を請願 
 斥候たちは 
 身を守る方法・・・窓に 
 ↓        赤い紐(ひも)が 
          結び付けてある 
          家を救うという約束 
          ↓↑ 
          赤の象徴 
          赤族(平家)皆殺しは 
          白族(源氏)の仕業 
          四面楚歌の 
          項羽、虞美人 
          騅=葦毛馬(烏鵻・小鳩) 
   力拔山兮氣蓋世(力は山を抜き気は世を蓋う) 
   時不利兮騅不逝(時利あらず騅逝かず) 
   騅不逝兮可奈何(騅逝かざるを奈何すべき) 
   虞兮虞兮奈若何(虞や虞や汝を奈何せん) 
        関羽の「赤菟馬」ならば 
 ↓      赤白だが?・・・赤目兎のような馬 
 を 
 ラハブ 
 に伝え、 
 ヨシュアの 
 元に帰って報告 
 三日目に、 
 ヨシュアは 
 ヨルダン川の 
 手前で宿営 
 その翌日、 
 ヨシュアは 
 契約 
 の 
 箱(はこ) 
 を 
 携えた 
 祭司たちを 
 ヨルダン川に入らせる 
 川の上流で 
 水が 
 堰き止められて・・・・・黒田官兵衛=黒田如水は 
             「旧約聖書」を読んだか? 
             「日本史」 
             ルイス・フロイス著には、 
             「カトリックを 
              受洗した者のうち」の 
             「シメオン=シオン」 
             清水宗治の 
             備中高松城の水攻めで 
             黒田官兵衛=如水=孝高は 
             船に土嚢を積んで 
             底に穴を開けて沈める作戦 
             竹中重治=竹中半兵衛は? 
 ヨルダン川が 
 干上がり、 
 その間に 
 全員が川を渡る 
 ルベン、 
 ガド、 
 マナセ 
 の半部族のうち、 
 四万人の戦士も 
 共に 
 ヨルダン川を渡る 
 神は 
 ギルガル・・・・魏留臥留←前225年(丙子) 
              秦王政二十二年 
              王翦の息子 
              王賁は魏を攻撃 
              魏は 
              大梁城を守り 
              これを 
              秦の 
              王賁は 
              水攻めにする作戦で 
              滅ぼした 
              ↓ 
              魏の曹操は 
              下邳城に籠城した 
              呂布を 
              水攻めによって 
              落城させ、 
              豫州東部と徐州を制圧 
              ↓ 
              于禁(ウキン)=文則 
              泰平郡巨平県五将軍の一人 
              魏の曹操に使えていたが 
              樊城の戦いで 
              関羽の水攻めにより降伏 
 に 
 記念碑の建立を命じ 
 ヨシュアは 
 ギルガル 
 と 
 ヨルダン川の 
 祭司たちが立っている場所に、 
 それぞれ記念碑を建立 
 ギルガルに宿営が張られる 
 神は 
 民に割礼を施すようヨシュアに命じる 
 ギルガルで 
 過越を祝う 
 翌日、 
 マナ 
 の 
 供給が終わる 
 ヨシュアは聖なる所へと 
 足を踏み入れてしまい、 
 サンダル 
 を 
 脱ぐよう 
 「主の軍の将軍」に命令 
 エリコの城壁が崩壊 
 エリコの住民と家畜は、 
 ラハブに属するものを除き、 
 すべて滅ぼされる 
 ヨシュアは 
 エリコに対する呪いの言葉を語る 
  ↓ 
 アカンは 
 エリコの戦利品を隠し持つ 
 ヨシュアは 
 アイに 
 三千の兵を差し向けるが、 
 派遣隊は敗北 
 神はヨシュアに、 
 エリコの 
 戦利品を隠し持つ者がいることを告げ 
 アカンが逮捕され、 
 彼の 
 家族、 
 および 
 彼の所有する家畜に至るまで 
 石打ちにされる 
 神はアイの再攻撃を命じ 
 都市の背後に伏兵を配置し 
 ヨシュアは 
 三万の兵を夜のうちに送り出し、 
 自らは敗走を装う兵を指揮 
 アイの兵は都市を出て 
 ヨシュア軍を追撃するが、 
 挟撃されて全滅 
 アイの王も 
 捕虜となり殺され、 
 住民も皆殺しにされる 
 アイは焼かれ、 
 ヨシュアたちは 
 アイの町の 
 家畜と分捕り品を 
 奪い取る 
 エバル山に 
 祭壇を築き、 
 犠牲を捧げる 
 ヨシュアはその祭壇に 
 モーセの律法の写しを記す 
 民は 
 エバル山 
 と 
 ゲリジム山 
 の前に集められ、 
 彼らの前で 
 律法の全ての言葉が朗読される 
 ↓ 
 ギブオン周辺に住む 
 ヒビ人たちは、 
 侵攻して来た 
 イスラエル人を欺いて 
 協定を結ばせ 
 殺されることを免れる 
 だが策略はすぐに発覚し、 
 彼らは祭壇の 
 「柴刈り 
  また 
  水汲(く)み」 
 をする者としてイスラエル人に仕える 
  ↓ 
 「アモリ人の五人の王」が 
 ギブオンを攻め、 
 ギブオン人は 
 ヨシュアに救援を求め 
 イスラエル人は 
 夜を徹して行軍し、 
 アモリ人を急襲 
 敗走するアモリ人を 
 雹が襲う 
 ヨシュアが 
 「太陽と月」に命令すると、 
 「太陽と月」は 
 「まる一日」静止 
 「五人の王」は捕虜となり処刑 
 ヨシュアは 
 ヨルダン川西岸の 
 都市ギルガルから 
 地中海沿岸の 
 都市ガザに至るまで、 
 また、 
 その 
 南方に広がる 
 荒野に至るまでの地域に点在する 
 諸都市を滅ぼし家畜などを奪っていく 
 ハツォル・・・ 
 の 
 王 
 ヤビン・・・・ 
 を 
 盟主とする大軍が 
 メロム・・・・ 
 の 
 水場に集結 
 ヨシュアはこれを急襲し、 
 敗走する敵を追撃して全滅させる 
 ヨシュアは 
 ハツォルを滅ぼして都市を燃やす 
 他の都市も滅ぼすが、 
 ハツォル以外の都市は燃やさなかった 
 北方は、 
 ヘルモン山の麓の都市、 
 バアル・ガド 
 に至るまでの 
 ヨルダン川沿いの地域を攻略 
  ↓↑ 
 神は 
 高齢となった 
 ヨシュアに、 
 未征服地を含んだ 
 ヨルダン川西岸の土地を、 
 九部族 
 と 
 マナセの半部族との間で 
 分配するよう命じ 
 ヨルダン川東岸の地を相続した 
 二部族と半部族、 
 および 
 レビ族が 
 相続地を持たないことについて 
 述べ 
 相続地を決めるために 
 「籤(くじ)」が 
 用いられる 
 カレブ・・・ 
 は 
 ヘブロンの相続を求め、許可され 
 ユダ族の相続地 
 カレブによる 
 ヘブロン攻略 
 マナセ族 
 と 
 エフライム族の相続地 
 相続地が 
 少ないことに対する 
 不満と、 
 それに対する 
 ヨシュアの助言 
 ヨシュアはまだ 
 相続地の決まっていない 
 七部族に対して 
 未征服地の調査を命じ、 
 その調査記録を基に土地を配分 
 ベニヤミン族の相続地 
 シメオン族の相続地 
 ゼブルン族の相続地 
 イサカル族の相続地 
 アシェル族の相続地 
 ナフタリ族の相続地 
 ダン族の相続地 
 ヨシュアは 
 ティムナト・セラ 
 を 
 相続地として受け取る 
  ↓ 
 神はヨシュアに 
 「逃れの町」を定めるよう命令 
 「六つの都市」が定められる 
 相続地のない 
 レビ族に対し、 
 各部族の相続地から 
 居住のための 
 都市が与えられる 
  ↓↑ 
 シケム契約(22-24章) 
 ヨシュアは 
 ルベン、 
 ガド、 
 マナセの半部族の戦士たちを 
 郷里へと帰らせるが、 
 彼らがヨルダン川のほとりに 
 大きな祭壇を築いたことが伝えられ、 
 ヨルダン川東岸の部族に対する 
 軍事行動が検討され 
 ピネハス・・・・ 
 らが派遣され、 
 彼らに 
 ヨルダン川西岸へと 
 移住するよう勧めるが、 
 彼らの説明する祭壇を築いた目的は 
 好ましいものであったため、 
 軍事行動は起こされなかった 
 ヨシュアは長老たちを呼び、 
 モーセの律法を 
 守り行うよう諭す 
 ヨシュアは 
 全イスラエルを 
 シケムに集め、 
 彼らに神の言葉を伝える 
 民は 
 ヤハヴェ・・・ 
 に 
 仕え続けることを誓い、 
 その証拠として 
 大きな石が立てられる 
 ヨシュアの死と埋葬 
 エジプトから運ばれてきた 
 ヨセフの骨は 
 シケムに埋葬 
 エレアザルの死と埋葬 
ーーーーー 
 ・・・

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