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「荀の子」・・・倭等備・・・蕨生(わらび)・・・

2016-03-16 21:58:27 | 古事記字源

 ・・・「荀子(ジュンシ)」ですか・・・「ジュンシ・シュンシ」はダレに掛けられているんだろう?・・・「荀草(ジュンソウ)=草の名・荀草、赤実、厥の状、菅の如し。夏姫、是れ艶あり。厥の媚三たび遷れり(郭璞、山海経・円実下・荀草)」、「筍草(ジュンソウ)=草の名・黄華赤実、其の本、蒿本(コウホン・藁本)の如し。名づけて荀草と曰う。之を服せば人色を美とす(山海経・中山経)」・・・そうですか、クレオパトラ、楊貴妃も服用した?「美容薬・媚楊薬」ですか・・・
 だが、「蒿=藁(わら・コウ・艸+高+木)=稿」である。そして「蓬(よもぎ)の種類」。小さい頃、高熱を出し、オバちゃんがお灸の艾(もぐさ)を煎じてくれ、飲まされたコトがある。確かに解熱した記憶があるが・・・
 「厥(その・くぼむ・まげる・もらす・カク・ケツ)の媚(こびる・なまめかし・巫女)、三たび遷れり」の「厥」だが、以前にも書き込んだ
 「厥→蕨→闕←憠=厥+心
  厥=厂+屰(ゲキ・ギャク・ハク・ヒヤク・ ヒャク)
     +
     欠←欮(ケツ・屰(ぎゃく)
       +
       欠(欠伸・あくび)=口から出た息が
                 逆にもどる形、
                 息気が逆になること
                 気が逆になる
                 のぼせる
                 しゃっくり」
 「屰」の構成漢字は「朔(朔望月=新月~満月~新月のサイクル)」、「塑(塑像)」、「逆(真逆・逆進・逆心・逆進・叛逆)」・・・
 「厥角稽首(ケッカクケイシュ)=最敬礼・厥は下げる、角はツノ、また、人の頭骨」で、
 「稽首は頭を地に付けて礼拝すること」・・・これって「蕨生(わらび)」がヒトが首を垂れている様な「お辞儀」か、タメ息をついて「項垂(うなだ)れている」イメージでもある・・・
 「荀」とは「荀の草」で、「蒿本(コウホン・藁本・わらぼん?)→ヨモギ・蓬・蕭・蔞・艾)の如し」であるなら、
 この「厥(これ・それ)」は、「蕨(わらび=倭等(覶)備?」とした漢字の「艹」を欠落させた「誤字?」かも・・・
 「わらび=和良比=蕨生」は「ゼンマイ(薇)←薔薇・紫薇斗數命・微笑」と同種の草の「羊歯(シダ)」でもある。「蕨生(わらび)」なら、ボク的なイメージは更に「高波の形」で、九州地方(珍敷塚・鳥船塚・日の岡・王塚・太田)の古墳に装飾された大波(津波?)の絵柄(γ)である。古代エジプト(埃及→繪、絵字附都)のナイル川に浮かぶ「蘆(芦)船」と全く絵画構造にある・・・ワラび・・・さとイモ・・・デある・・・


ーーーーー
 で、以下はウイッキペデアや、ブログ辞典などから参照、参考にしたモノを少々改作して、添付した・・・
 ↓↑
 荀子(ジュンシ)
 紀元前4世紀末ごろ
 趙に生まれる
 50歳で初めて
 斉に遊学
 斉の
 襄王に仕え、
 斉が諸国から
 集めた学者たち
 (稷下の学士)
 の
 祭酒(学長職)に任ぜられ
 後に、
 讒言のため斉を去り、
 楚の宰相
 春申君・・・・・・春の申君
          葉留の猿君・猿女君(宇受女)
 に用いられて、
 蘭陵の令となり、・・・阿蘭陀(和蘭)の令
 任を辞した後も
 その地に滞まった
 後漢の
 荀紣
 荀攸
 はその末裔
 (史記)
 ↓
 「性悪説」
 荀子、後学の著作群は、
 前漢末に
 劉向によって整理
 河平三年、BC26年
 『孫卿新書』32篇12巻・・・孫の卿の新書
 元和十三年、818年・・・・元話(倭・分)壱拾参撚
                  八百壱拾八撚
 唐の
 楊?(イ京)が校訂して注釈し
 書名を『荀子』とし
 劉向の篇の配列を一部改め
 32篇20巻とした
 『孫卿新書』は亡佚し、・・・亡佚→逸書・一緒・佚書
 現存するものは
 楊?(イ京)注本の系統
 ↓
 最初の出版物
 熙寧元年(1068年)
 北宋神宗
 淳熙八年(1181年)
 南宋孝宗
 台州知事
 唐仲友・・・・・・・唐の仲(安倍仲麻呂?)の友?
 が復刻
 この宋代の刊本が宋本
 中国で散逸し、
 日本の
 金沢文庫に一冊のみ残された・・・仮名佐和文庫?
 この写本が
 影宋台州本
 ↓↑
 江戸期文政時代
 文政三年、1820年の自序
 文政八年、1825年刊
 久保愛・・・・・・・・句模亜(蛙)意
            意図(伊都)詞意
 が
 影宋台州本を参照して
 『荀子増注』を著した
 宋本を参照した注釈は、
 日本の『荀子増注』が中国より早い
 ↓
 光緒十七年、1891年
 中国では
 王先謙・・・・・・・王(和爾・王仁)が先見
 が
 清代考証学の成果を取り入れ、
 日本の宋本も参照して、
 『荀子集解』を著した・・・集めて解(解釈・理解)
 ↓
 現行の
 『荀子・参拾弐篇』の構成
 1. 勧学、・・・・カンガク
 2. 修身、・・・・シュウシン
 3. 不苟、・・・・フク・フコウ
          いやしくも・・・しない、でない
おろそかにしない
          いい加減に…しない
ゆるがせにしない
          苟=取り敢えず・一時凌ぎ・概略
           ア(ォ・ァ)ウトライン(outline)
 4. 栄辱、・・・・エイジョク・・・恥辱
 5. 非相、・・・・ヒソウ
 6. 非十二子、・・ヒジュウニシ
 7. 仲尼、・・・・シンニ・仲(のば)す尼(あま)
 8. 儒效、・・・・ジュコウ・・・效=効
                  効果・効き目・効用
 9. 王制、・・・・オウセイ
10. 富国、・・・・フコク
11. 王霸、・・・・オウハ・・・・覇者
12. 君道、・・・・クンドウ
13. 臣道、・・・・シンドウ
14. 致士、・・・・チシ
15. 議兵、・・・・ギヘイ
16. 彊国、・・・・キョウコク・・・彊=つよい・しいて
                  キョウ・ゴウ・カン
17. 天論、・・・・テンロン
18. 正論、・・・・セイロン
19. 礼論、・・・・レイロン
20. 楽論、・・・・ガクロン
21. 解蔽、・・・・カイヘイ・・・・蔽の解・・・
22. 正名、・・・・ショウメイ・セイメイ
23. 性悪、・・・・しょうあく・セイアク
24. 君子、・・・・クンシ
25. 成相、・・・・セイソウ
26. 賦、・・・・・フ・ブ・賦=貝+武
27. 大略、・・・・ダイリャク
28. 宥坐、・・・・ユウザ・・・身近や身の回り
29. 子道、・・・・シドウ
30. 法行、・・・・ホウギョウ
31. 哀公、・・・・アイコウ
          紀元前467年の魯の第27代君主
          魯の「曲阜」生まれの
          孔子の晩年の君主
          孔子著作の「春秋」の
          「獲麟(カクリン)」は
           物事の終わりや絶筆のこと
          哀公問、「弟子孰為好学」
          孔子対曰、「有顔回者。
                好学、不遷怒、不弐過。
                不幸短命死 矣。
                今也則亡。
                未聞好学者也」
          哀=あわれ・アイ
            哀歓・哀愁・哀悼・悲哀
            哀憐・哀願・哀訴
            喜怒哀楽
            可哀相
32. 堯問・・・・・ギョモン
 ↓
ーーーーー
 ・・・「孔子」は愚図で決断力に欠けた「哀公」に仕える「戦略・戦術」家でもあった・・・失業期間も長く、その期間は「弟子」達の寄付金(上納金)で喰っていた・・・?
ーーーーー
 「荀子」
  ↓
 勧学篇
 「学は以て已(や)む可からず」
 人間は終生学び続けることによって
 自らを改善しなければならないと説く
 「青は之を藍より取りて、藍よりも青し」
 は勧学篇の言葉であり、
 「青は藍より出て藍より青し」の成語
 学ぶことは自分勝手な学問ではものにならず、
 信頼できる師の下で体系的に学び、
 かつ正しい礼を
 学んで身に付けた君子を
 目指さなければならない。
 荀子にとっての
 君子は、
 礼法を知って
 社会をこれに基づいて指導する者
 ↓
 統治技術としての礼
 勧学篇で君子が学ぶべき対象は、
 「礼」であること
 修身篇では、
 君子は
 「礼」に従って行動するべきこと
 「礼は法の大分、類の綱紀なり(勧学篇)」
 「礼なる者は、治弁の極なり、
  強国の本なり、
  威行の道なり、
  功名の總(そう)なり(議兵篇)」
 「礼」の中に、
 国家を統治するための
 公正な法の精神がある
 国家の法や制度は、
 「礼」の中にある
 精神に基づいて制定される
 ↓
 王制篇
 王者は
 「人」=輔佐する人材、
 「制」=礼制、
 「論(倫)」=身分秩序と昇進制度、
 「法」=法律を制定するべきことが説かれ
     君子は礼を身に付け、
     法に従って統治し、
     法が定めない案件については
 「類」=礼法の原理に基づいた
     判断を適用して行政を執る
 「その法有る者は法を以て行い、
  法無き者は類を以て挙するは
  聴の尽なり(王制篇)」
 ↓
 君主が頂点にあり、
 君子が
 礼法を知った官吏として従い、
 人民が法に基づいて支配される、
 法治国家の姿を描写し、
 その統治原理として「礼」を置く
 孔子や孟子も
 「礼」を
 個人の倫理のみならず
 国家の統治原理として
 捉える側面を一応持っていたが、
 荀子はそれを前面に出して
 「礼」を完全に
 国家を統治するための技術として捉え、
 君子が
 「礼」を学ぶ理由は
 明確に国家の統治者となるためである
 ↓
 国家体制
 彼の弟子である
 李斯が
 秦帝国の皇帝を頂点とする
 官僚制度として実現し、
 続く
 漢帝国以降の
 中国歴代王朝では
 官僚が儒学を学んで修身する
 統治者倫理が加わって、
 後世の歴代王朝の
 国家体制として実現することとなった
 ↓
 実力主義・成果主義
 王制篇
 や
 富国篇
 等では、
 治政にあたって
 実力主義
 や
 成果主義の有効性を説いた
 王制篇では、
 王公・士大夫の子孫といえども
 礼儀にはげむことができなければ
 庶民に落し、
 庶民の子孫といえども
 文芸学問を積んで
 身の行いを正して礼儀にはげむならば
 卿・士大夫にまで昇進させるべきと説いた
 ↓
 王覇論
 天下を統一する王者がいない条件下では、
 覇者が勝利する
 覇者は領地を併合することなく、
 諸侯を友邦として丁重に扱い、
 弱国を助けて
 強暴の国を禁圧し、
 滅んだ国は復興させ
 絶えた家は継がせる
 正義の外交によって
 覇者は諸侯を友として、
 単に力あるだけの強者に勝利すると説く
 現実的な覇者よりも、
 絶対正義を示して
 天下全てを味方につけて
 戦わず勝利する理想(利双?)的な
 王者を優位に置き、
 覇者ではなく王者を理想とした
 王者の王道政治を理想とするのは、
 孟子と同じく儒家の基本思想
 ・・・今現代の「政治思想」とお変わりない様である・・・
 ↓
 性悪説
 社会起源論
 人間の性を
 「悪」、
 利己的存在と認め、
 君子は本性を
 「偽」・・・「偽(にせ・詐偽)」って?
 後天的努力
 (学問を修めること)
 によって
 修正して善へと向かい、
 統治者となるべきことを勧めた
 性悪説の立場から、
 孟子の性善説を批判
 ↓
 富国篇
 人間の「性(本性)」は
 限度のない欲望
 各人が社会の秩序なしに
 無限の欲望を満たそうとすれば、
 奪い合い・殺し合いが生じて
 社会は混乱して窮乏する
 それゆえ
 人間はあえて
 君主の権力に服従して
 その規範(礼)に従うことによって
 生命を安全として窮乏から脱出できる・・・
 社会契約説の一種・・・?社会契約の概念
             近代憲法の理論的な基礎
             国家の正当性の契機を
             契約ないし
             市民の同意に求める理論
             社会契約論
             ロック、ルソーよりも遥か昔
             だが、「荀子」は・・・
            「自由と平等の享受」ではなく、
            「人間社会」そのものの「人間」が
            「性悪」なのである・・・?
 ↓
 規範(礼)の起源を
 社会の安全
 と
 経済的繁栄のために制定され
 高貴な者と一般人民との
 身分的・経済的差別は、
 人間の欲望実現の力に
 差別を設け
 欲望が衝突することを防止して、
 欲しい物資と
 嫌がる労役が
 身分に応じて
 各人に相応に配分されるために
 必要な制度と正当化
 そのために
 非楽(音楽の排斥)
 節葬(葬儀の簡略化)
 節用(生活の倹約)
 を主張し
 君主は
 自ら働くことを主張する
 墨家を、倹約を強制することは
 人間の本性に反し、
 なおかつ
 上下の身分差別をなくすことは
 欲望の衝突を招き、
 結果社会に混乱をもたらすだけであると批判
 実力主義による
 昇進降格と
 身分による
 経済格差の正当化は、
 メリトクラシー・・・メリトクラシー (meritocracy)
           メリット(merit・業績・功績)
           と
           クラシー(cracy・ギリシャ語の
           支配、統治のクラトス)
           を組み合わせた造語
           リトクラシー(meritocracy)
           「業績・能力・実力・学歴」主義
           努力の結果としての
           業績(メリット)基準で
           社会的地位が決定する、と云う考え
 として表裏一体
 ↓
 天人の分
 天論篇
 「天」を自然現象である
 従来の
 天人相関思想
 (天が人間の行為に感応して
  禍福を降すという思想)
  を否定
 ↓
 「流星も日食も、
  珍しいだけの自然現象であり、
  為政者の行動とは無関係だし、
  吉兆や凶兆などではない。
  これらを
  訝るのはよろしいが、
  畏れるのはよくない」
 「天とは自然現象である。
  これを崇めて供物を捧げるよりは、
  研究してこれを利用するほうが良い」
 祈祷等の
 超常的効果も否定
 「雨乞いの儀式をしたら雨が降った。
  これは別に何ということもない。
  雨乞いをせずに雨が降るのと同じである」
 「為政者は、
  占いの儀式をして重要な決定をする。
  これは別に
  占いを信じているからではない。
  無知な民を信じさせるために・・・・トランプの戦略?
  占いを利用しているだけのことである」
 ・・・「方便」と云うコトか・・・無知なアメリカ選挙民?
 ↓
 中国・秦漢代
 荀子の弟子としては、
 韓非・李斯・浮丘伯・陳囂・張蒼
 など
 韓非・李斯は
 荀子の統治思想を批判的に継承
 韓非・李斯は、
 外的規範である
 「礼」の思想を
 「法」による人間の制御を説き、
 韓非は
 法家思想の大成者となり、
 李斯は法家の実務の完成者となった
 「法家思想」そのものは
 荀子や韓非子の生まれる前から存在しており、
 荀子の思想から
 法家思想が誕生した、というのは誤り・・・
 ↓
 浮丘伯は
 漢代に『詩経』の伝承の一である
 魯詩を伝えた
 申公の師である
 張蒼は漢代初期の丞相であり、
 『経典釈文叙録』によれば
 その学を荀子に学んだ
 荀子の学が漢学に大影響した
 『詩経・書経・春秋』
 の三学のごときは
 荀子の伝承に出たもの・・・
 ↓
 中国・唐代以降
 唐代に『荀子』を校訂した
 楊(イ+京)は、
 『孟子』は
 唐代の君子たちの多くが読んでいるのに
 『荀子』にはいまだ注釈がなく、
 テキストが混乱し
 意味が取れなくなっているので
 自分が校訂して注釈した、と
 『荀子』の自序に記録
 『荀子』は
 『孟子』に比べて読まれなくなっていた・・・
 唐代の
 韓愈は
 『原道』で儒学復興を提唱したが、
 その中で古代の聖人の道統を述べた。
 堯、舜、禹、湯王、文王、武王、周公
 の聖人たちが伝えた
 道は孔子に継がれ、その後に孟子に継がれ、
 その死後は
 道が断絶したと評した
 そして
 荀子
 および
 漢の揚雄は、
 「選びて精(くわ)しからず、
  語詳(つまびら)かならず(『原道』)」
 と聖人の道を選んで
 正しく伝えることができなかったと評した
 韓愈の評価が、
 後の宋代儒学の
 道統の標準となり、
 孟子の後に現れた
 荀子は排斥される道を辿った。
 北宋の
 蘇軾は
 『荀卿論』を著して、
 王安石を暗に批判するために荀子を取り上げ、
 弟子の
 李斯の過ちが師の荀子に由来すると批判
 その後の中国思想を支配した朱子学においては、
 荀子は「四書の一」である
 『中庸』『孟子』を書いた
 子思・孟子を批判し、
 孟子の
 性善説を否定して
 性悪説を説く異端として、
 遠ざけられた
 清代になって考証学が盛んとなり、
 『荀子』もまた
 先秦の古文献として
 客観的な研究が行われるようになった。
 ↓
 日本・江戸時代
 日本で荀子に一定の評価を与えたのは、
 荻生徂徠
 「荀子は子・孟(子思と孟子)の忠臣なり」
 と言い、
 荀子は
 子思や孟子の
 理論的過ちを正した忠臣といえる存在であり、
 荀子のほうが孔子が伝えようとした
 先王の道
 (子思・孟子の言う儒家者流の倫理ではなく、
  先王が制定した
  礼楽刑政の統治制度)・・・ローマ帝国
 をよく叙述していた
 徂徠は
 『読荀子』において
 『荀子』の日本における初期的注釈を行った
 ↓
 『荀子』研究成果としては、
 久保愛(筑水、宝暦九年~天保六年、1759-1835)
 が師の
 片山世璠(兼山、山子。享保十五年~天明二年、1730-1782)
 を継いで
 『荀子増注』を作った。
 江戸時代を通じて日本儒学の主流は
 朱子学、
 あるいはその
 アンチである
 陽明学であり、
 いずれも孔子・孟子は評価したが、
 荀子への評価は高いとはいえなかった。
 久保愛も
 『荀子増注序』においてこの書を
 天下で知る者は少ない、と嘆いた・・・
 ↓↑
 荀子(紀元前313年頃~紀元前238年以降)
 中国の戦国時代末の思想家・儒学者
 諱は況(キョウ)
 尊称して荀卿(ジュンケイ)
 漢代には孫卿
 『荀子』は
 荀況
 および後代の言行録を前漢末にまとめた
 『孫卿新書』(伝世せず)が
 唐代に校訂の上注釈を加えて
 再編纂されたもの
 ↓
 勧学篇第一
 学は以て已むべからず
 學不可以已。
 ↓↑
 巻頭言。
 青は之を藍より取りて而も藍より青し。
 氷は水之を為りて而も水より寒し。
 青取之於藍、而青於藍。冰水爲之、而寒於水。
 成語
 「青は藍より出て藍より青し」の元
 「出藍の誉」とも・・・
 ↓↑
 驥は一日にして千里なるも、
 駑馬も十駕すれば、
 即ちまたこれに及ぶ。
 驥一日而千里、駑馬十駕、則亦及之矣。
 ↓↑
 小人の学は耳より入りて口より出づ。
 小人之學也入乎耳、出乎口。
 ↓↑
 脩身篇第二
 我を非と当むかう者は吾が師なり。
 非我而當者吾師也。
 ↓↑
 正論篇第十八
 子の宋子に曰はく、
 侮らるるの辱ならざるを明らかにせば、
 人をして闘わざらしむ。
 子宋子曰、明見侮之不辱、使人不鬭侮。
 ↓↑
 性悪篇第二十六
 人の性は悪にして、
 其の善なる者は偽なり。
 今、人の性は、生まれながらにして利を好む有り。
 是に順う、故に争奪の生じて辞譲は亡ぶ。
 生まれながらにして疾悪有り。
 是に順う、故に残賊の生じて忠信は亡ぶ。
 生まれながらにして耳目の欲有り、声色を好む有り。
 是に順う、故に淫乱の生じて礼義文理は亡ぶ。
 然らば則ち人の性に従い、
 人の情に順えば、
 必ず争奪に出で、
 犯文乱理に合して、
 暴に帰す。
 故に必ず将に師法の化、
 礼義の道有り。
 然る後に辞譲に出で、
 文理に合して、
 治に帰さん。
 此れを用て之を観れば、
 然らば則ち人の性の悪なるは明らかならん。
 其の善なる者は偽なり。
 人之性惡、其善者僞也。
 今人之性、生而有好利焉。
 順是、故爭奪生而辭讓亡焉。
 生而有疾惡焉。
 順是、故殘賊生而忠信亡焉。
 生而有耳目之欲、
 有好聲色焉。
 順是、故淫亂生而禮義文理亡焉。
 然則從人之性、
 順人之情、
 必出於爭奪、
 合於犯文亂理、
 而歸於暴。
 故必將有師法之化、
 禮義之道。
 然後出於辭讓、
 合於文理、而歸於治。
 用此觀之、
 然則人之性惡明矣、
 其善者僞也。
 ↓↑
 大略篇第二十七
 富を欲するか。
 恥を忍べ。
 傾絶せよ。
 故旧を絶て。
 義と分背せよ。
 欲富乎。
 忍恥矣。
 傾絶矣。
 絶故舊矣。
 與義分背矣。
ーーーーー
 ・・・???・・・「性悪な人間」って、云われてもナァ~ッ・・・困っちゃうナッ・・・リンダ・・・

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ワラちゃう・・・ゴジ・・・

2016-03-15 23:40:11 | 古事記字源

 ・・・「話覶詫謳=わらっちゃう=嗤っちゃう・哂っちゃう」・・・

 「執金蔽」は「中国『最後』の領導人、習近平」・・・ブログ記事を調べていたら「荀子・解蔽篇・第二十一・八章」と云うのを発見したが、興味あるのは漢字の「解蔽(カイヘイ)」だった・・・この「解蔽(カイヘイ)」の意味とはナンゾや?・・・でアル・・・「蔽=艸+㡀(小冂小)+攵(のぶん・ ぼくづくり・とまた)𠂉𠂉𠂉𠂉𠂉𠂉𠂉」を「解𠂉く」・・・?𠂉
 「敞=たかい・ひろい・ほがらか・ショウ(シャゥ)」
 「籔(やぶ)」にも
 に似ているけれど・・・「㡀+攵)」の部首の構成が異なる
 「敝(やぶれる・おおう・ヘイ・ベ)」である・・・
ーーーーー
 「BIGLOBEニュース」
 新華社が「中国最後の指導者習近平」と報道𠂉
 ニューズウィーク日本版3月15日(火)11時30分
 3月13日、中国時間の午後5時、
 中国政府の通信社「新華社」のウェブサイトに
 「中国『最後』の指導者、習近平」という報道が現れた。
 すぐに削除されたが、
 一部の中文メディアがPDFでダウンロード。
 中文世界に衝撃が走っている。
 「中国『最後』領導人習近平」——スクープは
 「博訊(Boxun)」
  ↓
 「中宣部、超級ハッカー?
 新華社が"中国『最後』の指導者、習近平"と報道」
 という見出しで、最初に報道したのは
 博訊というウェブサイトだ。
 博訊のサーバーは
 アメリカのカロライナ州にある。
 新華社は中国政府の通信社で、
 中宣部
 (中国共産党中央委員会宣伝部)
 の直轄でもある。
  ↓
 習主席「『最後』の指導者」と誤記=国営新華社、
 「最高」に訂正—中国
 時事通信3月15日(火)7時24分
  ↓
 【北京時事】中国国営通信・新華社が、
 全国人民代表大会(全人代)と
 全国政治協商会議(政協)が開催中の
 13日の配信記事で、
 習近平国家主席について、
 「最高指導者」と記すべきところを
 「『最後』の指導者」と誤記した。
 約1時間後に「最高指導者」と訂正した。
 香港メディアなどが伝えた。
 習国家主席は全人代開幕前の2月、
 新華社や国営中央テレビなどを視察。
 「官製メディアは宣伝の陣地であり、
  共産党を代弁しなければならない」
 と指示。全人代期間中、
 メディアへの統制が一段と強まる中、
 こうした重大なミスは異例で、
 波紋を広げている。 
 [時事通信社]
ーーーーー
 「『最後』の指導者」であるコトが何故、問題になるのかネッ。
 いかにも、「日本の政治屋」連中、「甘利某」などと同類の「執金蔽(シュウキンペイ)」だろう・・・なにも、これは「大陸中国」だけじゃぁないだろうが、「誤記」とは「事実」の「隠蔽」だろう・・・
 「隠蔽(インペイ)・掩蔽(エンペイ)・遮蔽(シャヘイ)」、
 「建蔽率=敷地面積に対する建築面積の割合」
 と云う熟語もある・・・
 「金蔽率=共産党(?)員の賄賂の割合?」・・・どう考えればイイのか・・・
 「弊害」・・・「蔽=物が隠れるように、広げてかぶせたり、周りを囲ったりするもの」・・・
 「TPP=環太平洋戦略的経済連携協定(Trans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreement=Trans-Pacific Partnership=略称TPP、環太平洋連携協定、環太平洋経済連携協定」・・・「自由貿易(?)」で何を「解放」するツモリなんだか・・・「貿易関税品の関税」が「ゼロ」で、「消費税」が「増税」って、ダレにとって「儲かるコト」になるんだか・・・それ以前に「商品価格」は「商品市場(需要供給の交換関係)」で動いているが、これを動かしているのはアンタなのか、オレなのか・・・多分、「マネーゲーム」の「丁半博打・トランプ博打」で大金を動かすコトが出来るヤツだろう・・・
 今夕の7時30分の「クローズアップ現代・“仕事がない世界”がやってくる!?」は「人工知能やロボットの進化で、仕事が無くなる懸念が世界的に高まっている。大量の失業と広がる格差にどう対応すればいいのか。各国で始まった最新の取り組みから考える」の
 「アメリカ労働市場の低下と、先端機器導入の生産性の向上。新たな職業事情」
 「スエーデン(瑞典)の労働時間の短縮、雇用労働者を増やし、賃金カットも無し」は
 「ヒトラー、ナチスの失業者対策の労働(share)」
 にも類似だが、
 「スイス(瑞西)のベーシックインカム(basic income)とは最低限所得保障で、政府がすべての国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされる額の現金を無条件で定期的に支給する構想、思想」、「個別対策的な保証ではなく、包括的な国民生活の最低限度の収入(ベーシック・インカム)を補償する」
 との考え方らしいが、
 既に「蟻さんの社会では実現」、そして
 「日本国憲法」は「憲法」としてウタっているが・・・「包括的」ではない、「国民個人」へのモノだから「生活保護の支給金」と「国民年金の支給金」にも、「医療費支払い」にも格差があり、その「最低限の生活」には極端な格差がある?・・・
 オマケに「年金」は役人の不正運用、善意のヤクザの担保としての資金源、「健康保険、医療保険、労災保険」、架空請求して保険金搾取したのは「善意のヤクザ」と「悪徳な医者」だった・・・
ーーーーー
  ↓↑
 「掩蔽=おおい隠すこと・旧悪を掩蔽する
     地球と恒星または惑星との間に
     月が入り、恒星・惑星を隠す現象
     月の位置の精密測定に利用される
     星食(セイショク)」
 「蔽=おおう・ヘイ・横に広くかぶさる・おおい隠す」
  ↓
 「蔽蔽たる小艸なり、艸に従ひ、敝を聲とす
  詩(シ)三百、一言(イチゲン)
  以て、之を蔽(おほ)ふ
  (論語)」
 「既に信を当時に取るに足らず、
  又、
  裕を
  後毘(コウビ=後世、後の人々)に
             ・・・「毘」はへそ(臍・𦜝)
  垂るる所以に非ず、
  故に人の上と為りて
  学を知らざるは、
  其の蔽(ヘイ)必ず此に至る。
  (論語注=伊藤仁斎・論語古義)」
  字源ネット(jigen-net)
  ↓↑
ーーーーー
 「垣根」・・・「歌蔽」
 「歌垣(うたがき)」・・・「ウタのカキ」って?
 古代で男女が山や海辺に集まって
 歌舞飲食し、豊作を予祝し、祝う行事
 多く春と秋に行われ、
 自由な性的交わりの許される場で
 古代における求婚の一方式
 農耕を離れて市でも行われるようになった
 「かがい(嬥歌)」とも、
 「果して期りし所にゆきて
  カガイ(嬥歌)の衆(ひとなか)に立たして
  (日本書紀・武烈紀訓注)」
 奈良時代
 大勢の男女が歌い舞う宮廷の行事
 古代のモノが宮廷化された
  ↑↑
 「歌垣」・・・ウィキペディア(Wikipedia)
 特定の日時に若い男女が集まり、
 相互に求愛の
 歌謡を掛け合う呪的信仰に立つ習俗
 現代では主に中国南部からインドシナ半島北部の
 山岳地帯に分布しているほか、
 フィリピンやインドネシアなどでも
 類似の風習が見られる。
 古代日本の
 常陸筑波山などおいて、
 歌垣の風習が存在したことが
 『万葉集』などによりうかがえる
  ↑↑ 
 「歌垣=ウタガキ(utagaki)」
 古代の集団儀礼
 別名は
 「嬥歌(かがい)」・・・weblio辞書
  ↑↑
 ブリタニカ国際大百科事典
 小項目事典
 「歌垣」
 男女による
 歌のかけあいを中心とする集団的行事
 東国では「嬥歌(かがい)」とも
 もともと
 「国見」と結びついた・・・「国見」とはナニか?
 農耕儀礼として始り
 予祝的意義をもち、
 飲食、性的解放などを伴っていた
  ↑↑
 「歌垣(うたがき)」
 古代日本における歌垣
 特定の日時と場所に老若男女が集会し、
 共同飲食しながら
 歌を掛け合う呪的信仰に立つ行事
 互いに求愛歌を掛け合いながら、
 対になり恋愛関係になる・・・
 語源は「歌掛き(懸き)」であり、
 東国方言の
 「かがい(嬥歌)」
 「懸け合い」
 に由来すると考えられている
 時期としては春秋に行われ、
 生産の予祝・感謝としての性格を持っていた
 場所は、
 山頂、海浜、川、市
 など、
 境界性を帯びた地が多く、
 常陸筑波山、
 同童子女松原、
 肥前杵島岳、
 摂津歌垣山、
 大和海石榴市、
 軽市
 などの例がある・・・
  ↑↑
 古代の言霊信仰の観点から
 「ことばうた」を掛け合うことにより、
 呪的言霊の強い側が
 歌い勝って相手を支配し、
 歌い負けた側は相手に服従した・・・
 歌垣における男女間の求愛関係も、
 言霊の強弱を通じて決定される
 古代歌謡としての歌垣は、
 『古事記・万葉集・常陸国風土記・肥前国風土記』
 などに見える。
 「万葉集・巻九」
 「〈…率(あども)ひて
   未通女壮士(おとめおとこ)の
   行き集(つど)ひ
   かがふ刊歌(かがい)に
   人妻に吾(あ)も交はらむ
   吾が妻に人も言問(ことと)へ…」
 は、
 筑波山の歌垣で
 高橋虫麻呂が詠んだ歌
 時代が下るにつれて、
 呪的信仰・予祝・感謝行事としての性格は薄れ、
 未婚者による求婚行事となっていった。
 特に都市の市ではその傾向を強め、
 『古事記』には
 顕宗天皇
 と
 平群鮪
 とが女をめぐり
 海石榴市で歌をたたかわせた逸話・・・
  ↑↑
 奈良時代
 中国(唐)から伝来した踏歌と合流し、
 宮廷芸能の一つとなった。
 天平六年(734年)二月
 平城京朱雀門で、
 宝亀元年(770年)三月に
 河内由義宮で歌垣が開催され、
 貴族
 帰化氏族が
 二百数十名参加
  ↑↑
 その後の
 歌合、連歌に影響を及ぼした・・・
 現代にも歌垣の残存は見られ、
 沖縄の
 毛遊び(もうあしび)に
 歌垣の要素が強く認められるほか、
 福島県会津地方のウタゲイ
 や
 秋田県仙北地方の
 掛唄にも歌垣の遺風が見られる・・・
  ↑↑
 歌垣と同様の風習は、
 中国南部からインドシナ半島、
 フィリピンやインドネシアにも存在
 古代日本の文化は、
 東南アジアから中国南部にかけての地域と、
 一体の文化圏を築いていた・・・
 (照葉樹林文化論など)
  ↑↑
 「垣根」
 家(家庭および家族)を
 外界と隔てるための境界に設けられる一種の壁
 完全に外部と遮断してしまう壁の場合もあれば、
 生垣や比較的疎に編んだ棒 によるものなど、
 やや遮断性が低いものも見られ、
 実質的に境界線を示すための目印に
  ↑↑
 垣根(かきね)
 敷地を限るために設ける囲いや仕切り
 竹や植木などで作る
 「垣=垣の根元・間を隔てるもの」
 「心の垣根」、「垣根越し」
 垣根をはさんで物事がなされること
 「かきごしに声をかける」
 「かきねつづき」
 「垣根(カキネ)」
  ↑↑
 比喩的に他と隔てるもの
 境を示すための
 fence・hedge(生け垣)
 垣根越しに
 look over a fence
 障害
 fencing・fence・hedgerow・hedge
 wall・barrier
 fencing, fence
 ある領域を囲うための障壁
 a barrier that serves to enclose an area
 hedgerow, hedge
 密着して植えられた低木の列によって形成された塀
 a fence formed by a row of closely
   planted shrubs or bushes
 wall
 高さと長さが厚さよりも大きい、建築上の仕切り
 an architectural partition
  with a height and length greater
  than its thickness
 the south wall had a small window
 南壁には、小窓があった
 barrier
 視界や進入を防ぐことによって
 分離を維持するのに役立つ何か
 anything serving to maintain separation
  by obstructing vision or access
ーーーーー
 ・・・

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恵みも災いも、空から、海から、山から、大地からも・・・そして、「人間社会」からも・・・

2016-03-14 19:03:00 | 古事記字源

 ・・・「スズメの様にウルサイ」の「すずめ」とは、「広報・公報・宣伝・喧伝・発表(大本営)」の「情報屋・ニュース屋」の発信場であろう・・・ここは「朱雀門(すざくもん)」の「機能」の意味を考えてみるべきだな・・・「平城京、平安京大内裏 南面中央にある正門・大伴門と呼ばれていたが714年(甲寅年・和銅七年・6月21日(和銅七年五月一日、大伴安麻呂が死亡、8月9日(和銅七年六月二十五日、首(おびと)皇子が立太子(第四十五代天皇)、これを漢風の朱雀門と改名・朱雀大路から宮城への入口にあり、さらに北行すると八省院の入口である応天門に通じ、柱十二本(表裏六本)、瓦ぶき二層閣の門・宮城(大内裏)の南面正門。宮城の十二の門の最も重要な門・唐の都、長安の南面皇城門も朱雀門」・・・荒れ果てた「朱雀門」には盗賊、鬼が住むといわれた・・・「朱雀門から都城正門の羅城門に続く大路は朱雀大路」・・・「宿毛(すくも)の鷣(はいたか)神社の石段の津波襲来の表示標識」・・・
 「逭雀(カンジャク)=鷣(はいたか)=負雀」とは、「所以、古人が常用した太極圖來の表示の陰陽變化的規律(24節季72侯の、倉庚鳴=桃始笑3月10日頃、雀始巣3月20日頃)」ので、「鶺鴒・鷣=「鷂」也 「善く雀を捉(とらえ・ソク・サク)る 名に因る。 又、「爾雅(字典)」の鳥類の解釈で、「桑鳸竊脂」と註釈で、俗に謂う「逭雀」、 又は「桃蟲鷦」と註釈、「鷦𪃦=桃雀」、 俗に呼ぶ「巧婦」、方言の説として「巧婦」の名。「巧婦鳥」=タクミドリ」とは「すずめ」であった・・・???・・・
 「水の神=水天宮」とは、「水と子供を守護し、水難除け、農業、漁業 、海運、水商売、また安産、子授け、子育て、犬のお産が軽い・・・戌の日の神様」・・・「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」 、「安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院、平徳子)、二位の尼(平時子)」を祀る・・・「水天宮」・・・「占い」では「水=壬、癸・北方位の亥子丑、玄武・水を結ぶ三合水局の子辰申」・・・水が凍った固い氷(冲)、氷が融けた水、水が蒸発した湯気・・・大気で漂う「霧(きり・ム)」、空に浮かぶ「雲(くも・ウン)」・・・そして、降り落ちてくるモノ・・・「雨(あめ・ウ)」、「雪(ゆき・セツ)」、「霰(あられ・サン)」、「雹(ひょう・ハク)」・・・時たま「隕石」や、「鉄の塊」が落ちてきたり、「魚(さかな・まな・うお・ギョ)」が降ってくる・・・トコロさんも大変・・・
 漢字を発明した「蒼頡(ソウケツ)」はスゴイが「鳥や獣の足跡」からの発想ならば「蒼鴂(鴃)」としないところが怪しいが、「蒼=草の倉」の「頡=十一の口の頁」である・・・「第十一章」・・・
 ↓↑
 日本国憲法第11章
 日本国憲法 第11章は、
 日本国憲法実施のための補則規定の章
 第100条 憲法施行期日、準備手続
 第101条 経過規定―参議院未成立の間の国会
 第102条 同前―第1期の参議院議員の任期
 第103条 同前―公務員の地位
 憲法が施行され実施されている
 現在においては、
 適用されることのない章・条である。
 「新憲法」が完全に実施されるためには、
 諸法令が制定され、
 実施に必要な諸制度が
 設けられていなければならない・・・
 ・・・「水臭い」って・・・「ミズ句差」・・・水草易・・・?
ーーーーー
 久留米の水天宮
 久留米藩歴代藩主(有馬家)により崇敬
 文政元年(1818年)九月
 九代藩主
 有馬頼徳が
 江戸・三田の
 久留米藩江戸上屋敷に分霊を勧請
 これが「江戸の水天宮」の始まり・・・
ーーーーー
 山海経(センガイキョウ)
 竜身、蛇身、魚身、
 山神であると同時に
 水神・・・
 神話的世界の神としては洪水神が最も古いが
 夏系の
 「鯀(コン)」
 や
 禹が「魚身」から「熊」に変じて治水を行った
 竜身の「共工」という洪水神をもつ
 羌(きよう)族は
 「嵩(スウ)岳」を祖神とする
 山神・水神は対をなしている
 苗系の
 「女媧(ジョカ)
  伏羲(フクギ)」
 の説話は
 破壊と復活、
 山水は
 神と帝、
 聖と俗
 といった観念・・・
 孔子が「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」・・・
ーーーーー
 「逭」=のがれる・カン・ガン
    =官(宀㠯)+辶
    to escape from・to flee・to avoid
    「宀(うかんむり・メン・ベン)」=家・屋根・館
    「㠯(イ)」=以(イ)の源字?・・・
    「佀=(シ・にる)=イ+㠯・・・「似」
              耜(すき)
          「以・㠯は、已と同じ字を起源」
           人が物を携えるところの象形(略体)説
          「厶=私」と似て、
          「耜(すき)」の象形説
          「卜文」では
          「率いる」の意味
    「辶=十字路(行・辻)+止(足)・・・?
  ↓↑
 逭(のが)る
 天の作せる孼は猶違くべし自ら作せる孼は逭るべからず
  ↓↑
 天(てん)の作(な)せる
 孼(わざわい)は
 猶(なお)
 違(さ)くべし
 自(みずか)ら作せる
 孼は逭(のが)るべからず
  ↓↑
 「書経(太甲)」から
 天災は備えがあれば避けることもできるが、
 みずから招いた災いは逃れることができない
  ↓↑
 「它=ヘビ(蛇)=宀+ヒ(匙)七(漆)匕(匕首・牝)=它」
 「宸=シン(宮・殿・館)=宀辰→宀+龍・・・パレス(palace)
  ↓↑
 「首(おびと)皇子=第四十五代天皇」
  ↓↑
 文武天皇の第一皇子
 慶雲四年六月十五日(707年7月18日)
 七歳で父と死別
 母の宮子・・・心的障害
 天皇が母との対面をしたのは
 齢三十七のとき
 慶雲四年七月十七日(707年8月18日)
 文武天皇の母の
 元明天皇(天智天皇皇女)が天皇即位
 和銅七年六月二十五日(714年8月9日)
 首皇子の元服、立太子
 霊亀元年九月二日(715年10月3日)
 文武天皇の姉の
 元正天皇が皇位を継ぎ、
 二十四歳で
 元正天皇より皇位を譲られ
 第四十五代「聖武天皇」として即位
  ↓↑
 聖武天皇の治世の初期
 長屋王が政権を担当
 藤原氏は自家出身の
 光明子(父、藤原不比等。母、県犬養三千代)
 の立后を願望
 長屋王は光明子の立后に反対
 神亀六年(729年)
 「長屋王の変」で、長屋王が自殺
 光明子は非皇族として初めて立后
 不比等の息子で光明子の異母兄である
 藤原四兄弟が仕組んだ・・・
 聖武天皇の後宮は他に4人の夫人
 光明皇后を含めた5人全員が
 藤原不比等・県犬養三千代の血縁者
  ↓↑
 天平九年(737年)
 疫病で
 藤原四兄弟、政府高官のほとんどが死亡
 長屋王の実弟の
 鈴鹿王を
 知太政官事に任じる
 天平十二年(740年)
 藤原広嗣の乱
 天平年間
 災害や疫病(天然痘)が多発
 天平十三年(741年)
 国分寺建立の詔
 天平十五年(743年)
 東大寺盧舎那仏像の建立の詔
 各地へ遷都したが
 平城京に復帰
 国政は
 橘諸兄
 (光明皇后とは異父兄・葛城王=葛木王)が実権
 天平十五年(743年)
 耕されない荒地が多いために、
 「墾田永年私財法を制定」
 律令制の根幹の一部が崩れた
 天平十六年閏一月十三日(744年3月7日)
 安積親王が脚気で急死
 これは
 藤原仲麻呂=恵美押勝
 (藤原南家、武智麻呂の次男)による毒殺・・・?
  ↓↑
 天平勝宝元年七月二日(749年8月19日)
 聖武天皇は
 娘の
 阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位、
 「三宝の奴」と称した天皇は出家
 生前譲位の
 「太上天皇」した初の男性
  ↓↑
 天平勝宝四年四月九日(752年5月30日)
 東大寺大仏の開眼法要
 天平勝宝六年(754年)
 唐僧・鑑真が来日
 母の宮子、死亡
 天平勝宝八年(756年)
 天武天皇の
 二世王、
 道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御
 戒名は、勝満
  ↓↑
 聖武の七七忌
 光明皇后が
 東大寺盧舎那仏に聖武遺愛の品を追善供養の奉献
 明治四十年(1907年)~明治四十一41年(1908年)
 東大寺大仏殿改修
 須弥壇周辺から出土した鎮壇具のうち
 金銀装大刀二口が、
 天平宝字三年(759年)十二月に
 正倉院から持ち出された奉献品
 東大寺献物帳(国家珍宝帳)に
 「除物」という付箋を付けられていた
 「陽寶劔(ようのほうけん)」
 「陰寶劔(いんのほうけん)」
 であることが
 平成二十二年(2010年)の
 エックス線調査で判明
ーーーーー
  ↓↑
 興福寺
 奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)
 南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院
 南都七大寺の一つ
 藤原氏の祖
 藤原鎌足、その子息
 藤原不比等ゆかりの寺院
 藤原氏の氏寺
 南円堂は
 西国三十三所第九番札所
  ↓
 藤原鎌足夫人の
 鏡大王が夫の病気平癒を願い、
 鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、
 天智天皇八年(669年)
 山背国山階(京都府京都市山科区)に創建
 山階寺(やましなでら)が当寺の起源
 壬申の乱の
 天武天皇元年(672年)
 山階寺は藤原京に移り、
 地名の高市郡厩坂をとって
 厩坂寺(うまやさかでら)と称した
  ↓↑
 和銅三年(710年)
 平城遷都に際し、
 鎌足の子
 不比等は
 「厩坂寺」を平城京左京の現在地に移転し
 「興福寺」と名付けた
 710年が実質的な興福寺の創建年
 不比等が死没
 養老四年(720年)
 「造興福寺仏殿司」という役所が設置
 藤原氏の
 私寺である興福寺の造営は
 国家の手で進められた
  ↓↑
 南都北嶺
 奈良時代には四大寺、
 平安時代には七大寺の一
 摂関家藤原
 北家との関係が深かった
 平安時代には
 春日社の実権をもち、
 大和国一国の荘園のほとんどを領し同国の国主
 「南都北嶺」と称された
 鎌倉時代
 大和国は実質的に興福寺の支配下
 安土桃山時代
 織豊政権に屈し、
 文禄四年(1595年)の検地で
 春日社興福寺合体の知行として2万1,000余石
  ↓↑
 平重衡の兵火による焼失
 治承四年(1180年)、
 治承・寿永の乱(源平合戦)の
 平重衡の南都焼討
 東大寺とともに大半の伽藍が焼失
 現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作
  ↓↑
 江戸時代
 享保二年(1717年)の火災
 大規模な復興はなされず、
 焼けた西金堂、講堂、南大門
 などは再建されなかった
  ↓↑
 廃仏毀釈
 慶応四年(1868年)
 神仏分離令
 寺領は
 1871年(明治四年)の上知令で没収
 1881年(明治十四年)
 興福寺の再興が許可
 1897年(明治三十年)
 文化財保護法の前身である
 「古社寺保存法」が公布
ーーーーー
 ・・・恵みも災いも、空から、海から、山から、大地からも・・・そして、「人間社会」からも・・・ 

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ハイタカ=西(襾)+日+十+鳥

2016-03-14 00:04:12 | 古事記字源

 ・・・ボクの「2011年1月からの日記」・・・何を、ダレに怒ってんだか、すごいなぁ~ッ、暴言なんだか、罵倒なんだか、誹謗中傷なんだか・・・結局、自分自身に怒ってんだろうな・・・「星に願いを」ですか・・・そんな気持ちにはとって、とっても・・・5年たって「イカリ」は何処かにイってしまったんだか・・・前日は「高知県宿毛市大島の鷣(はいたか)神社」をチラッと書き込んだが・・・「鷣(はいたか)=西+日+十+鳥」とはナンゾや?って、調べてみたが、
見なれない漢字であるし、なんで、この漢字が使用されているのか不思議に思う・・・
ーーーーー
 「鷣=負雀」
  ↓↑
 爾雅·釋鳥=鵹黃・楚雀・・・註、卽「倉庚」也
       又、爾雅の釋鳥、「鷣=負雀」
       註、鷣=「鷂」也
           「善く雀を捉(とらえ・ソク・サク)る
            名に因る。
       又、爾雅·釋鳥、「桑鳸竊脂」と註、俗に謂う之「逭雀」
       又、爾雅·釋鳥、「桃蟲鷦」と註、「鷦𪃦=桃雀」也
               俗に呼ぶ爲「巧婦」
               疏、方言の説(說)として
               「巧婦」之名、
         「巧婦鳥」=タクミドリ冬に人家の近くに現われる
               ミソサザイ科の鳥
         「みそさざい=鷦鷯・鴟鴞・桃雀
                三十三才・巧婦鳥
                溝三歳・溝鷦鷯
                蒙鳩・女匠桃虫・襪雀」
         「巧婦鳥=みそさざい=鷦鷯」
         「」
               自關而東謂之「工爵」
               自關而西或謂之「韈雀」

 鷣=負雀(鷣,鷂也・江南呼之為鷣・善捉雀、因名雲
   音は淫・疏は「鷣=負雀」
   釋曰、「鷣=一名負雀・郭雲・鷣=鷂也
         江南呼之為鷣、善捉雀、因名雲
         齧齒、艾
         (未詳)だが「鶨=鶀老
                  鳹鶨」也
                  俗呼為「癡鳥」
                  鶨=醜絹切
                  鳹=巨炎切

スズメ目ハタオリドリ科の小鳥。全長約15センチメートル。背面は地味な黄褐色で頭は茶色,ほおとのどに黒い模様があり,腹面は灰白色。人家の近くで群れをなして生活し,虫や穀物を食べ,イネに害を与えることがある。ユーラシアに広く分布
事情通である人。また,内幕や情報をしゃべってまわる人

 「雀=すずめ・ジャク・スズメ
    雀躍・雀羅・燕雀
    金糸雀(カナリア)・四十雀(しじゅうから)
    雀斑(そばかす)・雲雀(ひばり)
    麻雀(マージャン)・山雀(やまがら)
    葦雀(よしきり)
ーーーーー
 以下は参考ブログ・・・
http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1707-houeijishin/pdf/07_chap03.pdf

愛媛県宇和島市蒋渕豊ノ浦 鷣神社(はいたかじんじゃ・神社名称)
高知県宿毛市大島 鷣神社(はいたかじんじゃ・神社名称)
高知県宿毛市宇須々木 鷣神社(はいたかじんじゃ・神社名称)

 覃の部首を構成する漢字は、
 「譚・潭・簟・蕈・鐔・磹・禫・蟫・鱏・鷣・驔・醰・贉」
ーーーーー
 ・・・「ホトトギス=「杜鵑・子規・杜宇・時鳥・不如帰・蜀魂・郭公・沓手鳥・田鵑・怨鳥」ではなかった・・・

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龍のカンジ・・・

2016-03-12 22:56:30 | 古事記字源

 ・・・「3月11日のその後」・・・「復興増税納得」だけれど、「配分」には難しい問題も・・・「高台への集団移転」には時間がかかるけれど、五年間の生きて行く時間での未来的生活空間の決定は、個々人の「私有財産の使い方の選択」でもあるから、そう簡単ではない・・・「津波からの安全地帯」への高台移転・・・?・・・「鷣(ハイタカ)神社の石段。高知県宿毛市大島。1995年(平成7年)再建」の写真(ウイッキペデア)には津波の標識(石段には宝永地震津波では39段目まで浸水、安政南海地震では7段目)が掲げられているが・・・自然の猛威、地震津波から逃げて命の確保をマットウするのは至難のことだが、「原発放射能汚染」、「戦争での殺傷」は人間のヤッテイルことだから避けるコトが出来るハズだ・・・「平地の水耕稲作」と「高台の斜面畑耕作」での二重生活があったとしたら、彌生古代人の「津波避難」としての生命の確保と、生活の知恵だったかも・・・「水流紋の多い銅鐸」に託しての・・・津波の水流は障害物にぶつかりながら渦を巻きながら人びとを襲う・・・豪雨も、津波も・・・地を這う濁流の龍・・・「襲(おそう・かさねる)=龍+衣」と云う漢字をミナガラ・・・
 以下、参照、参考として「山本尚明」氏の論文を断りも無く、少々改作、部分を抜粋添付したモノです・・・申し訳ありません・・・
ーーーーー
 瀬戸内海の
 歴史南海地震津波について
 防災&環境工学研究所
 山本尚明
  ↓↑
 原文
http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_19/23-Yamamoto.pdf
  ↓↑
 瀬戸内海沿岸に来襲した歴史地震津波
 南海地震津波の被害を繰り返し受けてきた
 和歌山県
 徳島県を除き
 他の9府県の沿岸では
 津波の規模や被害の程度も小さい。
 瀬戸内海9府県、瀬戸内海の沿岸では
 津波に関する
 古文書等の記録も
 太平洋沿岸に来襲した津波に比べて格段に少ない・・・
 瀬戸内海沿岸に来襲した
 歴史地震津波に関しては関心も薄く
 その実態は余り知られていない。
 津波の数値シミュレーションを
 実施するうえで必要な断層モデルが提案
 三つの南海地震津波
 (1707 年宝永
  1854 年安政南海
  1946 年昭和南海)
 を取り上げ
 瀬戸内海沿岸の津波高について取りまとめた。
 また,一例として、
 古文書の記録が得られていない
 瀬戸内海の西部に
 位置する任意地点を選定して
 津波の数値シミュレーションを実施し
 各地震津波時
 および
 津波の波源域
 を移動させた場合の
 津波高をそれぞれ把握・・・
  ↓↑
 1854年安政南海地震津波
 瀬戸内海の本州沿岸の
 津波高は、東部に位置する
 大阪府で2.4~3m程度
 兵庫県では2~3m程度
 1707年宝永地震津波と同様に
 両県とも最高3m程度
 岡山県では1~2m程度
 広島県では1~1.5m程度
 山口県でも 1~1.8m
 と、津波高の分布パターンも
 1707 年宝永地震津波とほぼ同様に
 西低東高の傾向が見られる。
 四国沿岸の津波高は
 香川県で 1~1.5m程度
 愛媛県では 1~2.5m程度と推定され
 伊予灘に面する
 愛媛県伊予市が2.5m程度
 松前町が2m程度
 と、この付近は
 四国の他の沿岸に比べて
 津波高が若干高くなる傾向
 九州沿岸の
 大分県では
 津波高が1.5m程度と推定され
 瀬戸内海の西部に位置する
 本州の広島県、山口県、四国香川県の
 津波高とほぼ同じである。
 1854年安政南海地震津波と前述した
 1707年宝永地震津波を比較して見ると
 津波高は概略同じ高さか
 1707年宝永地震津波の方が
 若干(0.5m程度)
 高くなっていることがわかる。
  ↓↑
 1946年昭和南海地震津波
 1707年宝永地震津波や
 1854年安政南海地震津波と
 比べて津波の規模も小さく
 兵庫県淡路島の南端に位置する
 福良で観測された
 津波高2.1mを除き
 瀬戸内海全域の津波高は
 0.8~1.2mと低く
 ほぼ一様である・・・
ーーーーー
 であるらしい・・・だが、この「津波の数値シミュレーションの高さ」には疑問ではあるカナ・・・いずれにしても津波は人びとの「低地平野での生活圏」を襲った・・・
 以下も、他のブログ記事の検索から添付したモノです・・・
ーーーーー
  ↓↑
 高地性集落
 日本の弥生時代中・後期に、
 平地と数十メートル以上の標高差がある、
 標高100メートルを超える
 高地の山頂部や斜面に形成された集落
 ↓
 弥生時代の集落遺跡は、
 周囲に濠をめぐらして
 外敵の侵入を防ぐ
 環濠集落が主たるものであり、
 これらはコメの生産地となる
 水田に近い平野部や
 台地上に形成されていた。
 それに対して、
 人間が生活するには適さないと思われる
 山地の頂上・斜面・丘陵から、
 弥生時代中期~後期の集落遺跡、
 高地性集落の遺跡が見つかっており、
 「逃げ城」
 や
 「狼煙台」などの
 軍事目的の集落であった等、
 様々な議論が提起されている・・・
 ↓
 高地性集落の分布
 弥生中期に
 中部瀬戸内
 大阪湾岸に
 弥生後期に
 近畿とその周辺部にほぼ限定されている
 古墳時代前期には、
 西日本の
 広島・鳥取に、
 北陸の
 富山・石川・新潟
 に分布
 北部九州にはみられない集落
 集落遺跡の多くは
 平地や
 海を広く展望できる
 高い位置にあり
 西方からの進入に備えたものであり、
 焼け土を伴うことが多いことから、
 のろしの跡と推定されている
 ↓
 高地性集落
 弥生時代中期~後期
 西日本に多い集落の一つ
 海や平野を
 眺望できる山頂や丘陵の尾根上につくられ
 火を焚いた跡
 石鏃が多量に出土
 弥生時代
 社会状況のなかで
 戦闘に備えた
 防砦・烽台の機能をもった遺跡・・・
 ↓
 弥生時代中期
 瀬戸内海
 大阪湾沿岸の
 丘陵・山頂につくられた集落
 兵庫県芦屋市会下山遺跡
 香川県三豊(みとよ)市詫間(たくま)町
 紫雲出遺跡では
 石槍・石鏃が多く
 軍事的緊張に対応した
 防御集落と考えられる・・・
 ↓
 稲作と低地居住が
 時代の趨勢の原史時代
 水田経営と日常の居住条件を犠牲にし、
 斜面の急な比高の高い所に
 営まれた異常ともみられる
 弥生系統の集落遺跡を
 「広義の高地性集落」とよんでいる。
 「狭義の高地性集落」は、
 展望がきく
 山頂や尾根筋とか、
 斜面の急峻な高い台地に立地し、
 武器的遺物や防備施設の遺構など、
 軍事的防衛機能をもつとみられる集落遺跡
 「高地性集落」とよぶときは
 狭義の高地性集落をさし、
 集落成立の主体的機能と、
 その後に生じた派生的副次機能をもつものとがある。
 高地への出現と消滅という
 垂直的遷移現象が
 特定の時期と地域に現れることがある
 分布は
 本州、四国、九州にみられるが、
 大部分は
 北部九州と
 畿内を結ぶ瀬戸内と四国に集中
 原因は、
 潜在的な自然環境の変化のほか、
 稲作前線の拡張や
 政治を背景とする軍事的緊張と緩和が作用
 遺跡の発掘調査からは、
 高地性集落が一時的というより、
 かなり整備された
 定住型の集落である・・・
 狩猟用とは思えない
 大きさの石鏃(石の矢尻)も
 高地性集落の多くから発見
 ↓
 高地性集落を山城のように
 軍事的性格の強い集落とする意見が主流を占めている・・・
 高地性遺跡からも
 同時期の平地の遺跡とほぼ同じ内容の遺物が見つかっており
 単なる監視所・のろし台といったものではなく、
 かなりの期間、
 住居を構えた場所だったことも判明・・・
 ↓
 集落の分布状況から、
 弥生中期~後期にかけて、
 北部九州~瀬戸内沿岸~畿内の地域間で
 軍事衝突を伴う
 政治的紛争が絶えなかったとの推測・・・
 畿内を中心とした地域で進められていた
 統合・連合への動きであった。
 豊中市勝部遺跡の木棺から
 石槍が背に刺さった遺体や
 石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見
 これらの遺体は争乱の犠牲者とみられる
 弥生中期~後期という時期に着目し、
 中国史書に見える
 倭国王の登場や
 倭国大乱との関連を重視する見方や、
 九州勢力の東進に対する備えと見る説もある・・・
 ↓
 環濠集落はほぼ
 弥生時代全期間を通じて存在した
 近隣のクニやムラとの戦いに備えたものであり、
 北部九州とヤマトのような
 遠く離れた地域間の戦いに備えたものでない・・・
 20世紀末期ごろからは、
 高地性集落を
 特殊な集落と捉えるのではなく、
 他の
 環濠集落
 や
 非環濠集落
 との関連性に着目し、
 地域の拠点となる
 拠点集落と
 その他の集落という関係で見直す動きも出ている。
 ↓
 高地性集落遺跡、
 香川県三豊市詫間町の
 紫雲出山遺跡
 (しうでやまいせき、標高352メートル)、
 高松市岩清尾山古墳群
 (いわせおやまこふんぐん、標高232メートル)、
 愛媛県西条市の
 八堂山遺跡
 (はちどうやまいせき、標高196.5メートル)、
 瀬戸内海に浮かぶ
 男鹿島(たんがしま)の山頂にある
 兵庫県飾磨郡家島町
 大山神社遺跡(標高220メートル)、
 神戸市伯母野山遺跡(標高130メートル)、
 芦屋市
 会下山遺跡
 (えげのやまいせき、標高185メートル)、
 城山遺跡(標高250メートル)、
 岡山市貝殻山遺跡(標高284m)、
 柏原市高尾山遺跡(標高280メートル)
 などがある。
 ↓
 高地性環濠集落
 新潟県神林村に所在する弥生時代後期後半の
 山元遺跡
 東北の文化圏では初めての環濠集落
 長辺100メートル以上、
 短辺約50メートルの広さで、
 深さ約1メートル、
 溝の断面は逆台形である。
 環濠外の
 土抗墓群から
 61点に及ぶ大量のガラス玉が出土
 ↓
 弥生中期に中部瀬戸内と大阪湾岸の
 高地性集落は
 石鏃の出土量が顕著で、
 他の石製武器の存在も目立っている
 全ての高地性集落に
 防衛的性格を強調するのではないが、
 これらの地域の
 高地性集落は
 防塞としての役割が
 あったものと考えられている・・・
ーーーーー
 ・・・「津波からの安全地帯への移転」あるいは、「二重の予備集落」・・・?・・・以下も「ウイッキペデア」・・・
ーーーーー
 684年11月26日(11月29日)(天武13年10月14日)
 白鳳地震(天武地震)
 M 8 1⁄4、死者多数。亥時(午後9時 - 11時頃)
 土佐で津波により大きな被害
 伊予湯泉(道後温泉)は埋没して出なくなり、
 田園(約 12 km²)が海面下へ沈下
 (『日本書紀』の南海地震の最古の記録)
 東海、東南海地震震源域におけるほぼ同時期の地震痕跡が発見
 887年8月22日(8月26日)(仁和3年7月30日)
 仁和地震
 M 8.0 - 8.5、五畿七道諸国、京都・摂津を中心に死者多数
 津波あり
 東海、東南海地震震源域におけるほぼ同時期の地震痕跡が発見
 1099年2月16日(2月22日)(承徳3年1月24日)
 康和地震
 M 8.0 - 8.3、興福寺西金堂・塔小破、大門と回廊が倒壊
 摂津天王寺回廊倒る。死者数、
 津波記録は未確認、
 地殻変動で田千余町(約1,000ha)みな海に沈む
 この地震の2年2ヶ月前に
 永長地震発生(東海・東南海地震連動と推定)
 1361年7月26日(8月3日)
 (南朝:正平16年6月24日、北朝:康安元年6月24日)
 正平地震(康安地震)
 M 8 1⁄4 - 8.5、死者多数
 摂津・阿波・土佐で津波により大きな被害
 摂津四天王寺の金堂が転倒し圧死者
 津波で摂津・阿波・土佐に被害、
 特に阿波の雪(由岐)湊で流失1,700戸、流死60余
 東海地震の発生は不明だが、同時期に東南海地震が発生・・・説
 東大地震研が調査した法隆寺の記録によると、
 淡路島の障壁にも関わらず、
 大阪市天王寺区でも海岸から
 4km以上に渡り津波が押し寄せた
 伊勢神宮の古文書でも当時の記録
 1707年10月28日(宝永4年10月4日)
 宝永地震(東海・東南海・南海地震)
 M 8.6、
 五畿七道諸国、東海地方から九州東部の広い範囲が激震域
 この地震の49日後に
 富士山が噴火し
 宝永山(火口)ができる(宝永大噴火)
 死者2万人余、倒壊家屋6万戸余
 房総半島から九州まで
 大津波が襲来し、大坂、土佐の被害が甚大
 青龍寺や久礼では
 標高25mの地点まで遡上
 道後温泉の湧出が145日間止まる
 1854年12月24日(嘉永7年11月5日)
 安政南海地震
 M 8.4、死者千 - 3千人
 紀伊・土佐などで
 津波により大きな被害(串本で最大波高11m)
 大坂湾に注ぐいくつかの川が逆流
 道後温泉の湧出が106日間止まる
 この32時間前に
 安政東海地震(東南海地震含む)が発生
 両地震による死者の合計は約3万人との説
 余震とみられる地震は9年間で2,979回記録(『真覚寺日記』)
 1946年(昭和21年)12月21日
 昭和南海地震
 M 8.0、被害は中部以西の日本各地にわたり、
 死者1,330名
 家屋全壊11,591戸
 半壊23,487戸
 流失1,451戸
 焼失2,598戸
 津波が静岡県より九州にいたる海岸に来襲、
 高知・三重・徳島沿岸で4~6 mに達した
 室戸・紀伊半島は南上がりの傾動を示し、
 室戸で1.27m
 潮岬で0.7m上昇
 須崎・甲浦で約1m沈下
 高知付近で田園15km2が海面下に沈没
 道後温泉の湧出が38日間止まる
 山口県美祢市(旧美祢郡別府村、共和村)では
 秋吉台麓の厚東川沿いの低地に
 「口径1~11m、深さ1~5mの堆積地ドリーネが150余発生
 この地震の2年前、
 1944年(昭和19年)12月7日
 昭和東南海地震が発生
  ↓↑
 734年5月14日(5月18日)(天平6年4月7日)
 畿内七道地震
 津波の記録が確認されず、
 生駒断層帯の活動による内陸地震との説
 794年8月9日(8月13日)
 (延暦13年7月10日 - 巨大地震と津波が発生と日本紀略の記述
 「宮中並びに京畿官舎及び人家震う。或いは震死する者あり」
 しかし
 「震死」は
 一般的に「雷に打たれて死ぬことを意味」し、
 地震ではないとも・・・?
 10世紀後半頃
 奈良県香芝町の
 箸尾遺跡に砂脈跡がある
 徳島県海陽町千光寺の
 『薬師如来出現図』には、
 永延元年5月(987年)に
 漁船が波に呑まれたとき
 薬師如来が現れて助けたという縁起伝承が描かれ、
 南海地震津波と考えられたことも有ったが、
 江戸時代後期に書かれたもの・・・
 1185年8月6日(8月13日)(元暦2年7月9日)
 津波と思われる記録から
 文治地震を南海トラフ沿いの巨大地震とする説
 13世紀前半頃
 大阪府堺市の
 石津太神社
 和歌山県箕島の
 藤波遺跡に
 南海地震によると思われる
 液状化現象の遺跡
 1233年3月17日(3月24日)(貞永2年2月5日)
 に諸国?で大地震の記録が存在・・・
 1408年1月12日(1月21日)(応永14年12月14日)
 応永地震
 京都・紀伊・伊勢で地震
 鎌倉に津波、熊野本宮の温泉の湧出が停止
 明応地震《1498年9月11日(9月20日)(明応7年8月25日)
 東海・東南海地震
 M 8.2 - 8.4、死者3万~4万人以上と推定
 伊勢・駿河などで津波により大きな被害
 浜名湖が海と繋がり、
 伊勢大湊で家屋1,000戸、溺死者5,000人
 伊勢志摩で溺死者10,000人
 静岡県志太郡の『林叟院記録』で溺死者26,000人
 1498年6月30日(7月9日)(明応7年6月11日)
 中国・揚子江の水面を揺るがしたとされる、
 日向灘地震が南海地震に相当するとの説
 明応地震の73日前に発生し、
 南海地震が東海地震に先行した例・・・
 安政地震後に起きた
 豊予海峡地震も上海付近を強く揺らした
 1520年3月25日(4月4日)(永正17年3月7日)
 永正地震
 京都・紀伊で地震。熊野、那智で寺社が破壊
 津波
 1605年2月3日(慶長9年12月16日)
 慶長地震(東海・東南海・南海地震?)
 M 7.9~8、関東から九州までの太平洋岸に津波、
 房総半島・紀伊・阿波・土佐などで大被害
 八丈島でも津波による死者57人。死者1万~2万人と推定
ーーーーー
 ・・・東海=トウカイ=倒壊・凍解・問うかい・・・訳得掛意・・・南海=ナンカイ=何回・何階・難解・・・何かい、名務歌意・・・???・・・

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