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コジキジゲン

未確認航行物体の1825年・・・1803年のデキゴト

2016-03-21 23:08:24 | 古事記字源

 ・・・1825年の「空飛ぶ円盤」のハナシだが・・・「兎園會(トエンカイ)1825年・文政八年」の時代の世界情勢はドウだったんだか?・・・「尾馬靡(オバマ)・Obama・奥巴馬(马)」」が1928年以来「88年ぶり」に「玖馬(キューバ)・玖瑪・久場」訪問で「嚇法拿(ハバナ・Havana)」に到着し、「人権問題」ですか・・・「社会主義体制の下で人権を巡る状況が改善されていない」として、「人権問題の改善を重視する姿勢」、キューバ東南部の「グァンタナモ米軍基地(Guantanamo Bay Naval Base)」でヤッタコトに口をツムんで、 どの面を提げて「人権問題」を云える立場にあるんだか・・・「革命(Revolución cubana)」以前のアメリカ資本の傀儡政権バティスタから奴隷解放(1969年)された「玖馬(キューバ)国民」、彼らが克ち取ってきた「人権」をドウするつもりなんだか・・・「虫歯」の原因である「甘いサトウ」をどうするつもりなんだか・・・ボクは「葉巻」は嫌いだけれど、「煙草」も「猪口令糖(チョコレート・貯古齢糖)」も大好きな「甘党」だけれど・・・問題は1825年の「空飛ぶ円盤」のハナシだった・・・それも、「Revolución」である・・・? 
 「レボリューション」の語源は「回転する」の意味を持つラテン語の「revolutio」で、ニコラウス・コペルニクスの科学革命で使用(ウイッキペデアより)・・・ 
ーーーーー
 易経
 『革卦』
 『湯武革命、順乎而應乎人』
 革命
 被支配階級が支配階級から
 国家権力を奪い取り、
 政治・経済などの
 社会構造を根本的に覆すこと
 物事が急激に発展・変革すること
 王朝が改まること
 革・・・かわ・あらためる・あらたまる・・・
     なめす=鞣す
        動物の生皮から不要なたんぱく質や
        脂肪を取り除き、薬品で処理して、
        耐久性・耐熱性・柔軟性をもたせる
        なめしがわ(鞣革)・レザー
       「韓・韜」などの
       「韋(なめし・そむく・イ)」の称意
        違反・違犯
 革・・・改革、革命、変革
     改めるという卦
     古いものを新しくする
     十分機会が熟してから行うことで、
     萬民の支持を受ける
ーーーーー
 1825年・・・「兎園會(トエンカイ)」開催
          文政八年
 干支は
 乙酉年
 日本(寛政暦)
 文政八年
 皇紀2485年
 中国
 清王朝は
 道光五年 
 朝鮮
 李氏朝鮮は
 純祖二十五年
ーーーーー
 出来ごと=できごと=出記語訳
 ↓↑
 デカブリストの乱(ロシアの青年将校の反乱)
 デカブリストの乱
(Decembrist revolt)
 1825年12月14日(グレゴリオ暦12月26日)
 ロシアの反乱事件
 デカブリスト
 武装蜂起の中心となった
 貴族の将校たちを指し、
 反乱が
 12月(ロシア語でデカーブリ、 Декабрь)
 に起こされたことから
 デカブリスト(十二月党員)の名で呼ばれた
 ロシア史上
 初のツァーリズム(皇帝専制)
 と
 農奴解放を要求した闘争
 ↓
 革命運動の起源は、
 アレクサンドル1世の治世
 17世紀末~18世紀初頭
 ロシアの貴族層は、
 ヨーロッパの啓蒙主義に影響を受けて
 自由主義的思潮に傾斜
 ↓↑
 1789年〜1799年
 フランス革命
 (Révolution française・French Revolution)
 ↓↑
 ナポレオン・ボナパルトの登場
 1805年
 アウステルリッツの戦い
 1806年
 フリートラントの戦い
 敗北以降、
 アレクサンドル1世は
 ナポレオンに対して協力者であった
 ↓↑
 自由主義の勃興、
 保守派の憤激
 ↓↑
 アレクサンドル1世は、
 ミハイル・スペランスキーを登用
 立憲制の導入を含む改革を試み
 スペランスキーは、
 内務省の組織化、
 聖職者教育の改革、
 政府による
 経済開発の体系化などの改革に関与
 1808年
 スペランスキーは
 国と地方に
 選挙制議会(ドゥーマ)の設置を中心とする
 立憲制導入を構想
 貴族・官僚層の反発を買い
 1812年
 ナポレオンとの戦争を前に
 アレクサンドル1世は、国内の統一で
 スペランスキーを顧問から解任追放
 ロシア戦役
 焦土作戦と
 冬将軍の到来によって
 ロシア軍が勝利
 以後、
 ライプツィヒの戦い、
 ワーテルローの戦いで
 ナポレオン失脚
 ロシア軍はパリまで進軍した
 ナポレオン戦争に従軍した
 貴族出身の青年将校たちは、
 滞在中、議会の
 討論会、自由主義的な大学の講義を聴講、
 政治的意見掲載の新聞を購読
 ヨーロッパ諸国の政治・社会制度に触れ、
 ロシアの後進を比較
 戦争に従軍している
 農民出身の多くの兵士に直接接し、
 彼らの境遇の劣悪さを感じ、
 国家社会の改革を意識
 自由主義的政治思想
 人権思想
 代議制
 立憲制
 などの影響を受けて帰国、
 ロシアの専制政治・官僚政治の
 改革を標榜した
 ↓↑
 秘密結社
 1816年
 サンクトペテルブルクで
 アレクサンドル・N・ムラヴィヨフ、
 イワン・D・ヤクーシキン
 ら
 6人の青年将校によって
 最初の秘密結社
 「救済同盟
 (Союз спасения)」
 後に
 「祖国の真正・忠誠な息子たちの会
 (Общество истинных
  и верных сынов Отечестваに改称)」
 が結成
 1818年
 「福祉同盟
 (Союз благоденствия)」
 が結成
 約200名が参加
 福祉同盟は、農奴解放、専制政治の廃止で一致したが
 立憲君主制と共和制を主張するものとに分かれていた
 武装蜂起の採用や蜂起の方法を巡っても相違
 1821年
 福祉同盟は意見相違と、
 当局のスパイを恐れ解散
 (当局の命令による解散説と、自主的な解散説あり)
 ウクライナ
 激派の
 パーヴェル・ペステリ大佐を中心に
 トゥリチンに本拠地を置く
 「福祉同盟」の南方支部が
 「南方結社(Южное общество)」が組織
 南方結社は、共和制に基づく憲法草案
 「ルースカヤ・プラウダ
 (Русская правда)」
 を起草
 専制政治の打破と
 一時的な独裁体制による
 共和国の樹立、農奴制の廃止と、
 国有地の土地改革、
 地方自治とユダヤ人以外の
 ロシア帝国に隷属する諸民族の独立を主張
 ペテルブルク
 穏健派の
 ニキータ・ムラヴィヨフ
 N.I.ツルゲーネフ
 によって
 「北方結社
(Северное общество)」
 が設立
 ムラヴィヨフは、
 スペイン1812年憲法
 アメリカ合衆国憲法に範を取り、
 立憲君主制・連邦制を基調とする
 憲法草案を起草
 教育・慈善事業、経済・司法改革
 などの課題について
 皇帝及び政府を助け、
 穏健な形でロシアに
 立憲制を導入することを目論んでいた
 ↓↑
 1815年
 皇帝アレクサンドル1世は、
 ポーランドに対して憲法を与え
 ポーランド立憲王国が成立
 議会の開院式に出席した
 アレクサンドルは、勅語の中で
 ロシア国内での憲法施行を準備していると言及
 これに期待
 (ポーランドに憲法を施行し、
  ロシアに未施行であることに反発も)
 アレクサンドルは、
 ウィーン体制に同調
 改革を捨て、反動
 秘密結社は、
 アレクサンドルの変節に
 穏健派である北方結社にも
 詩人の
 コンドラチイ・ルイレーエフ
 アレクサンドル・ベストゥージェフ
 ら共和制を志向する一派が加入することで
 急進化(北方秘密結社)
 ピョートル・カホフスキー、
 A.I.ヤクボーヴィチ
 が皇帝暗殺を計画
 1825年
 皇帝アレクサンドル1世が
 タガンログで崩御
 アレクサンドルには嗣子が無く、
 次弟の
 コンスタンチン大公が
 帝位継承であったが
 ポーランドの貴婦人
 ヨアンナ・グルジンスカ
 と秘密裏に貴賤結婚したため、
 帝位継承権を放棄
 アレクサンドル1世
 も生前、このことを認め、
 帝位は
 次の弟の
 ニコライ大公(ニコライ1世)
 に委譲決定
 だが、
 ニコライ大公が帝位継承者であることを知る者は
 アレクサンドル1世を始めごく少数で、
 肝心の
 ニコライ大公自身にも知らされてはいなかった。
 ↓↑
 帝位継承をめぐって
 コンスタンチン
 と
 ニコライ
 の間で相互に帝位を譲り合い、
 一時的に空位期間
 結社のメンバーは、
 ツァーリ政府に
 自分たちの情報が
 当局のスパイによって
 漏れているとの情報もあり、
 不十分な準備のまま
 クーデターを敢行
 1825年12月14日
 元老院広場において、
 新帝への宣誓式が挙行
 デカブリストは、3000人の兵士を率いて
 ペテルブルクの元老院広場で蜂起
 デカブリストは、
 コンスタンチンに忠誠を宣誓
 ニコライへの宣誓を拒否
 ニコライが登極した場合には、
 ニコライに迫って
 自由主義的な大臣を
 任命するように仕向ける予定であった
 デカブリスト
 はあらかじめ
 セルゲイ・トルベツコイ
 (Sergei Petrovich Troubetzkoy)
 を臨時指揮官に選んでいたが、
 当日、総指揮を執るはずの
 トルベツコイは姿を見せなかった。
 兵士たちは12月、厳寒の中、
 元老院広場に向かって行進を開始
 兵士達は上官の命に従い行軍し
 元老院広場に集結
 行軍中、兵士達は口々に
 「コンスタンチンと憲法
 (konstitiumir、Конституция)」
 とスローガンを叫んでいたが、
 憲法を
 「コンスタンチン大公妃」
 のことと誤解
 カホフスキーは
 レバシェフ将軍宛の手紙で
 創作であると示唆
 翌
 12月15日
 新帝ニコライ1世は
 自ら政府軍を率いて反乱の鎮圧
 ニコライは、
 流血の悲劇を避け
 デカブリストを投降させようとした
 勅使として兵卒の
 ミハイル・ミロラドヴィチ伯爵を派遣
 デカブリストの説得に当たらせたが、
 ミロラドヴィチ伯が狙撃され落命、
 政府軍の投入を支持した。
 デカブリストの反乱
 は一日で鎮圧
 ↓↑
 南方結社
 12月13日
 ペステリ大佐をはじめ指導者が次々と逮捕
 南部結社のメンバーが
 ペテルブルクでの
 武装蜂起の情報を得たのは乱後、
 2週間経ってからであった
 南部結社には、
 ロシア・ナショナリズム、
 スラブ民族の連邦国家創設を目指す
 「統一スラブ派」が参加
 ペステリ逮捕後は
 統一スラブ派が中心になって活動
 統一スラブ派は牢獄を襲撃し
 逮捕された指導者たちの何人かを解放
 そのうちの1人、
 セルゲイ・ムラヴィヨフ=アポストルは、
 12月29日
 チェルニゴフ連隊が武装蜂起したが、
 葡萄弾(散弾の一種)で武装した政府軍によって
 1826年1月3日鎮圧
 事件後、
 軍事法廷で関係者579名が裁判を受け
 首謀者とされた、
 ペステリ、カホフスキー、ルイレーエフ、
 ムラヴィヨフ=アポストル、
 ミハイル・ベストゥージェフ=リューミン
 の5人は絞首刑を宣告
 その他のデカブリストは、
 シベリア、極東、カザフなどに流刑を宣告
 これら流刑となった夫の後を追い、
 11人の妻が貴族身分を放棄して
 シベリアへ向かった
 デカブリストの指導者と交際があった
 アレクサンドル・プーシキン、
 アレクサンドル・グリボエードフ、
 アレクセイ・エルモーロフ
 (Aleksey Petrovich Yermolov)
 らは当局の監視を受けた
 ↓↑
 デカブリストの乱以降
 ヨーロッパでは、
 ギリシャ独立戦争、
 1830年
 フランス7月革命と連鎖
ーーーーー
 1825年
 ↓↑
 ボリビアがスペインから独立する。
 文政の異国船打払令。
 ブラジル独立を承認
 アルゼンチン・ブラジル戦争が起きる(-1828年)
 ジャワ戦争(ディポネゴロの乱)起こる(-1830年)
 ↓↑
 誕生
 1月16日カール・アブラハム・ピル、
     鉄道技術者(+ 1897年)
 1月18日エドワード・フランクランド、
     化学者(+ 1899年)
 2月8日ヘンリー・ウォルター・ベイツ、
     博物学者・昆虫学者・探検家(+ 1892年)
 4月11日フェルディナント・ラッサール、
     政治学者・社会主義者(+ 1864年)
 ↓↑
 4月23日(文政8年3月6日)
     松島剛蔵、
     甲子殉難十一烈士のひとり長州藩士(+ 1865年)
 ↓↑
 5月4日トマス・ヘンリー・ハクスリー、
     生物学者(+ 1895年)
 5月20日ジョージ・フィリップス・ボンド、
     天文学者(+ 1865年)
 6月7日ギュスターヴ・エミール・ボアソナード、
     法学者(+ 1910年)
 ↓↑
 6月12日(文政8年4月26日)
  郷純造、大蔵官僚・貴族院議員(+ 1910年)
 7月11日(文政8年5月26日)
  頼三樹三郎、儒学者(+ 1859年)
 8月16日(文政8年7月3日)
  松平武成、
     第3代浜田藩主(+ 1847年)
 ↓↑
 9月6日ジョヴァンニ・ファットーリ、画家・版画家(+ 1908年)
 ↓↑
 9月9日(文政8年7月27日)
  佐竹義堯、
     第12代秋田藩主(+ 1884年)
 ↓↑
 9月11日エドゥアルト・ハンスリック、
     クラシック音楽評論家(+ 1904年)
 9月12日カール・ドップラー、
    指揮者・作曲家・フルート奏者(+ 1900年)
 ↓↑
 9月19日(文政8年8月7日)
  松平忠恕、第4代小幡藩主(+ 1902年)
 ↓↑
 10月2日マーシャル・ジュウェル
  第29代および第31代オハイオ州知事
  第28代アメリカ合衆国郵政長官(+ 1883年)
 ↓↑
 10月9日(文政8年8月27日)
  松前昌広、
  蝦夷地松前藩第11代藩主(+1853年)
 10月17日(文政8年9月6日)
  伊達慶邦、
  第13代仙台藩主(+ 1874年)
 ↓↑
 10月25日ヨハン・シュトラウス2世、作曲家(+ 1899年)
 ↓↑
 10月25日(文政8年9月14日)
竹崎順子、教育家
 10月26日(文政8年9月15日)
  岩倉具視、
  明治維新の元勲(+ 1883年)
 ↓↑
 11月30日ウィリアム・アドルフ・ブグロー、画家(+ 1905年)
 12月2日ペドロ2世、ブラジル第二代皇帝(+1891年)
 ↓↑
 12月12日(文政8年11月3日)
  江馬天江、
      私塾立命館塾長・書家・漢詩人・医師(+ 1901年)
 12月26日(文政8年11月17日)
  渡会喬久、
      芝村藩家老(+ 1896年)
 ↓↑
 死去
 1月4日フェルディナンド1世、
     両シチリア王(* 1751年)
 1月8日イーライ・ホイットニー、
    発明家(* 1765年)
 ↓↑
 2月24日(文政8年1月7日)
  歌川豊国、
     浮世絵師(* 1769年)
ーーーーー
 1825年
 ↓↑
 異国船打払令
  ↓↑
 芸藩通志(げいはんつうし)
 頼杏坪、加藤株鷹、頼舜、黒川方桝
 津村聖山、吉田吉甫、正岡元翼によって著作
 編纂された安芸国広島藩の地誌で、
 文政8年(1825年)に完成
 ↓↑
 1663年
 広島藩の作成した地誌
 「芸備国郡志」を改訂し、
 内容を増補するために、
 1818年から再調査や資料の
 整理等の調査事業を開始して、
 最終的に
 1825年に完成
 全159巻。江戸時代以前の
 安芸国と備後半国(浅野氏の領国)
 の地理や文化、歴史を知る一級の資料
 主たる著者の
 頼杏坪は
 頼山陽の叔父
 ↓↑
 3月10日カール・モルワイデ、モルワイデ図法発案者(* 1774年)
 ↓↑
 4月9日(文政8年2月21日)
  雷電爲右エ門、江戸時代の大関(* 1767年)
 ↓↑
 4月16日ヨハン・ハインリヒ・フュースリー、画家(* 1741年)
 5月7日アントニオ・サリエリ、
  作曲家(* 1750年)
 6月11日ダニエル・トンプキンズ、
  アメリカ合衆国副大統領(* 1774年)
 6月14日ピエール・シャルル・ランファン、
  建築家・都市計画家(* 1754年)
 ↓↑
 8月10日(文政8年6月26日)
  只野真葛、国学者・文筆家(* 1763年)
 ↓↑
 10月13日マクシミリアン1世、
  バイエルン王(* 1756年)
 11月14日ジャン・パウル、小説家(* 1763年)
 12月1日アレクサンドル1世、ロシア皇帝(* 1777年)
 12月29日ジャック=ルイ・ダヴィッド、画家(* 1748年)
ーーーーー
 ↓↑
年   (年号)
史実
1806年(文化3年) 芝の大火
1808年(文化5年) フェートン号事件
 ↓↑
1825年(文政8年) 異国船打払令
 ↓↑
1828年(文政11年)シーボルト事件
1829年(文政12年)江戸大火
1830年(天保元年)伊勢御蔭参り大流行
1837年(天保8年) 大塩平八郎の乱
1839年(天保10年)蛮社の獄
ーーーーー
 1825年
 文政八年
 ↓↑       ↓↑
 人物名     生年〜没年
当時の年齢
笠森 お仙 1751年〜1827年(宝暦元年〜文政10年)74才
鶴屋 南北 1755年〜1829年(宝暦5年〜文政12年)70才
大槻 玄沢 1757年〜1827年(宝暦7年〜文政10年)68才
松平 定信 1758年〜1829年(宝暦8年〜文政12年)67才
葛飾 北斎 1760年〜1849年(宝暦10年〜嘉永2年)65才
酒井 抱一 1761年〜1828年(宝暦11年〜文政11年)64才
十返舎 一九 1765年〜1839年(明和2年〜天保10年)60才
滝沢 馬琴 1767年〜1848年(明和4年〜嘉永元年)58才
雷電 為衛門 1767年〜1825年(明和4年〜文政8年)58才
佐藤 信淵 1769年〜1850年(明和6年〜嘉永3年)56才
近藤 重蔵 1771年〜1829年(明和8年〜文政12年)54才
徳川 家斉 1773年〜1841年(安永2年〜天保12年)52才
間宮 林蔵 1775年〜1844年(安永4年〜弘化元年)50才
柳亭 種彦 1783年〜1842年(天明3年〜天保13年)42才
為永 春水 1790年〜1843年(寛政2年〜天保14年)35才
徳川 家慶 1793年〜1853年(寛政5年〜嘉永6年)32才
遠山 金四郎 1793年〜1855年(寛政5年〜安政2年)32才
渡辺 崋山 1793年〜1841年(寛政5年〜天保12年)32才
水野 忠邦 1794年〜1851年(寛政6年〜嘉永4年)31才
千葉 周作 1794年〜1855年(寛政6年〜安政2年)31才
 ↓↑
Siebold Philipp Von
        1796年〜1866年(寛政8年〜慶応2年)29才
 ↓↑
歌川 広重 1797年〜1858年(寛政9年〜安政5年)28才
高島 秋帆 1798年〜1866年(寛政10年〜慶応2年)27才
男谷 精一郎 1798年〜1864年(寛政10年〜元治元年)27才
Harris Townsend 1804年〜1878年(文化元年〜明治11年)21才
緒方 洪庵 1810年〜1863年(文化7年〜文久3年)15才
井伊 直弼 1815年〜1860年(文化12年〜万延元年)10才
Hepburn J. 1815年〜1911年(文化12年〜明治44年)10才
河竹 黙阿弥 1816年〜1893年(文化13年〜明治26年)9才
安藤 信正 1819年〜1871年(文政2年〜明治4年)6才
阿部 正弘 1819年〜1857年(文政2年〜安政4年)6才
勝 海舟 1823年〜1899年(文政6年〜明治32年)2才
Boissonade G. E.1825年〜1910年(文政8年〜明治43年)0才
鼠小僧次郎吉 ????年〜1832年(??年〜天保3年)?才
 ↓↑
1798年(寛政10年)本居宣長、『古事記伝』を完成させる。
1800年(寛政12年)伊能忠敬、蝦夷地を測量する。
 ↓↑
1804年(文化元年)ロシア使節ニコライ・レザノフ、
         長崎に来航し通商を要求。
1807年(文化4年)箱館奉行を廃止し、松前奉行を置く。
1808年(文化5年)江戸湾(東京湾)沿岸の砲台修築を起工
         間宮林蔵が樺太を探検し
         間宮海峡(タタール海峡)を発見
         イギリスの軍艦フェートン号が
         長崎に来航して補給を強要、
         長崎奉行・松平康英が引責して自殺
         (フェートン号事件)
1811年(文化8年)ロシアの軍艦艦長
         ヴァーシリー・ゴローニン、
         国後島で捕らえられる
        (ゴローニン事件)
1825年(文政8年)異国船打払令
        (外国船打払令、異国船無二念打払令)
1828年(文政11年)オランダ商館付のドイツ人医師
         シーボルトに諜報の嫌疑がかけられ、
         連座した天文方
         高橋景保ら処罰される
         (シーボルト事件)
1833年(天保4年)~1839年(天保10年)
          天保の大飢饉
1834年(天保5年)水野忠邦、老中となる
1835年(天保6年)竹島事件
1837年(天保8年)大塩平八郎の乱
         生田万の乱
         アメリカ船モリソン号、
         漂民を伴い相模国浦賀に入港するも、
         打払令により撃退
         (モリソン号事件)
1839年(天保10年)蛮社の獄
         天保の改革
1842年(天保13年)天保薪水給与令
1844年(弘化元年)オランダ国王ヴィレム2世、
         親書を送り開国を勧告
1846年(弘化3年)アメリカ使節ジェームズ・ビッドル、
         相模国浦賀に来航し通商を要求
 ↓↑
1853年(嘉永6年)黒船来航
         マシュー・ペリー艦隊
         プチャーチン艦隊来航
1854年(嘉永7年/安政元年)日米和親条約
             安政東海地震、
             安政南海地震
             11月改元
1855年(安政2年)安政江戸地震
        (安政の大地震)
         日露和親条約調印。
1856年(安政3年)タウンゼント・ハリスが下田に着任
1857年(安政4)
1858年(安政5年)日米修好通商条約調印
1859年(安政6年)安政の大獄
1860年(安政7年/万延元年)桜田門外の変
             3月、改元
1861年(万延2年/文久元年)2月、改元
             ロシア軍艦対馬占領事件
1862年(文久2年)坂下門外の変
         寺田屋事件
         生麦事件
1863年(文久3年)薩英戦争
         八月十八日の政変
         生野の変
1864年(文久4年/元治元年)2月、改元
             水戸天狗党の乱
             池田屋事件
             禁門の変
             四国連合艦隊下関砲撃事件
             長州征討(長州征伐)
1864年(元治元年)第一次長州征討
1865年(元治2年/慶応元年)4月、改元
1865年(慶応元年)第二次長州征討
1866年(慶応2年)薩長同盟
1867年(慶応3年)大政奉還・王政復古
1868年(慶応4年/明治元年)9月、改元(1月1日に遡って適用)
1868年(慶応4年)戊辰戦争、鳥羽・伏見の戦い、
         上野戦争、北越戦争、
         会津戦争、箱館戦争
ーーーーー
 ・・・1825年・・・未確認航行(後項・公行)物体・・・「うつろフネとバンジョ」・・・

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密かに潜(潛・ひそまれ)ているモノ

2016-03-20 23:33:58 | 古事記字源

 ・・・「念壱拾壱・弐千壱拾壱」日目です。「2016年3月20日」デス・・・ガンガンの御天気で、「雪解(ゆきどけ・セッカイ)」・・・「春(はる・シュン)」・・・ここ、蝦夷地もナントナク、「はる=葉留・張る・貼る・逴・明・温」の「兆(きざ・チョウ・萌)し」です・・・ハぁルョ、コイ、ハァヤク、コイ・・・アルキはじめたミイ(ミヨ?・相馬御風の長女、文子?)ちゃんが・・・作曲、弘田 龍太郎(1892~1952)。作詞、新潟県糸魚川市出身の詩人、相馬御風(1883~1950)・・・
ーーーーー
 大正十二年三月に発表
 春よ来い 早く来い
 あるきはじめた ミイちゃんが・・・・・・視意・未意
 赤い鼻緒の ジョジョ(草鞋・鞋)はいて・・・・序助
 オンモへ(外)出たいと 待っている・・・・・・音摸
 ↓
 春よ来い 早く来い
 おうちのまえの 桃(もも)の木の
 蕾(つぼみ)もみんな ふくらんで・・・・通模視・蔀・莟
 ハヨ咲(さき)きたいと 待っている・・・葉与差記他意訳
 ↓↑
 大正十二年一月二十日
 御風の詩に
 弘田龍太郎が作曲
 曲と詩が
 大正十二年三月一日発行
 仏教童話雑誌
 『金の鳥(金の鳥社)』三月号で発表
 相馬御風著『相馬御風歌謡集(厚生閣)』に
 昭和十二年五月発行の「童謡の部」に収録
 戦後は毎年春にNHKラジオで放送された
ーーーーー
 そうですか・・・で、
 『歌語例歌事典(鳥居正博・聖文社・1988)』
 ↓↑
 ・・・この「鳥居正博」氏とはなにものか?・・・ボクの使用して居る「エッセンシャル英和辞典」の発行者でもあるんだけれど・・・「怪しい人物?」ではあるかな・・・以下は
 「レファレンス事例詳細(Detail of reference example)」
 ↓↑
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000099002
 ↓↑
 を参照、参考にし、少々改作して一部分を添付したモノに対するボクの「?」です・・・
 ↓↑
 「一年に春が二度来た」
 という主旨の歌
 「古くて有名な歌らしいが、何を調べたらよいだろうか(?)」とは、
 ・・・「一年に春が二度来た」とは
 旧歴(陰暦)と新暦(太陽暦)に混乱していた
 「明治以後のコト」だろう・・・
 そして、
 「江戸時代」であるならば、
 蘭学者にとっては
 「オランダ正月を祝うグレゴリオ暦の行事」だった・・・
 更に、空海の時代であるならば、
 ネストリア(景教・キリスト教異端)派の人物が
 密(ひそか)かに
 「太陰、太陽暦のハル(春)」としたカモ・・・
 ↓↑
 明治五年(1872)11月9日、
 太陰暦を廃し、
 太陽暦を採用することの詔書が発せられ、
 太政官布告
 第337号により公布
 1年を365日とし、
 それを
 12ケ月に分け、
 4年毎に
 閏年をおき、
 1日を24時間としたモノで
 旧暦の
 明治五年十二月三日を
 新暦の
 明治六年1月1月とした
ーーーーー
 ↓↑
 「密教=秘密・秘蜜→秘充=ひみつ=日満=斐視通→比観通」
 かも・・・密(ひそか・ミツ)かに・・・
 「前島密
  天保六年一月七日(1835年2月4日)
   ~
  大正八年(1919年)4月 27日)
  日本の官僚、政治家
  号は「鴻爪(コウソウ)」
  近代郵便制度の創設者
  1円切手の肖像人物
  郵便や、切手、葉書
  という名称を定めた」
 「1866年(慶応二年)
  「漢字御廃止之議」という建議書を
  将軍徳川慶喜に提出
  漢字使用の廃止と云う趣旨内容
  国語「国字問題」について
  言文一致を提言した人物である・・・
 ・・・秘密仏教は「真言」だが・・・確かに「法事=ホウジ=邦字・補得字」で聴く者には坊主の「読経は馬の耳に念仏」であるナッ・・・
 ↓↑
折口信夫(おりくち しのぶ)
1887年(明治二十年)2月11日
  ~
 1953年(昭和二十八年)9月3日 )
 民俗学者、国文学者、国語学者
 号は
 「釈迢空(シャクチョウクウ)」
 詩人・歌人
 ・・・この人物は「柳田国男」の弟子であったらしいが、彼にとっても「ニホンゴ」は難解であった・・・?・・・一旦、形成された「権威」とは怪しいのである・・・「一般人」にとってはアリガタイ存在になってしまうのは「日常言語の意味付与の権威者」だからであろう・・・まさに、
 「釈(解釈)」
 「迢(はるか・とおい
    ジョウ・デウ・チョウ・テウ
    遙遠・迢遠・迢遙・迢遞・千里迢迢)」
 「逓=遞・だんだん・しだいにダイ・テイ
    かわる・たがいに
    横へ横 へと次々に伝え送る
    遞信=郵便、電信などを
       順次に送り伝えて、届けること
       逓信・逓送・駅逓・伝逓」
 「空(そら・から・クウ)」
 であるかな・・・まったく、曖昧で混乱を「迢遞」である・・・「迢=辶+召(刀+口)」、「遞(辶+厂+虎)」の「虎=とら=訳等=彪・寅・勾」は崖っぷちの虎の道(辶=シンニュウ)である・・・
 ↓↑
http://www.shin-araragi.jp/zakki_bn/bn_08/zakki0809.htm
 ひそけし、かそけし
 釈迢空の
 『海やまのあひだ』から引く。
 沢なかの木地屋(キヂヤ)の家に
 ゆく
 われの
 ひそけき
 歩みは
 誰知らめやも
 ↓
 邑(むら・ユウ)山の
 松の木むらに
 日はあたり
 ひそけき
 かもよ
 旅びとの墓
 ↓
 かの子らや
 われに知らえぬ妻とりて
 生きの
 ひそけさに
 わびつゝをゐむ
 ↓
 谷々に
 家居ちりぼひ
 ひそけさよ
 山の木の間に
 息づくわれは
 ↓↑
 迢空流の表記法を廃して
 普通の書き方に改めた。
 『海やまのあひだ』の巻頭から数頁のところにある
 「ひそけき」、
 「ひそけさ」
 を含んだ作を並べてみたが、
 この迢空が好んだと見える用語は
 まだまだ見えるけれど以上にとどめる。
 言うまでもなく
 「ひそけき」は、
 形容詞
 「ひそけし」の連体形。
 「ひそけさ」は、
 その名詞の形である。
 この「ひそけし」が、
 一般の国語辞典に
 収録されていないということを、
 安田純生氏の
 『現代短歌のことば』によって教えられた。
 なるほど
 日本国語大辞典や
 広辞苑などには見えない。
 ↓
 ここで
 (斎藤)茂吉の使用例を挙げよう。
 ↓↑
 号外は「死刑」報ぜりしかれども
 行く
 もろ-つびと・・・多くの人・諸人?
「つび」は「つみなり」
          軍法会議で死刑を宣告された軍人
         「つび」の字は「また」、
          この意味は各人の検索自由・・・
 ただに
 ひそけし『暁紅』
 ↓↑
 清涼寺は
 ひそけく
 ありき
 をとめご(乙女児)の・・・・音目語之
 尼(あま・ニ)も
 居りつつ
 悲しからねど『連山』
 ↓↑
 秋づくといへば
 光もしづかにて
 胡麻(ごま)の
 こぼるる
 ひそけさにあり『白き山』
 ↓
 なお
 (北原)白秋にも
 「ひそけさよ
  小さき目白の枝越しに
  揺りつつきをり
  まんまろき
  柿(かき・シ)を(『風隠集』)」
 などがあり、近代歌人の歌集から
 「ひそけし」を捜すのは、困難ではないだろう。
 一般の国語辞典には確かに収録されていないが、
 不可解なのは、
 大言海が
 「ひそけき」という
 連体形のみを見出し語に出して、
 「ヒソカナリ。」として
 何の用例も示していないことだ。
 安田氏は、
 『短歌文法辞典・新版(飯塚書店)』に、
 この
 「ひそけし」・・・・・・・密かに卦詞?
 を取り上げていると言われる。
 それは手許にないが、
 同じ発行所の
 司代隆三編著
 『短歌用語辞典・新版』を見ると
 「ひそか」はあっても、
 「ひそけし」は、やはり見当らない。
 ただ飯塚書店編集部の
 『短歌常用語辞典(形容詞・形容動詞編)』
 にはこれを取り上げて、
 「鎚音に
  はたと
  やみたる
  蟋蟀(こほろぎ)の
  また
  鳴きつぐを待てばひそけし(終止)
  (塚原 嘉重)」
  ↓
 「ひそけくも
  女人唐俑の背丈ほどに
  花株埋めし
  雪は恥ぢらふ(連用)
  (大滝 貞一)」
  ↓
 「朝食の人らを待ちて
  ビルの中
  ひそけき店を
  人は清むる(連体)
  (田谷 鋭)」
  ↓
 の三例を示している。
 また
 鳥居正博編著の
 『歌語例歌事典』には
 「かそけし・ひそけし」を並べて
 「二語とも
  中古中世の古歌にはほとんど見えない。」とし
 「ひそけし」は
 「ひそか」の形容詞化と説いて
 「ひそけき
  吾が世帯を
  書き入るるかな
  昼寝より覚め
  裸となりて」
 という吉田正俊(『天沼』)の
 一首を挙げたのが目に止まった。
 木俣修編の
 『現代作歌用語辞典』には
 「ひそけし」は見えない。
 要するに
 一般の辞書には殆ど見られず、
 短歌用語辞典の類には
 載せたり載せなかったりの状態なのである。
 もう簡単に書くこととして、
 角川の
 『新編国歌大観』の索引を見ても
 「ひそけし」の用例はない。
 ただ
 江戸時代までの使用例に
 「ひそかなりける」
 「ひそかにそでの」
 「ひそかにひらく」
 というようなものが、少ないながら見つかる。
 「ひそかに」はあっても
 「ひそけし」の形容詞は、
 江戸時代までは発生せず
 明治以後の近代になって、
 ぼつぼつ使用されるようになったものか。
 しかし、
 「ヒソカ・ヒソヒソ・ヒソマル
  ヒソム・ヒソメク・ヒソヤカ」という
 同源の語があり、
 特にヒソカがあれば
 ヒソケシが導き出されるのは、
 ノドカ・ノドケシ、ハルカ・ハルケシ
 の関係と同様であって不自然ではない。
 古典に例がなくても、
 近代現代の短歌に
 普通に用いられているのであるから、
 広辞苑などで採用しないのは、
 編集者の怠慢である
 と言ってもいいのではあるまいか。
  ↓
 「かそけし」
 についても書く予定だったが余白がなくなった。
 この
 「かそけし」は
 万葉の家持作に二例あり
 「吹く風の音の
  かそけきこの夕べかも」
 が有名だがもうひとつ
 「夕月夜
  かそけき野辺に」
 という使用もある。
 「かそけし」があれば、
 上代にはそれに対応する
 「かそか」も存在したのだろう。
 しかし文献の記載はないようだ。
 平安以後は
 「かすか」が使われるようになる。
 すると
 「かすけし」も派生されそうであるが、
 この出現は、やはり
 明治以後であるらしい。
 明治三十九年発行の
 薄田泣菫の詩集『白羊宮』には
 「おもひでの吐息
  かすけき
  面(おもて)やつれ」
 とか
 「今宵
  かすけき囁(ささや)きに」
 とか、
 「かすけき」がしきりに出て来る。
 すると明治の詩人どもが使い始めであろうか。
 ここで現代短歌の
 「かすけし」の例を挙げたいが、
 もう書く場所がなくなった。
 筆者:宮地伸一「新アララギ」代表、編集委員、選者
ーーーーー
 面白いね、だが、「密(ひそ)か」を明らかにするのはダレかにとって「タブー(taboo)」なのであるから、「言語屋」にとっては当然である・・・
 ↓
http://blog.goo.ne.jp/mearikutiari/e/42dc7e9546a6fdf526e90d3bbde065f7
 ↓↑
 で、問題にしたい
 「鳥居=とりい=訳理意」の「姓」だが、
 「江戸時代初期の
  朱子学派儒学
  林家祖の
  林 羅山、
  諱は信勝、
  号が羅山
  通称は又三郎。
  やっと
  又三郎が出てきた。
  林家十一世
  復斎の通称が
  又三郎、
  十世
  壮軒の通称が
  又三郎、
  九世
  檉宇も通称は
  又三郎。
  林家十一世
  復斎の次男で
  林家十二世を継いだ
  林学斎(昇)が
  又三郎を
  通称名としても不自然ではない。
  ↓
  林述斎の系図をみていて思い出した。
  述斎の三男はあの妖怪こと
  鳥居耀蔵
 (名は忠耀、
  通称は甲斐
  のち
  胖庵)
  学斎とは
  伯父甥の関係になる。
  ↓
  鳥居甲斐から数えて
  四代目子孫の
 「鳥居正博」氏が、・・・鳥居甲斐の家筋である
  この
  鳥居甲斐が晩年に
  残した日録というか日記を整理し、
  頭注・補注を加え
 「鳥居甲斐 晩年日録」
  として刊行している。
  ↓
  晩年日録の
  慶応四年十二月廿五日に
  林又三、
  林右近へ書通とあり、
  頭注に
  林又三(林又三郎学斎・甥)、
  林右近(復斎)
  とあったが、
  林復斎は
  安政六年九月に亡くなっている。
  明治二年七月十日項に
  右近妻
  幸女とありこの頭注に
  林右近・鶯渓とあった。
  明治初期には、
  林学斎は
  又三郎、
  兄の
  林鶯渓は
  右近を
  通称名として使っていたと思われる。
  ↓
  新宿区市谷山伏町に
  初代
  林羅山以下
  累代徳川幕府に朱子学をもって
  仕えた学者とその一族の墓地が残っている。
  ここに林学斎の墓碑がある。
  ↓
  幕府大学頭従五位下文
  靖林先生墓銘
 「先生
  諱昇
  字平仲
  号学斎林氏
  徳川幕府儒宗
  羅山先生
  十二世嫡孫也
  考
  諱韑
  号復斎妣
  津田氏
  嘉永中
  先生以
  次男為
  嗣子始謁温恭公
  安政四年
  命助父
  学識別給
  廩米参百苞
  六年襲世職
  大学頭家禄
  三千五百石
  叙従五位下班諸大夫
  文久三年
  従照徳公入朝
  明治維新後徳川氏
  更命
  為
  寺社奉行、、」
 と碑文を撰んだのは
 東宮侍講でのち
 二松學舍を創立した
 三島毅。
 この市ヶ谷の林墓地の中に
 紀年銘が
 昭和十二年十二月とある
 「林又三郎之墓」がある。
 学斎が亡くなったのは
 明治三十九年。
 そうすると
 この
 林又三郎は誰のお墓なのだろう。
 市ヶ谷の林氏墓地は
 大正のとき国史跡に指定され、
 いまは新宿区で管理、
 毎年11月の
 初めの
 土日2日間だけ公開
ーーーーー
 ・・・「鳥居耀蔵」とは蘭学者の「目の仇」だった・・・「明治」になっても、この両派の「怨念」みたいなモノが「文字・文章」の中に密かに潜(潛・ひそまれ)ているようであるカナ・・・

 

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宇津保(うつぼ)蔓(かずら)・・・卯通模モノガタリ

2016-03-20 00:20:20 | 古事記字源

 ・・・先日、「ガリバーの時代のラピュタ(天空の岩島)」と「古事記・日本書紀」との関連を書き込んだが・・・・古代九州の「岩井の乱」とは何であったのか?・・・「岩戸開き・磐余彦=神武天皇」・・・「神武(神倭伊波礼琵古命(古事記)=神日本磐余彦尊(日本書紀)景気」の由来とは・・・「磐の余り」と「伊の波の礼(禮)」である・・・ラピュタの時代は「ガリバー旅行記」が「初版 (1726年)~完全版(1735年)」であるから、執筆は「トーリー党(Tory Party)=(後のジェームズ2世)の即位を認める立場をとった人達をさしてToryと言った)」の政論家でもあった、スウィフト(蘇兎亥附訳?)が生存した「1667年11月30日~1745年10月19日」の半の時代(1720年代)であろう・・・「トーリー党(Tory Party)」の語源はアイルランド語のtoraidhe」で、意味は「ならず者・盗賊」・・・「ホイッグ党(Whig Party)」はスコットランド語で「謀反人・馬泥棒」と言うあだ名・・・日本語では「トーリー、ホイッグ」の発音では・・・「訳於理意・・・鳥→鳥居」、「補意継ぐ・補遺(本意)接具(愚)」かも・・・「コンサイス英和辞典の編集者」・・・?・・・ではなく、調べ直したら「エッセンシャル英和辞典(旺文社(昭和10年10月初版~昭和42年3月15日重版発行)」の「発行者」が「鳥居正博」氏であった・・・ゴメン・・・

 で、時代は「1800年代の日本」だが・・・

 「兎園會(トエンカイ)1825年・文政八年」なるものが「曲亭(滝沢)馬琴=曲亭陳人(かわら版記者・南総里見八犬伝、兎園小説の作家」が開催して
 「1803年享和三年春二月二十二(廿二・廾二)日午刻」
 に
 「うつろ(虚・空洞)舟と蛮女(去る亥の年=1803年)」
 の報告したらしい・・・ナゼか、「兎(うさぎ・卯・月・菟・莵・兔)の園(その)の會(あい)」・・・?・・・問えんかい、訳宛繪(絵)・・・

ーーーーー

  ↓↑

 1803年
 享和三年春二月二十二(廿二・廾二)日午刻・・・
 ↓↑
 癸亥年
 甲寅月
 丁亥日・・・・ユリウス 暦西暦1803年4月1日
        グレゴリオ暦西暦1803年4月13日
 丙午時
 水曜日
 ↓↑
 1807、8、9年・・・
 ↓↑
 https://www.youtube.com/watch?v=TMPUH28NCbA&ebc=ANyPxKqKZCZEp2O7hDYQJHcL2MQG6sB-NgbMIZL5gNhyLh-yyapgAmAcKGm5krYbjLEdDIFv2Y9ihLU-NCbfFo7rQMk2Y_MeXg
 ↓↑
 事件の場所
 常陸国
 はらやどり
 茨城県
 大洗町(北茨城市?)付近の
 海岸「はらやどりの」の浜
 鹿嶋灘(鹿島郡京舎ケ浜)の
 原舎ケ浜
 ↓↑
 舎利浜(伊能忠敬の絵図に記録)
 ↓↑
 うつろ舟の漂着した舟と女性の情報
 釜状の舟
 上部にガラス状の窓・鉄制の釜状の下部に縦縞の襞
 女性の状態
 赤毛・つけ髪・西洋風衣服・長靴
 ↓↑
 1825年後の「兎園會」で
 「滝沢馬琴」が報告
 前年の
 享保二年(1824年)5月28日に
 大津浜事件
 水戸藩領の
 大津(北茨城市大津町)の浜に、
 イギリス人
 12人が上陸
 水戸藩が尋問
 後
 彼らを船に帰した
 この年
 異国船打ち払い令が出された・・・
  ↓↑
 情報
 かわら版で類似したものが
 愛知・京都などで発売
  ↓↑
 研究
 1926年大正15年
 柳田国男
 「うつぼ(空洞)舟の話」を発表
 ・・・うつぼカズラ(ウツボカズラ(靫葛)
    打保・笂・簳・宇津保

  ↓↑
 金色姫(星福寺)本尊
 茨城県神栖市・・・神栖(すむ・セイ・サイ)
          栗栖・来栖(クルス)
 養蚕・・・箱の中には蚕(1807~8)
 曲亭馬琴=曲亭陳人・・・かわら版記者の署名
      「兎園小説」の作者
  ↓↑
 蘭文字(△○・王・○十○・○△○)の記録
    「蘭字枠」=浮世絵の外枠にデザインされた和蘭文字
  ↓↑
 2012年1月発見の「かわら版」
 滋賀・甲賀流忍者の家から発見
  ↓↑
http://scoby.blog.fc2.com/blog-entry-742.html
  ↓↑
 漂着の類似言い伝え
 『千葉県安房郡和田町(現南房総市)花園の伝説。
 「子の神由来記」と呼ばれる
  掛け軸に記録
  花園天皇(即位1308年)
  一人の姫がうつろ舟に乗ってこの地に漂着
  村人達の介護もむなしく、姫は死亡
  姫の墓に
  一本の花木(ハマボウの花)を植えた
  村の名も、
  西条村から
  花園村に変わった』
  ↓↑
 中国の古民話
 『あるところに金持ちの権力者の男がいたが、
  大事にしていた娘が
  未婚のうちに妊娠しているのが発覚した。
  娘を問い詰めると、相手は信心している寺の
  若い僧侶ということであった。
  怒った男は、僧侶を捕まえて首を斬った。
 また、いったん入ると出ることのできない舟を作り、
 その中に自分の娘を閉じ込め、流した』
 ・・・そうですか・・・「安珍-清姫」にも似ている・・・道成寺
ーーーーー
 "江戸時代の日蘭交流"
http://www.ndl.go.jp/nichiran/index.html
江戸時代の日蘭交流江戸時代の日蘭交流
 日本におけるオランダ語学習
 長崎の出島居留オランダ人との交渉のために
 長崎に配置された通詞(通訳)たちによって始められた。
 始め平戸にあったオランダ商館が長崎の出島に移されたのは、
 寛永16年(1639)の
 鎖国令により
 ポルトガル人が出島から放逐されてから2年後の
 寛永18年(1641)のことであったが、これ以後幕末に至るまで
 オランダ商館員(ただし男性のみ)は長崎の出島に居住を認められ、
 幕府公認の日蘭貿易に従事した。
 オランダ商館が出島に移って以後、幕府は、
 日蘭交渉の実務に携わらせるために通詞、
 すなわちオランダ語の通訳の養成を開始し、
 将来の通詞候補の若者を選んで出島に赴かせ、
 オランダ人から直にオランダ語を学ばせた。
 こうしてネイティブ・スピーカーから
 オランダ語を学んだ通詞の仕事は世襲であり、
 それぞれの家で親から子へとオランダ語の知識を伝承させた。
 このようにして、
 17世紀後半には長崎の通詞制度が確立し、
 ある程度のレベルの生きたオランダ語の知識が伝承されるようになった。
 17世紀後半以降の日蘭貿易の進展とともに、
 長崎におけるオランダ語の学習と研究は
 これらの通詞たちを中心として深められ、
 語学のみならず西洋の学問の研究も一段と進展した。
 このようにして西洋の学問研究を行ったことで知られる
 オランダ通詞の家としては、
 吉雄家、
 志筑家、
 本木家
 などが知られている。
 また、18世紀後半の江戸においても、
 前野良沢、
 杉田玄白
 らがオランダ語医学書の翻訳を行い、
 安永3年(1774)に
 『解体新書』として刊行し、また、
 大槻玄沢の私塾である
 芝蘭堂ではオランダ語教育が行われ、
 寛政8年(1796)に玄沢の弟子の
 稲村三伯が日本で最初の
 蘭和辞書である
 『波留麻和解』(「江戸ハルマ」)を刊行するなど、
 蘭学の興隆が見られた。
 19世紀になると、世界情勢の変動が日本にも波及し、
 フェートン号事件(1808年)をきっかけに、
 長崎の通詞たちの間ではオランダ語のみならず
 英語の学習も始められ、のちに
 日本人がオランダ語学習から英語学習に転換していく先駆けをなした。
 その一方、
 ヨーロッパ情勢の変動により
 オランダ船の渡来がほとんど途絶えた
 1810年代の出島では、
 オランダ商館長ドゥーフが、
 『波留麻和解』のもとになった
 フランソワ・ハルマの蘭仏辞典の日本語訳を独自に開始し、
 ドゥーフ帰国後の
 天保4年(1833)に、
 長崎通詞たちの手で
 『ヅーフハルマ』(「長崎ハルマ」)として完成した。
 この『ヅーフハルマ』は写本の形で西日本を中心に流布した。
 また、19世紀前半には長崎や江戸以外の地でも
 私塾や大名家で蘭学やオランダ語学習が行われるようになった。
 こうした私塾の中では、緒
 方洪庵が開設していた大坂の適塾が名高く、
 村田蔵六(大村益次郎)
 や
 福沢諭吉などが門弟として知られている。
 嘉永6年(1853)の
 ペリー艦隊の来航に刺激を受けて、
 日本における蘭学及びオランダ語学習は一層の進展を見せ、
 安政5年(1858)には
 今日の慶應義塾大学の前身となる
 蘭学塾が福沢諭吉により江戸で設立された。
 また同じ頃に、
 近畿・北陸や東北、九州の諸藩においても蘭学の進展がみられた。
 その後、明治維新とともに、
 英語、フランス語、ドイツ語などが
 オランダ語に代わって日本人の学習対象となっていくが、
 地方においては、
 19世紀の後半まで
 オランダ語やオランダ語文献の影響が残っていたようである。
ーーーーー
 ・・・???・・・「英語」もねッ・・・

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天空の「ラピュタ(等鄙比他)」・・・磐余(イワレ)の国

2016-03-18 23:41:59 | 古事記字源

 ・・・「ガリヴァー旅行記(Gulliver's Travels)・ジョナサン・スウィフト作」・・・「船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァー による、世界の諸僻地への旅行記四篇(Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, and then a Captain of several Ships)・1726年(初版)~1735年(完全版)・・・第三篇 ラピュータ、バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリッブおよび日本への渡航記(小人の国、巨人の国、学者の国、不死の国、馬の国、日本・・・「スウィフト」は「古事記・日本書紀」を読んでいたか?、あるいは、ダレかに訊いていその知識を有していたか?・・・

 「空飛ぶ島=ラピュータ」
  日本のはるか東にある島国
  バルニバービの
  首都で
  国王の宮廷
  底部のアダマントに連結された
  巨大な天然磁石の磁力によって、
  バルニバービ国の領空を
  自在に移動する空中の島
  ラピュータの全市民は、
  科学について沈思黙考、専念
  しているため、日常の生活は上の空
  時々正気に戻る為には
  頭や目を叩く
 「叩き役」を連れている。
  啓蒙的ながら、
  ラピュータ人の科学は、
  学問のための学問に過ぎない。
  「ラピュータ」という名前
  「高い統率者」
  「太陽の翼」という意味を持つ古い言葉が
  崩れてラピュータになったのではないかと
  ガリヴァーは考察。
  「La Puta (ラ・プータ)」は
  スペイン語で
  「売春婦」を意味する・・・?・・・売春婦
                   売笑婦
                  比売(ひめ→姫・媛
                        鳹・秘)
  地上の
  バルニバービは、・・・・・葉留似葉蛙備
  豊かな国であったが、・・・豊国(豊後=ぶんゴ
                  豊前=ぶゼン)
  天上の首都
  ラピュータに搾取される存在で
  住民には生気がなく、
  最大の都市である
  ラガードは荒れ果てている。
  バルニバービ各地では、
  領主貴族や農民がたびたび反乱を起こし、
  国王はラピュータを反乱地の上空に急行させ、
  太陽や雨を遮り、
  罰としてその農業を破滅させ
  飢餓と病を与える。
  都市で起こる反乱は、
  ラピュータが上空から投石し、
  さらに街ごと押し潰して鎮圧。
  バルニバービには
  ラピュータに上京して
  ラピュータ式科学に完全に
  かぶれて帰郷した者が多数おり、
  せっかくの
  肥沃な田園地帯を
  更地にし、
  伝統的な農法をやめて
  ラピュータで開発された
  実験的な農法を実現すべく励んでいるため、
  国土は荒廃したままである。
ーーーーー
 ・・・これって、当時の「イギリスの風刺、批判」とも思われないのだが・・・
 ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)は
 1667年11月30日~1745年10月19日
 生存していた人物で・・・この期間の「1667年11月30日~1745年10月19日」の日本の事件とは・・・
ーーーーー
      将軍
1603慶長08年家康、家康、征夷大将軍(江戸幕府創立)
1604慶長09年〃  糸割符制はじまる
1607慶長12年秀忠 角倉了以、富士川の水路を開く
1609慶長14年〃  オランダの平戸貿易始まる
1610慶長15年〃  家康、メキシコに通商を求め田中勝介を派遣
1613慶長18年〃  伊達正宗、支倉常長を欧州に派遣
         禁教令、全国におよぶ
1614慶長19年〃  大坂冬の陣
1615元和01年〃  大坂夏の陣。 豊臣氏滅亡
1616元和02年〃  欧州船の寄港地を平戸・長崎に制限
1624寛永01年家光 イスパニア船の来航禁止
1629寛永06年〃  紫衣事件。 長崎で絵踏始まるという
1633寛永10年〃  奉書船以外の渡航を禁ず(鎖国令?)
1635寛永12年〃  海外渡航禁止、帰国禁止(鎖国令?)
         武家諸法度を改正(参勤交代を制度化)
1637寛永14年〃  島原の乱。 乱後寺請制度始まる
1639寛永16年〃  ポルトガル人の来航禁止(鎖国令?)
         (鎖国の完成)
1641寛永18年〃  平戸のオランダ商館を長崎出島に移す
1643寛永20年〃  田畑永代売買を禁ず
1644正保01年〃 『オランダ風説書』始まるという
1649慶安02年〃  慶安の御触書
1651慶安04年家綱 由井正雪の乱(慶安の変)
1657明暦03年〃  江戸の大火
1663寛文03年〃  殉死を禁ず
1665寛文05年〃  大名の人質を廃す
1673延宝01年〃  分地制限令を発す
1685貞享02年綱吉 初めて生類憐みの令を発す(~1709)
1688元禄01年〃  貿易制限。長崎に唐人屋敷建設
1694元禄07年〃  江戸に十組問屋成立
         大坂に二十四組問屋成立
1695元禄08年〃  荻原重秀の建議により金銀貨幣を改鋳
1702元禄15年〃  赤穂浪士、吉良義央を討つ
1709宝永06年家宣 家宣、新井白石を登用(正徳の治)
1710宝永07年〃  閑院宮家を創立
1711正徳01年〃  白石、朝鮮使節の待遇を簡素化
1715正徳05年家継 長崎貿易制度令(正徳新令)
1716享保01年吉宗 徳川吉宗、将軍となる(享保の改革)
1718享保03年〃  江戸町火消制度を整備
1721享保06年〃  人口調査開始。 評定所に目安箱を置く
1722享保07年〃  上げ米の制を定める
1773享保08年〃  足高の制を定める
1732享保17年〃  享保の大飢饉
1742寛保02年〃  公事方御定書編修
1758宝暦08年家重 宝暦事件
ーーーーー
 1667年
 干支は
 丁未年
 日本
 寛文七年
 皇紀2327年
 中国
 清王朝
 康熙六年
 鄭氏政権
 永暦二十一年
 朝鮮
 李氏朝鮮
 顕宗八年
 5月22日徳川光貞が紀伊和歌山藩主を相続。
 7月 3日ブレダの和約締結、第二次英蘭戦争終結
フランス、フランドルに侵攻
南ネーデルラント継承戦争( - 1668年)
 誕生
 3月28日(寛文7年閏2月4日)
     藤堂高睦、伊勢国津藩第4代藩主(~1708年)
 5月26日アブラーム・ド・モアブル、数学者(+ 1754年)
 7月27日ヨハン・ベルヌーイ、数学者(+ 1748年)
 8月11日アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ
     メディチ家の最後の人物(+ 1743年)
 9月5日ジョヴァンニ・ジェローラモ・サッケーリ、
    数学者(+ 1733年)
 9月28日(寛文7年8月11日)
     浅野長矩、
     播磨国赤穂藩主(+ 1701年)
 11月30日ジョナサン・スウィフト
     作家、政治家(+ 1745年)
 月日不明
 片岡高房、赤穂浪士(+ 1703年)
 死去
 7月 7日ニコラス・サンソン(Nicolas Sanson)
  地図製作者(* 1600年)
 10月24日ゴドフロイ・ウェンデリン(Godefroy Wendelin)
  天文学者(* 1580年)
 月日不明
 逸然性融、中国から来日した僧(* 1601年)
 フランソワ・ロロネー、海賊(* 1635年)
 松林蝙也斎、剣術家(* 1593年)
 ↓↑
1745年
干支は乙丑年
日本
延享二年
皇紀2405年
中国
清王朝
乾隆十年
 朝鮮
 李氏朝鮮
 英祖二十一年
 11月24日(延享2年11月2日)
  徳川家重が
      江戸幕府
      第9代将軍となる
 誕生
 2月11日(延享2年1月11日)
  伊能忠敬、地理学者(+ 1818年)
 2月18日アレッサンドロ・ボルタ、
  イタリアの物理学者(+ 1827年)
 死去
 5月30日ヨハン・アダム・クルムス、解剖学者(* 1689年)
 ↓↑
 10月19日ジョナサン・スウィフト、作家(* 1667年)
ーーーーー
 ↓↑
 ジョナサン・スウィフトは             
 ダブリンに生まれ
 イングランド系アイルランド人
 諷刺作家、随筆家、政治パンフレット作者、詩人、
 司祭
 著作
 『ガリヴァー旅行記』
 『穏健なる提案』
 『ステラへの消息』
 『ドレイピア書簡』
 『奴婢訓(未完)』
 語録全20件
 「必要は発明の母」
 「この世で
  変わらないのは、
  変わるということだけだ」
 「大事件も大河の源流のように、
  ごく些細なことから発生する」
 「朝寝をする人間で、
  いっぱしの人間になった者など
  一人もいない」
 「見たがらない人間ほど、
  ひどい盲人はいない」
 「ビジョンとは
  見えないものを
  見る術である」
 「約束とパイの外皮は、
  簡単に破れるものだ」
 「不平は天から授けられた
  最大の贈り物である」
 「ひとつの嘘をつく者は、
  自分がどんな重荷を背負い込んだのか
  滅多に気が付かない。
  つまり、
  ひとつの嘘をつき通すために
  別の嘘を20個
  考えなければならないということを」
 「初めて牡蠣(かき)を食った人間は
  大胆な人間であった」
 「我々は頭の中に富を持つべきである。
  そして、心の中にも」
 「世に
  最も輝かしく、
  最ももろいものが二つある。
  一つは女の顔、
  他の一つは陶器である」
 「人は過去の過ちを
  認めることを恥じるべきでない。
  今日の自分が過去より
  利口だといっていることに
  ほかならないのだから」
 「戦争は
  自尊心の子どもであり、
  自尊心は富者の娘である」
 「血縁が濃いほど
  闘争する残忍さが大きい」
 「誰でも長生きしたいと願うが、
  年をとりたいと願う人はいない」
 「学識ある女性は、
  彼女の無遠慮な
  饒舌と自惚れによって
  全ての信用を失う」
 「およそ人間たるもの、
  便器にかかっている時ほど
  真剣で、思いつめ、
  精神統一を果たしている時は他にない」
 「悪い仲間は犬のようなものだ。
  一番好きな相手を
  一番ひどく汚してしまう」
 「人生は一つの悲劇である。
  その中で
  われわれは観客として
  しばらくの間座り、
  その後に
  己の役を演じる」
ーーーーー
 ・・・なるほど、ソウですか・・・
ーーーーー
 「君を乗せて(天空の城ラピュタ)
        Laputa Carrying you」
https://www.youtube.com/watch?v=qTqPy7kbVMA
 のどじまんTHEワールド2015秋
 「君をのせて」
 フローラ・スピネッリ
https://www.youtube.com/watch?v=hzlkqV7WTEs
 「月光」
https://www.youtube.com/watch?v=g6QVn60TyCs

Tashikanakoto
https://www.youtube.com/watch?v=hDVnaDxPSgQ

 

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ツバメが飛翔(とんで)くるジキ・・・で、・・・「燕尾服」の「尾張の名護埜(哉)」カナ?・・・

2016-03-17 21:00:30 | 古事記字源

 ・・・早く夏が来てツバメがヤッてコナイかなぁ・・・本日はガンガンの御天気、雪解け・・・前々回、「歌垣(うたがき)=嬥歌(かがい)=懸け合い=歌掛き(懸き)」に触れたが・・・「嬥歌」の「嬥」の漢字構成は「嬥=女+翟」である・・・「翟=羽+隹=キジ(雉)の尾羽」の漢字部首は「曜・耀」=「かがやく・ヨウ」で・・・「隹(ふるとり)」は「誰(だれ・スイ)、焦(あせる・ショウ)、進(すすむ・シン)、衢(ちまた・)、讎(あだ・むくい・シュウ・ズ)、癱(タン)、推(おしはかる・スイ)」などである・・・「民進」の事情であるが、どうやら「漢字」からは期待できな「烏合集散(衆参)」の「民」の「進」である・・・「从(従)水、翟」の「从」は、「人につきしたがう様・從の原字・从に止(足)を付け、移動を意味する彳をつけたモノ・簡体字として従を古字に戻したもの」が「从」・・・中国語の「从(従う)」と「离(離れる)」は事物関係、人間関係の「位置・位地」の「~から・of.by,for.from.into」の意味であるらしい・・・ボクに取っては「邪馬台国・邪靡台国」の地理的な「位置」と、その古代中国の人脈関係の「位地」、そして、歴史的な「時間的」な「始~終・終~始」の「取得史(詞・詩・思・氏・死・屍)」の「記録文の視」である「漢字」なのだが・・・「若いツバメ」って・・・?・・・「男妾」・・・
 兎に角、「歴史」は記録された「文字」自体であるから、「文字」自体を先ずは知らなくちゃぁハジマらない・・・
ーーーーー
 「邪馬台国」
 『三国志(魏志倭人伝)』の版本・・・邪馬「壹」國
 『三国志』は晋の時代に
 陳寿(233-297)が編纂したモノだが
 現存する
 刊本で最古のものは、
 12世紀の宋代の
 紹興本(紹興年間(1131年~1162年)の刻版)
 紹煕本(紹煕年間(1190年~1194年)の刻版)
  ↓↑
 ・・・原本が無い「復刻版」とは
   「写本」と同類であろうが・・・
    その文字も内容も、オリジナルと
    同じモノであるとは限らない・・・
  ↓↑
 勅撰の類書
 宋代の
 『太平御覧』は成本が10世紀
 『三国志』を引用した箇所で
 「邪馬臺国」・・・・・・・・・・・・邪馬「臺」国
 の表記
 『三国志』より後の
 5世紀に書かれた
 『後漢書』倭伝では
 「邪馬臺国」・・・・・・・・・・・・邪馬「臺」国
 7世紀の
 『梁書』倭伝では
 「祁馬臺国」・・・・・・・・・・・「祁」馬「臺」国
 7世紀の
 『隋書』では「俀国」について
 「都於
  邪靡堆・・・・・・・・・・・・・・邪「靡」「堆」
  則魏志所謂
  邪馬臺・・・・・・・・・・・・
  者也(魏志にいう邪馬臺)」
 唐代の
 『北史』四夷伝では
 「居于
  邪摩堆・・・・・・・・・・・・・・邪「摩」「堆」
  則魏志所謂
  邪馬臺
  者也」
 これらの正史は、
 現存の
 宋代の
 『三国志』より古い写本を引用・・・だが、「写本」である・・・
ーーーーー
 「燕(鳦・鷰・乙鳥・津羽目・つばめ・ツバクラメ・ツバクロ)」は、「渡り鳥」でもあり、「越冬ツバメ」としても棲息する「背は光沢のある藍黒色で、喉と額が赤い。腹は白く、胸に黒い横帯がある。尾は長く切れ込みの深い二股形で、この尾の形をツバメにちなんで燕尾形」、ツバメの天敵は「カラス・鴉・烏」であり、「空中で蜂を餌食」にもする・・・北海道ではボク自身は観たコトがない・・・以下は例の如く「ウイッキペデア」から参照、参考にしたモノの抜粋、添付・・・で、「尾張名古屋」の地名の謎がワカったような気がする・・・「燕尾服」の「尾張の名護埜(哉)」カナ?・・・


ーーーーー
 つばめ
  ↓↑
 綱は鳥綱 Aves
 目はスズメ目 Passeriformes
 科はツバメ科 Hirundinidae
 属はツバメ属 Hirundo
 種はツバメ H. rustica
  ↓↑
 日本語ではその生態を反映して
 「土食て虫食て口渋い」
 などと聞きなしされる。
 囀(さえず・哢)りは
 日中よりも早朝から午前中にかけて耳にする・・・
 飛翔する昆虫などを空中で捕食
 水面上を飛行しながら水を飲む
 一部、越冬する個体があり、
 「越冬ツバメ」と呼ばれる
 特に
 中日本から西日本各地で越冬し、
 多くは集団で民家内や軒下などで
 就塒(シュウジ)する
 日本で越冬している個体が
 日本で繁殖したものか、
 シベリアなど日本より
 北方で夏に繁殖したものなのかは不詳
 泥と枯草を唾液で固めて巣を造る
 ほとんど人工物に造巣し、
 民家の軒先など人が住む環境と同じ場所で繁殖
 これは、
 天敵であるカラスなどが近寄りにくいから・・・
 巣は通常は新しく作るが、
 古い巣を修復して使用することもある
 産卵期は4~7月ごろ
 一腹卵数は3~7
 主にメスが抱卵
 抱卵日数は13~17日
 その後の巣内での
 育雛日数は20~24日
 1回目の繁殖の巣立ち率は
 概ね50%程度と推定
 1回目繁殖に成功した
 つがい
 あるいは失敗した
 つがいのうち、
 詳細は不明だが、
 相当数のつがいがその後
 2回目
 あるいは
 やり直しの繁殖をする
 雛(ヒナ)を育てている間に
 親鳥のうち
 どちらか一方が何らかの理由で欠けると、
 つがい外のツバメがやってきて
 育てている
 ヒナを巣から落して殺してしまう行動が観察・・・
 一方、
 つがいの内
 メスが欠けた場合なのか
 どこからともなく
 複数の他のツバメが集まり、
 その中から選ばれたように
 一羽のツバメが
 新たなつがい相手となって、
 子育てを継続するさまも観察されている・・・
 「ことわざ(諺)」に
 燕雀、安くんぞ、鴻鵠の志を知らんや(陳勝)
 ツバメが低く飛ぶと雨が降る
 観天望気(天気のことわざ)の一つで、
 天気が悪くなる前には
 湿度が高くなり、
 ツバメの餌である
 昆虫の羽根が
 水分で重くなって
 低く飛ぶようになり、
 それを餌とする
 ツバメも低空を飛ぶことになるから・・・
 「ものがたり(物語)」に
 『竹取物語』
 かぐや姫が5人の貴公子に出す結婚の条件の中に、
 燕の子安貝がある
 『幸福な王子』
 金色に輝く王子の像が、
 越冬のためエジプトに渡ろうとする
 ツバメを使いにして、
 貧しく不幸な人々のために
 自らがまとう宝石や金箔を分け与える物語
 『秋物語』
 NHK「みんなのうた」
 越冬できなかったツバメの物語を歌詞にした歌
 『雀孝行』
 「昔、
  燕と雀は姉妹であった。
  あるとき親の死に目に際して、
  雀はなりふり構わず
  駆けつけたので間に合った。
  しかし
  燕は紅をさしたりして
  着飾っていたので
  親の死に目に間に合わなかった。
  以来、
  神様は親孝行の
  雀には
  五穀を食べて暮らせるようにしたが、
  燕には
  虫しか食べられないようにした」
  という説話・・・
ーーーーー
 ・・・らしい・・・
 そして、シベリアからも来ているらしいから北海道にも渡ってきているハズ・・・?
 そして、
 中国古代国家の「燕の国」の事情であるが・・・
ーーーーー
 ↓↑
 翟=キジ(雉)の尾羽
   中国の舞楽で舞人が右手に持つ
   キジ(雉)の尾羽
 ↓↑
 墨翟(ボクテキ)
    前480頃~前390頃の
    戦国時代の思想家
    墨子、子墨子は敬称
    宋または
    魯の人・・・
    伝記はほとんど不詳
    宋の大夫・・・
    工作者の出身という説も・・・コウサクって、スパイ?
                  交錯?・・・間諜
   墨翟の後を継ぐ指導者を
   鉅子=キョシ=巨子・・・という・・・虚史?
  ↓↑
 翟魏(テキギ・タクギ)
    388年~392年・・・邪馬台国は238年~266年~
    五胡十六国時代に
    丁零人の・・・・丁の「零」の人?
    ↓↑     「零=こぼれる・こぼす・わずか・はした
              レイ・・・数字の「0」ではない
              水滴がおちる・零雨・零露
              枯れおちる・おちぶれる
              零落・飄零 (ヒョウレイ)
              零細・零墨・零本
              ゼロ?
              零下・零点・零敗
              零落」
    ↓↑        ↓↑    ↓↑
             『諸橋大漢和』は「邦訓」とする
              中国でも『漢語大字典』に
              新用例として「数字のゼロの意」
             『大漢林』は
    ↓↑       「現代の用法」として数字のゼロ
             「天明七(1787)年ころの
             「たとへづくし」という本には
             「零=算法に一ッ
                間置(あひをく)ことをいふ
                又○(まる)を代(かは)りとす」
    ↓↑         「○を零」に当て使用することは
    ↓↑         「元」代以来、13世紀以降
    ↓↑        上記は以下のブログ記事を参照
    ↓↑         ↓↑
http://hp.vector.co.jp/authors/VA000964/html/zero.htm
    ↓↑
    翟遼により、
    河南省の
    黄河南岸に
    建てられた政権・・・落ちこぼれ人は
             「丁(偶数)」の姓?
 ↓↑
 建国以前
 翟斌の一族は代々・・・翟の斌(文+武)
 康居に住み、・・・康居=中央アジアの古代の
             遊牧民族、その国家
            『漢書』によれば
             本拠は
             卑闐城と記され
             王は
             冬は
             楽越匿
             夏は蕃内にいた
             後に中国に移った
             中国の漢・魏・晋代の
             史書に見える
             トルコ(土耳古)系遊牧民
             中央アジアの
             シル川下流域から
             キルギス平原を本拠地とした
ーーーーー
 ↓↑
 330年
 翟斌は後趙に入朝
 句町王に封ぜられる
 371年1月
 前秦の
 苻堅は
 関東の豪傑、
 及び
 雑夷15万戸を関中に、
 烏桓族を
 馮翊郡、北地郡に、
 丁零族の翟斌を
 新安郡
 澠池郡に移住させた
 383年12月
 前秦の
 衛軍従事中郎であった
 翟斌は河南で挙兵し、
 前秦の
 豫州牧で
 平原公の
 苻暉を洛陽で攻めた
 長楽公の
 苻丕は
 慕容垂
 と
 苻飛龍
 にこれを討たせたが、
 慕容垂
 は南下して
 丁零と結び、
 苻飛龍を殺し、
 その衆を生き埋めにした
 慕容垂は密かに
 前燕・・・・・・燕
 の
 旧臣と
 燕国・・・・・・「ツバメ」の「クニ」
 を
 復興させることを謀っており、
 丁零の
 翟斌
 と兵を起こして
 前秦に叛いた
 慕容鳳
 及び
 燕の故臣の子である
 燕郡の
 王騰、
 遼西の
 段延らは
 翟斌の挙兵を聞き、
 各部曲
 を率いてこれに帰した
 平原公の
 苻暉は
 武平武侯の
 毛当
 に
 翟斌を討たせた
 丁零の衆は
 翟斌に随従し、
 秦兵を大敗させ、
 毛当を斬った
 翟斌は遂に
 陵雲台戍に侵攻し、
 万余人の甲仗を収める
 384年1月
 慕容鳳,
 王騰,
 段延
 らが
 慕容垂
 を盟主に奉じることを勧めたので、
 翟斌はこれに従った
 慕容垂は
 大将軍、大都督、
 燕王
 と称して
 後燕を建国
 弟の
 慕容徳を
 車騎大将軍
 范陽王とし、
 兄子の
 慕容楷
 を
 征西大将軍・太原王
 とし、
 翟斌
 を
 建義大将軍
 河南王
 とし、
 元
 扶餘王・・・朝鮮半島の王族
 の
 餘蔚
 を
 征東将軍
 扶餘王
 とし、
 昌黎
 鮮卑
 の
 衛駒
 を
 鷹揚将軍とし、
 慕容鳳
 を
 建策将軍とした
 2月、
 慕容垂
 は
 丁零、
 烏桓
 の衆20余万を率いて
 鄴
 を攻めたが、陥落できなかった
 7月、
 翟斌は功を恃んで驕り高ぶり、
 鄴城を陥落できずにいる
 慕容垂に対して密かに
 弐心を抱いき
 気付いた
 太子の
 慕容宝,
 范陽王の
 慕容徳,
 陳留王の
 慕容紹,
 驃騎大将軍の
 慕容農
 らは
 翟斌を排除することを
 慕容垂に請うたが、
 功績のある
 翟斌を排除することはできないと、
 申し出を却下
 翟斌は
 尚書令になることを請うたが、
 慕容垂に断られたため、
 密かに
 前秦の
 長楽公
 である
 苻丕
 と通謀し、
 丁零人たちに
 堤防を決壊させた
 この事が発覚し、
 翟斌
 及び
 その弟
 翟檀、
 翟敏
 は
 慕容垂に殺された
 翟斌の兄の子である
 翟真は夜に営衆を率いて
 北の
 邯鄲に奔走
 翟真は兵を引き連れて
 鄴に戻り、
 前秦の
 苻丕と内外で呼応しようとしたが
 後燕太子
 の
 慕容宝が
 冠軍大将軍の
 慕容隆とこれを撃破したので、
 翟真は
 邯鄲に逃げ帰った
 8月、
 翟真が
 邯鄲から北走したので、
 慕容垂は
 太原王の
 慕容楷、
 驃騎大将軍の
 慕容農
 に騎馬を率いて追撃させた
 両者は
 下邑で戦い、
 翟真が勝利
 10月、
 翟真は
 承営に在って、
 公孫希
 宋敞遙
 と首尾となった
 長楽公の苻丕は
 宦者
 冗従僕射
 の
 清河光祚
 を遣わし、
 将兵数百を中山に赴かせて
 翟真と結んだ
 陽平太守の
 邵興を遣わして数千騎を率い、
 冀州の
 故郡県に召集し、
 光祚
 と
 襄国
 で会した
 この時、
 後燕軍は疲弊しており、
 前秦の勢いは復振していたので、
 趙郡人の
 趙粟らは
 柏郷で兵を起こして
 邵興に応じた
 後燕王の
 慕容垂は
 冠軍大将軍の
 慕容隆,
 龍驤将軍の
 張崇に
 邵興を撃たせるべく、
 驃騎大将軍の
 慕容農と合流させた
 慕容隆は
 邵興と襄国で戦い、これを大破
 邵興は広阿まで逃走したが、
 慕容農と遭遇して捕えられた
 光祚はこれを聞き、鄴に逃げ帰った
 慕容隆は
 趙粟らを撃破し、
 冀州の郡県は再び
 後燕に従った
 独孤部の
 劉庫仁は
 公孫希
 がすでに
 平規を破ったことを聞き、
 大挙兵して
 長楽公の苻丕を救おうと、
 雁門
 上谷
 代郡の兵を発し、
 繁畤に駐屯した
 劉庫仁の所にいた
 慕輿文、
 慕輿常
 の2人は
 三郡の兵が
 遠征に嫌気がさしていることを知り、
 造反して
 劉庫仁を夜襲して殺害し、
 その駿馬を盗んで
 後燕
 に奔走した
 公孫希の衆は
 動揺して自潰したので、
 公孫希は
 翟真の所へ奔走
 11月、
 後燕の
 慕容農は
 信都の西から
 翟真の従兄である
 翟遼を
 魯口で撃ち、これを破った
 翟遼は退いて
 無極に駐屯し、
 慕容農は
 蒿城
 に駐屯してこれに迫った
 12月、
 後燕の
 慕容麟,
 慕容農は
 翟遼を襲って大破し、
 翟遼は単騎で翟真の所へ奔走
 385年4月、
 翟真が
 承営から
 行唐に移ると、
 翟真の司馬である
 鮮于乞は
 翟真
 および
 諸翟人を殺し、自ら立って
 趙王となった
 営人は共に
 鮮于乞を殺し、
 翟真の従弟である
 翟成を立てて主としたが
 その衆の多くは
 後燕に降り、
 翟遼は
 黎陽に奔走
 5月、
 燕王の
 慕容垂は常山に至り、
 翟成を行唐で包囲
 7月、
 翟成の長史である
 鮮于得は
 翟成を斬って慕容垂に降った
 慕容垂は行唐を攻め落とし、
 翟成の衆をことごとく穴埋めにした
 386年1月、
 黎陽に逃れた
 翟遼は
 黎陽太守の
 滕恬之
 に甚だ寵愛されるが、
 滕恬之が
 士卒から信用されていないことを知ると、
 密かに謀りごとを企て
 滕恬之
 が南の
 鹿鳴城を攻めた際、
 後方にいた
 翟遼は閉門して
 滕恬之
 が帰って来れないようにし、
 東の
 鄄城に奔走しようとした
 滕恬之を追って捕え、
 黎陽を乗っ取った
 これを知った
 豫州刺史の
 朱序
 は
 将軍の
 秦膺,
 童斌
 を遣わし、
 淮、
 泗
 の諸郡と共にこれを討った
 3月、
 泰山太守の
 張願は郡ごと叛いて
 翟遼に降った
 8月、
 翟遼は
 譙で略奪をおこなったため、
 朱序
 によって撃退された
 387年1月、
 翟遼は子の
 翟訢に
 陳、
 穎
 を略奪させたが、
 朱序
 が派遣した
 秦膺
 によって撃退された
 4月、
 高平の
 翟暢は
 太守の
 徐含遠を捕え、
 郡ごと
 翟遼に降った
 5月、
 後燕の
 慕容垂は自ら諸将を率いて
 南の
 翟遼を攻め、
 太原王の
 慕容楷
 を前鋒都督とした
 翟遼の衆は皆、
 燕、
 趙
 の出身であったため、
 慕容楷
 が攻めてくるのを聞くとこれに帰順
 懼れた
 翟遼は使者を送って降伏を請うた
 慕容垂はこれを承諾し、
 翟遼を
 徐州牧、
 河南公
 に封じて帰還
 10月、
 翟遼は
 後燕に叛き、
 王祖,
 張申とともに
 清河郡
 平原郡を略奪
 ↓
 翟魏の建国
 ↓↑
 388年2月、
 翟遼は司馬の
 眭瓊
 を
 後燕に遣わして謝罪したが、
 慕容垂はこれを聞き入れず、
 眭瓊を斬って関係を絶った
 そこで
 翟遼は自ら
 魏天王と称し、
 改元して
 建光
 とし、
 百官を置いた
 5月、
 翟遼は
 滑台に移って駐屯
 ↓↑
 建光二年(389年)4月、
 翟遼は
 滎陽を略奪し、
 太守の
 張卓を捕えた
 10月、
 後燕の
 楽浪
 悼王の
 慕容温が
 冀州刺史
 となったため、
 翟遼は
 丁零人の
 故堤
 に
 偽りの降伏をさせて
 慕容温の帳下に入れ、
 慕容温を殺害
 ↓↑
 建光三年(390年)1月、
 豫州刺史の
 朱序は
 翟遼を撃ち破った
 8月、
 劉牢之は
 翟訢を
 鄄城で撃ち、
 翟訢は河北に奔走
 劉牢之はさらに
 翟遼を
 滑台で破り、
 張願が来降
 ↓↑
 建光四年(391年)10月、
 翟遼
 が死去し、
 子の
 翟訢
 が代わって立ち、
 改元して
 定鼎
 とした
 翟訢は
 後燕の鄴城を攻めたが、
 後燕の遼西王である
 慕容農
 によって撃退された
 ↓↑
 定鼎二年(392年)2月、
 後燕の君主である
 慕容垂は
 魯口から
 河間
 渤海
 平原
 に及んだ
 翟訢はその将
 翟都を遣わして
 館陶を侵し、
 蘇康塁に駐屯させた
 3月、
 慕容垂は兵を率いて
 南の
 翟訢を撃った
 4月、
 翟都は
 南の
 滑台に奔走
 翟訢
 は
 滑台で
 慕容垂に討たれ、
 黎陽に退いた
 6月、
 慕容垂が
 黎陽津に到達し、
 渡河しようとするのを、
 翟訢は南岸に列兵してこれを拒んだ
 慕容垂は偽の兵をつかって
 翟訢の注意を引き、
 その隙に渡河を成功させた
 これを聞いた
 翟訢は妻子と数百騎を連れて
 北の
 白鹿山に奔走
 慕容農
 はこれを追撃して
 その衆を捕えたが、
 翟訢のみは単騎で
 西燕
 の
 長子に奔走
 慕容垂は
 翟訢は統領していた
 七郡3万8千戸を以前のように処遇し、
 徐州の流人
 7千数戸を
 黎陽に遷した
 翟訢は
 西燕の君主
 慕容永
 に救いを求めて
 西燕に降り、
 慕容永から
 車騎大将軍,
 東郡王に封ぜられたが
 1年余りして、
 翟訢は
 慕容永を殺そうと謀ったため、
 慕容永によって誅殺された
 ↓↑
 歴代君主
 翟斌
 翟真…翟斌の甥
 翟成…翟真の従弟
 翟遼(在位:388年~391年)…翟真の子か、従兄
 翟訢(在位:391年~392年)…翟遼の子
 ↓↑
 使用元号
 建光
 定鼎
ーーーーー
 ↓↑
 「邪馬台国・卑弥呼」と
 「壹與(壱与)=臺與(台与)」の時代は
 ~238年~240年~243年~
 ~245年~247年~266年~
 ↓↑
  魏・晋との外交
 「魏志倭人伝」
 帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉記録
 景初二年(238年)以降、
 帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者
 皇帝から親魏倭王に任じられた
 正始八年(248年)
 使者が
 狗奴国との紛争を報告
 帯方郡から
 塞曹掾史
 張政
 が派遣
  ↓↑
 建安年間(196年~220年)
 公孫康
 が
 屯有県以南の荒地の一部に
 帯方郡を置いた
 後漢の遺民を集めるため
 公孫摸
 や
 張敞
 などを派遣し
 兵を興して
 韓
 と
 濊を討伐
 後漢の旧民は少ししか見い出せなかった
 後、
 倭
 と
 韓
 は
 帯方郡に服属
 景初二年(238年)六月?
 魏
 の
 明帝
 は
 劉
 を帯方太守、
 鮮于嗣
 を楽浪太守に任じ、
 両者は海路で
 帯方郡と楽浪郡をそれぞれ収めた
 (『三国志』魏書東夷伝序文)。
 または
 景初三年(239年)六月?
 女王は
 大夫の
 難升米
 と
 次使
 の
 都市牛利
 を
 帯方郡に派遣し、
 天子に拝謁を願い出た
 帯方太守の
 劉夏
 は彼らを都に送り、
 使者は
 男の生口(奴隷)四人と
 女の生口六人、
 班布二匹二丈を献じた
 12月
 悦んだ
 魏の皇帝
 (景初二年だとすると
  明帝(12月8日から病床、27日の
  曹宇罷免の詔勅も直筆できなかった
  『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)
  景初三年だとすると
  曹芳)
 は女王を
 親魏倭王とし、
 金印紫綬を授けるとともに
 銅鏡百枚を含む莫大な下賜品を与えた
 また、
 難升米
 を
 率善中郎将、
 牛利
 を
 率善校尉とした
 8月23日
 帯方郡と楽浪郡を支配していた
 公孫淵
 が
 司馬懿により
 斬首
 帯方郡
 と
 楽浪郡
 が魏に占領
 景初三年(239年)春正月丁亥日(1月1日)
 明帝崩御(『三国志』魏書明帝紀)
 正始元年(240年)
 帯方太守
 弓遵
 は
 建中校尉
 梯儁
 らに詔書と印綬を持たせて倭国へ派遣し、
 倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた
 正始四年(243年)十二月
 女王
 俾彌呼・・・・「俾」彌呼・・・「俾=イ+卑」?
 は
 魏に使者として
 大夫
 伊聲耆、
 掖邪狗らを送り、
 生口と布を献上
 皇帝(斉王)
 は
 掖邪狗らを
 率善中郎将とした(『三国志』魏書少帝紀)。
 正始六年(245年)
 皇帝(斉王)は帯方郡を通じ
 難升米に
 黄幢(黄色の旗さし)を下賜した。
 正始六年(245年)
 帯方太守
 弓遵
 と
 楽浪太守
 劉茂
 は
 嶺東へ遠征して
 濊を討った後、
 郡内の
 韓族が反乱して
 崎離営を襲ったため、
 軍を出して
 韓族を討ち滅ぼしたが
 弓遵
 は戦死
 正始八年(247年)
 女王は
 太守
 王頎に
 載斯烏越を使者として派遣し、
 狗奴国との戦いについて報告
 太守は
 塞曹掾史
 張政らを倭国に派遣
 女王に就いた
 壹与は、
 帰任する
 張政に
 掖邪狗
 ら
 20人を同行させ、
 掖邪狗らはそのまま都に向かい
 男女の
 生口30人
 と
 白珠5,000孔、
 青大句珠2枚、
 異文の
 雑錦20匹を貢いだ
 『日本書紀』の「神功紀」に引用される
 『晋書』起居註に、
 泰始二年(266年)
 倭の女王の使者が朝貢したとの記述
 この女王は
 壹與で、
 魏に代って成立した
 晋の皇帝
 武帝
 に朝貢した・・・
 ・・・200年~300年の期間、「燕の国」との関係は?・・・
http://www42.tok2.com/home/nikorao/tokepe/himiko.htm
  ↓↑
 国際情勢
  57年 倭の奴国王、後漢の「光武帝」から金印を賜る
 107年 倭国王、「帥升」、後漢の「安帝」に「生口」を献ずる
 146年 倭国動乱、邪馬台国に女王「卑弥呼」が立つ
 189年 「公孫度」、「玄菟郡」の小官吏から遼東半島太守となる
 190年 「公孫度」、
      遼東郡を遼西、中遼の二郡とし自らの太守を置く
      また、山東半島に営州刺史を置き、
      「遼東侯・平州牧」と号した
      「公孫度」の子、「公孫康」が継ぎ、
      「度」の弟、「恭」が「永寧郷侯」となり、
      「康」は
      西暦196~220年まで
      楽浪郡を分けて帯方郡を置いた
 220年 後漢滅亡。
      魏王・「曹丕」、
     「献帝」を廃し、
      魏の「文帝」となる。
 221年 「劉備」、燭漢の「昭烈帝」となる
 229年 「孫権」、呉の「大帝」となる
      「公孫康」の子、
      「淵」が「魏王」から「遼東太守」、
      「車騎将軍」の爵号を授
 232年 呉の「孫権」、「淵」に「燕王」の爵位を与える
 233年 呉が一万人ほどの軍隊を遼東に派遣。
     「淵」はこの使者を殺し、
      その首を「魏」に差しだし、
     「楽浪公」の爵位を得る
 235年 高句麗王、「位宮」、呉から「単于」の爵号を受く
 237年 「魏」は幽州刺史の
      「毋丘倹」を将軍にし
      「淵」軍と戦い敗北
 238年 六月、「卑弥呼」、大夫「難升米」を「魏」におくる
 ・    ↓
 ・    八月、「魏」の
「司馬懿」を将軍とする軍隊に
「淵」軍敗北、戦死
 239年 帯方郡・太守「弓遵(辷+尊)」が
「韓」族に攻められ戦死。「韓」滅亡
 244年 「魏」は幽州刺史の「毋丘倹」を将軍にし、
高句麗軍を壊滅さす
      帯方郡太守「王・(斤+頁)」、
塞曹掾史「張政」を「倭国」に派遣
 238年(景初2年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 240年(正始元年)「女王卑弥呼」が派遣・魏へ使
 243年(正始4年)「帯方郡太守」が派遣・倭へ使
 244年(正始5年)「高句麗王=位宮」敗北
 245年(正始6年)「倭王」   が派遣・魏へ使
 247年(正始8年)「邪馬台国」と
「狗奴国」の交戦
「卑弥呼」の死亡?
ーーーーー
 ・・・「歌垣(うたがき)=嬥歌(かがい)歌掛(懸)き=懸け合い」と関係ありや、なしや・・・
 山頂、海浜、川、市
 など、
 境界性を
 帯びた地が多く、
 常陸筑波山、
 同童子女松原、
 肥前杵島岳、
 摂津歌垣山、
 大和海石榴市、
 軽市
 などの例がある・・・

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