城郭探訪

yamaziro

刀根坂の戦い

2016年01月07日 | 古戦場

   柳ケ瀬から刀根坂(久々坂)峠へ

 

今はわずかに石垣を残す疋壇城

お城のデータ

 

所在地:余呉町大字柳ケ瀬 map:

 

\\\\長公記 巻六 元亀四年 13刀根山合戦 刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事\\\\\\

 信長公に先を越されて叱責を受けた諸将は、滝川・柴田・丹羽・蜂屋・羽柴・稲葉をはじめとして口々に信長公へ詫び言を申し上げた。しかしその中で佐久間信盛だけは、目に涙を浮かべつつ「左様に仰せられども、われらほどの家臣は中々持たれませぬぞ」と自讃混じりに抗弁した。信長公はこれを聞いてさらに怒り、「そのほう男の器量を自慢いたすが、何をもってそのように言う。片腹痛いわ」といって益々機嫌を悪くした。

 信長公の読み通り、織田勢は退却する朝倉勢を追撃して多大な戦果を得ていた。信長公のもとへは追撃で得た首を持参する侍があとを絶たず、また信長公みずからも騎乗して敵勢を追った。

 敵勢は、中野河内口①と刀根山口②の二手に分かれて退却していた。織田勢はいずれを追ったものかとしばらく詮議していたが、「名のある者は、疋田・敦賀の味方城を頼りに退いていよう。されば刀根山を越え、疋田に向かうべし」との信長公の命に従い、刀根山口へ向かった。
 すると、案のごとくであった。朝倉勢は中野河内口からは雑兵を退かせ、朝倉義景以下主だった者達は刀根山から敦賀をさして退却していた。これを追尾した織田勢は刀根山の嶺で朝倉勢に追いつき、大波が浜の砂をさらうように次々と朝倉勢の首を斬獲していった。朝倉勢の中からも忠義の志厚い者たちが返しては踏みとどまって支えようとしたが、かなわずに一人二人と姿を消していった。敦賀までの十一里に及ぶ追撃戦で、討ち取られた朝倉勢の首数は三千余にのぼった。

 討ち取られた者のうち、名のある者は朝倉治部少輔・朝倉掃部助・三段崎六郎・朝倉権守・朝倉土佐守・河合安芸守・青木隼人佐・鳥居与七・窪田将監・託美越後・山崎新左衛門・土佐掃部助・山崎七郎左衛門・山崎肥前守・山崎自林坊・細呂木治部少輔・伊藤九郎兵衛・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・兼松又四郎の討ち取った中村新兵衛・長嶋大乗坊・和田九郎右衛門・和田清左衛門・疋田六郎二郎・小泉四郎右衛門、そして美濃の斎藤龍興③や印牧弥六左衛門など多数に及んだ。

 このうち印牧弥六左衛門は不破光治配下の原野賀左衛門という者に捕らえられ、信長公の御前に引き出されてきた。そしてその場で信長公の尋ねに答えてこれまでの働きを正直に話したところ、信長公はその武功と神妙な態度とに打たれ、「向後信長に忠節を誓うならば、一命は助けよう」と言った。しかし印牧は、「朝倉に対し、日頃より遺恨はあり申した。しかし歴々が討死して勝敗あきらかとなった今になって敵方へそのような不満を申し立て、それで命を助けられたところで、もし将来織田殿へ忠節かなわなかった時にはその不満の言葉さえも命惜しさのでまかせであったかと思われましょう。そうなれば御扶持もままならず、実情も外聞もまことに見苦しき次第になり果て申す。されば、この上は仕官の儀は結構仕り、腹を仕るべし」と乞い、許されて自害した。前代未聞の見事なる最期であった。

 この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。

 ところで、信長公は普段から腰に足半の草履④を下げておくのが常であった。今回の戦で兼松又四郎は、敵の武者を追って刀根山山中を駈けまわり、これを討ち取ったものの、首を持って信長公の御前に参上したときには足は素足で紅に染まってしまっていた。それを見た信長公は日頃携行していた足半を腰から外し、「今こそこれが役立つ時ぞ」といって兼松に与えた。冥加の至りであり、光栄これに過ぎたるものはなかった。

 信長公の武徳両輪の力により織田勢は大勝を収め、14日・15日・16日と敦賀まで進出して駐留した。そして諸所から人質をとり固めたのち、17日になって木目峠を越えて越前国内へ乱入した。そして18日には府中竜門寺⑤まで進んだ。

 織田勢の進撃をみた朝倉義景は、居館の一乗谷を捨てて大野郡山田庄の六坊賢松寺⑥に逃れた。落去の際には、高貴な女房たちでさえ輿車も満足に用意できず、徒歩はだしとなって取るものも取りあえず我先に義景の後を追って落ちていった。誠に目も当てられず、申すも耐えない有様であった。

 信長公は柴田勝家・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らの将兵を平泉口に派遣して義景を追尾させるとともに、諸卒を手分けして山中に分け入らせ、各所に逃れた朝倉の党類を捜し出させた。その結果、竜門寺の陣所には毎日百人二百人もの人数が数珠繋ぎとなって引き立ててこられ、信長公の命を受けた小姓衆の手により際限なく討ち果たされていった。

 その有様は正視に耐えなかった。ある女房などは下女もつれずにただ一人逃げていたところを下々の者に捕まり、数日にわたって捕らえ置かれていたが、あるとき硯を借りて鼻紙の端に書置きを残してから隙を見て逃げ、井戸に身を投げて死んだ。あとから人がその書置きを開くと、そこにはありをればよしなき雲も立ちかかるいざや入りなむ山のはの月と辞世が書かれていた。これを見た者は、哀れさにみな涙した。

 ほどなくして平泉寺⑦の僧衆が信長公へ忠節を誓い、織田勢にあわせて人数を出してきた。これにより、義景の進退は極まった。

 ①現余呉村から栃ノ木峠を越え越前へ入る道筋 ②現木之本町から刀根山を越え敦賀に抜ける道筋(刀根山は敦賀市刀根) ③斎藤龍興は美濃を追われてからは各地の反信長勢力の間を転々とし、このときは朝倉勢のうちにいた。 ④かかと部分のない半草履 ⑤現福井県武生市内 ⑥現大野市内 ⑦現勝山市平泉寺

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 織田信長は世に言う元亀元年(1570)の『金ヶ崎の退き口』)後、その年の中に「姉川の合戦」で浅井、朝倉連合軍を撃破した。そして、元亀3年(1572)に入って信長は本格的に浅井長政の小谷城孤立化の態勢を強めた。3月、信長は小谷城近くの横山城に入り、木之本方面を焼き払い、7月湖北の阿閉貞征が守る山本城と小谷城を分断、小谷城前の虎御前山に砦を築き攻撃態勢をとった。攻防急を告げるに至って、朝倉義景は2万の軍勢で来援、木之本田上山に本陣を置き、小谷城に連なる大嶽に後詰した。8月12日近畿を襲った暴風雨の中、信長は大嶽砦、丁野城を奇襲し、陥れた。

 朝倉軍はここで乾坤一擲浅井軍と共に戦うことをしなかった。戦闘員数の劣勢、度重なる近江への軍事行動による兵員の疲弊から、野戦の不利を認めざるを得なかった。また、元亀元年の姉川の戦いの敗北が判断に去来したであろう。朝倉軍は領国の居城、敦賀の疋壇城を目指して退却し、防衛の態勢を固めようと画した。しかし、織田信長はこの機を逃さず、逃げ足の朝倉軍を猛迫した。信長自ら先頭に立って追う。機動力に勝る織田軍は北国街道を追撃し、刀根坂の麓「柳ケ瀬」で追付き、逃げる朝倉軍を攻めたてた。 道幅は一気に狭くなる。00mほどの道のりだが、つづら折りを過ぎると切り通しに着く。そしてそこが刀根坂峠。峠を越えると近江の国である。元亀3年(1572)この峠で越前朝倉軍は織田信長軍に殲滅された。(刀根坂の戦い)

 


新田義貞軍の一部が戦没した、河野・土居・得能三将が率いる300騎 塩津の谷

2016年01月07日 | 武将

新田義貞軍ぼ武将・河野氏をまつる宝塔

下鹽津神社 (下塩津神社)

所在地:長浜市西浅井町集福寺455(旧・西浅井郡西浅井町集福寺455)map:http://yahoo.jp/SXZ2Yx

参拝日:2015.12.12

集福寺の下塩津神社の境内、 同社の社務所の裏手の山際

その大きさや形状から、 十分南北朝期に~」鵬=るものと推. 定される。 かっては、 より ... HH、 足利尊氏に追われて京都を脱出した新田義貞軍の一部が、 敦賀に 向かう ... 西浅井町横波日吉神社境内に、 大小の五輪塔が低い. 段上に建って いる~ ...

 

式内社 近江國淺井郡 下鹽津神社 旧村社

御祭神 鹽土老命
配祀 伊邪那岐命 伊邪那美命

滋賀県長浜市(旧西浅井町)にある。近江塩津駅の北2Kmほどの集福寺に鎮座。
8号線から東へ、北陸本線のくぐって、大川沿いに進む。

参道入口に鳥居が立ち、傍らに社号標。参道を歩くと、目の前に美しい巨木が聳えている。

境内入口に案内板があり、右手が広い境内。左へ進み社務所の裏手に回ると「五輪塔」がある。

境内の右端に社殿があり、本殿は覆屋の中にあるようだ。本殿の左横に、小祠・白山社。その横に二棟並んだ神明社がある。

創祀の由来は、社伝によると、応神天皇が、皇子の頃、塩土老翁の託宣を得て、即位の後、大雀命・宇遅能和紀郎子命の二皇子に
この神を崇敬するように命じた。
そこで、二皇子は、淡海の集福蘇翁に命じ、仁徳天皇三年四月、浅井郡下塩津郷集福寺小松山小稲森に社殿を創立し、塩土老翁を鎮祭し、下塩津神社としたという。

醍醐天皇昌泰二年(899)、今出川大納言の二子で、天台僧の大法深が当社の社僧に任ぜられ、信仰していた熊野三所権現を勧請し、
伊邪那岐命・伊邪那美命を配祀した。

社殿には、三つ巴・桐・菊の3種の紋が付いていたが、案内板に、神紋は、菊と桐とある。このように神紋を記載してくれるとありがたいな。

式内社 下塩津神社の由緒

 当社由緒に関する古記録によると、人皇十五代応神天皇が塩 土老翁の神徳を知り二人の皇子に、塩土老翁の神霊を祀る事を 命じられた。茲に二皇子、淡海の集福蘇翁に命じ下塩津の郷、集 福寺小松山小稲森に社祠を建て塩土老翁の神霊を鎮祭させて下 塩津神社と称え奉った。
 第六十代醍醐天皇の昌泰二年(八九九)今出川大納言の子の 天台僧が当社神宮寺の吉祥寺の社僧となり、紀伊の国熊野神社 の伊邪那伎命・伊邪那美命の二神を勧請して熊野三社権現と称 え奉るに至った。下塩津郷五ケ邑並びに境内七町四方を神領と した。永享四年(一四三二)二月従五位の神階を宣下される。神紋(十六弁菊花 五七の桐)
 延喜式神明帳に浅井郡十四座とあるが、その中に下塩津神社 とあるのは当社である。

当神社の主な祭

八月十六日 例大祭 花笠踊(ちゃんちゃこ踊)奉納(滋賀県選択無形民俗文化財)

二月十一日 神事祭(おこない)奉納  -境内案内板より-

 

 南北朝合戦の爪

長浜市西浅井町横波の日吉神社の建つ五輪塔群【南北朝~室町期=戦国時代】

 天保5年(1834)の建立で、駄馬仲間や塩津浜およびその枝村8ヶ村(祝山、野坂、 塩津中、岩熊(やのくま)、横波、余、集福寺、 ... なお、塩津と木之本を結ぶ道として、 塩津神社の前から国道8号(県道514号筋)で賎ヶ岳の南腹を越えて木之本に至る道と 、祝山から ..... 集落中央あたり右手に日吉神社、集落の北はずれで自然石に掘られた 小さな大日如来が祠に安置されていた。 ... 南北朝時代の延元元年(1336)、新田義貞 らの南朝軍は後醍醐天皇の皇子恒良親王と尊良親王を奉じて北陸に下り、金ヶ崎城に 入った。

日吉神社の境内に、大小16基の五輪塔が低い段上に建っている。これらは、平成18年に背後の山際の斜面から発掘されたものだが、それに先立つ平成11年には、同地域から「延元戦没」と記された石碑が発見されていた。

この周辺は、織田信長の元亀兵乱で破壊された石塔が埋まっているという伝承があったが、平成になってその事実が確認された。

発見された石塔は錯乱状態であったが、村の有志が現在の「地・水・火・空」風輪の組み合わせは、再建当時の推測である。

「延元戦没」と刻まれた石碑には、「古えを しのばざらめや 今とても 色を得能の 塚の紅葉は/玄夢作」と和歌が刻まれている。ここで「延元戦没」とあるのは、南北朝期延元3(1336)年10月11日に、足利尊氏によって京を追われた新田義貞軍の一部が戦没したこと指す、本隊に遅れていた河野・土居・得能三将が率いる300騎は雪が降りしるなか、塩津の谷で、敵軍に取り囲まれて自害した。(太田浩司…横波の西田覚氏から聞きとり)

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


太平寺城(霧ガ城)   近江国(伊吹)

2016年01月07日 | 山城

お城のデータ

所在地:米原市太平寺(旧坂田郡伊吹町太平寺)map:http://yahoo.jp/GR3qxP

別 称:霧ガ城

区 分:山城 

創築年:鎌倉中期

築城者:京極氏信

城 主:京極氏信・京極道誉・・・

遺 構:土塁・空堀・郭

標 高:450m

訪城日:・・・訪城不可(瀬田の窪田城と同じく、社有地で許可取れず)

※太平寺集落跡は伊吹鉱山の管理下にあり、許可なく出入りすることは出来ません

 

 

お城の概要

『日本城郭体系 11』によりますと、

太平寺の住民は以前に春照に集団移住したため、行政上の表記はなくなっています。

伊吹山(標高1377m)の西側の山腹にあった伊吹山四か寺の一つ、太平寺(太平護国寺)の寺域に、その居城として築いたものである。

この城は、江北屋形と称し、氏信以後、南北朝時代の京極高氏(道誉)や高秀、高詮を経て京極高清までの居城としてあったが、永正年間(1504~21)に、高清が上平寺城に移り廃城となった。(後略)」とあります。太平寺の住民は以前に春照に集団移住したため、行政上の表記はなくなっています。

 

現在、伊吹町太平寺の集落は、当時セメントの原石採集場に接近することから春照に集落移住して、人は住んでない。

 

 太平寺城址の主郭は太平神社の辺りと思われ、神社の石段最下から北向きには深さ5m幅6mの空掘りと土塁が築かれている。太平寺集落の南端伝いには東西土塁と堀が30mに渡って築かれ、太平神社の背後は数段の削平地になっている。

 

太平寺集落は、伊吹山中腹(詳しくは)太平寺.滋賀県坂田郡伊吹村(現・滋賀県米原市)にあった廃村集落

太平寺のくらし

 千古の歴史を秘める古刹の面影はおろか、懐かしい村跡さえももはや判然としない。今はただ荒涼の山肌の起伏に、呆然とたたずむ。
 おおいかぶさってくる伊吹の険阻な山肌に生きた村人達。かつてはソバの白い花があたりを埋め、階段のような畑にゴボウやニンジンが作られていた。太平ニンジン、太平ソバの名が長浜近郷に知られていたのは遠い昔のことではない。

 

  明治2年の戸籍には「坂田郡太平寺村  家15戸 坊2軒 人62人 男28人 女34人 田1町7反 畑131ヵ所 ソバ畑298ヵ所 林163ヵ所 牛7頭」とある。厳しい自然環境を克服して余すところなく耕地を広げ、ソバや野菜の栽培に取り組んでいたかを知る事ができる。伊吹山8合目までソバ畑があり、集落上部の傾斜地は夏になると白いソバの花に埋まったと古老は語る。長浜あたりからも山が白く見えたと言い伝えられている。 (伊吹山資料館資料より)

そば畑

日本そば発祥の地・・・・伊吹そばの歴史

 そばは北方大陸から朝鮮半島を経て渡来したのは8世紀の頃と推定される。もっぱら備荒食糧として奈良・平安の二朝に歓種された。わが国最初の栽培地は近江の伊吹山下で、その後美濃・信濃・甲斐の山国に発達し、さらに関東・東北・北海道まで普及した。寛文8年(1668年)の伊吹山絵図によると、伊吹山8合目付近まで山畑の分布が記載されている。明治の物産誌によると、太平寺では耕地の半分がソバ畑で24石4斗5升を産出しており、近世に比し減少を報じている。本朝文選(1706年)によると、彦根藩士森川許六は「伊吹ソバ天下にかくれなければ、からみ大根また此山を極上と定む。酒々の風流物、誰か是を崇敬せぬものなし・・・・」と述べている。(からみ大根とは、この地域で取れる「伊吹大根」のこと)(伊吹町史 通史編より抜粋) 

 

歴 史
 

太平寺城は伊吹山の南西斜面、標高450m付近の太平寺の跡を利用して、佐々木定綱の四男・氏信が愛知川以北の、愛知、犬上、坂田、浅井、伊香、高島の六郡を与えられた後に築いた京極氏の居城である。

 城の背後を伊吹山の急斜面に守られ、東側は大富沢に落ち込む要害の地にあり、地形的には兵法で云う「後ろ堅固の城」である。また、北陸と東海を結ぶ北国脇往還道(現国道365号線)を押さえる要衝の地にある。


「坂田郡誌」によると、伊吹山で修行した僧三修(さんしゅう)が寺院を建ててから霊地となり、御醍醐天皇(1218~1330年)の頃、亀山天皇の皇子守良(もりよし)親王が同寺に身を寄せ、1333年には京都六波羅の戦火を逃れたあと伏見、花園両上皇、康仁親王らがかくまわれるなど皇室との縁が深かった。のちに湖北の領主となった京極道誉が北陸の要路である北国街道を守るためこの地に砦を築き、太平寺の館(やかた)を建てたという。
 京極氏は拠点・居城を太平寺城・上平寺城・柏原城・勝楽寺城および河内城と、その時々に変えていたとされ、この太平寺城がいつ頃まで城として使われていたのか明確ではないが、京極高清が明応年間(1492~1499)までは太平寺城を使っていたのではないかとされている。

 佐々木定綱の子、四男氏信は愛知川町以北の、「愛知」「犬上」「坂田」「浅井」「伊香」「高島」の六郡を与えられ、江北六郡の本拠としては、地理的に見て幾分よかった感がするここ伊吹山の西面麓「太平寺」に築城した。

 太平寺の名が示すように、寺院と城が一体化がうかがわれる。太平寺は太平護国寺とも呼ばれ、宝亀年間(770-780)に光仁天皇の勅願で建立された伊吹四大寺の一つである。

 このお城は江北屋形と称し、氏信以後、南北朝時代の京極高氏(道誉)や高秀、高詮を経て京極高清間での居城としていたが、永正年間(1504-1521)に、高清が上平寺城に移り廃城となった。

 

 『近江国坂田郡誌』には、「太平寺城址は標高1000の地に有り・・」と記されているが、1000m地点には遺構が確認できず、地形的に見ても急斜面で、冬季の積雪量は5~6mもあることから、城域は太平寺集落跡 標高450m(右下写真の中腹の台地)と考えられる。

 

太平神社脇の空掘

昭和28年に撮影された伊吹山と太平寺の村落(下中央の高台)住友大阪セメント(株)のカタログより抜粋

 

参考資料:・・・滋賀県米原市の名所・旧跡・観光スポット、HP太平寺、近江の城郭

訪城不可のため、転載・・感謝!

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!