城郭探訪

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安土城見学会

2016年01月26日 | 戦国山城

安土城見学会

 信長公記 巻九 天正四年1、安土築城  安土御普請の事

 この年の正月中旬、信長公は丹羽長秀に命じ、江州安土山の築城を開始させた。そして2月23日には信長公自身が安土に座を移した。普請の進行ぶりを実検した信長公はひとまず満足し、褒美として丹羽長秀に名物珠光茶碗を与えた。まことにかたじけなき次第であった。またこのとき馬廻の衆は信長公より山下に屋敷地を与えられ、それぞれ自邸の普請を開始することを命じられた。・・・・ 云々

 お城の概要

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、ウィキペディア

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安土築城  安土御普請の事

2016年01月26日 | 戦国山城

 

信長公記 巻九 天正四年

1、安土築城  安土御普請の事

 この年の正月中旬、信長公は丹羽長秀に命じ、江州安土山の築城を開始させた。そして2月23日には信長公自身が安土に座を移した。普請の進行ぶりを実検した信長公はひとまず満足し、褒美として丹羽長秀に名物珠光茶碗を与えた。まことにかたじけなき次第であった。またこのとき馬廻の衆は信長公より山下に屋敷地を与えられ、それぞれ自邸の普請を開始することを命じられた。

 4月1日からは大石をもって山内の塁壁地に石垣が築かれはじめた。また「城内に天主を築くべし」(安土城の場合、天守には「天主」の字を当てていたことが知られている)との信長公の命に従い、安土には尾・濃・勢・三・越五州に若州・畿内の諸侍、および京都・奈良・堺の大工諸職人が参集し、おのおの技巧のかぎりを尽くした。瓦焼には唐人の一観が加えられ、唐様に仕上げるよう申し付けられた。
 近接する観音寺山・長命寺山・長光寺山・伊場山(伊庭山)(いずれも安土周辺(現近江八幡市~能登川町あたり)の山)からは大石が数多く引き出され、千・二千・三千とまとめられて安土山へ上げられていった。引き上げられた石は石奉行の西尾小左衛門・小沢六郎三郎・吉田平内・大西某によって吟味され、小石は退けられて大石のみ選りすぐられていった。

 これらの石の中で、津田坊が運んできた蛇石と呼ばれる石はまた格別のものであった。すぐれた名石であったが、並はずれた大石でもあり、山麓までは運べたものの山上には一切上げられずにいたのである。結局この蛇石は羽柴秀吉・滝川一益・丹羽長秀の助勢一万人の手によって昼夜三日がかりで引き上げられることとなったが、このとき信長公は巧妙な手で(原文「御巧を以って」。足利義昭邸建造(巻二第二段)のときのように石を飾り立てて笛や太鼓で囃したものか)人足たちを囃し立て、いとも簡単に天主台へ引き上げさせることに成功したのであった。このように普請は昼夜の別を問わず、山も谷も動かんばかりの勢いで進められた。

 安土の普請が進む中、信長公はまた京都にも座所を造ろうと考えた。そして安土の監督は御息信忠殿に任せ、みずからは4月晦日に京都に入って二条妙覚寺に宿泊した。

 これが『蛇石』か?

 

安土城を築くため信長は石仏など多くの石を集めました。記録によると大きな石を上げるために数千人の人が必要であったといわれ、なかでも「蛇石」と呼ばれる銘石は7千人の人が昼夜を問わず引き上げたが、上がらず150人もの人が下敷きになり死んだそうです。今この石がどこにあるかわかっていません

★「蛇石」の話は信長公記の天正4年の”安土御普請の事”に津田坊という人が 運んだことが記載されている。しかし、これには150人が下敷で死んだ話はで ていない。

 

★フロイス日本史4(川崎桃太.松田毅一訳.中央公論)第33章の「信長がその統治の過程で行った他のことどもについて」には、「蛇石」とは記されていないが、特別の一つ(石)として150人以上が下敷きになり死んだ話が述べられている。二つの話をつなぐと「築城にまつわる話」となる。

 

★「蛇石」とはどんな石かわからないが、蛇紋岩という石ならある。一般的な特徴は暗緑色塊状のものが主であるが、繊維状の岩もある。 つるつると滑らかで、蛇の皮の紋様みたいな岩もあり、不規則な塊状をしている。また蛇紋岩の成分の一つであるクリソタイルは石綿の一種であり、これは、じん肺を 誘発する。私が関係している労働衛生とか職業病の分野では時々耳にする。

 

★蛇紋岩の産地
  安土に近い蛇紋岩の産地について、原色岩石図鑑で調べて見ると、愛知県.新城市と繊維状蛇紋岩(京都.宮津)が該当する。運ぶ時に滑りそうな石は愛知県.新城市の石のように思う。愛知県というと、信長と関係がでてきそうだが、こんな遠くから大石を運んだか疑問もでてくる。

 

■ 安土山を霊鷲山にする方法

★荒神山(彦根市)は霊鷲山だった

 二つの資料を並べてみて、ほとんど平仮名の文より漢文読み下しの方が読みやすい感じがするのですが、一般的にはどう感じられるのでしょうか? 初めのお話は、東大寺造営に力を尽くした僧である行基についての伝説なのですが、その中の太字で示した部分に、昔は平流山と呼ばれていた現在の彦根市にある荒神山の伝説がのせられています。

 荒神山はもともと、釈迦が法華経などを説いた天竺にある霊鷲山の一岳であり、その霊鷲山の一岳が蛇の背中に乗って日本へやって来て、蛇がそのまま石になった、という伝説です

★しっぽが無い

 このへび岩のしっぽは、かめ山(彦根市)むかし話では、北がわの石寺(彦根市)の村に出ている、と、伝えられているのですが、現在荒神山北側の石寺の方面には、しっぽらしい岩は存在しません。 2003年に彦根城博物館が編集した『荒神山と周辺地域の暮らし』の――聞き取り調査ノートより――には、「蛇岩のしっぽ側は曽根沼干拓前の昭和35年頃には、採掘され失われた…蛇岩は山の上の方にあり、採掘された石は、崖から谷筋へ転がし落とし、曽根沼際の石積み場へ運んだ。」 というように昭和35年ごろに採掘されたという証言がありますが、この中の、「蛇岩は山の上の方にあり」という証言から言って、昭和35年頃に採掘されたのは蛇岩では無いと考えられます、 なぜなら、もともと蛇岩は荒神山を乗せて来た蛇が石になったもので、頭側は山の下の方にあり地元の人に祭られている事から、しっぽ側の石も同じく、山の下の方にあって、地元で祭られていなければおかしいからです。 たしかに昭和35年ごろなら御神体の岩を工事用に採掘する事もありそうなのですが、その場合でもたたりを恐れて神事がとり行われるはずで、何の伝承もなしに蛇岩が採掘されてしまうのは不自然で、なおかつ山を乗せているはずの蛇のしっぽが山の上の方にあるという証言からして、この時採掘された岩は、もともとのへびのしっぽでは無いと考えます。

へび岩のしっぽが安土城へ運ばれた 

 以上の事から、安土城へ運ばれた蛇石とは、荒神山の へび石のしっぽ側の岩で、取られた荒神山石寺の人は、山の上の方にあった岩を新たにへびのしっぽに見立てたものと考えられ、この解釈なら信長公記から読み取れる蛇石の条件、安土山以外の場所から持って来た、もともと有名な石、という二つを満たし、聞き取り調査ノートの証言の説明も付けられます。

★安土城を霊鷲山にする方法

 安土城障壁画の復元考察を行った平井良直氏は『安土城天主五階の空間構成に関する一試論』の中で、「信長は、『法華経』の造形を、の装置として巧みに転用しているという可能性が、ここで新たに指摘できるのではあるまいか。」と結論部分で指摘しています。

 法華経が説かれたのは天竺の霊鷲山であり、三国伝記ではその霊鷲山が蛇の背中に乗ってやって来たのが荒神山であるとされているので、荒神山のへび石と、荒神山の土を安土城の天主に持って来れば、安土城天主は宗教的には霊鷲山と同じものになることができます。 つまり、へび石のエピソードも、安土城天主を、法華経の造形によって自己神格化の装置として取り入れた信長の、一貫した意思のあらわれだったのです。

へび石の埋められた場所は 

へび石が、荒神山から運ばれた安土城天主を霊鷲山にする装置の一つと考えると、へび石が置かれた場所は、天守台を背中に乗せて運べそうな部分であると考えられ、具体的には天主から東に延びる天守取り付き台部分の地下ではないかと思われます。 発掘調査の際にもこの天守取り付き台部分から岩らしい物の反応があったので、天守台から左右に伸びる岩盤の東側の端に蛇のしっぽを付ければ、想像される蛇の頭は伝二の丸信長廟辺りに位置する事になり、天守指図の間取りから考えれば、信長の寝起きした常の御所は伝二の丸に想定されるので、へびの頭を押さえる位置に信長の座所が位置する事になり、自己神格化の装置としてちょうど良いのではないかと思われます。
 以上の事から、へび石は現在、天守取り付き台部分の地下に埋まっているものと、とりあえず考えておきます。