城郭探訪

yamaziro

山屋敷 近江国(彦根・鳥居本)

2016年01月12日 | 居館

最後の現地説明!

お城のデータ

所在地:彦根市宮田町 map:http://yahoo.jp/Kss6dg

築陣期:室町期

築城者:小野清介

築城者:小野清介

標 高:92m   比高差:ーm

区 分:山麓館

遺 構:堀痕「用水路」

目標地:フジテックエレベーター試験棟・宮田橋

駐車場:路上駐車

訪城日:2016.1.11

お城の概要

福島城と百々屋敷の中間に位置し、東山街道を監視の役目を担っていたのでは? 

物生(むし)山城を詰め城・物見廓をしての山麓館では?

「城館後には、家は立たない」というが、ここも例外ではないようです!

 歴 史

「淡海温故木間攫」に坂田郡「物生(むし)山村 古小野清介ト云武士当村ノ地頭タリ、其宅地跡□在ス、此後ハ伊賀国ニ有ト云、」

坂田郡域 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。

  • 彦根市の一部(笹尾町、小野町、佐和山町、鳥居本町、宮田町より北東)
  • 長浜市の一部(相撲町、森町、下之郷町、国友町、今町、千草町、東上坂町、相撲庭町以南)
  • 米原市の大部分(甲津原・曲谷・甲賀・吉槻・上板並・下板並を除く)

明治12年(1879)に、小野西山村・小野馬場村・物生(むし)山村が合併して宮田村となる。

山屋敷見学

山屋敷から、物生山城(遠望)

物生山城…遠望(中央の鉄塔の右標高:192m)

物生山城…遠望(右の鉄塔の左 標高:192m)

参考資料:物生山(むしやま)城  近江国(彦根・鳥居本) 現地見学会で、近江温故小間攫

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


物生山(むしやま)城  近江国(彦根・鳥居本)

2016年01月12日 | 山城

連続講座「近江の城郭」第3回 元亀争乱~物生山(むしやま)城

 最初の堀切・土橋

  元亀元年(1570)の浅井長政の裏切りにはじまる織田信長と近江諸勢力との戦いは、その元号をとって元亀争乱と呼ばれています。元亀争乱の戦いは、近江各所で行われますが、湖北での戦いの焦点となったのが佐和山城です。佐和山城は、東山道を眼下に望む場所に位置し、美濃と近江との交通の要衝でした。信長は浅井氏配下の磯野員昌が守る佐和山城を攻撃するために、周囲に付城を築き、佐和山城を包囲しました。物生山城はそうした付城のひとつです。

お城のデータ

所在地:彦根市宮田町 map:http://yahoo.jp/513Nv6

築城期:室町期

築城者:小野清介

築陣期:織豊期

築陣者:市橋長利

砦 主:市橋長利

標 高:192m   比高差:100m

区 分:山城

遺 構:曲輪、土塁、土橋、堀切、竪堀

城 域:100m×20m

目標地:フジテックエレベーター試験棟・宮田橋

駐車場:路上駐車

訪城日:2016.1.11

お城の概要

 物生山城は、佐和山から北に伸びる尾根筋の北端に位置する標高192mの物生山の山頂に築かれました。彦根市宮田町の物生山の西背後の山上に築かれている山頂部の主郭を中心に三方に伸びる尾根上に郭が広がり、堀切や竪堀によって防御を固めています。今もこうした遺構は現地に良好に残されています。

 頂部に主郭を置き、ここから三方に伸びる尾根筋にそれぞれ数段の曲輪を配した縄張りとなっている。 特に北東先端部にある磯崎城へと繋がる尾根には、五段の曲輪が並び、曲輪との間に堀切が3ヶ箇所、そして土橋の遺構が良く残っている。 

主郭から関電の鉄塔にに至る尾根筋にも主郭から少し下ったところから尾根筋に曲輪があり、土塁と虎口の遺構が残っていた。 

  最高部の曲輪から東尾根に4段の曲輪、西尾根には3段の曲輪が連郭式に配置され、東尾根は切岸主体の防御で、西尾根は傾斜が緩やかなこともあって、曲輪間は横堀で処理されている。

  主郭は、多角形状の台状地で、東と西で1.8m程の段差があり西が低く、南と北側の下方には犬走りを伴っている。主郭の西方が尾根続きとなり、3条の堀切を設け厳重に防備を固めている。内堀切と中堀切の間に10m×7mの方形状の腰郭があり、その南部は塹壕状になっている。主郭の南東少し下方には腰郭があり、そこから急激に20m程降った尾根上に微かな土塁痕の残る50m×10mの細長い郭が延びている。主郭から北に降る尾根上には、5段にわたって削平され、最下段は4.5m幅で帯状となっており、その北西端に設けたれた堀切には2本の土橋があり、土橋の間が小さな貯水池のようになっている。
現在に残る遺構からは、佐和山城側に土塁や塹壕、堀切などの施設が構えられており、信長公記に云う「北の山」の可能性が高いように思われる。


今回か佐和山城への「かもうの切り通し往還」から、西尾根を弁天山(211m)・物生山・物生山城・宮田へ下城した。

登城口へ宮田町を流れる小野川(佐和山城 外堀)に掛かる宮田橋前から入ると墓の前を過ぎたところで、左手に曲がるのがポイント。右へ行くと急斜面を登ることになる。

歴 史

物生山城に関して伝承や記録は無く不明であるが、その存在については、・地元領主が築城 ・佐和山城の出城として築城 ・織田信長の佐和山城攻め時の陣城 等と考えられている。

佐和山城の磯野員昌

 永禄6年から浅井氏の六角氏に対する前線基地である佐和山城を守っていた磯野員昌は忠実に浅井家に仕えた。織田軍に包囲された時、この付近の有力国人の今井氏、島氏、河口氏も城内にいて員昌と七か条の定書を交わして、一致団結してこの難局を乗り切ろうと誓い合った。

 しかし8ヶ月も織田軍に包囲されては城の食料も矢玉も底を尽きかけ、ついに員昌は長政に援軍の要請をした。しかし長政単独では救援に向かえる余裕はなかった。員昌はそれでは佐和山城を捨て小谷城へ入りたいと申し出た。しかし長政はこれを認めるどころか員昌に謀反の恐れありと人質だった員昌の母親を磔にして殺してしまった。もはや員昌の心は浅井家から離れた。隠居も考えた。

 このとき信長はその剛勇を惜しみ織田家のために働いて欲しいと員昌を誘った。一旦は固辞した員昌だったがかつて家臣が誤って射殺したため親代わりに養育している国人今井高清の子供達の将来を考え、この申し出を受け入れた。

 信長公記には佐和山城に対する付城について以下の記述がある。
----------------------------  【信長公記】 (巻三 元亀元年8、姉川  あね川合戦の事 )
・・・・「信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、みずからは7月1日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。佐和山では四方に鹿垣をめぐらし、城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方より攻撃させた。。七月六日、御馬廻ばかり召列れられ御上洛。」
----------------------------
 市橋九郎右衛門長利が守備をした。

 

上記、記述の「北の山」が、この物生山ではなかったかとも考えられている。

信長の佐和山城包囲網

今回の講座では、講座資料(A4 8頁程度)を無料で。

講義「戦国近江の終焉」  講師 松下 浩氏(滋賀県教育委員会文化財保護課)

 

物生山城跡を文化財専門職員の案内で御覧いただき、信長の佐和山城攻撃の跡をたどります。

現地見学ルート

ビューポイント・・・西の山彦根山(彦根城・琵琶湖)

弁天山も出郭址の様相

北西下に「堀切」「竪堀」が発掘調査で発見された現場

昨年松原内湖遺跡の発掘調査現地説明会 彦根市の松原内湖遺跡の発掘では、織田信長が一五七〇年、佐和山城攻めの際、敵の逃走や侵入を防ぐため尾根を削った「堀切」「竪堀(たてぼり)」などの城郭遺構が見つかった。
 これは、浅井長政の猛将、磯野員昌(かずまさ)の籠る佐和山城を包囲するため構築したもの。尾根を分断する堀切跡は、佐和山城跡から北北西約一・六キロの尾根に築かれ、東西十三・五メートル、南北の七~九メートル、最深三メートルだった。また、斜面に沿って縦方向に掘削した竪堀は、幅七・五メートル、深さ三メートル、長さ十四メートルを確認した。
 発掘に当たった県文化財保護協会は、攻め手の被害が大きいとされる城攻めにおいて、土塁による頑強な包囲網を築造し、味方の消耗を防いだ戦い方をしたとみている。

 

尾根の鉄塔に北に最初の堀切・土橋

主郭へ

北の堀切北の郭から主郭を見上げる

主郭で説明会(総勢70余人)話もめません!主郭の東下の郭

縄張り図にある、東端の郭と土塁

中腹の鉄塔から、物生山・尾根鉄塔

宮田の登城口

最後の現地説明!

山屋敷見学

山屋敷から、物生山城(遠望)

日時 平成28年1月11日(月・祝) 10:30~16:30

      現地見学:佐和山城下町跡・かもう坂通り往還・切通・弁天山・物生山城・宮田・山屋敷・・・彦根市鳥居本町駅

 行程 鳥居本公民館(講義・昼食)→佐和山城下町跡→物生山城跡→近江鉄道鳥居本駅     全行程約4km ※急峻な山登り、山道の長距離移動あり

主催:滋賀県教育委員会 協力:彦根市教育委員会

 現地探訪 彦根市教育委員会文化財課専門職員

定員 60名(定員以上の参加者、今回は女性が多い!)

参加費 無料

本日の歩行距離9.8km 歩数 13,121歩

参考資料:連続講座「近江の城郭」第3回 元亀争乱~物生山(むしやま)城 レジュメ、信長公記、彦根市「わたしの町の戦国」・「佐和山攻め城、物生山城を歩く」 

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


三川城 近江国(虎姫)

2016年01月12日 | 居城

お城のデータ

所在地:長浜市三川町 (旧・東浅井郡虎姫町三川) map:http://yahoo.jp/gKJLhw

現 状:田地・宅地

区 分:平城

築城期:戦国期

築城者:田中吉政

遺 構:圃場整備で消失

目標地:三川公会堂・環来寺・玉泉院

駐車場:三川集落の三川公会堂(駐車場)

訪城日:2016.1.10

お城の概要

三川城は現在の三川集落の北東に築かれていたと伝えられる。 現在は圃場整備された水田となり遺構はないが、小字として「城形・堀ノ前・内形、堀の前、堀の東、堀の北」などという小字がありますが、すでに城郭地名が残る。
 その地形が、内形を中心に堀の東、堀の前、堀の北と外ぼりがあったことを想像しますが、これらの堀は近くを流れる東川・田川を利用していたもので、今も城跡の名残をもっています。

歴 史 

三川の歴史

田畑や集落も開けており大化改新に当たっては条里制も敷かれた。奈良期には伊香、物部氏等勢力争いの圏内にあった。
平安時代には比叡山中興の祖慈恵大師良源も誕生され、誕生地に天元4年(981年)良源により玉泉寺が草創された。
鎌倉期には佐々木氏、室町期には京極氏、浅井氏と領主が変わり、江戸時代には山上藩(887石)淀藩、山県藩、井上氏、大久保氏、西郷氏、雨宮氏と7人の領主により分割統治された。

 

玉泉寺

天元年間(978~983)良源の開山により創建された天台宗の寺院です。戦国時代に兵火により焼失し、現在の堂宇は江戸時代以降に再建された。

 平安時代中期、比叡山中興の祖といわれる慈恵大師(じえだいし)良源(元三大師 がんざんだいし)の生誕地に建立された天台宗の寺です。良源は、12歳で比叡山に登り、西塔の理仙大徳のもとで修行し、17歳で受戒、55歳の時に第18代天台座主となりました。

寺内には、大師自作の像といわれる国の重要文化財の木造慈恵大師像(鎌倉時代)が安置されている。毎年8月7日にみたらし堂の水を替え霊籾の浮き上がる数により、その年の稲作の豊凶を占うお水取りの行事があり、7日盆とか水かけ盆と呼ばれています。 また、元三大師が、母親の看病の途中で比叡山に戻らなければならなくなったので身替わりの本造を刻んだところ、その像が村はずれの石橋まで大師を送ったという伝説があります。この石橋は、いまでも「いとまごいの橋」として残っています。 天皇家や摂関家の篤い帰依を受け、74歳で没しています。

故郷への思い

吉政の妻も母もその事績はほとんどつたわらないが、秀吉の出世とともに、継潤が出世し、吉政もまた出世すると、妻や母も吉政に従って故郷を離れている。文禄2年(1593)1月11日、吉政が秀次に従って三河岡崎城主であったとき、母が当地で死去していることからも明らかである。ただし、このとき吉政は母の葬儀に際して、浅井郡内保村(長浜市内保町)誓願寺住職明乗をわざわざ岡崎に呼び寄せている(誓願寺文書)。また、母の追善のために誓願寺に梵鐘を寄進したと伝わる。

 天正15年(1587)の九州攻めに従軍した際、豊前小倉(北九州市小倉区)の貫庄八幡宮から分捕った正平21年(1366)銘の梵鐘がそれであり、今なお誓願寺に現存する。

さらに、慶長9年(1604)5月12日、吉政は翌慶長10年の竹生島蓮華会の頭役を夫婦でつとめることを申し出ている。蓮華会は浅井郡の富貴者に頭役を差定しておこなわれる弁財天の祭礼で、その起源は円融天皇が慈恵大師良源に命じた雨乞い修法にあるという。良源は比叡山延暦寺の中興の祖として知られる第18代天台座主で、実はその出身地は吉政と同じ浅井郡三川村(玉泉寺)であった。筑後柳河で大封を得て志を果たした吉政は、妻とともに故郷に錦を飾る思いがあったのだろう。

 あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は良源だと言われている 

 

平成28年1月10日『城歩会』歩き初め 新春ウォーク。

軍道

ーーー信長公記 巻五 元亀三年  3、戦野  奇妙様御具足初に虎後前山御要害の

この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷(虎姫町宮部)にも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、八相山は城番の人数が守った。また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道(軍道)幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、(水攻め)川水を堰入れさせた・・云々

『朝野雑載』の逸話

さて、この吉政と妻とのことについては『朝野雑載』に次のような逸話が見えている。

 田中兵部大輔吉政は近江国田中村の小農人なり。初名九兵衛。十八才の時、みづから思へらく「農夫にて身を終わらんこと口惜。今戦国なり。吾れ仕官して功を立て、富貴を取り名をたてん」とて、其の妻に暇をやる。妻の云く、「我れ何の罪有りてや出さるゝや」。九兵衛が曰ふ。「汝に罪なし。我れ大いなる志有り。明日出で去るべし。飯を多くかしぐべし」とて、有る所の米数升悉く飯にたかせ、平生したしき友を呼びて饗し、我が志を語り、終に去りて、宮部善祥坊に仕へん事を求めて、草履取となる。

吉政が仕えた宮部善祥坊継潤は浅井郡宮部村(長浜市宮部町)の土豪で、はじめ浅井氏の家臣として活躍したらしいが、木下藤吉郎(秀吉)の調略に応じて織田信長に従い、元亀3年(1572)8月には小谷城攻めに加わっていた(信長公記)。すなわち、小谷城攻撃の拠点となる虎御前山城と横山城をつなぐため、織田信長は両城間にある八相山と宮部郷に要害(砦)を築き、虎御前山へ向けて三間半幅の道をつくって、宮部砦に継潤を入れ置いている。「田中兵部大夫ハ拙者譜代筋ノ者ニ御座候」(宮部長身上書)。継潤の子長が寛永10年(1633)に語ったところによれば、吉政はもともと、この宮部家譜代の家臣だったというのである。

浅井郡三川村

上述の如く、吉政は近江国田中村(高島市安曇川町田中)出身とされてきたが、近年になって宮部村の北隣にある浅井郡三川村(長浜市三川町)の出身であることがわかってきた。米原市飯の徳善寺に伝来した「新庄福永順光寺図」に「此田中筑後守者近江国浅井郡三河村出生大名也」と見え、福岡県久留米市大善寺町の玉垂宮にかつてあった吉政寄進の梵鐘には「大施主田中筑後守橘朝臣四位吉政、生国江州浅井郡宮部縣子也」の銘文があった。ここにいう「宮部縣」とは三川村も含む宮部一帯(湯次庄)を指すとすれば、吉政は三川村の土豪として、隣村宮部村の継潤に仕えていたことになる。吉政は天文17年(1548)生まれとされるから、元亀3年(1572)には24才になっていた。おそらく宮部砦と八相山砦の間に位置する三川村にあって、小谷城攻撃に加わっていたのだろう。

国友与左衛門の娘と姉

吉政の妻妙寿院の実名はつたわらないが、宮部家の家臣国友与左衛門の娘であるという。国友氏は坂田郡国友村(長浜市国友町)を本貫とする土豪で、国友集落の南西側に「殿やしき」という地名があり、ここが国友氏の館跡と伝えられる。史料上、国友氏の活動は田中氏や宮部氏よりもふるくから知られ、長享元年(1487)4月3日には、京極高清と対立していた多賀宗直の弟又三郎が国友兵庫助屋敷に陣取っている(江北記)。また、『天文日記』天文13年(1544)8月24日条には、国友伯耆守が富岡一右衛門という家臣をもつ土豪として登場する。与左衛門はこの伯耆守の一族とみられる。そして実は、吉政の母もまた国友与左衛門の姉であったという。つまり、妙寿院にとって夫の母、すなわち姑は父の姉であり、吉政とはいとこ同士だったのである。田中家と国友家は宮部家の家臣として親密な関係にあり、二代にわたって婚姻関係を結んでいたのであった。『朝野雑載』が言うように、吉政は妻を捨て置いて、継潤に仕官した訳ではなかったのである。

息子4人の不運

『寛政重修諸家譜』によると、吉政と妻との間には4人の息子があった。しかし、いずれもが不運であった。長男吉次は関ヶ原合戦において福島正則とともに岐阜城を落とすなど活躍したが、しばらくして父吉政と不和になり勘当、廃嫡された。二男吉信は家臣になったとも、病死したとも(田中系図)、慶長11年(1606)に横死したとも伝わる(家伝系図抜書)。三男吉興は関ヶ原合戦や大坂陣に出陣したというが、病弱で言葉も不明瞭であったらしい(田中興廃記)。四男忠政は幼少より人質として江戸にあり、将軍秀忠の上洛に供奉するなどの経歴を有した。慶長14年(1609)2月18日に吉政が亡くなったとき、吉興は吉政の不興をかっていたので、忠政が兄吉興らをさしおいて家督をついでいる。

田中家の断絶

 慶長14年6月4日、徳川秀忠は忠政の家督相続を認めている。そして、吉政の妻妙寿院は忠政の襲封を見届けて、慶長19年(1614)2月15日に亡くなったらしい。忠政はこのとき「三川村西之道場」(長浜市三川町還来寺)に打敷を寄進している。

還来寺短冊散花文様打敷短冊散花文様打敷

 ところが、その直後、忠政は慶長20年(1615)の大坂夏の陣に遅参した。また家中で争論がおこり混乱した。その原因については忠政と吉興とがことのほか仲が悪く(筑後之国柳川にて世間とりさた申す事)、吉興が忠政の大坂方内通を幕府に訴えるといった説もあるほどである。そうしたなか、忠政が元和6年(1620)8月7日に36才の若さで病死。跡目の嫡子がなく、これによって吉政が一代で築き上げた32万5000石の田中家は断絶することとなった。吉政も妙寿院もこのことを知らずに、この世を去ったことがせめてもの幸いであろうか。

三川城跡とされる付近

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、心のふるさと三川、信長公記、淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

   本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!

 平成28年1月10日『城歩会』歩き初め 新春ウォーキング。 
先導 宮本優子事務局 講師現地解説 長谷川博美氏