城郭探訪

yamaziro

家田城 近江国(志賀)

2016年06月01日 | 丘陵城

「滋賀県中世城郭分布調査報告にも掲載されていない城」

家田城

 
お城のデータ
所在地:大津市(旧滋賀郡志賀町)真野家田町   map:http://yahoo.jp/vnhMsI
現 状:山林(近宮神社)
区 分:丘陵城
築城期:
築城者:
遺 構:土塁・虎口・曲廓
標 高:126m    比高差:27m
目標地:近宮神社・家田自治会館
駐車場:家田自治会館前1台駐車可
訪城日:2016.5.28
お城の概要
 大津市の家田集落の背後の丘陵に位置するが、 築城時期・築城者などは詳細不明。
琵琶湖西縦貫道路(161バイパス)の真野出口近くに位置し、途中越え・西近江路の街道を監視する役目があったものと推測される。真野地区は、琵琶湖に大きく張り出した地形と真野川の琵琶湖に流込む。
 現在、城域には近宮神社が建つが、鎮守の森の林が伐採されて、土塁と曲廓・虎口が確認出来る。
      (・・が、伐採さてた木が放置されいるのが残念だ)
神社の東側に土塁に囲まれた15m方形の郭が南・北に土塁囲み遺構が二つ設けられ、東は自然の地形の切岸状ある。南廓には、虎口の確認出来る。北廓の北側には平坦地があり広く三方が切り立った切岸で急斜面である。
お城の歴史
城域からは堅田の平野部と琵琶湖を一望することができる。堅田衆もしくは真野氏の詰城の可能性が考えられる。

真野から堅田にかけては琵琶湖の最狭部で、琵琶湖を北湖と南湖に分ける。「真野の入江」と呼ばれ、歌枕として知られた。

うづらなく真野の入江の浜風に尾花波よる秋の夕暮れ(源俊頼、金葉和歌集巻3)

[正院坊](家田地区の伝承)
比叡山の三千坊の一つに正院坊と呼ぶ寺があった。今はないが家田にあったといいます。そのあとは藪や田畑になっていますが、地名に残っています。例えば堂の上、堂の前、庵の下、中の堂などです。地名から推定すると、本堂と左右の堂、それに一つの寺院の様子がわかります。かなり大きな本堂です。今の若宮神社の付近一帯です。跡のよくわかる瓦や石探していますが見つかりません。

[家田という名](家田地区の伝承)
昔、家田は南庄に属していた。南庄の東、今の家田のあたりは田畑があっただけである。南庄からこのあたりまで農耕に来るのが遠いため、田のために家をつくろう、すなわち田の家、つまり家田の地名が起こったのである。だから家田の神は南庄の神と同じで、源融を祀っている。融神社がそれである。源融は近江の国司で、特にこの地を愛され、よい政治をされたという。村人は融侯によく従い農に励んだという。はじめに移り住んだのは八軒で、今は倍の十八軒で小さなである、つい最近まで南庄の山野の草刈りは許されていたし、今も南庄の祭りにはおこわをいただいて食べるという風習が残っている。

  
近宮神社参道  以前の「近宮神社
現在の近宮神社本殿 
神社西側の土塁                    
虎口 

 

 

   

   

 

 

 

参道家田自治会館前に駐車可

参考資料:遺跡ウォーカー、さくろぐ(城郭レポート)
本日の訪問ありがとうございす!!
 

森西城 近江国(マキノ)

2016年06月01日 | 居城

森西城

 

お城のデータ
所在地:高島市(旧:高島郡)マキノ町森西   map:http://yahoo.jp/czzAov
現 状:畑地+宅地
区 分:平城
築城期:鎌倉期
築城者:田家氏
遺 構:土塁
目標地:大處(おおところ)神社・極楽寺
駐車場:大處神社の鳥居前の広場に駐車
訪城日:2016.5.28
お城の概要
生来川上流のにある大字森西に城跡遺構の土塁が残る。
山城から居城への道は大處神社の北脇を通り、付近にはいくつかの竹藪があった。現在も大處神社の鳥居の北東方向の小字出雲の薬師堂の裏手に土塁が残る。この薬師堂本尊は沢村の常楽寺から当地の極楽寺に移されとも。森西山中にあった安楽寺の本尊とも伝わる。
大處神社の神主峰森氏が代々出雲守を称したいうには興味深い。
また、当地を古代北陸道が通ったところらしく、同社の摂社酒波神社を天正3年に再建した大施主は田屋吉頼で、他に田屋淡路守重頼、田屋山城守元頼の名が見える。
 明治期の「海津之城私考」は、「其ノ後多屋淡路守世々之ヲ兼守ス、天正ノ比、織田信澄廃城ト為ス」と考察しており、長法寺城と森西城が田屋重頼の持城で、天正6年から同10年に高島郡を領した織田信澄がこれを廃城にした。  
 しかし、賤ヶ岳の合戦時に羽柴秀吉の命で丹羽長秀が地内・沢村・森安の各城を修復し、地内浜に村上義明が入った。したがって、当城に丹羽長秀の被官(家臣)が入城した。天正11年は、加藤光康が高島郡を領し、当城のその後は不詳。

お城の歴史

大字森中(残存土塁の斜め向かい)の大處神社は、元大處庄の総社神で、大處神社所蔵の応永9年の奥書がある大般若経に「当社前下司左金吾清原行長沙弥審翁義評」とある。また、天文4年銘の同社棟札にも「田屋清原頼秀、時之奉仕金有生年八十四才」とみえ、大處庄下司清原一族の居館が想定できる。清原氏と田屋清原氏、幕臣の海津衆田屋氏の一族が同家であったかは不詳だが、沢村に田屋氏の居城があり、森西の山中に田屋氏の山城(田屋城)あったとするため、山城と居城の中間にある森西に田屋一族、又はその被官(家臣)が、居を構えていたか?

  

西方山極楽寺

 浄土宗鎮西派黒谷金戒光明寺の末寺にて、宝徳元年の創立なるを以て初め宝徳山と称えたり。後、延徳三年四月本山より山号を西方山と改称せらる。
 天正六寅年本堂を再建し、又安永四年五月再建し、現在の建物即ち是なり。 鐘堂は享保二年七月再建す。梵鐘は享保四年七月二十五日鋳造す。

 

生来川の右岸、古墳群の存在する山裾に鎮座する。

拝殿の奥、右側が本社であり、左側には式内日置神社の論社、酒波神社の本殿がある。由緒によると高島郡十郷の一つ、高島大處(おおところ)郷の惣社であったとされる。

滋賀県マキノ町(現高島市)にある。森西に鎮座、境内入口は東向きにあり、林の奥へ続く参道を歩き橋を渡ると境内がある。

境内中央に拝殿。その後方には、同サイズ・同形式の二棟の社殿。右が本社・大處神社で、左は境内社・酒波神社。 

   

 参考資料:滋賀県中世城郭分布8(高島の城)、遺跡ウォーカー
本日の訪問ありがとうございす!!