城郭探訪

yamaziro

北野館     近江国(浅井)

2016年06月05日 | 平城

  

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:東浅井郡浅井町)北野町    map:http://yahoo.jp/Cw2PcE

現 状:寺院・神社

区 分:平城

築城期:

築城者:

遺 構:来生寺・官公の宮・北野砦

目標地:北野公会堂

駐車場:北野公会堂の駐車場

訪城日:2016.6.3

お城の概要・歴史

浅井町田根地区北部に位置する北野集落で、西に小谷山大嶽(おおづく)から伸びる枝状尾根がそびえている。ほの尾根には、北野砦が、切通しを挟んで南北に二ヶ所残存する。

南砦の東側に北野集落中程に北野館位置する。

 この地出身の比叡山の高僧で菅原道真と親交のあった相応和尚が、道真が没した時、同字に宮を建て、道真の形見の鏡と道真自身が刻んだ自身像を祀るとともに、神社境内に寺を建立したと伝わっている。
この「菅公の宮」と「来生寺一画」とその四囲を取り巻く巾20mの低地帯を含め方形の館跡とされている。

 また、南東角は虎口と考えられる枡形、現状からは城郭遺構とか?。

来生寺縁起によると、この地の生誕の相応和尚は、比叡山の高僧で、菅原道真とも親交が深かったと言われている相応和尚だが、その事実を証するかのように、本堂に向かって右手にある小さな祠の中に「道真自らが彫ったと伝わる道真像が、本堂から少し離れたもう一つの祠には鏡が、納められている。」DSCN7739DSCN7742普段は扉が閉じられているが、一日回峰行の日だけは、参加者が見られるように扉が開放されていた。・・・・・須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)より

相応和尚〈そうおうかしょう〉
 平安時代、比叡山の数ある修行の中でも命がけの「千日回峰行」を始め、最初に成し遂げた高僧として知られていて、天長10年(833)浅井長政の居城があった小谷山の東の山裾、今の長浜市(旧浅井町)北野町に生まれ、十五歳で比叡山延暦寺に入山し、開祖・最澄の教えを全うしょうと決意し「学問の裏には行が、行の裏には学問の裏打ちが必要」と修行に励みました。

そして、宗教界で最も厳しいと言われる荒行「千日回峰行」を創案し実行しました。これは、毎日40粁も比叡の山中を巡拝して歩き、しかも7年、延べ千日間続けます。  その間には9日間、飲まず食わず、寝ずで、不動明王に祈りを捧げる"堂入り"という行を、回峰行者の根本道場、無動寺明王堂で行なうもので、比叡山の法灯と共に今も引き継がれています。

 和尚の友人の中に、時の右大臣菅原道真が九州大宰府に流された時、形見として小さな自像と一面の鏡を和尚に託しました。
 その後2年余りで道真は病死、和尚は形見の二品を郷里の北野の地で祀ったのが神社・寺の始まりと伝えられています。

なお、集落西側の尾根先には、北野砦が構えられている。また、集落の北には、北野スミ櫓城(砦)を構える

来生寺

  

   

官公の宮

   

滋賀県中世城郭分布調査7(1990.3)(伊香郡・東浅井郡の城)より

北野公会堂に駐車

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査7(1990.3)(伊香郡・東浅井郡の城)・須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)

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 黒部砦   近江国(浅井)

2016年06月05日 | 

 

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:東浅井郡浅井町)黒部町/竜安寺町    map:http://yahoo.jp/tWfUHu

現 状:山林

区 分:砦

築城期:

築城者:

遺 構:郭・堀・土橋・堀切・竪堀 

標 高:165m 比高差:40m
目標地:黒部児童公園に駐車・明正池前に路上駐車

訪城日:2016.6.4

お城の概要

Ⅽ・Ⅾ・Eは西の竜安寺城の遺構を考えられる(特にⅭについては、古墳と思われる高まり(比高1.5m)に平削を加え小廓を形成するとともに、背後の堀切の中程に低い土橋を設け、次のⅮ廓へと継ぐ。Ⅾ廓の背後には、E廓が存在するが、切岸は上方へ行くと地山の溶け込む。この遺構は西側の竜安寺集落には、「竜安寺城」が知られている
・Fについては、竪掘(堀切)土橋を伴なったもので、低削平地が存在するが、先端には「見張り台のような小郭二つ」とその背後に堀切と土橋が存在し、詰め城のを兼ねていたか。更に登ると郭を三つ配し、堀切を持つ遺構があるⅭ・Ⅾ・Eは西の竜安寺城の遺構を考えられるが、黒部館の共用していたとも考えられる。

お城の歴史

築城期、築城者は詳細不明、土豪の城郭遺構。 
『佐々木南北諸氏帳』には、「浅井郡 龍安寺    」姓名は不明ながらも、土豪の居住が記されいる。

 地元の古老”谷氏”に話では、浅井氏家臣の関谷八郎左衛門が姉川の合戦後に隠れ住、難を逃れ、後に帰農したが、この関谷氏氏屋敷がAの遺構という、この関谷氏末裔が、以前は集落五戸内の四戸が「谷姓」で「関」を外して「谷」姓で居住していたようだが、今は一戸(H氏のみ)で、谷家は無い。

黒部集落の西の山城へ

  
 登り口        集落(黒部館)の西側の尾根上
   堀切?竪堀?          
  
e Fは、背後の尾根から堀切・竪堀(土橋はあるが)で遮断。 
C・Ⅾ・E遺構へ
八幡神社への参道

八幡神社遺構    

明正池の東側から尾根城(詰め城)へ     

尾根城遺構                    

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査7(伊香郡・東浅井郡の城)

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黒部館     近江国(浅井)

2016年06月05日 | 居館

黒部館

 

お城のデータ
所在地:長浜市(旧:東浅井郡浅井町)黒部町    map:http://yahoo.jp/BhiBfI
現 状:神社・山林・宅地
区 分:居館
築城期:
築城者:
遺 構:郭・堀・土橋 
目標地:黒部公会堂・大己来神社
駐車場:黒部公会堂に駐車、又は児童公園に駐車
訪城日:2016.5.14・2016.6.3
お城の概要
 浅井町田根地区北東部に位置する大字黒部は、三方が山に囲まれた馬蹄地形の微高地。
  現在は、住居区は継っているが、大己来神社参道を境として、およそ東西2地区に分かれる。
大己来神社の背後も林の中に山麓館跡が残存する。
・東地区はゆるやかな平坦地に近い地形で、背後は畑地と林となっているが、この境に大規模な土塁が残る。
西地区は、aとbが最高所でabを含むA区画は切岸」と道路によりB区画と区分されている。
・A区画は、西と北は山により囲まれる防御の形状。
・B区画は、A区画の全面に控え、南下に水路、西と北は山で守られている。特に防御施設持ったA・B地区が黒田館。
・黒部館の西の、舌状尾根の2ヶ所の平削地と共に、土橋・横堀・竪堀・曲廓が残存する。
・Ⅽ・Ⅾ・Eは西の竜安寺城の遺構を考えられる(特にⅭについては、古墳と思われる高まり(比高1.5m)に平削を加え小廓を形成するとともに、背後の堀切の中程に低い土橋を設け、次のⅮ廓へと継ぐ。Ⅾ廓の背後には、E廓が存在するが、切岸は上方へ行くと地山の溶け込む。この遺構は西側の竜安寺集落には、「竜安寺城」が知られている

・Fについては、竪掘(堀切)土橋を伴なったもので、低削平地が存在するが、先端には「見張り台のような小郭二つ」とその背後に堀切と土橋が存在し、詰め城のを兼ねていたか。更に登ると郭を三つ配し、堀切を持つ遺構があるⅭ・Ⅾ・Eは西の竜安寺城の遺構を考えられるが、黒部館の共用していたとも考えられる。
お城の歴史
黒田館の歴史は不詳。
大己来神社の由緒
 口伝に、武蔵国足利郡大宮より勧請したという。永禄十一年足利義昭越前から尾張へ向う途中の鷹狩の際参拝し定紋付の什物を寄進したので足利氏の紋を神紋としている。

黒部館へ
        

東側の大己来神社の背後も林の中に山麓館跡が残存する。
         
大己来神社の背後も林の中に山麓館跡が残存する                
東地区はゆるやかな平坦地に近い地形で、背後は畑地と林となっている。
この境に大規模な土塁が残る。    
西地区は、aとbが最高所でabを含むA区画は切岸」と道路によりB区画と区分されている。・A区画は、東と南が切岸により遮断され、西と北は山により囲まれる防御の形状。

西の山城(詰め城?見張り廓)へ
  
 登り口        集落(黒部館)の西側の尾根上
   堀切?竪堀?          
  
 Fは、背後の尾根から堀切・竪堀(土橋はあるが)で遮断。

 

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査7(伊香郡・東浅井郡の城)、遺跡ウォーカー

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