城郭探訪

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寺村氏    近江国(蒲生)

2016年06月08日 | 郷土の偉人

寺村氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 
寺村氏
家紋
丸に隅立て四つ目結
本姓 宇多源氏佐々木氏流
種別 武家
出身地 近江国蒲生郡寺村
主な根拠地

近江国

土佐国

著名な人物

寺村小八郎

寺村半左衛門

寺村重友

寺村道成

 

寺村(てらむら)氏は、日本の氏族。

概要

宇多源氏佐々木氏の庶流。家紋は佐々木氏の代表家紋である「平四つ目結」から派生した「丸に角立四ツ目結」などを使用。

近江国蒲生寺村の領主であったことから寺村の姓を名乗るようになり、室町時代には近江国の守護大名となった六角氏に仕えた。六角氏の家臣の多くは国人領主]であり、被官化されていたとはいえ独立性が高かった。

1563年(永禄6年)に六角氏の御家騒動(観音寺騒動)が起こると、六角氏本家だけではなく、南近江の国人連合の結束と勢力の衰退につながり、さらに六角氏が観音寺城の戦いで織田信長の上洛軍に敗れると、寺村氏一族は、浅井長政に仕える者、羽柴秀吉に仕える者、山内一豊に仕える者、蒲生氏郷に仕える者、蒲生郡小野村に居住する者などに分かれた。

近江寺村氏

寺村小八郎は、浅井長政に仕え、1570年に姉川の戦いに従軍し、以後1573年まで4年にわたり小谷城に詰めた。最後まで浅井家への忠誠を変えない者達に長政は感状を与えたが、有名なのが寺村小八郎に与えたもので、「ここ4、5年骨身惜しまぬお働き忠節これに勝るもの無く、ことに今度の籠城は誠に神妙に存じ候。愈々この上ともご奔走が大切、心底より望むところ確かりと申し付け候」がある。

寺村盛久(寺村半左衛門)は、蒲生氏郷に仕え、天正年間には近江寺村城に居城した。 蒲生氏郷の伊勢、会津への移封に従い、葛西大崎一揆の平定にあたっては、氏郷本隊の三段目を任された。

寺村家の枝連衆であった寺村重友は、当初は羽柴秀吉に仕え、その後、秀吉よりお預けの形で寄騎衆として山内一豊に仕えた。

天正年間に近江長浜城主となった山内一豊に召し抱えられて臣となり、山内一豊の移封に従い、遠江国(静岡県)掛川を経て、土佐国(高知県)に移り、初代土佐寺村氏となった。

本陣寺村氏(近江)

六角氏の滅亡後に、寺村行隆と、その子寺村規行は病身であることから武士を捨てて小野村に移り、本陣役を務めるようになった。寺村規行には2人の兄弟があり、共に長浜城主であった山内一豊に仕え、のちに土佐へ入った。 佐和山城の落城後は小野宿は廃止され、1603年(慶長8年)、中山道の整備に伴って小野村から鳥居本に宿場が移った時、小野宿で本陣役を務めていた寺村荘兵衛は鳥居本に移り、引き続き鳥居本宿でも本陣役を務めた。寺村規行から数えて10代目の寺村義貴の時に、本陣は廃止となった。

本陣寺村の家紋は「五段梯子(はしご)」であるが、『綱要日本紋章学』(昭和52年)によれば、「土佐山内氏家臣寺村氏が、梯子を用ひて天正十八年山中城に乗り込んだ武功を紀念するために用ひた」のが梯子紋の歴史上の登場とされている。

土佐寺村氏

当初は羽柴秀吉に仕え、秀吉よりお預けの形で山内一豊に仕えた寺村重友は、天正年間に近江長浜城主となった山内一豊に召し抱えられて臣となった。山内氏の遠江国掛川入封時は家老職400石、土佐国入封時は中老格4400石を給され、初代土佐寺村氏となった

二代目の寺村淡路重次は3200石、三代目の寺村守善重昌は山内可氏の三女を妻に迎えた。

また、四代目の寺村淡路重信は、山内可氏の子である山内定氏の長女を妻に迎えた。

幕末には、寺村成相(中老格700石)の三男寺村道茂(左膳)は参政として藩政の中枢にあった。薩長に近づきたい土佐藩は、ついに1867年(慶応3年)の6月に京都の三本木の料亭吉田屋において土佐藩と薩摩藩の首脳会談をもった。土佐からは後藤象二郎・寺村道茂、薩摩からは小松清錬・西郷吉之助(西郷隆盛)・大久保利通、仲介人として坂本龍馬・中岡慎太郎が参加し、薩土盟約を締結した。盟約破綻後も大政奉還路線を進め、主君山内容道ほか4名(後藤象二郎・寺村道茂・福岡考弟・神山左多衛)の連名で大政奉還建白書を提出した。幕末の政治活動を記した『寺村左膳手記』『寺村左膳道成日記』は、幕末の土佐藩の中心にいた人物の記録として貴重な史料である。

維新後、土佐寺村氏の多くは「日野」と改名し、家紋は「鶴に丸」を使用した。姓や家紋を改めた理由は不詳であるが、公家の日野家との古くからの関係から「日野」と「鶴に丸」を使用したようである。高知県立図書館の山内家宝物資料館所蔵『侍中先祖書系図牒』の系図には、「寺村」という箇所に「日野」と改めた紙が貼ってあり、家紋は「鶴二蝶梯子」とある。寺村道成は日野春草(春章)と改名したが、祐天寺(東京都目黒区)の日野春草の墓には「五段梯子」の家紋が刻まれている。

寺村道成の次の当主である日野茂義(軍馬)は板垣退助の姉である勝子を妻に迎え、勝子は日野成文(次郎三)や山田兵左衛門の妻となった信(のぶ)を生んだ。

寺村氏と「日野」の接点

  • 鶴紋を使う蒲生氏と関係があるとする説。近江国蒲生郡には日野町という場所があり、蒲生貞秀(氏郷の祖父)が1533年(天文2年)から3年程かけて日野城を築城した。
  • 「鶴に丸」紋を使う公家の日野家と関係があるとする説。本願寺第三世である本願寺殻に覚如の父覚恵は、日野広綱と親鸞の末娘覚信尼との間の実子である。浄土真宗の宗祖である親鸞は日野有範の息子であるため本願寺]は日野家である。
  • 本願寺第十一世で本願寺顕如は、1557年(弘治3年)4月17日、宇多源氏佐々木氏嫡流である六角定頼の猶子の徐春尼と結婚した。
  • 土佐寺村氏の初代寺村重友が日野家の流れを汲んでいたとの説があるが不詳である。
  • 近江寺村城に居城した寺村盛久の草堂から始まった得照寺は、親鸞を宗祖とする浄土真宗本願寺派である。
  • 日野唯心は、徳川家康側近の僧侶として仕え、以心崇伝、天海に次ぐ地位にあり、近江国蒲生郡に1,030石余の所領をもった。唯心の次代で、日野家は朝廷に仕える堂上家と、幕府に仕える高家に分かれた。

山副氏館(山副館)     近江国(竜王)

2016年06月08日 | 居館

山副氏館/山副館

 
お城のデータ
所在地:蒲生郡竜王町薬師     map:http://yahoo.jp/K28Y7
別称:山副館
現 状:宅地・竹林
区 分:居館
築城期:織豊期?
築城者:山添氏
遺 構:背後の竹藪に平削地
目標地:竜王町薬師集落の、祖父川の左岸の山添い
駐車場:空き地に路上駐車
訪城日:2016.5.22
お城の概要
 竜王町薬師集落の、祖父川の左岸に位置し、屋敷に西の山中にも削平地(竹藪)が残る、西背後山に三方に二重の堀と土塁を巡らしいたというが、今は宅地化が進み、何も残っていない。
お城の歴史
 竜王町薬師の山副家は、信長の近江入国以前は山添氏を名乗った土豪で、近世には、大庄屋を務めていたいう。
            祖父川(右岸から西)・・・集落の山副氏館の遠景 

   
参考資料:滋賀県中世城郭分布1、4(旧蒲生・神崎郡の城)(1986.3)、遺跡ウォーカー
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加田七殿屋敷(加田館・七殿屋敷)      近江国(長浜)

2016年06月08日 | 館跡

加田七殿屋敷/加田館/七殿屋敷

 甚兵衛屋敷の堀(神田公民館前)
お城のデータ
別 称:加田館/七殿屋敷
所在地:長浜市加田町    map: http://yahoo.jp/ObSIo3
現 状:加田集落
区 分:居館
築城期:
築城者:
遺 構:堀・
目標地:神田公民館
駐車場:神田公民館駐車場
訪城日:2016.6.3.
お城の概要
 加田一族七人の屋敷跡。地元では「ななとのさん」よんでいる。加田氏の菩提寺「興善寺」の南側の位置する。
お城の歴史
 加田氏に初見は「政所腑銘引付」」の文明年間の記事で京極氏の被官加田九郎兵庫尉の名は見える。がその後の動向は不明。「垣見文書」に見える天文13年(1544)の加田口合戦は京極高広が浅井氏側の加田氏の館を攻めものと考えられている。
 加田七殿とは、加田孫左衛門、加田九郎左衛門、加田権左衛門、加田甚兵平、加田右近右衛門、加田新八、加田重右衛門の七人。
また、『佐々木南北諸氏帳』は「坂田郡 加田 住 佐々木浅井隋兵 加田源八郎・同 佐々木隋兵伊藤末 加田九郎左衛門・同 加田権左衛門・同 加田甚兵衛・同 佐々木浅井隋兵 加田右近右衛門・同 加田新八・同  右加田七家 加田重右衛門と「右加田七家」と記している。
また『佐々木南北諸氏帳』の「坂田郡 加田 伊賀角兵衛・加田 浅井隋兵 北川東右衛門を記す。 この二名は詳細不詳。
 
             
菩提寺の與善寺
     
         
立派な屋敷の中に土塁が残る。
  ブロック塀の中に土塁
             神田公民館に駐車
 
加田七屋敷の詰め城か?(八幡神社・神田山)
                       
八幡神社本殿の南側の平削地・土塁が残存する。              
 参考資料:滋賀県中世城郭分布6(1989.3)(旧坂田郡の城)、『日本城郭大系』11、遺跡ウォーカー
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