城郭探訪

yamaziro

口分田(くぶた)古殿城  近江国(長浜)

2016年06月06日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市十里町    map:http://yahoo.jp/yUi_P7

現 状:田地・道路

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:口分田氏?・加藤氏?

遺 構:不明

目標地:JH長浜IC

駐車場:近くに路上駐車

訪城日:2016.2.11

お城の概要

 大井川南方にあたる、口分田集落は現在北陸自動車道長浜インターチェンジの入り口付近に位置し、南は山際町・東榎木町との境界をなす。口分田氏か加藤氏関連の屋敷跡と思われるが、詳しくはわからない。なお、古殿町の南の山際町に「上古殿町」「下古殿町」の小字名が残る

「口分田」という文字は、古代土地制度の「口分田」に由来するとされる。「口分田」は律令制の班田制の田種を示す用語。

お城の歴史

『江州佐々木南北諸国帳』には、「坂田郡 十里 住 十里弥介・ 同 住 与力 石崎源吉 ・同 住佐々木浅井隋兵士族 野村弥八郎」と記す。

   

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査6(旧坂田郡の城)、佐々木南北諸氏帳

 本日の訪問ありがとうございす!!


口分田(くぶた)城ノ根城(口分田氏館)  近江国(長浜)

2016年06月06日 | 居館

お城のデータ

所在地:長浜市口分田町    map:http://yahoo.jp/hVbIuC

別 称:口分田氏館

現 状:宅地

区 分:居館

築城期:室町期

築城者:口分田氏

遺 構:堀痕(用水路)、口分田氏の氏神天満宮

目標地:口分田会館・口分田郵便局・天満宮

駐車場:口分田天満宮近くに路上駐車

訪城日:2016.6.3

 

 口分田氏館比定地(遺跡ウォーカー)

口分田会館の裏(北東側)が、比定地

お城の概要

口分田氏館は、口分田地区にある長浜口分田簡易郵便局の北側にある口分田会館から北側の住宅地一帯に築かれていた。 集落の天満宮は、口分田氏の氏神を祀ると伝えられている。

「口分田」という文字は、古代土地制度の「口分田」に由来するとされる。「口分田」は律令制の班田制の田種を示す用語。 

お城の歴史

『江州佐条南北諸国帳』には、「坂田郡 口分田 住 佐々木浅井隋兵 口分田彦右衛門」という土豪の存在を記す。

『近江国木間攫』には、「坂田郡 口分田村 往古此所ニ口分田彦七ト云武士アリ、代々京極家ノ卒將ニテ武功ニ家ナリ、浅井家権ヲ奪シ後蟄居セリ、三代記ニ不見、」と記す。

口分田氏館は、築城年代は定かでないが口分田氏によって築かれた。 口分田氏は、新田氏の末裔と伝えられ、佐々木南北諸士帳に口分田彦右衛門の名が見える。

浅井三代記 巻三

亮政を見つかんとて浅井新六郎、中島加助、伊部助七郎、丁野弥助、田部助八、尾山彦右衛門尉、彼等六人其勢二百、上坂の城 .... 上坂掃部頭、口分田彦七郎、両人の者 ども鑓を横たへ、きたなき味方の者共かな敵を味方に合すれば十分一もなきに、取てか  ...

    

     

天満宮

               

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査6(旧坂田郡の城)、佐々木南北諸氏帳。淡海国木間攫、遺跡ウォーカー

 本日の訪問ありがとうございす!!


北野スミ櫓城(砦)   近江国(浅井)

2016年06月06日 | 

お城のデータ

所在地:長浜市(旧:東浅井郡浅井町)北野町    map:http://yahoo.jp/7xUB40

現 状:寺院・神社

区 分:山城(砦)

築城期:永正(1504~1521)~天文(1532~1555)年間

築城者:浅井氏

遺 構:堀切・A・B・Ⅽ・Ⅾ・E・F・H

標 高:C部258m 比高差:100m

目標地:北野町墓地

駐車場:北野町墓地の駐車場

訪城日:2016.6.3

お城の概要・歴史

 浅井町田根地区北部に位置する北野集落で、西に小谷山大嶽(おおづく)から伸びる枝状尾根がそびえている。その尾根には、北野砦が切通しを挟んで南北に二ヶ所残存する。南砦の東側に北野集落中程に北野館位置する。北砦は小谷山大嶽(おおづく)方面の258mを頂部に、小谷城の東側を守備する。

 獣害ヘンス内へ、墓地の手前に「立志坂」を登ると鞍部に巾5m・深さ3mの堀切(切り通し)がある。堀切から「立志坂」を北に取ると尾根上にA・古墳に手を加えたH・B、頂部域にはC・Ⅾ・Eの遺構も古墳の改良利用し、浅い堀切ある。Cの枝尾根先にFと遺構が残存するが、頂部遺構以外は、雑木で遺構の確認無理(6月だからか?)

 この立地から、小谷城の東の平野部(田根地区)には、田根城・瓜生館・北野館・竜安寺城・木屋城・大依山城等が点在する。小谷城の外廓を形成している。

C・D・F遺構は小字”火屋脇”と称し、火屋は狼煙・松明の通信手段に。

Eは通称”スミヤグラ”と呼ばれ、周見櫓(物見櫓)として築城。

お城の歴史

詳細不詳だが、

『浅井三代記』によると、小谷城は「十日計ヵ間ニハヤ掘土手総講出来スレバ」

大依山砦と小谷城との、南側の北野砦と共に繋ぎ砦であったようだ。

 天正元(1573)年に織田信長の攻撃により小谷城が落城した際に、浅井長政の妻であったお市の方と三人の姫たちが城から落ち延びたと思われるルートをちょうど反対に辿り、小谷城祉まで登り行くコースである。

 小谷城の城下町や城の正面にあたる追手道、それに平時における長政や家臣団の屋敷が建ち並ぶ清水(きよみず)谷など、いわゆる城の表側はすでに信長軍によって占領されており、「お市の方らが落ちていくとすれば、城の搦め手にあたる月所丸からであったろう」というのが大方の推量である。もちろん、脱出ルートに関する正確な文献は残されていない。

     遺構A 堀切(切り通し)    遺構H

 小谷山      頂部手前   hC砦頂部標高258m小堀切     

戻ります。

遺構Fへ           小谷山        堀切=切通し(池野村から北野村)「こじき坂」・・・説明板には、「浅井の侍女たちはは三姉妹の身分をかくす為、池野町(村)の民家で古い野良着に着替させて北野町(村)に降りた、もの山道を「こじき坂」と呼ばれている。

 「五先賢の館から、すぐの田んぼの中にある小さな四輪塔である。元々五輪塔であったものだが、一つ失われて四輪塔となっている。

 祀られている四輪塔は、お市の方と三人の姫たちが小谷城から落ち延びていく際に、乳飲み子であった三女のお江を抱いて逃げた浅井家の侍女の墓であると地元では言い伝え。 

 DSCN5337DSCN5336 城の南東にある実宰院という寺院まで無事に姫たちを送り届けた侍女は、すでに小谷城が落城して城に戻ることができず、この地で浅井家の菩提を弔い続けたのだという。その侍女の墓と伝えられているのが、この四輪塔である。落城にまつわる悲話。・・・・・須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)より」

北野砦へ  は次回

   北野集落の北の山麓に墓地ある、ここに駐車して、堀切=切り通しから南の北野砦・北の北野スミ櫓城(砦)へ 

 北野スミ櫓城(砦)・・・遠景

北野砦遠景 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査7(1990.3)(伊香郡・東浅井郡の城)・須賀谷温泉のブログ(一日回峰行同行記)

 本日の訪問ありがとうございす!!