城郭探訪

yamaziro

菅山寺 近江国(余呉) 

2013年09月17日 | 探訪「大地の遺産」

     山上の駐車位置(大きなスペースあり)

この先は土砂崩れ通行不可土砂崩れ現場 

山上駐車場の説明板(管山寺城の説明はありません)   

近江名所図会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 近江名所図会(おうみめいしょずえ)は、江戸時代に近江国を紹介した案内記(ガイドブック)である。

1815年(文化12年)の刊行。秦石田と秋里籬島が編集、蔀関月と西村中和が画を担当したとされているが、実際は、『木曽路名所図会』『伊勢参宮名所図会』『二十四輩順拝図会』から近江関係の記事を抜粋してまとめたもの。全4巻。別名として「琵琶湖勝概全覧図会」とある。

当時の習俗・風俗が詳細されており、民俗学・歴史地理学の格好の資料である。

             

さて・・・これから向かう管山寺だが・・・。

『管山寺』

山号は大箕山。
近江湖北二十七名刹巡礼第一番札所。
管山寺は当初、龍頭山大箕寺と呼ばれ、天平宝字8年(764年)に照檀上人が孝謙天皇の勅命を受けて建立されたと伝わる。当時は法相宗だったが、のちに真言宗となり今に至っている(真言宗豊山派)。
その後、菅原道真により中興した。道真公は余呉湖辺の川並村に生まれ、6歳から11歳まで本寺で勉学し、寛平元年(889年)から3院49坊の寺院に復興、名も管公の一字を採り大箕山管山寺と改められたと伝えられている。藤原時代から鎌倉時代に最も栄え、僧房105末寺70余の極めて大きな寺であった。

管山寺に現存する建物は全て江戸時代の建造物である。現存の本堂は元禄5年(1692年)の建立。天正10年(1582年)の大地震、賤ヶ岳の戦い等で大破したが、一山の衆徒の手厚い志により再建された。

明治以降は衰退し、現在まで無住となっているが、大正元年(1912)に保勝会が組織され、残る堂宇の改修と保存がなされている。

宝物は・官山寺 弘善館(里坊)

石仏がお出迎え。首から上は殆どない?

  

 

管公お手植えの檜

    

 大箕(だいき)山中にある、真言宗豊山派の古刹。奈良時代、孝謙天皇の勅を受けた照檀上人が開山、龍頭大箕寺と称し、平安前期に菅原道真が宇多天皇の勅使として入山、3院49坊を建てて大箕山菅山寺と改名しました。

 江戸時代になって徳川家康の強い要望により、鎌倉の中期に専暁上人が唐から持ち帰った教典約7000巻(国宝)のうち、5714巻を芝の増上寺に譲ったことから、徳川幕府から50石の寺領が与えられました。

 明治以降は衰退し無住となったが、大正元年(1912)に保勝会が組織され、残る堂宇の改修と保存がなされています。山門の左右には、菅原道真御手植えと伝えられる樹齢千三00年の欅がそびえ、ヒシの自生する池やブナの原生林などの自然に固まれています。鬱蒼と茂る樹林の間に本堂、護摩堂、経堂、鐘楼などが建ち並び、鎌倉中期の作銘を持つ銅鐘は大正15年(1926)国の重要文化財に指定されています。他にも、本尊の不動明王や十一面観音、木造の狛犬、石灯籠など寺宝は多くあります。

                     

                        

この寺の伝承では、天女が産んだ男子を寺で養育していましたが、それが菅原道真その人であるといい、境内の近江天満宮には、道真の自作と伝わる像が祀られています。

  

   

車で・・・唯一のビューポイント 

 赤子山スキー場のリフトの最上部!

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


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