お城のテータ
所在地:滋賀県野洲市乙窪 (旧野洲群中主町乙窪) map: http://yahoo.jp/a9x-ha
区 分:平城
遺 構:土塁、空堀、郭
築城者:井口氏
現 状:竹林
目標地:法性寺・・・・
近くに佛性寺。かつては七堂伽藍をもつ大規模なお寺でしたが、織田信長の兵火により、その多くの建物を失った、
平安時代後期に製作され、災厄をまぬがれた木像阿弥陀如来坐像。
駐車場:参拝者用
訪城日:2014.6.7
空堀土塁郭内は破竹で、確認不可集落南西部端の法性寺の向かい側の藪地に土塁が残る。
法性寺
お城の概要
信長と六角承禎親子との「落窪合戦」の関連の城
落窪城は、乙窪の地の小字矢倉下付近にあったとの伝承であるが、現在では錦の里という住宅地と化している。
小字「矢倉ヶ下」に、土塁・空堀が残る。集落内の竹藪にも土塁状の高まりが残っていたようであるが未整備の為確認は出来なかった。
現在は宅地開発で様変わりしている。法性寺向かいの藪地に土塁が残る。
近くの佛性寺前
歴 史
信長公記 巻三 元亀元年 6、落窪合戦 落窪合戦の事
6月4日、六角承禎親子は江南の諸郡で一揆を扇動したうえ、みずからは軍勢を催して野洲川河岸に進出した。これに対し織田勢からは柴田勝家・佐久間信盛の軍が応戦に出た。柴田・佐久間の両勢は足軽を繰り出して敵を野洲川北岸まで引き寄せ、落窪の郷①で一戦に及んだ。
戦は織田勢が敵を完膚なきまで打ち崩し、三雲定持ほか伊賀・甲賀の屈強の侍七百八十余を討ち取って大勝をおさめた。この勝利により、江南はひとまず鎮静した。
①現滋賀県中主町乙窪
落窪合戦【現代訳】 6月4日、六角承禎親子は江南の諸郡で一揆を扇動したうえ、みずからは軍勢を催して野洲川河岸に進出した。これに対し織田勢からは柴田勝家・佐久間信盛の軍が応戦に出た。柴田・佐久間の両勢は足軽を繰り出して敵を野洲川北岸まで引き寄せ、落窪の郷①で一戦に及んだ。 戦は織田勢が敵を完膚なきまで打ち崩し、三雲定持ほか伊賀・甲賀の屈強の侍七百八十余を討ち取って大勝をおさめた。この勝利により、江南はひとまず鎮静した。 ①現滋賀県中主町乙窪
経緯
織田信長は朝倉義景征討の途上で浅井長政の離反に合い敗退(金ヶ崎の戦い)。体勢の立て直しを図り、宇佐山城に森可成、永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土城(安土山)に中川重政を配置したが、観音寺城の戦いで信長に追われ伊賀に逃げていた六角義賢・義治父子が甲賀武士達と糾合し、北進する。伊賀へ遁逃していく。六角義賢の遁逃によって、同年九月、信長は京都(市中)に入ることができたのである。
石部南小学校HPには、
京都に入った信長は、足利義昭の十五代将軍を実現するとともに、畿内の平定をもって統一権力の確立へと行動を起こしていった。そのうち近江との関係では、元亀元年(1570)の朝倉氏(義景)の征討であった。当時越前国金ヶ崎(敦賀市)にあった信長は、同国一乗谷(福井市)に居所をもつ朝倉義景を攻撃するものの、朝倉氏との旧縁を重視した浅井長政の支援の動きによって、信長は京都へ後退を余儀なくされたのである。
信長と浅井氏は姻戚の関係にあったとはいえ、朝倉義景支援の動きから、浅井氏の居城小谷城の攻撃へと信長の行動は変わっていく。
しかしながら、観音寺城から伊賀に遁逃していた江南の大名六角義賢が、伊賀武士と甲賀武士の糾合をもってその再興を準備し、信長に対立する江北の浅井長政とも結んで、豪族や小領主をして所々に一揆をおこさせて北進してきたため、信長の武将佐久間信盛(野洲永原城)・柴田勝家(長光寺城)などが、義賢と野洲川を挟んで対峙することとなった。 それが野洲河原の戦いでは、「三雲三郎左衛門父子、高野瀬、水原なんど伝宗徒の侍、並伊賀、甲賀究竟兵780余」が討ちとられる(『信長記』)など、六角方は大敗し、家門を誇った六角氏もその権勢を失ったのである。その野洲河原の戦いに続いて起きるのが、同年六月の姉川の合戦(東浅井郡浅井町)である。朝倉・浅井の連合軍と姉川を挟んでのこの戦いは、信長麾下の徳川家康の活躍によって、連合軍が大敗に終わり、近江国を支配してきた六角・浅井の両大名は、この野洲川・姉川の合戦で再起する力すら失ってしまったのであった。
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、信長公記、石部南小学校HP
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