金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は1570年(元亀元年戦国時代)に起きた、織田信長と朝倉義景との戦闘のひとつ。金ヶ崎の退き口(かねがさきのたちのきくち)または金ヶ崎崩れとも呼ばれ、戦国史上有名な織田信長の撤退である
織田信長が越前(福井県)の朝倉義景を攻撃したところ、同盟関係にあった妹婿の小谷城(琵琶湖東岸)の浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕したため、木下藤吉郎と信長の同盟軍の徳川家康が後衛(家康の後衛に疑問をもつ向きもある)となって、信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した戦い。
敦賀口における金ヶ崎城(敦賀市)攻略自体は既に成功していたが、浅井家離反の情報を受けて、おおよそこの地で信長軍の撤退が始まり、木下藤吉郎の殿軍は最初にこの地を拠点にして撤退戦を行なった。
戦いの詳細
開戦前
- 文中の( )は西暦・ユリウス暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。
元亀元年4月20日(1570年5月24日)、織田信長・徳川家康連合軍は3万の軍(『言継卿記』)を率いて京を出陣。織田軍の武将のほか池田勝正・松永久秀といった近畿の武将、公家である飛鳥井雅敦・日野輝資も従軍している。
結果から言えば越前遠征に向かったわけだが、「越前へ手遣い」(『多門院日記』)とする文面のほか、「若州へ罷り越す」(『言継卿記』4月20日)と言う史料もあり、信長から毛利元就に宛てた書状(『毛利家文書』)にも「若狭国・武藤を成敗する」という文意の行りがあることからみても、出陣の口実は若狭攻めであった。
経過
4月25日(5月29日)、越前の朝倉義景領に侵攻した織田徳川連合軍は、同日の手筒山城を皮切りに敦賀郡の朝倉氏側の城に攻撃をかけ、翌日には金ヶ崎城の朝倉景恒を下す。これに対し、朝倉軍は敦賀郡を半ば放棄するように戦線が狭く防御に向いた地形である木ノ芽峠一帯を強化し、防衛体制を整える。これには、敦賀郡の郡司で一門衆筆頭であった朝倉景恒と、本家である朝倉義景や、同じ一門衆である朝倉景鏡・朝倉景健らとの序列争いが背景にあり、景恒への援軍を故意に遅らせたとする説もある。
このように当初は織田方が優勢に合戦を進めていたが、信長の義弟である盟友北近江の浅井長政が裏切ったという情報が入った。はじめ信長は虚報だろうと思っていたが、次々に入る知らせに事実と認めざるをえなくなり、撤退を決意した。織田・徳川軍は越前と北近江からの挟撃を受ける危機にみまわれたからである。織田軍が長政の裏切りを察知した理由については、近江・若狭方面の外交・諜報を行っていた松永久秀が浅井方の不審な動きに気づいて通報したと『朝倉記』には記載があるが、信憑性に疑問が持たれており実際には不明。お市の方が、両端を紐で結んだ小豆袋を信長に送り長政の裏切りを知らせたと言う逸話が知られているが、俗説というのが有力である。
撤退するにあたって、信長は金ヶ崎城に木下秀吉を入れておくことにした。通説ではこの時、秀吉が殿軍に自ら名乗りをあげたと言われているが、『武家雲箋』などによると、殿軍には他に摂津守護の池田勝正や明智光秀がいたため、秀吉が殿軍の大将を務めたという説には疑問が残る。また、「寛永諸家系図伝」「徳川実紀」などでは徳川家康もこれらに加わったとしているが、一次史料には家康の名は見られない。
織田信長が撤退した後の織田諸将の行動は非常に統率のとれたものであり、朝倉軍につけいる隙を与えず撤退時の被害を最小限に食い止めた。織田軍の被害については、「人数崩れけれども宗徒の者ども恙(つつが)なし」(「朝倉家記」)から、「人数二千余も損歟ノ由」という伝聞(「多聞院日記」)まで諸説ある。
戦後
信長は近江豪族の朽木元綱の協力もあり、越前敦賀から朽木を越えて(朽木越え)、京へ逃げ延びた。京への到着は4月30日(6月3日)。信長の供はわずか十人程度であったという(『継芥記』)。池田勝正率いる織田本隊も撤退に成功し、京へとたどり着いた。信長は論功行賞で秀吉の貢献を称えて黄金数十枚を与えた(他の武将の恩賞については伝わっていない)。
なお、朽木は当初信長を殺すつもりでいたが、松永久秀が朽木を必死の決意で説得したためやっとの事で京に帰還できたと『朝倉記』にはある。