城郭探訪

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東近江能登川『時空散歩の会』 和田山城見学会と美濃三人衆 2013.3.5

2013年03月06日 | 平城

東近江 和田山3城(向山城・前山城・御苑陣)見学会と美濃三人衆
日 時 20133月5日(火)10時~15時頃
場 所 東近江市五個荘日吉14 県道52セブンイレブン大駐車場集合
内 容 

1.向山城(和田山本城)矢倉台・土塁・食い違い虎口・銃座・傑作城郭遺構                                                                                  2.前山城(和田山城南構え)桝形虎口と横矢矢倉と多数の犬走りを配した陣城                                               3.御苑陣(和田山城西構え)下街道に備えて犬走りを配した陣城遺構                                                                  この3城の抑えに西美濃三人衆と呼ばれた3武将

主 催 東近江能登川『時空散歩の会』村田眞次郎氏

講 師 愛知中世城郭研究会、滋賀民俗学会理事、長谷川博美氏

  

切通し・・・近世墓地へ

近世墓地でレクチャー

御苑陣(和田山城西構え)下街道に備えて犬走りを配した陣城遺構 

御苑陣の主郭

.前山城(和田山城南構え)桝形虎口と横矢矢倉と多数の犬走りを配した陣城

チゴユリ…ヵ?カタクリ・・・カ?ショウジョウバカマ削岩のノミの跡だ!

昼食

和田山本城へ=1年前は看板が(目印のテープからブッシュを)

向山城(和田山本城)矢倉台・土塁・食い違い虎口・銃座・傑作城郭遺構 

郭南端の土塁


土塁の外側へ降りて行くと、土塁下が空堀のようになっており、 底から土塁上は、約4mほどある。

 

観音寺城の戦い(かんのんじじょうのたたかい)は、永禄11年(1568年)9月12日、足利義昭を奉じて上洛の途にあった織田信長と近江守護である六角義賢・義治父子との間で行なわれた戦い。支城の箕作城(みつくりじょう)が主戦場だったため、別名「箕作城の戦い」とも云われている。

しかし信長の行動はその裏をかいた格好となった。

9月12日早朝、織田軍は愛知川を渡河すると、3隊に分かれた。稲葉良通が率いる第1隊が和田山城へ、柴田勝家と森可成が率いる第2隊は観音寺城へ信長、滝川一益、丹羽長秀、木下秀吉(後の豊臣秀吉)らの第3隊が箕作城に向かった

戦端は箕作城でひらかれた。木下隊2千3百が北の口から、丹羽隊3千が東の口から攻撃を開始した。この箕作城というのは急坂や大木が覆う堅城で、吉田出雲守隊の守りも固く、午後五時前後には逆に追い崩されてしまった。

木下隊では評議を行い、夜襲を決行することになる。木下秀吉は策をめぐらし、3尺の松明を数百本用意させ、中腹まで50箇所に配置し一斉に火をつけ、これを合図に一挙に攻め上った。7時間以上戦ったその日のうちに夜襲を仕掛けてくるとは考えてもいなかったのか箕作城兵は驚き、必死に防戦したが支えきれず、夜明けを待たずに落城してしまった。かなりの激戦だったらしく、200以上の首級が上がった。箕作城の落城を知った和田山の城兵は、戦わずに逃亡してしまった。

長期戦を想定していた六角義治は、戦端が開かれてから1日も立たずに箕作城と和田山城が落ちたことに落胆し、観音寺城の防備が弱いことを悟ったのか、古来の例にならい夜陰に紛れて甲賀へ落ち延びていった。当主を失った18の支城は、1つを除き次々と織田軍に降り、ここに大勢が決した。この戦いの織田軍の損害は1500人ほどだと『フロイス日本史』に記載されている。

 
本日の歩数  12,196歩   2時間19分   8.5km

消費カロリー 149.8kcal    脂肪消費量  21.4g

 

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