城郭探訪

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信長公記に見る近江の城郭    巻一 永禄十一年 (1568)一乗院殿、佐々木承禎・朝倉御憑み叶わざる事

2013年03月06日 | 番外編

一乗院殿、佐々木承禎・朝倉御憑み叶わざる事

信長公記訳殿、佐々木承禎・朝倉御憑み叶わざる事

 先の将軍足利義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた覚慶(後の足利義昭)は、興福寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好修理太夫(三好長慶),松永久秀の甘言を信じ、しばらくは興福寺にいた。
ある時、覚慶は密かに南都を脱出し、甲賀武士の和田伊賀守惟政を頼りにし、伊賀・甲賀を経て近江の矢島郷へ移った。
六角承禎義賢が頼りと、様々な意向を伝えたが、以前の恩を忘れてか、六角承禎は動こうとはせず、理由を付けて覚慶を江南から追い出しにかかった。覚慶は「頼りにしていた木の下に雨が漏る」を例えに、六角承禎に失望し、越前へ下った。
 越前の朝倉は元々、それほどの家柄ではなかったが、義景の父孝景が将軍の御相伴衆に準ずるまでに取り立てられたのであったが、領国においては思うがままに振る舞うだけで、義昭の帰洛に助力をするとまでは言い出さなかった。 

解 説■ 和田城 ■

 和田家は甲賀五十三家の中でも名門で、甲賀六家のひとつに数えられている。甲賀郡甲賀町和田にある和田城の近くには公方屋敷、公方屋敷支城等、足利義昭が居住していたとされる城がある。

解 説■ 矢島御所 ■

 覚慶(足利義昭)が永禄8年から約1年間住んでいたとされる矢島御所が守山市矢島町にある。永禄9年覚慶は還俗し、名を義秋と改め、朝倉を頼って越前に移る。


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