1、終正月 御出仕の事
この年の正月1日、安土には隣国の大名・小名および御連枝衆が滞在して正月の出仕をおこなった。登城した諸侯は百々橋から惣見寺への道を上っていったが、おびただしい人数が殺到したため斜面に積み上げられた築垣が踏みくずされ、石と人とが一度に落下して死人が出る騒ぎとなってしまった。手負いの者も数知れず、刀持ちの若党には刀を失い難儀する者も多かった。
出仕は一番に御一門衆、二番に他国衆、三番に安土在住衆の順で行われた。なお面々には信長公より堀秀政・長谷川秀一を通じ、「今度の出仕には大名・小名によらず礼銭百文ずつを持参するように」との触れが出されていた。
諸侯は惣見寺毘沙門堂の舞台を見物したのち、表門より三の門をくぐって天主下の白洲まで伺候し、信長公より年頭の祝詞をたまわった。先に立ったのは前述のごとく中将信忠殿・北畠信雄殿・織田長益・織田信包をはじめとする一門衆の歴々で、それに他国衆が続いた。面々は階段を上って座敷の内へ通され、ここでかたじけなくも御幸の間①を拝見したのだった。
その間、馬廻や甲賀衆などの面々は白洲へ通され、しばしの間待たされていた。すると信長公より「白洲では冷えるゆえ、南殿へ上って江雲寺殿②を見物するがよし」との上意があり、江雲寺殿を拝見する機会を得たのだった。
城の座敷は総金に作られ、狩野永徳の手により多様多種な写し絵が間ごとに筆を尽くして描かれていた。そのうえ四方には山海・田園・郷里の景色も臨むことができ、その見事さはまったくもって言葉も及ばぬほどであった。
そこから廊下続きに参って御幸の間を拝観せよ、との御諚に従い、一行はかたじけなくもかしこき一天万乗の主の御殿へ通され、これを拝見する機会に恵まれた。まことに有難きことであり、生前の思い出となるものであった。
廊下から御幸の間までは桧皮葺の屋根で、使われた金具が日に輝いていた。殿中も総金作りとなっており、四方の壁にはすべて張付け③が施され、それらには金地に置き上げ④の手法が用いられていた。さらに金具を使う箇所にはことごとく黄金が用いられ、魚子⑤や地金に唐草を彫るなどの装飾が施されていた。また天井は組み入れ⑥となっていた。まことに上も輝き下も輝く有様で、心奪われ言葉もおよばぬ壮麗さであった。畳は表に備後表を用い、織り目は最上の青目で、縁は高麗縁・雲絹縁に仕立てられていた。
そして御殿正面から二間の奥には、皇居の間とおぼしき一画があった。御簾の内に一段高く作られたその場は金で装飾されて光り輝き、芳香が周囲を払って四方に薫じる至高の空間となっていた。そこから東には座敷が幾間も続き、いずれも総金の上にさまざまな色絵を描いた張付けが施されていた。
そうして御幸の間を拝観したあと、最初に参じた白洲へ戻ると、信長公から台所口へ参るようにとの上意が伝えられてきた。それに従い伺候すると信長公は厩の口に立って待っており、そこでわれらの出す十疋ずつの礼銭をかたじけなくも手ずから受け取られ、後へと投げて行かれたのだった。
また他国衆は金銀・唐物ほか珍奇を尽くした品々を献じたが、その数の多さはもはや申すも及ばぬほどであった。
①天皇の行幸を迎えるための間 ②六角定頼(承禎義賢の父)を祀った殿社 ③絵を描いた紙を壁に貼り上げる手法 ④模様を盛り上げて作る手法 ⑤粟粒状の突起を作る手法 ⑥格天井の間にさらに細かい格子を重ねた天井
2、夢雷火 御爆竹の事
正月15日、信長公は江州衆に左義長①を行わせた。その人数は以下のごとくであった。
北方東一番
平野土佐守・多賀新左衛門・後藤喜三郎・山岡景宗・蒲生氏郷・京極高次・山崎片家・小河孫一郎南方
山岡景佐・池田孫次郎・久徳左近・永田刑部少輔・青地千代寿・阿閉貞征・進藤山城守
また同時に馬場入りも行われた。これについては、
一番
菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一・矢部家定と小姓衆・馬廻二番
五畿内衆・隣国大小名
以上が先に立ち、これに中将信忠卿・北畠信雄卿・織田長益・織田信包その他の御一門衆が続いた。
そして四番に信長公の入場となった。軽装にまとめたその装束は京染の小袖に頭巾、その上から少し丈長の四角笠をかぶり、腰蓑は白熊、はきそえ・むかばきは赤地の金襴に紅梅の裏地、沓は猩々皮といったものであった。乗馬は仁田より進上されたやば鹿毛、奥州から来た駮毛、遠江鹿毛の三頭で、いずれも秘蔵の名馬であった。信長公はその三頭をかわるがわる乗り換えつつ進み、また矢代勝介にも騎乗させた。
この日は雪が降った上に風もあり、ひとかたならぬ寒さであった。しかしその中を信長公は辰刻より未刻まで騎乗を続けた。また見物人も群をなして集まり、盛事に耳目を驚かせたものであった。
その後、晩に至って馬場入りは終了となった。珍重にしてめでたき一日であった。
その翌日の正月16日のことであった。先年佐久間信盛父子は信長公の勘気を蒙って追放され、父信盛は諸国を放浪の末に紀伊国熊野の奥地で没していたが、信長公はこれを不憫に感じたのか、子の甚九郎信栄に所領の安堵と赦免を申し渡した。帰参した信栄は濃州岐阜へ赴き、中将信忠卿へ御礼を申し述べた②。
正月21日、備前の宇喜多直家の病死にともない③、羽柴秀吉が宇喜多家老の者達を連れて安土へ伺候してきた。秀吉と家老らは直家病没の次第を説明した上で御礼として黄金百枚を進上し、これに対し信長公からは直家の跡職を保障する意が伝えられた。家老衆にはそれぞれ馬が下賜され、一行はかたじけなく下国していった。
①正月15日の爆竹行事 ②帰参には信忠の口利きがあったとされる ③宇喜多直家は前年2月に死亡(この年死亡とも)、その跡職は子の秀家が継ぐこととなった。
3、伊勢遷宮 伊勢大神宮上遷宮の事
正月25日、伊勢の上部大夫より堀秀政を通じ、信長公へ「伊勢大神宮においては正遷宮①が三百年目を最後に途絶え、久しく執行されずにおりますゆえ、何とぞ上意をもって今の世に再興していただきたい」との言上がなされた。
言上を受けた信長公は、「いかほどの費用にて調おうぞ」と問うた。これに対し上部は「まず千貫ありますれば、残りは勧進②にて調達できましょう」と返答した。
しかし信長公の御諚によれば、「一昨年に八幡宮の造営を申し付けた折には、当初は三百貫入用との見立てであったが、結局は千貫に余る出費となった。それゆえ今度も千貫というわけには中々行くまい。それで民百姓らに迷惑をかけることがあってはならぬ」とのことであった。このため信長公はまず三千貫を当面の費用として用意し、その後も必要次第に資金を出すこととし、平井久右衛門を担当奉行に任じて上部に添えたのだった。
さらに翌日の正月26日、信長公は森乱を使者とし、岐阜の信忠殿へ「岐阜の土蔵には先年より一万六千貫の鳥目銭を入れ置いてあるが、今ではそれを結んだ縄も腐り果てていよう。ならば信忠方より奉行を任命して縄を結び直しておき、正遷宮で入用となり次第渡すがよし」との命も下した。
①伊勢の内宮・外宮を二十年ごとに再造営すること ②寄進をつのること
4、紀州内乱 紀伊州雑賀御陣の事
正月27日、紀州雑賀の鈴木孫一が同地の土橋平次を殺害するという事態が起きた。その発端は前年に土橋が孫一の継父を討ち殺したことにあり、孫一はその遺恨によって、信長公の黙認を得て土橋を殺害したのであった。
孫一はさらに土橋の居館を攻囲したのち、信長公へ事の次第を知らせる報を発した。すると信長公からは孫一の後援として織田左兵衛佐信張を大将とする根来・和泉衆が派遣されてきた。このため土橋平次の子息達は根来寺の千職坊へ駆け入り、ここへ兄弟そろって立て籠ったのだった。
5、信州討入 木曽義政忠節の事
2月1日、中将信忠卿へ苗木久兵衛より調略の使者が遣わされ、「信州の木曽義昌が内通に応じましたゆえ、兵を出されますよう」との内容が伝えられた。
これを受けた信忠殿は時日を移さず平野勘右衛門を使者に立て、信長公へ調略の成功を言上した。すると信長公は「まず国境の軍勢が動いて人質を取り固めよ。しかるのち信長が出馬する」との指示を下した。この命を受けた苗木久兵衛父子は木曽勢と一手となって働き、木曽方からまず義昌弟の上松蔵人を人質として進上させることに成功したのであった。信長公はこの人質に満足し、その身柄を菅屋長頼に預けた。
翌2月2日、武田勝頼父子・同典厩信豊は木曽謀叛の報を受けて新府新城①から出馬した。そして一万五千余の兵を率いて諏訪の上原②に着陣し、ここから諸口の備えを固めていった。
2月3日になり、「諸口より出撃すべし」との命が信長公より下された。これにより駿河口より徳川家康殿、関東口より北条氏政、飛騨口より金森長近がそれぞれ大将として進軍し、伊那口からは信長公・中将信忠卿が二手に分かれて乱入すべき旨が定められた。
さらに同日3日、信忠殿は森長可・団平八を先陣とし、尾張・美濃の軍勢を木曽口・岩村口の各方面に出勢させた。
これらの動きに対し、敵方は伊那口の節所を固めて滝沢③に要害を構え、下条伊豆守を守将に入れ置いていた。ところが2月6日になり、その家老である下条九兵衛が逆心を企てて伊豆守を放逐し、岩村口より河尻秀隆の軍勢を引き入れて織田勢へ通じてしまった。
一方、紀州雑賀表では野々村正成が信長公より命を受け、雑賀の土橋平次城館攻撃の検使として派遣された。これにより攻囲は油断なく進められ、支えがたきを察した土橋方の千職坊は三十騎ばかりで脱出を図った。しかし斎藤六大夫がこれを追撃し、千職坊を討ち取ることに成功した。
その首は2月8日に安土へ持参され、信長公の目に入るところとなった。六大夫には信長公より森乱を通じ、褒美として小袖と馬が与えられた。この戦果は大いに喧伝され、首は安土の百々橋詰に懸け置かれて衆人の見物にさらされた。
同日8日には残る土橋の城館も攻め干され、残党が討ち果たされた。その跡には普請と清掃がほどこされたのち、織田信張が城代として入れ置かれた。
2月9日、信長公の信濃国動座にあたり、各所への軍令を記した条々が発布された。それは以下のごとくであった。
条々
一、信長出馬に際しては大和衆を出勢させる。これを筒井順慶が率いるものと定めるゆえ、内々に怠りなく準備を進めるべし。ただし高野方面の者達には、少々が残って吉野口を警固すべき旨を申し付けおくべきこと。
一、河内の連判衆は烏帽子形・高野山・雑賀表への押さえとする。
一、和泉一国の軍勢は紀州へ備えるべきこと。
一、三好康長は四国へ出陣すべきこと。
一、摂津国は父池田恒興が留守居をつとめ、子の元助・輝政両人の軍勢にて出陣すべきこと。
一、中川清秀は出陣すべきこと。
一、多田家は出陣すべきこと。
一、上山城衆は出陣の用意を油断なく行うべきこと。
一、藤吉郎秀吉は中国一円に備えるべきこと。
一、細川家は忠興と一色五郎が出陣し、父藤孝は国元を警固すべきこと。
一、明智光秀は出陣の用意をすべきこと。
以上に出陣を命じた者は遠陣になるゆえ、率いる人数を抑え、在陣中も兵粮が続くよう補給することが肝要である。ただし大軍並みの戦力となるよう、剛力・粉骨の士を選んで引き連れるべきこと。
二月九日 朱印
その後2月12日になって中将信忠卿が出馬し、その日は土田④に陣を取った。そして翌13日に高野へ陣を移したのち、14日に岩村へ着陣した。その指揮下には滝川一益・河尻秀隆・毛利秀頼・水野監物・水野惣兵衛が属していた。
2月14日、信州松尾⑤の城主小笠原掃部大輔信嶺が内通を申し出てきたため、妻籠口から団平八・森長可が先陣に立って出撃し、清内路口⑥より侵入して木曽峠を越え、なしの峠へ軍勢を登らせた。すると小笠原信嶺もこれに呼応して諸所に火煙を上げたため、飯田城に籠っていた坂西織部・保科正直は抗戦を不可能と見、14日夜に入って潰走した。
その翌日の15日、森長可は三里ほどの距離を進軍し、市田⑦という地で撤退に遅れた敵兵十騎余を討ち取った。
2月16日、敵勢の今福筑前守が武者大将となり、藪原⑧から鳥居峠へ足軽を出してきた。これに対し織田方からは木曽勢に苗木久兵衛父子が加わり、奈良井坂より駈け上がって鳥居峠で敵勢に向かい、見事一戦を遂げた。この戦で織田勢が討ち取った首は跡部治部丞・有賀備後守・笠井某・笠原某ほか首数四十余にのぼり、敵勢は主立った侍を多く失った。
その後、この木曽口には織田勢から、
織田長益・織田某・織田孫十郎・稲葉貞通・梶原平次郎・塚本小大膳・水野藤次郎・簗田彦四郎・丹羽勘介
以上の人数が加勢に加わり、木曽勢と一手となって鳥居峠を固めることとなった。これに対し敵勢からは馬場信春の子が深志城⑨に籠り、鳥居峠と対陣した。
また同日、中将信忠卿は岩村から険難節所を越えて平谷⑩に入り、翌日には飯田に陣を移した。
その先の大島⑪には日向玄徳斎が籠って武田方の守将となり、小原丹後守・武田逍遥軒および関東の安中氏らを番手に加えて守りを固めていた。しかし信忠殿が馬を進めたところ、これらの敵勢は望みを失って夜のうちに敗走してしまった。このため信忠殿は難なく大島に入城し、ここに河尻秀隆・毛利秀頼を入れ置き、先手を飯島⑫に移したのであった。
森長可・団平八と松尾城主の小笠原信嶺らは先陣を仰せつかって軍を進めていたが、その先々では百姓たちが自分の家に火をかけて随身を願い出てくる姿が見られた。
武田勝頼は近年になって次々と新しい課役を設け、新規に関所を作るなどしたため民百姓の苦悩は尽きなかった。また重罪は賄賂と引きかえに容赦し、逆に軽罪に対しては懲らしめと称して磔や斬刑に処すなどといったこともあり、その施政はすでに貴賎から疎まれ、嘆き悲しまれていた。このため諸人は内心で織田氏の分国に入ることを望んでおり、この機を幸いと上下とも手を合わせて織田勢へ通じてきたものであった。
このような中、木曽口・伊那口の状勢をつぶさに見極めるべく、信長公から聟・犬の両人が使者として信州の陣へ派遣されてきた。両人は検分ののち、信忠殿が大島まで進軍して万事滞りなく進んでいることを信長公へ復命した。
このころ、武田方の穴山玄蕃信君は遠江口の押さえの将として駿河国江尻⑬に築かれた要害に入れ置かれていたが、これに対し信長公が内通の誘いをかけたところ、信君はすぐに応じた。そして2月25日になって甲斐国府中に置かれていた妻子を雨夜にまぎれて脱出させたのだった。
信州で穴山逆心の報を聞いた勝頼は、転進して館を固める決意を下した。
①現山梨県韮崎市内 ②現長野県諏訪市内 ③現長野県平谷村 ④現岐阜県可児市内 ⑤現長野県飯田市内 ⑥現清内路町 ⑦現高森町 ⑧現木祖村 ⑨現松本市 ⑩現平谷村 ⑪現松川町内 ⑫現飯島町 ⑬現静岡県静岡市内(旧清水市内)
6、高遠 信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事
2月28日、武田勝頼父子と同信豊は諏訪の上原の陣を引き払い、新府の館へ軍勢を納めた。
一方信忠殿は3月1日になって飯島から軍勢を動かし、天竜川を越えて貝沼原①に展開させ、ここから松尾城主の小笠原信嶺を案内に立てて河尻秀隆・毛利秀頼・団平八・森長可の軍勢をさらに先へ進ませた。そしてみずからは母衣衆十人ほどを伴い、仁科五郎盛信が立てこもる高遠城②から川を隔てた高山に登って敵城の様子を検分したのち、その日は貝沼原に宿陣したのであった。
高遠城は三方に険を抱えた山城で、残る背面は尾根続きとなっていた。また城の麓には西から北へ富士川③が濤々と流れ、城構えもまことに堅固なものであった。さらに城下へと続く三町ほどの間は下を大河、上を大山に挟まれた険路で、敵味方一騎打ちで相対するほかはない節所となっていた。しかしその川下には浅瀬があり、森長可・団平八・河尻秀隆・毛利秀頼らの織田勢は松尾城主小笠原信嶺の案内で夜間にそこを渡り、対岸の大手口へと攻めかかっていった。
ところで飯田城主であった保科正直は飯田を脱出後、高遠に入って籠城軍に加わっていたが、この日の夜間に城中へ火をかけて内応する旨を小笠原信嶺へ申し出てきていた。しかし実行に移す隙を見つけられずにいるうちに翌日を迎えることとなってしまった。
翌3月2日の払暁には中将信忠殿の軍勢が到着し、尾根伝いに搦手口へと攻めかかった。一方大手口は森長可・団平八・毛利秀頼・河尻秀隆・小笠原信嶺が攻撃を担当していたが、敵勢はこの大手から討って出、織田勢と数刻にわたり戦闘を繰り広げた。この戦闘で敵勢は数多を討ち取られ、残兵は城中へと逃げ入っていった。
大手でそうした戦が行われる中、信忠殿もみずから武具を取り、味方と先を争って塀際へ寄せかけた。そして柵を引き破って塀の上へ登り、そこから「一気に乗り入れよ」と下知した。すると信忠殿に続く小姓衆・馬廻は奮起し、我劣らじと城内へ突入していったのだった。
かくして城は大手・搦手双方から侵入を受けて攻め立てられていった。敵味方とも火花を散らして戦い、おのおの負傷し、討死も算を乱すがごとくに累々として後を絶たなかった。
敵衆は歴々の上臈・子供を一人一人引き寄せて刺し殺したのち、織田勢へ切って出て最期を飾っていった。その中で諏訪勝右衛門の女房は刀を抜いて織田勢の中を斬って回り、比類なき働きをした。また年の頃十五、六の美しき若衆一人が弓を持ち、台所の奥詰まりから次々に矢を放って数多を射倒し、矢数が尽きた後には刀を抜いて駆け回ったのち、ついに討死する姿も見られた。このほかにも手負・討死する者は上下とも数を知れなかった。この戦で討ち取られた首数は、
仁科盛信・原隼人・春日河内守・渡辺金大夫・畑野源左衛門・飛志越後守・神林十兵衛・今福又左衛門・仁科盛信の副将であった小山田備中守・小山田大学・小幡因幡守・小幡五郎兵衛・小幡清左衛門・諏訪勝右衛門・飯島民部丞・飯島小太郎・今福筑前守
以上四百余にのぼった。
仁科盛信の首は信長公のもとへ送られていった。この戦で中将信忠殿は険難節所を越え、東国において強者の名も隠れなき武田勝頼に立ち向かった。そしてその勝頼が要地と考え、屈強の兵を入れ置いて守らせていた名城の高遠城へ一気に乗り入り、これを攻め破ったことにより、信忠殿は東国・西国に聞こえる栄誉に包まれながら信長公の御代を継ぐことが約束されたのだった。代々に伝えられるべき功績であり、後代の鑑ともなるべきものであった。
翌3月3日、信忠殿は上諏訪表へ出馬し、諸所へ放火を行った。この地に祀られる諏訪大明神は日本無双、霊験殊勝にして七不思議の力をもつ神秘の明神であったが、この焼き討ちにより神殿をはじめ諸伽藍ことごとく煙となって消え、御威光も空しきものとなってしまった。また関東の安中氏は大島を脱出後、諏訪湖の外れにある高島④という小城に籠っていたが、信忠殿の軍勢を前に抱えがたきを悟り、城を津田源三郎勝長に明け渡して退いた。
一方、木曽口の鳥居峠にいた軍勢も深志表へ討って出て働いた。敵城の深志城は馬場信春の子が守っていたが、もはや居続けることは困難と察して降伏し、城を織田長益へ渡して退散していったのだった。
①現長野県伊那市内 ②現高遠町 ③藤沢川 ④現諏訪市内
7、駿河口 家康公駿河口より御乱入の事
徳川家康は穴山信君を案内者として伴い、駿河の河内口から甲斐国文殊堂①の麓市川口へ乱入した。
①現山梨県市川大門町内
8、四郎勝頼 武田四郎甲州新府退散の事
武田四郎勝頼は、ひとまずは高遠城で織田勢を防ごうと考えていた。ところがその高遠が思いのほかに早く陥落し、中将信忠殿がすでに新府へ向けて進撃中であるとの報が様々に伝えられると、新府在住の武田一門・家老衆は戦の支度などは一切行わず、子女たちが避難していく中にまぎれて取るものも取りあえず逃亡してしまったのだった。このため勝頼の旗本にはただ一手の人数さえもなくなってしまった。
さらに武田信豊も勝頼と別れ、信州佐久郡の小諸①に籠って織田勢へ対抗する考えを固め、下曽根氏を頼って小諸へ逃れていった。勝頼は、ここに孤立した。
3月3日卯刻、勝頼は新府の館に火をかけ、各所から集めた人質数多を火殺しにしながら退去していった。人質たちの泣き悲しむ声は天にも響くばかりで、その哀れさは言葉にも尽くせぬほどであった。
思えば前年の12月24日、勝頼・簾中・一門衆が古府中より現在の新府城へ移った際には、装いに金銀をちりばめて輿車・馬・鞍を美々しく飾り、隣国の諸侍を騎馬で随行させていた。人々の崇敬は並々ならぬもので、見物人も群れをなして集まったものであった。ところが今、かつて栄華を誇り、常は簾中深くにあってかりそめにも人前に姿を現すことなどなく、慈しまれかしづかれながら寵愛を受けていた上臈たちは、それから幾程も立たぬうちに運命を変転させることとなってしまった。
勝頼の御前・同側室の高畠のおあい・勝頼の伯母大方・信玄末子の娘・信虎の京上臈、その他一門・親類の上臈や付き付きの者たち二百余人の逃避行の中で、騎乗の者は二十騎にも満たなかった。歴々の上臈・子供たちは踏みなれぬ山道を徒歩はだしで歩き、足を紅に染めていた。まさに落人の哀れさ、目も当てられぬほどであった。
勝頼一行は名残を惜しみながら住み慣れた古府中を脇に見、そこから小山田信茂を頼って勝沼②という山中から駒飼③という山里へ逃れた。ところが、ようやく小山田の館が近付いてきたというところで変事が起きた。自身が内々に承諾して呼び寄せておきながら、当の小山田信茂がここに至って無下にも勝頼を突き放し、一行の受け入れを拒否してきたのである。
一行は前途を失い、途方に暮れた。新府を出る時には五、六百もいた侍分の者は逃避行の中で離散し、残ったのは遁れられぬ運命の近臣わずか四十一人になってしまっていた。
その後一行はやむなく田野④という地の平屋敷ににわか作りの柵を設けて滞陣し、しばし足を休めた。屋内に入って左右を見れば、そこには数多の上臈たちが勝頼ただ一人を頼りとして居並んでいた。しかし当の勝頼も、わが身のことながらもはや思慮もまとまらなかった。
当時、人を誅伐するということは、思うことがあっても小身の者には中々できることではなかった。しかし国主に生まれた人とは、他国を奪い取ろうとする欲によって多くの人を殺すことが日常という者たちである。武田は信虎より信玄、信玄より勝頼と代を重ねること三代、その間に人を殺めること幾千と数を知れなかった。しかし世の盛衰、時勢の変転とは防ぎ得ぬもので、三代の因果は間髪を入れず、今この時になって歴然と現れたのであった。
天ヲモ恨ミズ人ヲモ咎メズ、闇ヨリ闇道ニ迷ヒ、苦ヨリ苦ニ沈ム⑤。
嗚呼、哀れなるは四郎勝頼。
①現長野県小諸市 ②現山梨県勝沼町 ③④現山梨県大和村 ⑤なんらかの字句からの引用と思われるので、ほぼ原文に従った。
9、亡虎狩 信長公御乱入の事
3月5日、信長公は隣国の軍勢を率いて動座し、当日は江州柏原の上菩提院に宿泊した。
その翌日、信長公のもとへは仁科盛信の首がもたらされ、呂久の渡し①において実検を受けた。首はさらに岐阜まで運ばれ、長良川の河原に梟首されて上下諸人の見物するところとなった。翌7日は雨となり、信長公は岐阜へ逗留した。
同7日、中将信忠殿は上諏訪から甲府に入り、甲斐入国を果たした。そして一条蔵人の私邸に陣を据え、武田勝頼の一門・親類・家老衆を尋ね出し、ことごとく成敗していったのだった。
このとき殺害された者は、
一条右衛門太輔信竜・清野美作守・朝比奈摂津守・諏訪越中守・武田上総介・今福越前守・小山田出羽守・武田信廉・山県昌景の子・隆宝 なお隆宝は入道
以上が残さず成敗された。信忠殿はさらに織田長益・団平八・森長可に足軽衆を付けて上野国表まで出兵させたが、小幡氏が人質を差し出してきたため別条なく平定された。この他にも織田方には駿・甲・信・上野四ヶ国の諸侍が縁を伝って次々と帰順の礼に訪れ、門前市をなすがごとき状況となっていた。
3月8日、信長公は岐阜を出て犬山まで進み、翌9日は金山②へ宿泊した。その後10日には高野へ陣を取り、11日になって岩村へ着陣した。
①現岐阜県穂積町内 ②現岐阜県兼山町
10、武田氏滅亡 武田四郎父子生害の事
3月11日、武田勝頼父子とその簾中・一門が駒飼①の山中に引きこもっているとの報が滝川一益のもとへ届いた。この報を受けた一益が険難節所を越えて山中へ分け入り、勝頼一行を尋ね出していったところ、果たして田野という地の平屋敷に急拵えの柵を設けて居陣していることがわかった。
一益はすぐさま滝川儀大夫・篠原平右衛門を先陣に命じ、かれらの下知のもと田野を包囲した。すると逃れがたきを悟ったか、勝頼らはさも美しき歴々の上臈衆・子供たち四十余人を一人一人引き寄せ、花を折るがごとくに刺し殺していったのだった。
その後残った者たちは散り散りになって織田勢へ切って出、おのおの討死を遂げていった。中でも勝頼の若衆であった土屋右衛門尉昌恒は弓を取り、寄せては引きつつ散々に矢数を尽くし、よき武者数多を射倒したのちに追腹を切って果て、比類なき働きを残した②。
勝頼の子武田太郎信勝はこのとき齢十六、さすが名門の子とあって容貌美麗、肌は白雪のごとくで、美しきこと余人に優れ、見る者であっと感じ入りつつ心を奪われぬ者はなかったほどであった。しかし会者定離の悲しみ③、老いたるを残して若きが先立つ世の習いからは、この者とて無縁ではいられなかった。まことに朝顔の夕べを待たぬがごとき、蜻蛉にも比する短き命であった。信勝は家の名を惜しみ、けなげにも敵勢の中を切ってまわり、ひとかどの功名を残して果てていったのだった。
この地で討死に名を連ねた者は、
武田勝頼・武田信勝・長坂釣閑斎・秋山紀伊守・小原下総守・小原丹後守・跡部尾張守とその息・安部加賀守・土屋昌恒、麟岳 麟岳は高僧ながら比類なき働きをした。
以上侍分四十一人、上臈ほか女分五十人にのぼった。
かくして11日巳刻にはすべての者が相重なって討死を遂げた。勝頼父子の首は滝川一益より中将信忠殿の目にかけられたのち、関可平次・桑原助六の両人に運ばれ信長公へ進上された。
①現山梨県大和村内 ②俗に「土屋惣蔵片手千人切」と称される。 ③世の無常をあらわす言葉