城郭探訪

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歴史に埋もれた、近江の偉人『曲直瀬(まなせ)道三』

2016年01月14日 | 郷土の偉人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

曲直瀬道三像(杏雨書屋蔵)

曲直瀬 道三(まなせ どうさん)

 永正4年9月18日(1507年10月23日) - 文禄3年1月4日(1594年2月23日))は、戦国時代から安土桃山時代の日本の医師。道三は号。諱は正盛(しょうせい)。字は一渓。他に雖知苦斎(すいちくさい)、翠竹庵(すいちくあん)、啓迪庵(けいてきあん)など。本姓は元は源氏、のち橘氏。今大路家の祖。日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称される。養子に曲直瀬玄朔。

略 歴

父は近江源氏佐々木家庶流の堀部左兵衛親真、母は多賀氏。幼少の頃、両親を失う。なお、『近江栗太郡志』によれば、道三は近江国栗太群勝部村(現・滋賀県守山市)の佐々木氏一族勝部氏の一門の出とされ、母は目賀田攝津守綱清の娘、諱を正慶とし、父母死別後伯母に育てられたと記されている。幼少時、守山の大光寺内吉祥院にて学んだ(道三は勝部村に五反の農地を持ち、大成した後一反を大光寺に寄進したと伝えられ、天正5年12月翠竹庵道三著名の寄進状がある)。

永正13年(1516年)、五山文学の中心である京都の相国寺に入って喝食となり、詩文や書を学ぶ。この頃、姓を曲直瀬とする

 享禄元年(1528年)、関東へ下って足利学校に学ぶ。ここで医学に興味を抱いたと言われる。名医として知られた田代三喜斎と佐野ノ赤見で出会い医学を志す。(なお柳津で面会したというのは根拠のない俗説で佐野市赤見が正しい。)入門して李朱医学(当時明からもたらされた最新の漢方医学)を修める。なお李朱医学とは便宜的造語で、当流医学が実情に則した実際の学派名である。当流は道三が創り出したとする説があるが、これは明らかな誤りで田代三喜から相伝されたものである。

 天文15年(1546年)、再び京都へ上ると、還俗して医業に専念。将軍・足利義藤(後の足利義輝)を診察し、その後の京都政界を左右した細川晴元、三好長慶などの武将にも診療を行い、松永久秀には性技指南書である『黄素妙論(こうそみょうろん)』を伝授するなどして、名声を高め京都に啓迪院(けいてきいん)と称する医学校を創建した。

それまでの観念的な治療方法を改め、道三流医道を完成させ、実証的な臨床医学の端緒を開き、四知(神・聖・功・巧)の方を生み出した。

永禄3年(1560年)、道三は初めて皇室に参仕し、以後皇室に出入りするようになる。

 永禄5年(1562年)、幕府の芸・雲和平調停に加担して毛利氏に対する諸約定の早期履行を促すために中国地方に下向し、その後も毛利元就の疾病治療のため何度か下向することになり、道三流医術を中国地方に伝える契機となる。

永禄9年(1566年)、出雲月山富田城の尼子義久を攻めていた毛利元就が在陣中に病を得た際に、これを診療し、『雲陣夜話』を記す。

『啓迪集』の天正10年(1582年)写本(東京大学附属図書館蔵)
 天正2年(1574年)には『啓迪集』を著し、同年に正親町天皇に拝謁を許され、診療を行い、同書を献上した。正親町天皇は僧・策彦周良に命じて序文を作らせている。この際に翠竹院の号を賜る。織田信長が上洛後は、信長の診察も行い、名香・蘭奢待を下賜された

著書は『啓迪集』以外にも『薬性能毒』『百腹図説』『正心集』『指南鍼灸集』『弁証配剤医灯』『黄素妙論』『雲陣夜話』など数多く、数百人の門人に医術を教え、名医として諸国にその名を知られた。

 天正12年(1584年)、豊後国府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察したことがきっかけでキリスト教に入信し、洗礼を受ける(洗礼名はベルショール)。天正20年(1592年)には後陽成天皇から橘姓と今大路の家号を賜る。文禄3年1月4日(1594年2月23日)に没した。死後、正二位法印を追贈された。

当代第一流の文化人でもあり、特に茶の湯のたしなみが深かった。宮本義己は道三の茶の湯執心の一因が禁裏や当世の有力者との交際を確保するための必要な手段であったと分析している。

道三は、妹の子・玄朔を養子とした。曲直瀬家は、その後も代々官医として続いた。

神麴の処方応用

日本で本格的な神麴の製剤と処方は戦国期で、他の本草とともに漢籍を参考にして道三独自の治験結果をよりどころとし、新たに実証的に精選されたもので、在来のそれとの関わりは認められない。しかも道三流医術の普及により広く実地医療に役立つ神麴の処方応用例は当代医療を代表とする特色のある新技術ととして評価される。


山屋敷 近江国(彦根・鳥居本)

2016年01月12日 | 居館

最後の現地説明!

お城のデータ

所在地:彦根市宮田町 map:http://yahoo.jp/Kss6dg

築陣期:室町期

築城者:小野清介

築城者:小野清介

標 高:92m   比高差:ーm

区 分:山麓館

遺 構:堀痕「用水路」

目標地:フジテックエレベーター試験棟・宮田橋

駐車場:路上駐車

訪城日:2016.1.11

お城の概要

福島城と百々屋敷の中間に位置し、東山街道を監視の役目を担っていたのでは? 

物生(むし)山城を詰め城・物見廓をしての山麓館では?

「城館後には、家は立たない」というが、ここも例外ではないようです!

 歴 史

「淡海温故木間攫」に坂田郡「物生(むし)山村 古小野清介ト云武士当村ノ地頭タリ、其宅地跡□在ス、此後ハ伊賀国ニ有ト云、」

坂田郡域 1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。

  • 彦根市の一部(笹尾町、小野町、佐和山町、鳥居本町、宮田町より北東)
  • 長浜市の一部(相撲町、森町、下之郷町、国友町、今町、千草町、東上坂町、相撲庭町以南)
  • 米原市の大部分(甲津原・曲谷・甲賀・吉槻・上板並・下板並を除く)

明治12年(1879)に、小野西山村・小野馬場村・物生(むし)山村が合併して宮田村となる。

山屋敷見学

山屋敷から、物生山城(遠望)

物生山城…遠望(中央の鉄塔の右標高:192m)

物生山城…遠望(右の鉄塔の左 標高:192m)

参考資料:物生山(むしやま)城  近江国(彦根・鳥居本) 現地見学会で、近江温故小間攫

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


物生山(むしやま)城  近江国(彦根・鳥居本)

2016年01月12日 | 山城

連続講座「近江の城郭」第3回 元亀争乱~物生山(むしやま)城

 最初の堀切・土橋

  元亀元年(1570)の浅井長政の裏切りにはじまる織田信長と近江諸勢力との戦いは、その元号をとって元亀争乱と呼ばれています。元亀争乱の戦いは、近江各所で行われますが、湖北での戦いの焦点となったのが佐和山城です。佐和山城は、東山道を眼下に望む場所に位置し、美濃と近江との交通の要衝でした。信長は浅井氏配下の磯野員昌が守る佐和山城を攻撃するために、周囲に付城を築き、佐和山城を包囲しました。物生山城はそうした付城のひとつです。

お城のデータ

所在地:彦根市宮田町 map:http://yahoo.jp/513Nv6

築城期:室町期

築城者:小野清介

築陣期:織豊期

築陣者:市橋長利

砦 主:市橋長利

標 高:192m   比高差:100m

区 分:山城

遺 構:曲輪、土塁、土橋、堀切、竪堀

城 域:100m×20m

目標地:フジテックエレベーター試験棟・宮田橋

駐車場:路上駐車

訪城日:2016.1.11

お城の概要

 物生山城は、佐和山から北に伸びる尾根筋の北端に位置する標高192mの物生山の山頂に築かれました。彦根市宮田町の物生山の西背後の山上に築かれている山頂部の主郭を中心に三方に伸びる尾根上に郭が広がり、堀切や竪堀によって防御を固めています。今もこうした遺構は現地に良好に残されています。

 頂部に主郭を置き、ここから三方に伸びる尾根筋にそれぞれ数段の曲輪を配した縄張りとなっている。 特に北東先端部にある磯崎城へと繋がる尾根には、五段の曲輪が並び、曲輪との間に堀切が3ヶ箇所、そして土橋の遺構が良く残っている。 

主郭から関電の鉄塔にに至る尾根筋にも主郭から少し下ったところから尾根筋に曲輪があり、土塁と虎口の遺構が残っていた。 

  最高部の曲輪から東尾根に4段の曲輪、西尾根には3段の曲輪が連郭式に配置され、東尾根は切岸主体の防御で、西尾根は傾斜が緩やかなこともあって、曲輪間は横堀で処理されている。

  主郭は、多角形状の台状地で、東と西で1.8m程の段差があり西が低く、南と北側の下方には犬走りを伴っている。主郭の西方が尾根続きとなり、3条の堀切を設け厳重に防備を固めている。内堀切と中堀切の間に10m×7mの方形状の腰郭があり、その南部は塹壕状になっている。主郭の南東少し下方には腰郭があり、そこから急激に20m程降った尾根上に微かな土塁痕の残る50m×10mの細長い郭が延びている。主郭から北に降る尾根上には、5段にわたって削平され、最下段は4.5m幅で帯状となっており、その北西端に設けたれた堀切には2本の土橋があり、土橋の間が小さな貯水池のようになっている。
現在に残る遺構からは、佐和山城側に土塁や塹壕、堀切などの施設が構えられており、信長公記に云う「北の山」の可能性が高いように思われる。


今回か佐和山城への「かもうの切り通し往還」から、西尾根を弁天山(211m)・物生山・物生山城・宮田へ下城した。

登城口へ宮田町を流れる小野川(佐和山城 外堀)に掛かる宮田橋前から入ると墓の前を過ぎたところで、左手に曲がるのがポイント。右へ行くと急斜面を登ることになる。

歴 史

物生山城に関して伝承や記録は無く不明であるが、その存在については、・地元領主が築城 ・佐和山城の出城として築城 ・織田信長の佐和山城攻め時の陣城 等と考えられている。

佐和山城の磯野員昌

 永禄6年から浅井氏の六角氏に対する前線基地である佐和山城を守っていた磯野員昌は忠実に浅井家に仕えた。織田軍に包囲された時、この付近の有力国人の今井氏、島氏、河口氏も城内にいて員昌と七か条の定書を交わして、一致団結してこの難局を乗り切ろうと誓い合った。

 しかし8ヶ月も織田軍に包囲されては城の食料も矢玉も底を尽きかけ、ついに員昌は長政に援軍の要請をした。しかし長政単独では救援に向かえる余裕はなかった。員昌はそれでは佐和山城を捨て小谷城へ入りたいと申し出た。しかし長政はこれを認めるどころか員昌に謀反の恐れありと人質だった員昌の母親を磔にして殺してしまった。もはや員昌の心は浅井家から離れた。隠居も考えた。

 このとき信長はその剛勇を惜しみ織田家のために働いて欲しいと員昌を誘った。一旦は固辞した員昌だったがかつて家臣が誤って射殺したため親代わりに養育している国人今井高清の子供達の将来を考え、この申し出を受け入れた。

 信長公記には佐和山城に対する付城について以下の記述がある。
----------------------------  【信長公記】 (巻三 元亀元年8、姉川  あね川合戦の事 )
・・・・「信長公は横山城の城番に木下藤吉郎を入れ、みずからは7月1日磯野丹波守員昌の籠る佐和山城の攻略に向かった。佐和山では四方に鹿垣をめぐらし、城東の百々屋敷に砦を構えて丹羽長秀を置き、北に市橋長利・南に水野信元・西の彦根山に河尻秀隆の各将を配置して諸口を封鎖し、四方より攻撃させた。。七月六日、御馬廻ばかり召列れられ御上洛。」
----------------------------
 市橋九郎右衛門長利が守備をした。

 

上記、記述の「北の山」が、この物生山ではなかったかとも考えられている。

信長の佐和山城包囲網

今回の講座では、講座資料(A4 8頁程度)を無料で。

講義「戦国近江の終焉」  講師 松下 浩氏(滋賀県教育委員会文化財保護課)

 

物生山城跡を文化財専門職員の案内で御覧いただき、信長の佐和山城攻撃の跡をたどります。

現地見学ルート

ビューポイント・・・西の山彦根山(彦根城・琵琶湖)

弁天山も出郭址の様相

北西下に「堀切」「竪堀」が発掘調査で発見された現場

昨年松原内湖遺跡の発掘調査現地説明会 彦根市の松原内湖遺跡の発掘では、織田信長が一五七〇年、佐和山城攻めの際、敵の逃走や侵入を防ぐため尾根を削った「堀切」「竪堀(たてぼり)」などの城郭遺構が見つかった。
 これは、浅井長政の猛将、磯野員昌(かずまさ)の籠る佐和山城を包囲するため構築したもの。尾根を分断する堀切跡は、佐和山城跡から北北西約一・六キロの尾根に築かれ、東西十三・五メートル、南北の七~九メートル、最深三メートルだった。また、斜面に沿って縦方向に掘削した竪堀は、幅七・五メートル、深さ三メートル、長さ十四メートルを確認した。
 発掘に当たった県文化財保護協会は、攻め手の被害が大きいとされる城攻めにおいて、土塁による頑強な包囲網を築造し、味方の消耗を防いだ戦い方をしたとみている。

 

尾根の鉄塔に北に最初の堀切・土橋

主郭へ

北の堀切北の郭から主郭を見上げる

主郭で説明会(総勢70余人)話もめません!主郭の東下の郭

縄張り図にある、東端の郭と土塁

中腹の鉄塔から、物生山・尾根鉄塔

宮田の登城口

最後の現地説明!

山屋敷見学

山屋敷から、物生山城(遠望)

日時 平成28年1月11日(月・祝) 10:30~16:30

      現地見学:佐和山城下町跡・かもう坂通り往還・切通・弁天山・物生山城・宮田・山屋敷・・・彦根市鳥居本町駅

 行程 鳥居本公民館(講義・昼食)→佐和山城下町跡→物生山城跡→近江鉄道鳥居本駅     全行程約4km ※急峻な山登り、山道の長距離移動あり

主催:滋賀県教育委員会 協力:彦根市教育委員会

 現地探訪 彦根市教育委員会文化財課専門職員

定員 60名(定員以上の参加者、今回は女性が多い!)

参加費 無料

本日の歩行距離9.8km 歩数 13,121歩

参考資料:連続講座「近江の城郭」第3回 元亀争乱~物生山(むしやま)城 レジュメ、信長公記、彦根市「わたしの町の戦国」・「佐和山攻め城、物生山城を歩く」 

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


三川城 近江国(虎姫)

2016年01月12日 | 居城

お城のデータ

所在地:長浜市三川町 (旧・東浅井郡虎姫町三川) map:http://yahoo.jp/gKJLhw

現 状:田地・宅地

区 分:平城

築城期:戦国期

築城者:田中吉政

遺 構:圃場整備で消失

目標地:三川公会堂・環来寺・玉泉院

駐車場:三川集落の三川公会堂(駐車場)

訪城日:2016.1.10

お城の概要

三川城は現在の三川集落の北東に築かれていたと伝えられる。 現在は圃場整備された水田となり遺構はないが、小字として「城形・堀ノ前・内形、堀の前、堀の東、堀の北」などという小字がありますが、すでに城郭地名が残る。
 その地形が、内形を中心に堀の東、堀の前、堀の北と外ぼりがあったことを想像しますが、これらの堀は近くを流れる東川・田川を利用していたもので、今も城跡の名残をもっています。

歴 史 

三川の歴史

田畑や集落も開けており大化改新に当たっては条里制も敷かれた。奈良期には伊香、物部氏等勢力争いの圏内にあった。
平安時代には比叡山中興の祖慈恵大師良源も誕生され、誕生地に天元4年(981年)良源により玉泉寺が草創された。
鎌倉期には佐々木氏、室町期には京極氏、浅井氏と領主が変わり、江戸時代には山上藩(887石)淀藩、山県藩、井上氏、大久保氏、西郷氏、雨宮氏と7人の領主により分割統治された。

 

玉泉寺

天元年間(978~983)良源の開山により創建された天台宗の寺院です。戦国時代に兵火により焼失し、現在の堂宇は江戸時代以降に再建された。

 平安時代中期、比叡山中興の祖といわれる慈恵大師(じえだいし)良源(元三大師 がんざんだいし)の生誕地に建立された天台宗の寺です。良源は、12歳で比叡山に登り、西塔の理仙大徳のもとで修行し、17歳で受戒、55歳の時に第18代天台座主となりました。

寺内には、大師自作の像といわれる国の重要文化財の木造慈恵大師像(鎌倉時代)が安置されている。毎年8月7日にみたらし堂の水を替え霊籾の浮き上がる数により、その年の稲作の豊凶を占うお水取りの行事があり、7日盆とか水かけ盆と呼ばれています。 また、元三大師が、母親の看病の途中で比叡山に戻らなければならなくなったので身替わりの本造を刻んだところ、その像が村はずれの石橋まで大師を送ったという伝説があります。この石橋は、いまでも「いとまごいの橋」として残っています。 天皇家や摂関家の篤い帰依を受け、74歳で没しています。

故郷への思い

吉政の妻も母もその事績はほとんどつたわらないが、秀吉の出世とともに、継潤が出世し、吉政もまた出世すると、妻や母も吉政に従って故郷を離れている。文禄2年(1593)1月11日、吉政が秀次に従って三河岡崎城主であったとき、母が当地で死去していることからも明らかである。ただし、このとき吉政は母の葬儀に際して、浅井郡内保村(長浜市内保町)誓願寺住職明乗をわざわざ岡崎に呼び寄せている(誓願寺文書)。また、母の追善のために誓願寺に梵鐘を寄進したと伝わる。

 天正15年(1587)の九州攻めに従軍した際、豊前小倉(北九州市小倉区)の貫庄八幡宮から分捕った正平21年(1366)銘の梵鐘がそれであり、今なお誓願寺に現存する。

さらに、慶長9年(1604)5月12日、吉政は翌慶長10年の竹生島蓮華会の頭役を夫婦でつとめることを申し出ている。蓮華会は浅井郡の富貴者に頭役を差定しておこなわれる弁財天の祭礼で、その起源は円融天皇が慈恵大師良源に命じた雨乞い修法にあるという。良源は比叡山延暦寺の中興の祖として知られる第18代天台座主で、実はその出身地は吉政と同じ浅井郡三川村(玉泉寺)であった。筑後柳河で大封を得て志を果たした吉政は、妻とともに故郷に錦を飾る思いがあったのだろう。

 あちこちの社寺に見られる「おみくじ」の創始者は良源だと言われている 

 

平成28年1月10日『城歩会』歩き初め 新春ウォーク。

軍道

ーーー信長公記 巻五 元亀三年  3、戦野  奇妙様御具足初に虎後前山御要害の

この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷(虎姫町宮部)にも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、八相山は城番の人数が守った。また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道(軍道)幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、(水攻め)川水を堰入れさせた・・云々

『朝野雑載』の逸話

さて、この吉政と妻とのことについては『朝野雑載』に次のような逸話が見えている。

 田中兵部大輔吉政は近江国田中村の小農人なり。初名九兵衛。十八才の時、みづから思へらく「農夫にて身を終わらんこと口惜。今戦国なり。吾れ仕官して功を立て、富貴を取り名をたてん」とて、其の妻に暇をやる。妻の云く、「我れ何の罪有りてや出さるゝや」。九兵衛が曰ふ。「汝に罪なし。我れ大いなる志有り。明日出で去るべし。飯を多くかしぐべし」とて、有る所の米数升悉く飯にたかせ、平生したしき友を呼びて饗し、我が志を語り、終に去りて、宮部善祥坊に仕へん事を求めて、草履取となる。

吉政が仕えた宮部善祥坊継潤は浅井郡宮部村(長浜市宮部町)の土豪で、はじめ浅井氏の家臣として活躍したらしいが、木下藤吉郎(秀吉)の調略に応じて織田信長に従い、元亀3年(1572)8月には小谷城攻めに加わっていた(信長公記)。すなわち、小谷城攻撃の拠点となる虎御前山城と横山城をつなぐため、織田信長は両城間にある八相山と宮部郷に要害(砦)を築き、虎御前山へ向けて三間半幅の道をつくって、宮部砦に継潤を入れ置いている。「田中兵部大夫ハ拙者譜代筋ノ者ニ御座候」(宮部長身上書)。継潤の子長が寛永10年(1633)に語ったところによれば、吉政はもともと、この宮部家譜代の家臣だったというのである。

浅井郡三川村

上述の如く、吉政は近江国田中村(高島市安曇川町田中)出身とされてきたが、近年になって宮部村の北隣にある浅井郡三川村(長浜市三川町)の出身であることがわかってきた。米原市飯の徳善寺に伝来した「新庄福永順光寺図」に「此田中筑後守者近江国浅井郡三河村出生大名也」と見え、福岡県久留米市大善寺町の玉垂宮にかつてあった吉政寄進の梵鐘には「大施主田中筑後守橘朝臣四位吉政、生国江州浅井郡宮部縣子也」の銘文があった。ここにいう「宮部縣」とは三川村も含む宮部一帯(湯次庄)を指すとすれば、吉政は三川村の土豪として、隣村宮部村の継潤に仕えていたことになる。吉政は天文17年(1548)生まれとされるから、元亀3年(1572)には24才になっていた。おそらく宮部砦と八相山砦の間に位置する三川村にあって、小谷城攻撃に加わっていたのだろう。

国友与左衛門の娘と姉

吉政の妻妙寿院の実名はつたわらないが、宮部家の家臣国友与左衛門の娘であるという。国友氏は坂田郡国友村(長浜市国友町)を本貫とする土豪で、国友集落の南西側に「殿やしき」という地名があり、ここが国友氏の館跡と伝えられる。史料上、国友氏の活動は田中氏や宮部氏よりもふるくから知られ、長享元年(1487)4月3日には、京極高清と対立していた多賀宗直の弟又三郎が国友兵庫助屋敷に陣取っている(江北記)。また、『天文日記』天文13年(1544)8月24日条には、国友伯耆守が富岡一右衛門という家臣をもつ土豪として登場する。与左衛門はこの伯耆守の一族とみられる。そして実は、吉政の母もまた国友与左衛門の姉であったという。つまり、妙寿院にとって夫の母、すなわち姑は父の姉であり、吉政とはいとこ同士だったのである。田中家と国友家は宮部家の家臣として親密な関係にあり、二代にわたって婚姻関係を結んでいたのであった。『朝野雑載』が言うように、吉政は妻を捨て置いて、継潤に仕官した訳ではなかったのである。

息子4人の不運

『寛政重修諸家譜』によると、吉政と妻との間には4人の息子があった。しかし、いずれもが不運であった。長男吉次は関ヶ原合戦において福島正則とともに岐阜城を落とすなど活躍したが、しばらくして父吉政と不和になり勘当、廃嫡された。二男吉信は家臣になったとも、病死したとも(田中系図)、慶長11年(1606)に横死したとも伝わる(家伝系図抜書)。三男吉興は関ヶ原合戦や大坂陣に出陣したというが、病弱で言葉も不明瞭であったらしい(田中興廃記)。四男忠政は幼少より人質として江戸にあり、将軍秀忠の上洛に供奉するなどの経歴を有した。慶長14年(1609)2月18日に吉政が亡くなったとき、吉興は吉政の不興をかっていたので、忠政が兄吉興らをさしおいて家督をついでいる。

田中家の断絶

 慶長14年6月4日、徳川秀忠は忠政の家督相続を認めている。そして、吉政の妻妙寿院は忠政の襲封を見届けて、慶長19年(1614)2月15日に亡くなったらしい。忠政はこのとき「三川村西之道場」(長浜市三川町還来寺)に打敷を寄進している。

還来寺短冊散花文様打敷短冊散花文様打敷

 ところが、その直後、忠政は慶長20年(1615)の大坂夏の陣に遅参した。また家中で争論がおこり混乱した。その原因については忠政と吉興とがことのほか仲が悪く(筑後之国柳川にて世間とりさた申す事)、吉興が忠政の大坂方内通を幕府に訴えるといった説もあるほどである。そうしたなか、忠政が元和6年(1620)8月7日に36才の若さで病死。跡目の嫡子がなく、これによって吉政が一代で築き上げた32万5000石の田中家は断絶することとなった。吉政も妙寿院もこのことを知らずに、この世を去ったことがせめてもの幸いであろうか。

三川城跡とされる付近

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、心のふるさと三川、信長公記、淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

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 平成28年1月10日『城歩会』歩き初め 新春ウォーキング。 
先導 宮本優子事務局 講師現地解説 長谷川博美氏
 

宮部城(宮部砦) 近江国(虎姫)

2016年01月11日 | 陣城

平成28年新春『城歩会』無料特別企画

『信長公記』の現場を行く宮部合戦ウオーク
 
 
 
 
滝川陣屋跡(江戸期)のち宮部学校
 

お城のデータ

別 称:宮部砦

所在地:長浜市宮部町(旧・東浅井郡虎姫町宮部) map:http://yahoo.jp/5FYhjIこの地図のURL

現 状:社地(宮部神社)・宅地

区 分:陣城(砦)

築城期:戦国期

築城者:宮部善祥坊継潤

廃 城:天正9年頃

遺 構:城跡碑・土塁・堀

目標地:宮部集落の宮根神社

駐車場:宮部集落の宮根神社(駐車場)

訪城日:2016.1.10

お城の概要

元亀の争乱で、虎御前山城と横山城の繋ぎ城とされ、小谷城からわずか5㎞程南、宮部集落の西側に宮部神社があり、そこが宮部城跡。

土塁・堀・供養塔が残る。神社境内に、見落としそうな位置に「伝宮部城址」の碑や宮部継潤、田中吉政の供養碑が建てられている。

城址には、住宅が建たないというが、ここも例外ではなかった。

歴 史

ーーー信長公記 巻五 元亀三年  3、戦野  奇妙様御具足初に虎後前山御要害の

この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷(虎姫町宮部)にも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、八相山は城番の人数が守った。また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道(軍道)幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、(水攻め)川水を堰入れさせた。

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軍道・築地・・・予想図

 元亀3(1572)年信長は嫡男織田信忠の初陣に小谷城攻めを選んだ。7月19日に岐阜を出発した信長・信忠父子は赤坂、横山城を経て、21日小谷城下へ到着した。前回と同じく雲雀山と虎御前山を前線基地に佐久間信盛・柴田勝家・木下藤吉郎・丹羽長秀・蜂屋頼隆が清水谷から水の手まで攻め込み、城下に柴田勝家・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らが陣を張った。翌日秀吉が阿閉貞征の山本山城下へ放火、それを阻止しようとした城兵と戦いになったが退けた。織田軍は23日北進して地蔵坊を、24日夜には大吉寺を焼討して僧侶、建造物は灰燼に帰した。

さらに琵琶湖湖上では打下城の林与次左衛門が明智光秀・猪飼野甚介・山岡景猶・馬場孫次郎・居初又二郎らと海津浦・塩津浦・余呉の入海・竹生島を攻撃した。27日から虎御前山砦の建築が始まった。織田軍に好き放題に自領を荒らし回られても手出しができなかった浅井長政は威信低下を恐れて朝倉義景に信長を倒せるチャンス到来と偽情報を流してついに義景を動かした。29日小谷城へやってきた義景は愕然とした。織田軍は悠々と小谷城前に砦を築き、城下には織田軍の兵が溢れていた。義景は率いた1万5千の兵と大嶽城に篭ってしまった。 間もなく虎御前山砦は完成した。信長はこの砦と横山城の連絡を確保するために八相山にも砦を築き宮部城を改修させ9月16日秀吉を虎御前山砦の守将に任じ信忠と横山城へ戻った。

 これほどに雄大な陣地構築は前代未聞であり、この陣地群の前にはもはや前方に展開する朝倉勢もさしたる脅威ではなかった。そのため信長公は横山へ軍勢を納めようと考え(武田信玄の動きに備えるため。このときの信長をとりまく情勢は、ここに書かれるほど余裕のあるものではなかった。)、その前に朝倉勢へ使者を向かわせた。使者は堀久太郎秀政であった。堀は朝倉の陣に着くと、「朝倉殿には折角の御出馬である。ついては日時を定め、一戦を致さん」という信長公の言葉を伝えたが、朝倉勢からの返答はなかった。すると霜月3日浅井・朝倉勢が軍勢を繰り出し、虎御前山から宮部に到る道に築かれた築地を破壊しようとしてきた。先鋒は浅井七郎であった。この動きに対し、秀吉はすぐさま応戦の人数を出して一戦に及んだ。戦は梶原勝兵衛・毛屋猪介・富田弥六・中野又兵衛・滝川彦右衛門らの先懸け衆が奮闘して敵を追い崩し、各々功名を挙げた。このうち滝川彦右衛門は元々信長公の近習をつとめていた者であったが、今回の江北出兵で背に大指物を差して出陣しながら大した武功も挙げられず、信長公の勘気をこうむって虎御前山に居残っていた。そのためこの戦では発奮して目のさめるような働きをし、その功によりふたたび御前に召し出された。滝川は大いに面目を施した。ーーーーー

  宮部継潤は、天文9年(1540)9歳の時、比叡山に上り西堂の行栄坊で修行、剃髪して継潤と称した。その後、20歳になって宮部に帰り、湯次神社の社僧善浄坊清潤の養子となり跡を継いだと云われる。やがて、湯次神社の近くに鎮座する宮部神社を修築して城塞化、土豪として自立した。そして、江北の戦国大名浅井長政に仕えた。
 元亀2年(1571)横山城の木下藤吉郎に勧められて織田方に転じ3千石を領し、以後宮部城は天正元年(1573)8月の小谷城落城に至るまで、織田軍の重要拠点となり、宮部から虎御前山には軍道が開かれたと伝えられる。
 継潤はその後も秀吉の与力として中国遠征などに同行し、天正9年(1581)因幡鳥取城攻めでの戦功により、但馬国豊岡城二万石ついで因幡国鳥取城五万石の大名となった。その後宮部城は廃城となった。 

 宮部の北東にある湯次神社の善祥坊清潤の養子になった、坂田郡醒ケ井の国人土肥真舜の子孫八は9歳から比叡山で修行し20歳になって継潤と名を改め湯次に戻ってきた。

 その後宮部を押領して西暦200年前後からある井守保利社(宮部神社)を改修、城砦化して土豪化し宮部氏を名乗り湖北の他の土豪と同じく戦国大名となった浅井氏に従った。湖北の国人、土豪衆は元は独立しており、京極氏の一被官だった浅井氏が抜きん出た存在になったのでそれを中心に取りあえずまとまったのが浅井家臣団である。だから浅井氏が信長に押され気味になると保身のため浅井氏を見限るものが出る。

 秀吉の懐柔策に姉川合戦後最初に寝返ったのが継潤だった。秀吉は継潤を信任していた証拠に長浜城主になると4番目に多い知行を与えた。また甥秀次を人質として継潤の養子とした。継潤もその期待に応え、因幡鳥取城主にまで登りつめた。継潤は小谷城に人質で居る妻を救おうと家臣の友田近右ェ門に暗号を持たせ小谷城へ遣わした。その暗号が分かった妻は城から無事脱出した。また継順の妻と共に城内にいた友田の父も暗号に気づいて城から逃げる事が出来た

 近江国浅井郡宮部村(現在の滋賀県長浜市宮部町)の小豪族を出自にもち、もとは比叡山の山法師であったと伝わる。宮部善祥坊清潤の養子となって比叡山で修行をしたのち僧侶となったが、故郷宮部に戻り、近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えるようになる。武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍し、横山城の城将であった羽柴秀吉と対峙したが、元亀3年(1572)10月、秀吉の調略に応じてその与力となった(『浅井三代記』)。寝返りの証として浅井側の国友城を攻めた際、銃撃を受け負傷している。

虎御前山城の遺構

虎御前山の遺構は、一部破壊されている部分もあるが、比較的良好に 残されている。
山の最高所に位置する「く」の字形の曲輪(くるわ)(伝織田信長陣)は、北・東・西の三方を高い切岸で防御されており、ここを中心に南側の砦(伝堀秀政陣・滝川一益陣)は堀切と竪堀を使った防御がなされる。 また、最も小谷城に近接する伝木下秀吉陣は、三角形の曲輪を中心に、周囲に帯曲輪が巡らされるなど、ここが最前線であったことを窺わせる。

虎御前山城図

天正元年(1573)8月、小谷城総攻撃が仕掛けられ、9月1日に長政が自刃して浅井氏は滅亡、小谷城攻略戦に終止符が打たれ、虎御前山城は廃城となった。

 ここから、『宮部城(砦)』
 
 土塁(竹藪に)
ここまで、『宮部城(砦)』
 
 
宮部会館
 花火打ち上げの技術と伝統を誇っていた宮部町に、花火打ち上げの司令所や見物席として「花火の陣屋」が昭和初期まで設営されていました。
同町には「花火陣屋三基」他木製大筒・花火玉制作用の木型・火薬調合用の「薬研」などが保存されています。歴史的には鉄砲生産で有名な国友町の鉄砲鍛冶が受注減となった江戸後期から鉄砲火薬製造の技術を応用し花火製造・打ち上げを仕事に変えていき、「花火陣屋」などを構えたといい、国友を中心とした周辺地域一体に広がりました。
 
 
『宮部史談会』歴史講演 講師長谷川博美氏 『歴史に残る宮部城の戦い』
滋賀県長浜市宮部町1437−2 宮部会館
 
本日の歩行数 15,130歩 歩行距離 11.3km
 
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!

 
平成28年1月10日『城歩会』歩き初め 新春ウォーキング。
Eメール連絡先  wwmy29831@maia.eonet.ne.jp 長谷川博美
先導 宮本優子事務局 講師現地解説 長谷川博美氏
 

市原野城(野村氏館) 近江国(永源寺) 

2016年01月09日 | 平城

 市原野城の跡

お城のデータ

所在地:東近江市市原野町 (旧神崎郡永源寺市原野町)   map:http://yahoo.jp/c3y7av

別 名:野村氏館

築城期:室町期

 築城者:市原氏

 城 主:市原四郎長信・16代の市原与兵衛尉忠綱・17代信定。佐々木氏の臣、野村主勝、同十内左衛門、同主水

 区分:平城

目標地:恩報寺

駐車場:市原野公民館駐車場

 遺構;なし

 訪城日:2016.1.9

 

現況 

市原野城は、市原野の公民館や公園の一帯だとされるが遺構無い。

約25年前に行われた滋賀県教育委員会の調査では、「極く小部分に土塁跡の竹藪や石積みが探し出せる」とあるが、

現在公民館の周辺に石が配置されいるが、遺構ではない。

近くの白鳥神社は三方を土塁が巡り城館跡

歴 史

城主としては野村氏あるいは市原氏の名があり、市原氏は佐々木氏系。佐々木高信の三男、胤信の長男・長信は、永田氏を名乗り、次男の貞綱が市原氏の祖である。近江国蒲生郡市原邑大字市原野にあって市原氏を名乗る。この貞綱の長男、市原四郎長信は、市原城主、地頭職である。
 16代の市原与兵衛尉忠綱、17代信定まで市原城主。信定の時、伊勢国二木二郎四郎が近江国打越葛木山に陣をとり市原城を攻め、城を奪う。同族の六角氏頼の来援が遅れ落城。信定の長男、長綱と次男、忠右衛門は、石山合戦に宗徒として参加、戦いに敗れ、河内の豪族茨田氏に寄寓。次男、忠右衛門は兄とともに参加後、茨田氏の口添にて河内国に隠れ住み農を業とした。

 一方、蒲生郡史や滋賀県教育委員会は以下のような見解を示している。
 玉緒郷市原野荘は古代文献にも散見されるに拘らずその具体的様相は中世文書にも見出せず、また大字共有文書1000余通にも城郭や城主に関連したものは現在では見当らない。 また蒲生郡志の古蹟名勝の項には「……等の住邸なり」と記しているがその根拠を示していない。
 従って郡史より2世紀半も古い淡海温古録の神崎郡の末葉、野村の項に「野村主膳正同主水正貞兼同十内左衛門屋形ノ近習物頭也、野村ハ三流アリ浅井ノ野村肥後守一流、粟本(栗太郡)ノ野村丹後守、同越中守、此ノ野村ト三流也、市原野村ハ孫流知レズ」とあることの当否を論ずる術もない。
 また市原野館の西方こ鎮座の白鳥神社には応永年間以降の年号刻印の鰐口や社記があり、中に鈴鹿下野守、信濃守、筑前守、周防守らの名が見られるが、これは城主ではなく、吉田ト部神道筋のものであるかも知れず、また野村源貞綱、倉垣義久、小倉実長の名も直ちに城主に当てる根拠もない。(滋賀県中世城郭分布調査)

信長公記  巻二  永禄十二年  9、伊勢平定  伊勢御参宮の事

 10月5日信長公は山田(現伊勢市)に入って堤源介邸に宿泊し、翌6日伊勢内宮・外宮・朝熊山へ参詣した。そして翌日帰陣の途につき、8日に上野(現三重県河芸町)へ出た。信長公はここで軍勢を解き、御茶筅殿を大河内城主として介添えに津田掃部を置き、安濃津(現津市)・渋見(現津市)・木造の三城には滝川一益の人数を入れ、上野には織田信包殿を封じた。そうしてみずからは馬廻のみをつれて京へ向かうことにし、諸国の軍勢にも帰国を許した。
 京へは千草越え(現三重県菰野町から鈴鹿山脈を越えて近江へ出る道)の道をとり、9日に千草へ入ったが、その日に雪が降り出して山中は大雪となってしまった。それでも翌10日には江州へ出て市原に宿泊し、11日京へ入った。京では公方様へ勢州表平定の報告をし、そののち数日滞在して天下の政情を聞き、10月17日になって濃州岐阜へ帰陣した。

信長公記 巻三 元亀元年  5、遭難行路  千草峠にて鉄砲打ち申すの事

 5月19日、浅井長政は鯰江城(現東近江市愛東村鯰江)に軍勢を入れ、同時に市原(東近江市永源寺町市原野)に一揆を蜂起させて岐阜へ下る信長公の行く手を阻んだ。これにより信長公は近江路を断念せざるをえなくなり、日野の蒲生賢秀・布施藤九郎・香津畑(東近江市永源寺町甲津畑) の菅六左衛門の尽力を得て経路を千草越え(近江から伊勢へ抜ける経路。)に変更した。
 そこへ刺客が放たれた。六角承禎に雇われた杉谷善住坊という者であった。杉谷は鉄砲を携えて千草山中の道筋に潜み、山道を通過する信長公の行列を待った。やがて杉谷の前に行列が現れ、東近江市その中の信長公が十二、三間の距離(約22~24mほど)まで近付いたとき、杉谷の手から轟然と鉄砲が発射された。
 しかし天道は信長公に味方した。玉はわずかに体をかすめただけで外れ、信長公は危地を脱したのであった。
 5月21日、信長公は無事岐阜に帰りついた。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、蒲生郡志、信長公記、淡海の城 他

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。感謝!


月ヶ瀬城 近江国(虎姫)

2016年01月09日 | 平城

お城のデータ

所在地:長浜市月ヶ瀬町(東浅井郡虎姫町月ヶ瀬)  map:http://yahoo.jp/Dz9oUi

区 分:平城

標 高:91m 比高差:0m

築城期:戦国期(応永年間(1394~1428)にはすでにあった)

城築城者:月ヶ瀬氏

城 主:月ヶ瀬播磨守・月ヶ瀬若狭守忠清

目標地:月ヶ瀬集落 安楽寺

駐車場:無し(路上駐車)

訪城日:2015.11.12

滋賀県中世城郭分布調査 7 頁294【月ヶ瀬城地形図】

 

お城の概要

月ヶ瀬城の位置は定かではないが、虎姫駅の北方に小字「城ノ内」があり、この辺りに築かれていたと推測されている。

月ヶ瀬神社で滋賀県教育委員会発行の「淡海の城」にはここが城跡としています。

しかし町内の案内図によると北陸本線のすぐ脇の田園地帯になっています。遺構は残っていないが田圃の字名が城館に関連している、月ヶ瀬神社が月瀬氏と縁があるということで月ヶ瀬集落一帯を月ヶ瀬城。

国道8号線のトンネルした道標「左亢三大師」

歴 史

築城年代は定かではない。浅井氏の家臣月ヶ瀬氏の居城で月ヶ瀬播磨守・月ヶ瀬若狭守忠清の名が知られる。

 小谷城間近の虎御前山に砦を築いた信長だったが虎御前山のすぐ西に月瀬丹後守頼次(月ヶ瀬若狭守忠清の名もある)の月ヶ瀬城があり、一つ間違うと挟撃される恐れがあった。

八相山砦―東浅井郡虎姫町中野
  虎御前山砦と同じ丘陵の南側を中野山とも呼び多賀貞能と蜂屋頼隆が守りについた。これで虎御前山の西にある月ヶ瀬城に対する備えが出来た。信長は次に宮部城との兵員や物資の移動がスムーズに行えるよう軍用道路の普請を命じた。道幅が3間半(約6.3メートル)距離が50町(約5.5キロ)の道で敵からの攻撃を避けるために1丈(約3メートル)の築地が設けられた。

ただ山本山城阿閉貞征が織田に寝返った事で月ヶ瀬城内で進退について議論があった。月ヶ瀬城は応永年間(1394~1428)にはすでにあった城でこの地の豪族月瀬氏の本拠であった。

 浅井久政の妻女の妹が月瀬播磨守に嫁いでいたことから浅井家とは深いつながりがあった。阿閉が降参した後、頼次は長政に援軍を依頼したがもはや浅井家にはそのようなゆとりはなかった。「奮戦してのち小谷城へ合流せよ」それが命令だった。阿閉軍、織田軍に包囲された城は瞬く間に落城、命令通り頼次は城兵と小谷城へ向かった。

 -----------信長公記 巻六 元亀四年 11決壊  阿閉謀叛の事

 8月8日になり、江北の土豪阿閉淡路守貞征が信長公へ内通してきた。すると信長公は夜中にもかかわらず岐阜を出陣し、そのまま敵城月ヶ瀬城(現長浜市虎姫町月ヶ瀬)へ攻め寄せ、翌晩までに開城させてしまった。そして10日には旗下の諸勢を大嶽北方の山田山(現長浜市浅井町・湖北町間)に集結させ、越前への主通路を遮断した。このため越前から出陣してきた朝倉義景の二万の援軍は小谷に近付くことができず、余呉・木之本・田部山(現余呉町~木之本町)方面に布陣しなければならなかった。

 また近年になって浅井久政は大嶽山麓の焼尾という地に砦を築いて浅見対馬に守らせていたが、この浅見も阿閉貞征にならって信長公へ通じた。----------

『信長公記』の「刀根山合戦  刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事」の条

・・・・この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。・・・云々

月ヶ瀬神社

安楽寺 

虎御前山

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、史跡ウォーカー、信長公記、淡海の城、大嶽城落城

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刀根坂の戦い

2016年01月07日 | 古戦場

   柳ケ瀬から刀根坂(久々坂)峠へ

 

今はわずかに石垣を残す疋壇城

お城のデータ

 

所在地:余呉町大字柳ケ瀬 map:

 

\\\\長公記 巻六 元亀四年 13刀根山合戦 刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事\\\\\\

 信長公に先を越されて叱責を受けた諸将は、滝川・柴田・丹羽・蜂屋・羽柴・稲葉をはじめとして口々に信長公へ詫び言を申し上げた。しかしその中で佐久間信盛だけは、目に涙を浮かべつつ「左様に仰せられども、われらほどの家臣は中々持たれませぬぞ」と自讃混じりに抗弁した。信長公はこれを聞いてさらに怒り、「そのほう男の器量を自慢いたすが、何をもってそのように言う。片腹痛いわ」といって益々機嫌を悪くした。

 信長公の読み通り、織田勢は退却する朝倉勢を追撃して多大な戦果を得ていた。信長公のもとへは追撃で得た首を持参する侍があとを絶たず、また信長公みずからも騎乗して敵勢を追った。

 敵勢は、中野河内口①と刀根山口②の二手に分かれて退却していた。織田勢はいずれを追ったものかとしばらく詮議していたが、「名のある者は、疋田・敦賀の味方城を頼りに退いていよう。されば刀根山を越え、疋田に向かうべし」との信長公の命に従い、刀根山口へ向かった。
 すると、案のごとくであった。朝倉勢は中野河内口からは雑兵を退かせ、朝倉義景以下主だった者達は刀根山から敦賀をさして退却していた。これを追尾した織田勢は刀根山の嶺で朝倉勢に追いつき、大波が浜の砂をさらうように次々と朝倉勢の首を斬獲していった。朝倉勢の中からも忠義の志厚い者たちが返しては踏みとどまって支えようとしたが、かなわずに一人二人と姿を消していった。敦賀までの十一里に及ぶ追撃戦で、討ち取られた朝倉勢の首数は三千余にのぼった。

 討ち取られた者のうち、名のある者は朝倉治部少輔・朝倉掃部助・三段崎六郎・朝倉権守・朝倉土佐守・河合安芸守・青木隼人佐・鳥居与七・窪田将監・託美越後・山崎新左衛門・土佐掃部助・山崎七郎左衛門・山崎肥前守・山崎自林坊・細呂木治部少輔・伊藤九郎兵衛・中村五郎右衛門・中村三郎兵衛・兼松又四郎の討ち取った中村新兵衛・長嶋大乗坊・和田九郎右衛門・和田清左衛門・疋田六郎二郎・小泉四郎右衛門、そして美濃の斎藤龍興③や印牧弥六左衛門など多数に及んだ。

 このうち印牧弥六左衛門は不破光治配下の原野賀左衛門という者に捕らえられ、信長公の御前に引き出されてきた。そしてその場で信長公の尋ねに答えてこれまでの働きを正直に話したところ、信長公はその武功と神妙な態度とに打たれ、「向後信長に忠節を誓うならば、一命は助けよう」と言った。しかし印牧は、「朝倉に対し、日頃より遺恨はあり申した。しかし歴々が討死して勝敗あきらかとなった今になって敵方へそのような不満を申し立て、それで命を助けられたところで、もし将来織田殿へ忠節かなわなかった時にはその不満の言葉さえも命惜しさのでまかせであったかと思われましょう。そうなれば御扶持もままならず、実情も外聞もまことに見苦しき次第になり果て申す。されば、この上は仕官の儀は結構仕り、腹を仕るべし」と乞い、許されて自害した。前代未聞の見事なる最期であった。

 この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。

 ところで、信長公は普段から腰に足半の草履④を下げておくのが常であった。今回の戦で兼松又四郎は、敵の武者を追って刀根山山中を駈けまわり、これを討ち取ったものの、首を持って信長公の御前に参上したときには足は素足で紅に染まってしまっていた。それを見た信長公は日頃携行していた足半を腰から外し、「今こそこれが役立つ時ぞ」といって兼松に与えた。冥加の至りであり、光栄これに過ぎたるものはなかった。

 信長公の武徳両輪の力により織田勢は大勝を収め、14日・15日・16日と敦賀まで進出して駐留した。そして諸所から人質をとり固めたのち、17日になって木目峠を越えて越前国内へ乱入した。そして18日には府中竜門寺⑤まで進んだ。

 織田勢の進撃をみた朝倉義景は、居館の一乗谷を捨てて大野郡山田庄の六坊賢松寺⑥に逃れた。落去の際には、高貴な女房たちでさえ輿車も満足に用意できず、徒歩はだしとなって取るものも取りあえず我先に義景の後を追って落ちていった。誠に目も当てられず、申すも耐えない有様であった。

 信長公は柴田勝家・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らの将兵を平泉口に派遣して義景を追尾させるとともに、諸卒を手分けして山中に分け入らせ、各所に逃れた朝倉の党類を捜し出させた。その結果、竜門寺の陣所には毎日百人二百人もの人数が数珠繋ぎとなって引き立ててこられ、信長公の命を受けた小姓衆の手により際限なく討ち果たされていった。

 その有様は正視に耐えなかった。ある女房などは下女もつれずにただ一人逃げていたところを下々の者に捕まり、数日にわたって捕らえ置かれていたが、あるとき硯を借りて鼻紙の端に書置きを残してから隙を見て逃げ、井戸に身を投げて死んだ。あとから人がその書置きを開くと、そこにはありをればよしなき雲も立ちかかるいざや入りなむ山のはの月と辞世が書かれていた。これを見た者は、哀れさにみな涙した。

 ほどなくして平泉寺⑦の僧衆が信長公へ忠節を誓い、織田勢にあわせて人数を出してきた。これにより、義景の進退は極まった。

 ①現余呉村から栃ノ木峠を越え越前へ入る道筋 ②現木之本町から刀根山を越え敦賀に抜ける道筋(刀根山は敦賀市刀根) ③斎藤龍興は美濃を追われてからは各地の反信長勢力の間を転々とし、このときは朝倉勢のうちにいた。 ④かかと部分のない半草履 ⑤現福井県武生市内 ⑥現大野市内 ⑦現勝山市平泉寺

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 織田信長は世に言う元亀元年(1570)の『金ヶ崎の退き口』)後、その年の中に「姉川の合戦」で浅井、朝倉連合軍を撃破した。そして、元亀3年(1572)に入って信長は本格的に浅井長政の小谷城孤立化の態勢を強めた。3月、信長は小谷城近くの横山城に入り、木之本方面を焼き払い、7月湖北の阿閉貞征が守る山本城と小谷城を分断、小谷城前の虎御前山に砦を築き攻撃態勢をとった。攻防急を告げるに至って、朝倉義景は2万の軍勢で来援、木之本田上山に本陣を置き、小谷城に連なる大嶽に後詰した。8月12日近畿を襲った暴風雨の中、信長は大嶽砦、丁野城を奇襲し、陥れた。

 朝倉軍はここで乾坤一擲浅井軍と共に戦うことをしなかった。戦闘員数の劣勢、度重なる近江への軍事行動による兵員の疲弊から、野戦の不利を認めざるを得なかった。また、元亀元年の姉川の戦いの敗北が判断に去来したであろう。朝倉軍は領国の居城、敦賀の疋壇城を目指して退却し、防衛の態勢を固めようと画した。しかし、織田信長はこの機を逃さず、逃げ足の朝倉軍を猛迫した。信長自ら先頭に立って追う。機動力に勝る織田軍は北国街道を追撃し、刀根坂の麓「柳ケ瀬」で追付き、逃げる朝倉軍を攻めたてた。 道幅は一気に狭くなる。00mほどの道のりだが、つづら折りを過ぎると切り通しに着く。そしてそこが刀根坂峠。峠を越えると近江の国である。元亀3年(1572)この峠で越前朝倉軍は織田信長軍に殲滅された。(刀根坂の戦い)

 


新田義貞軍の一部が戦没した、河野・土居・得能三将が率いる300騎 塩津の谷

2016年01月07日 | 武将

新田義貞軍ぼ武将・河野氏をまつる宝塔

下鹽津神社 (下塩津神社)

所在地:長浜市西浅井町集福寺455(旧・西浅井郡西浅井町集福寺455)map:http://yahoo.jp/SXZ2Yx

参拝日:2015.12.12

集福寺の下塩津神社の境内、 同社の社務所の裏手の山際

その大きさや形状から、 十分南北朝期に~」鵬=るものと推. 定される。 かっては、 より ... HH、 足利尊氏に追われて京都を脱出した新田義貞軍の一部が、 敦賀に 向かう ... 西浅井町横波日吉神社境内に、 大小の五輪塔が低い. 段上に建って いる~ ...

 

式内社 近江國淺井郡 下鹽津神社 旧村社

御祭神 鹽土老命
配祀 伊邪那岐命 伊邪那美命

滋賀県長浜市(旧西浅井町)にある。近江塩津駅の北2Kmほどの集福寺に鎮座。
8号線から東へ、北陸本線のくぐって、大川沿いに進む。

参道入口に鳥居が立ち、傍らに社号標。参道を歩くと、目の前に美しい巨木が聳えている。

境内入口に案内板があり、右手が広い境内。左へ進み社務所の裏手に回ると「五輪塔」がある。

境内の右端に社殿があり、本殿は覆屋の中にあるようだ。本殿の左横に、小祠・白山社。その横に二棟並んだ神明社がある。

創祀の由来は、社伝によると、応神天皇が、皇子の頃、塩土老翁の託宣を得て、即位の後、大雀命・宇遅能和紀郎子命の二皇子に
この神を崇敬するように命じた。
そこで、二皇子は、淡海の集福蘇翁に命じ、仁徳天皇三年四月、浅井郡下塩津郷集福寺小松山小稲森に社殿を創立し、塩土老翁を鎮祭し、下塩津神社としたという。

醍醐天皇昌泰二年(899)、今出川大納言の二子で、天台僧の大法深が当社の社僧に任ぜられ、信仰していた熊野三所権現を勧請し、
伊邪那岐命・伊邪那美命を配祀した。

社殿には、三つ巴・桐・菊の3種の紋が付いていたが、案内板に、神紋は、菊と桐とある。このように神紋を記載してくれるとありがたいな。

式内社 下塩津神社の由緒

 当社由緒に関する古記録によると、人皇十五代応神天皇が塩 土老翁の神徳を知り二人の皇子に、塩土老翁の神霊を祀る事を 命じられた。茲に二皇子、淡海の集福蘇翁に命じ下塩津の郷、集 福寺小松山小稲森に社祠を建て塩土老翁の神霊を鎮祭させて下 塩津神社と称え奉った。
 第六十代醍醐天皇の昌泰二年(八九九)今出川大納言の子の 天台僧が当社神宮寺の吉祥寺の社僧となり、紀伊の国熊野神社 の伊邪那伎命・伊邪那美命の二神を勧請して熊野三社権現と称 え奉るに至った。下塩津郷五ケ邑並びに境内七町四方を神領と した。永享四年(一四三二)二月従五位の神階を宣下される。神紋(十六弁菊花 五七の桐)
 延喜式神明帳に浅井郡十四座とあるが、その中に下塩津神社 とあるのは当社である。

当神社の主な祭

八月十六日 例大祭 花笠踊(ちゃんちゃこ踊)奉納(滋賀県選択無形民俗文化財)

二月十一日 神事祭(おこない)奉納  -境内案内板より-

 

 南北朝合戦の爪

長浜市西浅井町横波の日吉神社の建つ五輪塔群【南北朝~室町期=戦国時代】

 天保5年(1834)の建立で、駄馬仲間や塩津浜およびその枝村8ヶ村(祝山、野坂、 塩津中、岩熊(やのくま)、横波、余、集福寺、 ... なお、塩津と木之本を結ぶ道として、 塩津神社の前から国道8号(県道514号筋)で賎ヶ岳の南腹を越えて木之本に至る道と 、祝山から ..... 集落中央あたり右手に日吉神社、集落の北はずれで自然石に掘られた 小さな大日如来が祠に安置されていた。 ... 南北朝時代の延元元年(1336)、新田義貞 らの南朝軍は後醍醐天皇の皇子恒良親王と尊良親王を奉じて北陸に下り、金ヶ崎城に 入った。

日吉神社の境内に、大小16基の五輪塔が低い段上に建っている。これらは、平成18年に背後の山際の斜面から発掘されたものだが、それに先立つ平成11年には、同地域から「延元戦没」と記された石碑が発見されていた。

この周辺は、織田信長の元亀兵乱で破壊された石塔が埋まっているという伝承があったが、平成になってその事実が確認された。

発見された石塔は錯乱状態であったが、村の有志が現在の「地・水・火・空」風輪の組み合わせは、再建当時の推測である。

「延元戦没」と刻まれた石碑には、「古えを しのばざらめや 今とても 色を得能の 塚の紅葉は/玄夢作」と和歌が刻まれている。ここで「延元戦没」とあるのは、南北朝期延元3(1336)年10月11日に、足利尊氏によって京を追われた新田義貞軍の一部が戦没したこと指す、本隊に遅れていた河野・土居・得能三将が率いる300騎は雪が降りしるなか、塩津の谷で、敵軍に取り囲まれて自害した。(太田浩司…横波の西田覚氏から聞きとり)

  本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


太平寺城(霧ガ城)   近江国(伊吹)

2016年01月07日 | 山城

お城のデータ

所在地:米原市太平寺(旧坂田郡伊吹町太平寺)map:http://yahoo.jp/GR3qxP

別 称:霧ガ城

区 分:山城 

創築年:鎌倉中期

築城者:京極氏信

城 主:京極氏信・京極道誉・・・

遺 構:土塁・空堀・郭

標 高:450m

訪城日:・・・訪城不可(瀬田の窪田城と同じく、社有地で許可取れず)

※太平寺集落跡は伊吹鉱山の管理下にあり、許可なく出入りすることは出来ません

 

 

お城の概要

『日本城郭体系 11』によりますと、

太平寺の住民は以前に春照に集団移住したため、行政上の表記はなくなっています。

伊吹山(標高1377m)の西側の山腹にあった伊吹山四か寺の一つ、太平寺(太平護国寺)の寺域に、その居城として築いたものである。

この城は、江北屋形と称し、氏信以後、南北朝時代の京極高氏(道誉)や高秀、高詮を経て京極高清までの居城としてあったが、永正年間(1504~21)に、高清が上平寺城に移り廃城となった。(後略)」とあります。太平寺の住民は以前に春照に集団移住したため、行政上の表記はなくなっています。

 

現在、伊吹町太平寺の集落は、当時セメントの原石採集場に接近することから春照に集落移住して、人は住んでない。

 

 太平寺城址の主郭は太平神社の辺りと思われ、神社の石段最下から北向きには深さ5m幅6mの空掘りと土塁が築かれている。太平寺集落の南端伝いには東西土塁と堀が30mに渡って築かれ、太平神社の背後は数段の削平地になっている。

 

太平寺集落は、伊吹山中腹(詳しくは)太平寺.滋賀県坂田郡伊吹村(現・滋賀県米原市)にあった廃村集落

太平寺のくらし

 千古の歴史を秘める古刹の面影はおろか、懐かしい村跡さえももはや判然としない。今はただ荒涼の山肌の起伏に、呆然とたたずむ。
 おおいかぶさってくる伊吹の険阻な山肌に生きた村人達。かつてはソバの白い花があたりを埋め、階段のような畑にゴボウやニンジンが作られていた。太平ニンジン、太平ソバの名が長浜近郷に知られていたのは遠い昔のことではない。

 

  明治2年の戸籍には「坂田郡太平寺村  家15戸 坊2軒 人62人 男28人 女34人 田1町7反 畑131ヵ所 ソバ畑298ヵ所 林163ヵ所 牛7頭」とある。厳しい自然環境を克服して余すところなく耕地を広げ、ソバや野菜の栽培に取り組んでいたかを知る事ができる。伊吹山8合目までソバ畑があり、集落上部の傾斜地は夏になると白いソバの花に埋まったと古老は語る。長浜あたりからも山が白く見えたと言い伝えられている。 (伊吹山資料館資料より)

そば畑

日本そば発祥の地・・・・伊吹そばの歴史

 そばは北方大陸から朝鮮半島を経て渡来したのは8世紀の頃と推定される。もっぱら備荒食糧として奈良・平安の二朝に歓種された。わが国最初の栽培地は近江の伊吹山下で、その後美濃・信濃・甲斐の山国に発達し、さらに関東・東北・北海道まで普及した。寛文8年(1668年)の伊吹山絵図によると、伊吹山8合目付近まで山畑の分布が記載されている。明治の物産誌によると、太平寺では耕地の半分がソバ畑で24石4斗5升を産出しており、近世に比し減少を報じている。本朝文選(1706年)によると、彦根藩士森川許六は「伊吹ソバ天下にかくれなければ、からみ大根また此山を極上と定む。酒々の風流物、誰か是を崇敬せぬものなし・・・・」と述べている。(からみ大根とは、この地域で取れる「伊吹大根」のこと)(伊吹町史 通史編より抜粋) 

 

歴 史
 

太平寺城は伊吹山の南西斜面、標高450m付近の太平寺の跡を利用して、佐々木定綱の四男・氏信が愛知川以北の、愛知、犬上、坂田、浅井、伊香、高島の六郡を与えられた後に築いた京極氏の居城である。

 城の背後を伊吹山の急斜面に守られ、東側は大富沢に落ち込む要害の地にあり、地形的には兵法で云う「後ろ堅固の城」である。また、北陸と東海を結ぶ北国脇往還道(現国道365号線)を押さえる要衝の地にある。


「坂田郡誌」によると、伊吹山で修行した僧三修(さんしゅう)が寺院を建ててから霊地となり、御醍醐天皇(1218~1330年)の頃、亀山天皇の皇子守良(もりよし)親王が同寺に身を寄せ、1333年には京都六波羅の戦火を逃れたあと伏見、花園両上皇、康仁親王らがかくまわれるなど皇室との縁が深かった。のちに湖北の領主となった京極道誉が北陸の要路である北国街道を守るためこの地に砦を築き、太平寺の館(やかた)を建てたという。
 京極氏は拠点・居城を太平寺城・上平寺城・柏原城・勝楽寺城および河内城と、その時々に変えていたとされ、この太平寺城がいつ頃まで城として使われていたのか明確ではないが、京極高清が明応年間(1492~1499)までは太平寺城を使っていたのではないかとされている。

 佐々木定綱の子、四男氏信は愛知川町以北の、「愛知」「犬上」「坂田」「浅井」「伊香」「高島」の六郡を与えられ、江北六郡の本拠としては、地理的に見て幾分よかった感がするここ伊吹山の西面麓「太平寺」に築城した。

 太平寺の名が示すように、寺院と城が一体化がうかがわれる。太平寺は太平護国寺とも呼ばれ、宝亀年間(770-780)に光仁天皇の勅願で建立された伊吹四大寺の一つである。

 このお城は江北屋形と称し、氏信以後、南北朝時代の京極高氏(道誉)や高秀、高詮を経て京極高清間での居城としていたが、永正年間(1504-1521)に、高清が上平寺城に移り廃城となった。

 

 『近江国坂田郡誌』には、「太平寺城址は標高1000の地に有り・・」と記されているが、1000m地点には遺構が確認できず、地形的に見ても急斜面で、冬季の積雪量は5~6mもあることから、城域は太平寺集落跡 標高450m(右下写真の中腹の台地)と考えられる。

 

太平神社脇の空掘

昭和28年に撮影された伊吹山と太平寺の村落(下中央の高台)住友大阪セメント(株)のカタログより抜粋

 

参考資料:・・・滋賀県米原市の名所・旧跡・観光スポット、HP太平寺、近江の城郭

訪城不可のため、転載・・感謝!

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


市原野白鳥社城 近江国(永源寺)

2016年01月05日 | 居城

お城のデータ

所在地 :東近江市市原野町 (旧・神崎郡永源寺町市原野) map:http://yahoo.jp/dDEndc

築城年:ーー

築城者:---

区 分: 居城

遺  構 : 土塁、虎口、堀

目標地:恩通寺・ライスセンター

駐車場:白鳥神社の駐車場

訪城日:2016.1.5

 

お城の概要

恩通寺手前の十字路を右折し、奥に70m程入った公民館付近が市原野城跡で、さらに南に70m程行きT字路を右折する。西に100m程行った先の突き当たりが市原野白鳥社城跡である。

白鳥神社の境内を囲み土塁と堀跡が巡っている。規模は、北側土塁が40m以上、西側が半ばで屈曲するが40m以上、高さが1.5~2.5mである。南側にも土塁の痕跡が残っている。
市原野城との位置関係やその間に溝が巡る区画が見られることから群郭式城館が想定されている。

歴 史

歴史については、不明。
 白鳥神社には応永年間以降の年号刻印の鰐口や社記があり、中に鈴鹿下野守、信濃守、筑前守、周防守らの名が見られるが、これは城主ではなく、吉田ト部神道筋のものでないかとされる。 

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、淡海の城、

      本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


上二俣城 近江国(永源寺)

2016年01月05日 | 平城

お城のデータ 

所在地 : 東近江市上二俣町 (旧神崎郡永源寺町上二俣)map:http://yahoo.jp/STCLPb

区 分:平城

築城者:ーー

築城者:・・

遺 構:土塁、堀

目標地:若宮神社・上二俣会議所

駐車場:上二俣会議所 

訪城日:2016.1.5

お城の概要

集落中心部に鎮座する若宮神社が城館跡とされる。神社参道の東側に長さ約25m、高さ50cm前後の土塁が残り、この付近一帯の約50m四方を土塁と堀で取り囲まれた単郭式の城館が推測されている。

上二俣集落内のバス停のあるT字路で左折、北に40m程入った上二俣会議所の右手が若宮神社である。

 歴 史

 歴史については、不明。

城址敷地内の上二俣会議所

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、淡海の城、

      本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


近江の国の合戦年表

2016年01月05日 | 古戦場

参考資料:影の流れ

応仁・文明近江の乱

 
細川党(東軍)  
  京極持清 重臣は多賀高忠
  京極政経  
  京極高光 (文明2年から西軍に転ずる)重臣は多賀昌宗
  六角政尭 重臣 三井又五郎・伊庭造阿・和田某
  小倉実澄  
  蒲生貞秀  
     
山名党(西軍)  
  六角高頼 重臣は山内政綱・伊庭貞隆
  六角政信 (文明4年から東軍に転ずる)
  六角政勝  
  大原成信  
  京極高清  
       
◇六角氏

湖南地方を支配した佐々木六角氏では、満綱が剃髪すると、嫡子四郎持綱が政務をとっていたが、文安元年(1444)、六角氏の被官らは、持綱の品行修まらず、無道の事が多いと反逆し、幕府に訴えた事から、持綱は難を避けて、父満綱とともに同族の大原持綱を頼った。

 

文安2年(1445)正月28日、満綱次男の時綱を奉じた六角氏の被官たちが、満綱、持綱父子を攻めて自殺させる、という骨肉弑逆の惨事を引き起こした。
こうして、満綱の次男時綱が、重臣たちに支えられて六角家の家督を継ごうとした所、相国寺に入って僧となっていた三男久頼が、父兄が死んだ後を継ぐため還俗した。そして家督を継ぎ、文安3年(1446)2月、元服して久頼と称し、幕府に出仕する事になった。
久頼の還俗は、時綱を奉じた六角氏被官たちの意外とする所で、彼らは久頼元服の翌月の3月12日、夜陰に乗じて、久頼の京都邸を襲ったが、暗殺の目的を達せず、かえってますます幕府の怒りを買う事になった。9月5日、久頼が飯高山(愛知郡)に時綱以下、被官、重臣たちは、頭を並べて自害するという結果になった。
ところが、互いに勢力争いを繰り返していた六角氏と京極氏との間は、この六角久頼の代においても、当時、頭角を現してきた京極持清との間に、対立抗争を繰り広げる事となり、久頼は同族京極持清との確執を苦にして自害した(康正2年10月2日)。
そして、その久頼の後を、子亀寿丸(のち高頼)はまだ幼少であったため、先に自害した時綱の子、政尭が継いだが、この政尭が、重臣伊庭某を殺した事から、将軍義政の怒りをかい、執政を辞めさせられ、政尭は出家して、京都洛北で僧となった。
政尭が退けられた事で、六角家では持綱の子政信が後を継いで家督を継ごうとした所、幕府は久頼の子亀寿丸(高頼)に六角の家督を継がせた。
その事で、今度は政信と高頼とが六角宗家を争う事となった。
応仁の乱が始まると、六角政尭は還俗して、京極持清の招きによって東軍に加わった事から、政尭に六角宗家を奪われていた高頼は西軍につく事になり、また政信は、高頼と宗家を争った間でありながら、政尭が父の仇であると憎む気持ちから、政尭に抗して、山名党に与するという事になった。
しかし、高頼と政信は、もともと宗家を争う関係であったから、やがて政信は高頼とも袂を分かって、のちには、東軍に転ずるようになっていく。

       
応仁元年(1467) 10月 17日 六角高頼、六角政尭と馬淵で戦う。
  12月 13日 京極持清、六角高頼方の高野瀬城を攻め落とす。
応仁2年(1468) 4月 1日 京極持清の嫡子勝秀は、六角氏の主城観音寺城を攻める。当時、六角高頼とその陣代山内政綱らは京にあり、留守を守る伊庭行隆が、京極勢を迎えて、攻防数日戦いの末、六角方は敗れて城を開く。
  4月 初め 京極勝秀、甲賀郡に攻め入り、高頼方の小佐治為重を攻める。
  4月 26日 高頼方の山内政綱、六角政尭の長光寺城を攻め落とす。
  閏10月 30日 高頼方の山内政綱、弓削において、六角政尭を破る。この時、弓削の瑞光寺七堂伽藍は残らず焼失する。
  11月 5日 六角政尭、京極持清、高頼方の守山城を攻め落とす。
  11月   高頼方、神崎郡垣見において、政尭方に敗れる。
  11月 8日 再び、京極持清、六角政尭、観音寺城を攻め落とす。
文明元年(1469) 5月   六角高頼、近江守護職を解任され、京極持清が近江守護職となる。六角高頼は激高し、焼亡破却された城を修築して、これに拠った。京極持清、六角政尭、観音寺城を攻撃するが、撃退される。
  7月 25日 京極持清方、高頼方の愛知郡押立城を攻め落とす。
  8月 初め 京極持清方、高頼方の神崎郡梁瀬城を攻め落とす。
  8月 18日 持清方の多賀高忠、高頼方の山内政綱の守る金剛寺城を攻め、落とす。この時、甲賀武士佐治一族、活躍するが、部下の戦死者も多く、佐治越前守為重の息子も戦死する。
  8月 20日 京極方の多賀高忠、高頼方の慈恩寺城も破る。
  8月 26日 京極方の多賀高忠、観音寺城下石寺において高頼方を破る。
文明2年(1470) 2月 12日 京極方の多賀高忠、観音寺城馬場において高頼方を破る。
  5月頃   高頼の被官、島郷、望月、村島、服部、大原ら甲賀武士たち、多賀高忠の兵に敗れる。望月、村島、服部五郎左衛門、大原ら討ち取られる。佐治美作守為定も戦死。
  8月 4日 京極持清、病死。京極家分裂し、六角高頼、有利となる。
  9月 22日 多賀高忠、伊勢に逃れ、関盛元を頼る。
  11月頃   多賀高忠、蒲生郡八丁原において、高頼軍を破る。
文明3年(1471) 1月 23日 京極方の多賀高忠、慈恩寺城を攻め破る。六角高頼は甲賀に逃げ、高頼の老臣佐々木新左衛門自刃する。
  2月 28日 美濃の土岐氏、高頼を助けるために、宿将斎藤妙椿(利藤)を出陣させる。国境を越えて米原山にて京極氏を破る。高頼、これを知り甲賀から出て斎藤勢と合流し、多賀高忠を破り、敗走させ、近江を回復する。
  6月 27日 細川勝元、六角政尭に六角高頼討伐を命ずる。高島の朽木弥五郎貞武、六角旧臣目賀田次郎左衛門、下笠美濃守、高野瀬与四郎、小河丹後守、山崎中務丞らにも政尭に味方するよう命ずる。政尭は神崎郡清水鼻に城を築き、拠る。
  閏8月 21日 京極政高、出雲、隠岐、飛騨3ケ国の守護職となる。
  11月 12日 高頼、清水鼻城を攻める。政尭、自害して果てる。清水鼻城は、のちに箕作城といわれる。この後、六角政信は東軍方に与し、高頼と戦う事となる。
文明4年(1472) 8月   高頼、援軍の斎藤妙椿、畠山義就と共に、多賀高忠、京極政高を江北において破る。多賀高忠は越前に逃げる。
文明5年(1473) 9月 30日 京極政高、近江国守護職となる。
文明7年(1475) 10月 28日 高頼、佐々木庄において京極政高、叡山山門衆徒を破る。
文明18年(1486) 8月   京極政高、老臣多賀宗直に命じ敏満寺の京極高清を攻めさす。高清は敏満寺城を捨て、甲賀郡三雲に逃れる。
文明19年(1487) 5月 1日 京極高清、勢いを盛り返し京極政高を攻める。多賀宗直自害。
長享元年(1487) 9月 12日 将軍義尚、六角高頼征伐するため、坂本に出陣(鈎の陣)。将軍の陣営には、京極政高、京極高清、田中兵衛尉、土肥刑部少輔、佐々木大原備中守政重、同左馬介尚親、伊勢又六、吉田源四郎、岩室弥四郎らの、京極方を主とする近江武将も加わる。
  9月 24日 京軍の武田国信、京極高清、富樫政親、仁木貞長、上野玄蕃頭、伊勢貞陸、細川被官の安富、上原、物部らが、六角方の将九里の拠る金剛寺、伊庭の拠る八幡山を攻める。金剛寺、八幡山は落城。高頼は甲賀武士、山中、望月、和田らを頼り、甲賀に逃げる。高頼が甲賀に逃げたので、将軍義尚は陣を栗太郡鈎の安養寺に移る。京郡の浦上則宗は甲賀に高頼を追うが、すでに高頼は伊勢に逃げていた。
  10月 27日 義尚は本陣を安養寺から下鈎の真宝館に一宇に移す。
  12月 2日 六角高頼軍は甲賀から出て、高頼の宿将山内政綱は野洲の三上に陣する。この夜、甲賀21家が将軍陣所へ夜討ちを掛ける。
長享3年(1489) 3月 26日 将軍義尚、陣中で病死(25才)。幕府軍は京に引き上げる。
延徳3年(1491) 8月 27日 将軍義材、六角高頼追討のため大津三井寺の光浄院に陣を張る。すでに、8月23日、六角高頼は観音寺城を捨て、甲賀に逃げる。
  10月   京軍の軍奉行赤松兵部少輔政村の老臣、浦上美作守則宗が佐々木庄に着陣する。
  11月 3日 六角高頼の宿将山内政綱が、高頼を裏切り将軍陣営に帰服。
  11月 18日 義材、赤松大膳大夫政則と織田大和守敏定に山内政綱の殺害を命ずる。赤松氏の将浦上則宗、織田敏定、大津の浜道場に山内を挟撃する。山内政綱、赤松伯耆守に首を討たれる。
延徳4年(1492) 3月   六角高頼、梁瀬河原で浦上軍と武田氏の将逸見軍と戦い敗れ、甲賀、飯道寺に逃れる。高頼、江北の京極高清と手を結び、幕府軍を撹乱させようとする。
  5月   斯波義寛、山名豊時、守山に着陣、武田元信、野洲の小南に着陣。
明応元年(1492) 9月   京極高清、市原谷、八風峠口に出動。
      赤松政則、芝原に着陣、京極勢を蹴散らし甲津畑まで進出。京極勢は敗れて北方に退却。
  10月   将軍義材、三井寺から陣を金剛寺に進める。
      六角高頼は伊勢に逃げるが、鈴鹿坂下で北畠材親の兵に敗れる。
  12月 13日

将軍、金剛寺の陣を払い、帰京する。


南桜(みなみさくら)館(木村館)   近江国(野洲)

2016年01月04日 | 居館

野洲市の遺跡より

お城のデータ

所在地:滋賀県野洲市南桜(旧、野洲郡野洲町南桜 map:http://yahoo.jp/856V1n

別 称:木村館
区 分:城館
現 状:宅地
築城期:ーー
築城者:木村氏
訪城日:2015.12.24
お城の概要

南桜集落のあったとされる平城。 同地を領した木村氏の居館。野洲川を見下ろす高台にあり、集落内を巡る水路と基段・城館。

 
聖應寺 
 延暦20年(802)頃、最澄が自作の薬師如来を安置し開基したと伝えられている。
元亀元年(1570)本尊を除くすべての諸堂が消失、寛政10年(1799)日光輪王寺宮殿下の帰依を受け再建、享和2年(1803)兵火により消失、その後再建比叡山三千坊の一寺院として祈願所となる。
 昭和36年名神高速道路建設により立ち退きとなり現在の地へ移築された。しかし一部の石塔・石仏は移築されず名神高速道路に埋設されたままである
 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、野洲市の遺跡、遺跡ウォーカー


なぜ信長は本拠を近江に

2016年01月03日 | 番外編

なぜ信長は本拠を近江に? 元安土城博副館長がガイド本

織田信長の歩みをたどるように県内の史跡を紹介する旅の本を出版した大沼さん(大津市瀬田南大萱町)

 安土城考古博物館元副館長で滋賀県文化財保護協会普及専門員の大沼芳幸さん(61)が、織田信長の県内での足跡をたどる旅行者向けのガイド本「信長が見た近江」を出版した。信長が築城や接収した城跡などを紹介し、華麗な天主と伝わる安土城築城の真意なども考察。「信長は戦うことよりも、視覚的に権威を示すことに重きを置いて天下取りを描いた。なぜ近江に本拠を置いたのか、人物像に少しでも迫れれば」と話している。

 大沼さんは琵琶湖文化史が専門。県教委文化財専門職員として、安土城の発掘調査や県内の文化財保存に長く携わってきた。

 書籍はオールカラーのA5判で136ページ。信長に仕えた太田牛一(おおたぎゅういち)が記した「信長公記(しんちょうこうき)」の記録に沿って、現代に残る城跡や古戦場、巨木などを巡る構成になっている。上洛途中に初めて信長が琵琶湖を見た1559年から始まり、物流と情報の拠点としての近江と琵琶湖の支配、安土城天主が完成した1579年ごろまでの湖国での足跡を追いながら、各史跡の歴史上の位置づけを記している。

 安土城については信長が自身を神格化するための「究極の装置」と紹介。「天皇という農耕神に対抗するため、信長はより神威の高い水と太陽をつかさどる神を目指した」などとし、金箔(きんぱく)張りの絢爛(けんらん)豪華な天主は神殿的な役割を担ったと解説している。

 山形県出身の大沼さんは「滋賀の人は信長に『侵略者』のイメージを持つ人が多いが、信長は天下取りの拠点として近江を重要視し琵琶湖にも大きく感化されたと思う。自分なりの物語を重ねながら史跡巡りを楽しんでほしい」と話している。

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京都新聞2016年01月02日 09時10分