写画へのいざない

父のブログは2005年6月から2010年4月まで、息子のブログは2014年5月から、それぞれご覧いただけます。

蝉の抜け殻

2009-08-26 10:46:00 | 昆虫

 去り行く夏を惜しむかのように、此処にきて朝から蝉の鳴き声が騒がしい。

 ウォーキング途上のアスファルトの路上にも、うつ伏せ、あお向け、なかには、自転車か靴で潰されてペチャンコになっているものと、夏も終わりに近づくと、無残な蝉の姿を多く目にする。
 蝉の種類は 日本だけでも数百種に及ぶというが、今 目にする無残な蝉の正体は、その殆どが「アブラゼミ」である。
 揚げ物、炒め物などして食べる習慣がある、中国や東南アジアなどでは、こんな無残なありさまは目にしないのだろうか。
 また、蝉の抜け殻は生薬として、痒み止め、解熱作用があり薬用にも用いられているという。

 地上に出ると短期間で死んでいく蝉は 日本では古来より感動と無常観を呼び起こさせ「もののあはれ」の代表だったというが、作品の抜け殻から脱皮した蝉、野外では1ヵ月ほど生きていられるというが、好みなメスに出会って鳴き叫けび 喜んでいるのか、または、何処かで無残な醜態を晒しているのか。・・・こんなことを考えさせられる蝉の抜け殻であった。

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終戦記念日に思う

2009-08-19 20:31:00 | 行事

 先日、64回目の終戦記念日を迎えたが、今年は オバマ米大統領のプラハ演説などにより、例年になく「核を含む悲惨な戦争の教訓を次代に継承していく」として、テレビなどの特番が目を惹いた。

 当時は5才故、殆どその記憶がないが、終戦記念日を機会に、戦争の悲惨さと父の想い出に触れてみたい。

★ 戦争の悲惨さ 
 当時 東京の大森に住んでいたが、戦慄として残っているは、'45年3月10日の東京大空襲で、その規模は、B≠Q9爆撃機 約300機と過去に類をみない大鰍ゥりなもので、一晩で10万の人が亡くなったという。
 我々家族は、疎開中であった次兄を除き母と子の4人は、隣に住む親戚の勧めにより、大森の河岸から小船に乗り、当時、平和島は米兵の捕虜収容所があり敵は攻めてこないとして、平和島の沖合いに漂いながら戦火が治まるのを待つ。
 海苔業で用いる小さな船に10数人が乗り込んだこともあり、近くに落ちる焼夷弾の火玉とその衝撃による揺れで沈まないか、また、船から見える火災から逃げ惑う海岸沿いの人々・・・と、不安と恐浮ェ入り乱れた悲惨な一夜を過ごした。
 戦火も治まり、夜が明け家に戻った時は、辺り一面焼け野原で、玄関脇にあった防空壕にいれて置いた食べ物も盗まれ?空ッモセったという。

★ 父の想い出
 父は、輸送船でマレー諸島沖合いを航行中、撃沈され、終戦の1年前の '44年2月に戦死、小生その時4才。
 太平洋戦争の始まりが '41年12月のため、小生が2才の時には、既に父は出征しており、接点は殆どなく、あったとしても4才以下で、その記憶はない。
 ただ、物心がついた後・・・
 父が軍役中、横須賀に寄港したことがあり、その際 家族揃って面会に訪れたが、久し振りに見る、育ち盛りの末っ子の小生(その時3才)を両手で抱き上げ、喜びながらあやしていたという。
 ・・・ことを、母や兄から幾度か聞かされ、今は明確な接点として記憶に残っている。 
 また、直ぐ上の兄が、軍曹である父が水兵たちに挨拶するしぐさと、軍服姿が格好良かったこと・・・を聞き、誇らしく感じたものである。

 15才の頃、たった一枚残っていた父の出征前の写真を見て、ペンで絵を描いたことがあるが、作品はそれを基に写画にしたものである。
 何で 唐突に描く気になったのか、その頃は何も考えなかったが、恐らく写真を目の前に置き描くことによって、 父との接点をもっと見出したかったものと思う。

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忘れられたきゅうり

2009-08-12 10:58:00 | ノンジャンル

 月も8月に変わって、そろそろ 今年の家庭菜園も終わりかと片付けに鰍ゥったところ、何気なくそこにあった取残されたメタボのきゅうり。

今年は、5月のゴールデン休暇の前に、きゅうり、トマト、ピーマンと其々2苗づつを植え込んだが、満足に収穫があったのは、トマトのみであとは不首尾に終わった。

 即ち、ピーマンは、苗の植え始めは、活きよいよく育つたが、その後 日が経っても実がならず、収穫なし。
 きゅうりは1苗の方のみ、当初4本ほど収穫があったが、その後は 他方の苗も合わせて、数ヶ所 実が生るも3cm以上には育たず、1ヶ月半ほど収穫無く、あきらめて気にも留めなかったが、冒頭で記述のとおり、赤っ茶けた葉の影とブロック塀に挟まれ、太めの忘れられたきゅうりが見つかったもの。

 食すかどうか迷ったが、折角 獲れたからと冷やして味噌を付け食べたが、これが思いの外、美味であった。

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関亭廟

2009-08-05 10:15:00 | 寺社・仏閣

 万国橋の通りをそのまま関内方向へ向かって進み、右手に見えてくる県立歴史博物館の先を東方向に向きを変え、次の目的地へ・・・と向かう筈であったが、暑さと疲れで足が進まずやむなく計画を中断。
 既に、昼食時を過ぎており、近くを通っていたみなとみらい線の電車に乗り、日本大通り駅から元町中華街駅へ移動し、中華街にてビールとチンジャオロース定食を食べ一息つく。

 作品は、元町中華街駅を降りたものの位置関係が判らず、中華街をうろついていた際、とてつもない派手な外観の中国風寺院を目にし、思わずカメラに収めたもの。

 後で調べたら「関亭廟」と言い、主神は、西暦160年ごろに実在した中国の武将「関羽雲長」を神格化したものが祀られ、関羽の信義を重んじた人柄から商売の神様として世界中で祀られているという。
 関羽についてはご存知と思うが、三国志の英雄で、劉備・張飛と「桃園の誓い」を結び終生劉備に忠誠を尽くしたことで知られている。

 作品でははっきりしないが、本殿(左側)の極彩色の屋根瓦は、北京の工房で特別注文して焼きあげられたもの、また 屋根の上にある、龍(右側)の飾りはガラス細工で作られているという。

 * 今回の散策は途中で中断したが、既に 7月の末に、この散策の続きを施行済み。
  これの作品については、少し間をおいて掲載したい。

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