くに楽

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徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之四拾

2011-06-14 00:04:06 | はらだおさむ氏コーナー
               
「知日」ということ

 「3・11」のとき、たまたま出張で東京に来ていた上海の青年の手記を読んだ(孫 震『東京での地震体験に想う』「華鐘通信 195/196号」)。

 「・・・災害の後の東京の街では、周章狼狽したり、慌てて混乱し、駆け回るような人々は見られず・・・人々が臨時に夜を過ごした場所には果物の皮、紙くず、タバコの吸殻、カップ麺の容器などのゴミが地面を覆っているような光景も見られず、道を行く人々にも沸き立つような声は無く・・・」
 そして、想うのである。
 「私は、想像を超える大災害と、想像を超える日本人の沈着冷静さに感動し、また、日本人の災難に立ち向かう態度に、民族の強さを見ました。率直に言うと、沈着で淡々と振舞う日本の人々を見て、うらやましいと思う一方で、自分に拭い去れない恥ずかしさも感じました。日本の人々を目の当たりにして、我々の学ぶべきことが何と多いことか!これは教育の積み重ねの結果であり、GDPの総量と引き換えにできるものではありません」

 95年1月17日の「阪神・淡路大震災」のあのとき、我が家は倒壊こそ免れたが、その後「全壊」と認定され、その日から1キロほど離れた小学校の体育館での「被災者」生活がはじまった。今回の「三重苦」(大地震・大津波・原発事故)の被災と異なり、そのときは地元の自治体も即日機能回復に向けて動き出し、日赤の見舞金を受けたのは10日目くらいであったか。
 二週間後にわたしたち家族は大阪府下の、木造四軒長屋の公営住宅(解体寸前)に移転、受け入れ先の自治体や住民の方々のお世話になり、酒屋さんから“避難民”と声をかけられ、販促用の品々も貰った。
 5月上旬であったか、上海の視察団一行を神戸の激震地に案内したとき、阪神間の交通機関が寸断されていたため、大阪港から船で神戸に向かった。JR三宮駅前のそごう百貨店の解体工事がはじまっていて、マスクをしていても息詰まる。元町駅から須磨までJRで行き、最激震地の長田方面へ向かって歩き出した。視察団一行はカメラを向けながら、言葉が出ない(かれらの帰国後、上海の高層建築物の耐震基準が引き上げられたという)。
 
 「阪神・淡路」から数年後の秋、関西日中関係学会が当番で学会の全国総会を震災から立ち直った神戸で開催したことがある。このときは竹内実先生(当時関西学会の会長)の発案で、NHKドラマ「大地の子」で陸一心の学生時代の恋人役・趙丹青を演じた盖麗麗さんを北京からお招きした(父親役の陸徳志を演じた「人間国宝」の朱旭さんはこのときは都合がつかず、翌年の来日となった)。そのレセプションで来日招聘を担当したYさん(在北京の日本人)と昵懇になり、そのあと彼のアレンジで北京で盖麗麗さんと再会、会食したことがある。中国映画界のはなしからなぜか化粧品に話題が飛んで、訪日時の神戸でのショッピングでは、毛丹青さんの奥さんにいろいろお世話になった、よろしくとあいなった。
 毛丹青さんとは関西学会や京都の現代中国研究会などの会合で面識があった。
 特に訪日ビザ申請などの手続きをした中国の作家・莫言さん(映画「至福のとき」、「白いブランコ」などの原作者)の、京都での講演会や交流会では毛さんが通訳やアレンジで大奮闘。
 この数年お目にかかる機会が無かったが、先日「日経」夕刊連載の「人間発見」(5月23日~27日)でその近況を知った。「作家・神戸国際大学教授」との肩書。『虫の目で見たニッポン』(文春文庫)は彼の日本での処女作だが、その瑞々しい筆致と視点はいまも読者をひきつけている。そして、この連載の最終回では「知日への扉を開く」として、「若い日本人の中国紹介のサポート」や「80后」への期待が綴られている。彼が創刊に関わった中国で発刊の雑誌『知日』などについて、こう語っている。
 「『知日』の編集長の蘇静君も、人気作家の郭敏明君も80後です。アニメでもロボットでもライトノベルでもいい。彼らは日本を知ることで、より豊かになることができるんです。ただ彼らの情報はネットで得たものばかりです。それを僕がサポートする。・・・中国は経済大国になり、ようやく精神的に余裕を持つようになってきました。なぜ日本の街はきれいなのだろう。どうして日本は古い伝統を残しつつ、新しいものも生み出すのだろう。中国は日本を知らなければならない時代に入りつつあるのです」

 たしか、小泉首相の「靖国参拝」問題で日中関係がギクシャクしているときであった。わたしは「江南のたび」のあと、寧波のホテルで夕食後足マッサージをしていたとき、彼女は一瞬振り向いて背後のテレビを見つめ、ふたたびわたしの足マッサージを続けた。「靖国参拝」のニュースであった。彼女は「小泉(シャオチュアン)」と耳にして、振り返り、その画面を見つめたのであった。
 わたしと彼女の、一問一答がはじまったのはそれからである。
 出身は江蘇省の北(「江北」)の、山東省に近い寒村。この仕事を始めて数年、オカネが貯まったらこの前テレビで見た「北海道」へ行きたい、という。ふるさとは、寒いばかりで雪が積もらない。あの雪景色の日本へ行きたいが、どのくらいかかるかなぁ?
 この雪景色のテレビ画面は、多分、毛さんが中国の若いテレビ関係者を引率して撮影したものであろう(本人には確認していないが)。

 毛丹青さんはすでに在日二十余年、日本人以上に日本と日本人を知っている。
 雑誌『知日』は、中国のこれからを背負う「80后」世代への「知日」指南書になることだろう。かれが数年前に手がけたテレビによる日本紹介は、その後の旅行ブームをうみだすきっかけとなった。それは若いテレビ関係者の感性が捉えた「日本」であって、旅行社のPRする「日本」ではない。

 冒頭のレポートは、「3・11」直後の体験記である。
この青年の知らないことだが、関東大震災(一九二三年)では戒厳令下で朝鮮人などの虐殺事件があった。地下道でやむなく一夜を過ごした大勢の人たちの脳裏にも浮かばなかったことであろうが、このことは日本の歴史の汚点である。
 そしていま、政治の世界では、選良?たちの駆け引きが続いている。
 それも、これも「日本」である。残念ではあるが・・・。
                        (2011年6月12日 記)