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『古文書徒然』其之壹 

2011-10-22 20:54:13 | はらだおさむ氏コーナー
金持ち ケンカせず?

~古文書学習日記より~


2月から3月にかけて、異なる文体にも慣れるようにとの「配慮」からか、川辺郡寺本村に居住し金銀貸付業を営む前田家の「文書」3件を読むことになった(といってもわたしは先輩たちの読解力に、ひたすら羨望のまなざしを向けるばかりであったが)。

そのひとつに「掛屋敷組合持枝証文之事」がある。
前田家の当主、前田良蔵が尼崎の掛屋泉屋利兵衛宛に差し出した文書である。
この二人に山田屋市右衛門(不詳)を加えた3名の共同出資(出銀)で、堂嶋新地弐丁目の土地(表口弐拾六間奥行弐拾間)・建物(浜納屋二棟、竈数=民家四十一軒)を京都の銭屋利助(不詳)から銀百五拾貫目で購入している。
場所は現在の堂島浜一丁目、元禄十六年大坂図(教材資料)といまの区割りを見比べてもあまり大差はない。ちょうど御堂筋の大江橋北詰(大阪市役所の斜め向かい、日銀大阪支店の北)を西へ入った二区画目で、「新大ビル」が建っている一等地のおよそ一万八千四百坪を建物込みで買い取っている(先学の計算によると、銀百五拾貫は現換算値で二億三千万円相当とか。これで計算すると坪単価は11,250円となるが、金相場に比しいまの不動産価格の高騰・突出ぶりが目立つ)。

ここで取り上げたいのは、そのことではない。
ふたつめの「文書」に「出世払い」の話が出てくるのである。
買い取ったのが文化四卯年(1807)八月、それから二十八年時代が下がった天保六年(1835)未二月、明石屋喜助から前田良蔵宛にこの文書「一札之事」が差し出されている。
喜助は堂嶋新地弐丁目で家守(やもり)をしていたとあるから、上記の物件の管理をしていたのであろうか。あるときから「右家賃金取集之儀」を仰せ付けられ、節季(盆、暮)毎に取り集めたが「銀高連々ト引負仕候処実正也」、ところが「此度右御家守相退キ候二付」と退職することになり(クビか?)、調べてみると「銀四貫五百三匁六歩八厘也」が未納になっていた。無い袖は振れぬと「嘆願奉申上候処、御聞届」成し下されて、「私出世仕候迄、御猶予被成下候段難有奉存候」となる。この金額、いまの時価では七百万円ほどになるということだから、少ない「引負」額ではない。
家賃の未集金が累積したのか、年一~二度の集金残も「チリも積もれば」ということにもなるが、使い込みの疑惑も残る。

 「私儀幼年ヨリ当家二奉公二罷出」ではじまる「一札之事」は、つぎのような話である。
差出人の元祐は文政元寅年(1818)、別家を仰せ付けられ家屋敷田畑家財などを仕分けられる、とあるから奉公人のなかでは出世頭といえるだろう。前田家の幹部クラスの人間である。ところが、本人は「不情(ぶしょう)」につきと書いているが「困窮二付借財出来候」ゆえ、分けいただいた田地の過半を売り払い残る田地屋敷を「其元様江質物二差入」て、本家から銀六貫九百目を無利息で借りている。ところがである。「追々ト難渋二付」この質草を返してくれと泣きこんでいる。その言い草がこうである。「元来不調法者 心得違其上勤功モ無之候」、わたしならこんな幹部は要らない、女々しいにもホドがある、と頭にきたのであるが、ご本家前田良蔵は認めてやっている。「誠二冥加至極難有仕合奉存候」も口先だけではないか、「これはクビものですなぁ」と感想を述べたら、メンバーから「金持ち ケンカせず、ですよ」と返ってきた。
先例の家守の件といい、この時代、そんなにノンビリしていたはずではあるまいに・・・、といまだに納得がいかないのである。

(〇五年四月記)
(宝塚古文書を読む会・冊子「源右衛門蔵」八号所載)