「岩屋村」のこと
「岩屋村」にはじめて出会ったのは、宝塚古文書を読む会のテキストであった。
灘や淡路の「岩屋」ではない「岩屋村」が、つぎの文中にあった。
一 郷頼母子加入之面々名前并ニ歩付、御書記被成
上村は岩屋へ下村は戸之内へ、来ル五日迄ニ無間違
御差出可被成、右等之趣可得貴意如此御座候、 已上
正月三十日 津田 九兵衛
(和田正宣氏文書・資料番号B―十二)
「戸之内」なら尼崎だと、「尼崎市小字図」(尼崎市史第十巻 付図)を開いてみるとその詳細は出ているが、「岩屋」はない。「摂津名所大絵図」で猪名川を遡ると、田能の東にその名があった、いまは伊丹市域。田能(尼崎市域)の旧集落と猪名川をはさんで向かい合い、豊嶋郡境に接している。
このテキストの「上村は岩屋へ下村は戸之内」の意味がわからなかったので、「読む会」のときお尋ねしたところ、飯野藩支配下の村を大庄屋が「上村」、「下村」と分担していたのであろう、とのことであったが・・・。
「角川日本地名大辞典」(兵庫県)で「岩屋村」を調べると、冒頭の淡路、灘から神崎町、山南町、東条町にも同地名は存在するようだが、ここは伊丹市にしぼろう。
「地名の由来は、窟があったことからとする説があるが(岩屋村紅葉紀行解説/伊丹文藝資料)、うなずけない(なぜ?=はらだ独白)。江戸期~明治二十二年の村名。摂津国川辺郡のうち。はじめ幕府領、慶安元年から上総国飯野藩領。寺院は、浄土宗福勝寺と同寺の門徒で紅葉の名所鼓流庵(明治期に廃絶)。
昭和39年、大阪国際空港の拡張工事により、旧集落西側の田地に全戸が移転した」とある。
図書館の郷土史の書棚をいじっていたら、この「伊丹文藝資料」があった。
その「岩屋村紅葉紀行 全」のページをひもといてみる。
「写本。やや大形半紙本一冊、・・・・墨付八葉。窟村紅葉の庵室の画がある。
画は木村銭丸写。
本文の筆者、作者はわからないが、銭丸・庭枝・庭雨・庭李・豊丸の五人が大阪を立って三国・新田・服部をへて岩屋村にある紅葉を見に行った紀行文。帰路は道をかえて久々知の妙見に参り神崎で遊女塚を尋ねている。・・・この紀行の年次は全く判らないが、本書の姉妹篇・・・末尾の識語にこう書いてある。
于時文化十二歳乙亥正月中旬 」
なるほど、岩屋村のことは少しはわかってきたが、「上村は岩屋へ」の「上村」に属する村々はどこになるのか、もう一度「名所大絵図」を眺めるが・・・???。
あるとき、図書館の資料室で「市史研究紀要 たからづか」の目次を見ていたら、第十七号掲載の「飯野藩上方領分支配とその担い手についてー近世中後期を中心にー木村修二」なる文字が飛び込んできた。
本書三四ページに「表3 近世中後期の大庄屋制の変遷(川辺郡)」がある。
冒頭の御触は天明五乙已年正月三拾日(一七八五年)に津田九兵衛名義で出されている。「表3」では、この三年前の天明二年三月に「摂州川辺郡触頭 津田九兵衛・田中喜八郎」の記載がある。この時期以前、大庄屋は月番制であったが、天明九年までは津田・田中の両名義、寛政八年(一七九六年)から十二年後の文化五年まで戸之内の田中家、文化六年四月にはじめて「川辺郡触頭 岩屋村平治(早川家)」の名前が出てくる。以後川辺郡で大庄屋の二人制が定着する嘉永五年(一八五二年)まで、早川家、田中家、津田家が交代で大庄屋を務めていたが、こののち明治までは田中家(戸之内)、早川家(岩屋)の両名が、川辺郡の大庄屋を世襲している。
飯野藩の上方領分はどうなっていたのだろうか。
本書三拾ページの「表1」によると、摂津豊島郡(十三村)、摂津川辺郡(九村)、攝津有馬郡(六村)、摂津能勢郡(四村)、近江伊香郡(三村)の計三十五村、全石高一万一千百五石の内、川辺郡は三分の一弱の三千百七十石であった。
川辺郡内の九村は、戸之内村、富田村之内、岩屋村、酒井村、桑津村、若王寺村之内、岡院村之内、米谷村之内、堀池村である。
さてこの九村を上下どのように分けるか、もう一度「名所大絵図」を睨む。
「上村」・・・岩屋村―米谷、桑津、酒井、堀池、「下村」・・・戸之内村―若王子、富田、岡院でどうだろうか、堀池の位置関係が微妙だが、これらを立証する資料にはまだお目にかからない。
これでやっと冒頭の「御触」の疑問が解けたが、もう少し「岩屋村」を調べる。
「伊丹市史 近世篇 5 村明細帳」(三二七ページ)に【岩屋村明細帳】(吉岡忠夫文書)があった。
摂州川辺郡 岩屋村
一 高三百八十石壱 斗
但、諸役勤高
以下つぎのような説明が綴られている。
右ハ文録三年九月十六日船越五郎右衛門様御検地
御改高則御帳面御座候処、田畑持主名付・字名等
古帳ニ而ハ難見分候ニ付、貞享二乙丑年奉願上名
寄帳相認、殿様御役人中様御印御願奉申候処、御
吟味之上貞享三乙寅年三月八日御印被 成下候、
則只今ニ至右名寄帳用来申候、併当時諸役勤高并
永荒・荒起・新開・流作場等此度書上申候通少も
相違無御座候、
人口とその構成はどのようになっているのか。
一 竈数八十軒 但、寺庵共
内
弐十壱軒 株 百 姓
拾五軒 同別レ百姓
拾弐軒 無役屋敷高持
三拾軒 無 高
その所在地は・・・
一 当村より所々え道法
浜村御陣屋(*)え四拾七町 但、御陣屋より戌亥ニ当ル、
京都え 拾弐里 大坂え 三里半 但、御城より戌亥ニ当ル、
堺え 五里半 神崎え 壱里
尼崎え 弐里 西宮え 三里
昆陽え 一里半 小浜え 二里
伊丹え 廿弐町 池田え 一里半
多田院え二里半 」
(*)浜村御陣屋・・・現豊中市浜三丁目付近にあった飯野藩攝津国内
藩領管理の役所(『源右衛門蔵』別冊五七ページ)
その周辺の村々は、どうであったのか。
東 勝部村 原田村 西 酒井村 森本村
一 当村御田地領境
南 田能村 北 桑津村 箕輪村 」
これらの村々にとって、猪名川からの取り入れ用水は農業を営むにあたって死活問題であった。これらの「井(ゆ)」をめぐる争いは現在の周辺「市史」にも多くのページが割かれているが、この文書ではどのように記録されているのだろうか。
猪名川表西桑津村地先
一 九名井井堰 東郷・西郷九個村立会
右用水分水樋或は小溝より九ヶ村え相掛り申候、
則惣掛り高左之通ニ御座候、
として、西郷(酒井村、森本村、田能村、岩屋村)の合計千四百三拾石、東郷(勝部村、原田村、桜塚村、岡山村)の合計弐千六十石、用水惣掛高合三千五百石と取り決めている。
明細帳は以下の役職者の署名で締めくくられている。
右之通此度御吟味ニ付委細帳面書記差上申候処相違
無御座候、以上
岩屋根村 庄屋 幸 吉 郎
年寄 六 兵 衛
洞断 伊左衛門
“ 九 兵 衛
秋晴れの休日、阪急川西能勢口から猪名川を下る。
北攝の山なみが照り映えている。
河川敷では、バーベキューを囲んでいるグループ、キャッチボールに興じる親子、行き交うジョギングのひとたち・・・。
猪名川大橋を過ぎ、東久代の運動公園に差し掛かると川幅は狭く、ブッシュに遮られて視界から消える。
背丈を越えるススキをかき分け、水辺にたどり着く。
川幅は十メートルもあるか、対岸の高台では中年の夫婦が弁当を広げていた。
亀は甲羅干しに余念が無く、そのかたわらを水鳥が餌をついばんでいた。
そのまま川下へ十分ほど歩くと、流れが二分して前に進めない。
茨にさかもがれ、ヒッツキムシだらけの、難行・苦行の末、やっと元の河川敷にたどりつく。外野を守っていた少年がキョトンと見つめるが、我ながらのむざんな有様。
休憩を入れ三時間あまりで、目指す桑津橋に到着。
伊丹豊中線の西はJR伊丹駅、東は空港地下道に連なる。スカイランドHARADA(のちに猪名川流域下水道原田処理場の上部に設けられた多目的広場と知る)に沿って南折、道行く人に案内を乞い、岩屋八幡神社に到着した。裏手の墓地は、空港のフェンスに向かい合っている。
道角に「岩屋の旧地名」という案内が建てられていた。
「岩屋の地名の由来は窟(いわや)があったことからとする説がありますが、確かなことはわかりません。
岩屋の集落は、もとは字下岩井にありました。氏神は八幡神社で、天正6年(1578)羽柴秀吉が伊丹城主荒木村重と戦ったとき、当時の境内に陣を布いたと伝えられています。
寺院は浄土真宗福勝寺があります。同寺の門徒鼓庵は紅葉の名所と知られていましたが、明治期に廃絶しました。(略)
昭和39年(1964)に主要地方道伊丹・豊中線の南側一帯に大阪国際空港が拡張されたことにより、現在地に全戸が移転し、併せて八幡神社、福勝寺そして墓地も移転しました。そして伊丹・豊中線は地下道になりました。(略)
ここを南下すると猪名川の堤防に突き当たる。その右手に田能遺跡、左手にごみ処理場の熱を利用したクリーンスポーツランドがある。ここから東は、わたしが独断と偏見でマイルーツと勝手に決めて繋っている「原田村」になる。
(平成拾九丁亥年壱月)
「岩屋村」にはじめて出会ったのは、宝塚古文書を読む会のテキストであった。
灘や淡路の「岩屋」ではない「岩屋村」が、つぎの文中にあった。
一 郷頼母子加入之面々名前并ニ歩付、御書記被成
上村は岩屋へ下村は戸之内へ、来ル五日迄ニ無間違
御差出可被成、右等之趣可得貴意如此御座候、 已上
正月三十日 津田 九兵衛
(和田正宣氏文書・資料番号B―十二)
「戸之内」なら尼崎だと、「尼崎市小字図」(尼崎市史第十巻 付図)を開いてみるとその詳細は出ているが、「岩屋」はない。「摂津名所大絵図」で猪名川を遡ると、田能の東にその名があった、いまは伊丹市域。田能(尼崎市域)の旧集落と猪名川をはさんで向かい合い、豊嶋郡境に接している。
このテキストの「上村は岩屋へ下村は戸之内」の意味がわからなかったので、「読む会」のときお尋ねしたところ、飯野藩支配下の村を大庄屋が「上村」、「下村」と分担していたのであろう、とのことであったが・・・。
「角川日本地名大辞典」(兵庫県)で「岩屋村」を調べると、冒頭の淡路、灘から神崎町、山南町、東条町にも同地名は存在するようだが、ここは伊丹市にしぼろう。
「地名の由来は、窟があったことからとする説があるが(岩屋村紅葉紀行解説/伊丹文藝資料)、うなずけない(なぜ?=はらだ独白)。江戸期~明治二十二年の村名。摂津国川辺郡のうち。はじめ幕府領、慶安元年から上総国飯野藩領。寺院は、浄土宗福勝寺と同寺の門徒で紅葉の名所鼓流庵(明治期に廃絶)。
昭和39年、大阪国際空港の拡張工事により、旧集落西側の田地に全戸が移転した」とある。
図書館の郷土史の書棚をいじっていたら、この「伊丹文藝資料」があった。
その「岩屋村紅葉紀行 全」のページをひもといてみる。
「写本。やや大形半紙本一冊、・・・・墨付八葉。窟村紅葉の庵室の画がある。
画は木村銭丸写。
本文の筆者、作者はわからないが、銭丸・庭枝・庭雨・庭李・豊丸の五人が大阪を立って三国・新田・服部をへて岩屋村にある紅葉を見に行った紀行文。帰路は道をかえて久々知の妙見に参り神崎で遊女塚を尋ねている。・・・この紀行の年次は全く判らないが、本書の姉妹篇・・・末尾の識語にこう書いてある。
于時文化十二歳乙亥正月中旬 」
なるほど、岩屋村のことは少しはわかってきたが、「上村は岩屋へ」の「上村」に属する村々はどこになるのか、もう一度「名所大絵図」を眺めるが・・・???。
あるとき、図書館の資料室で「市史研究紀要 たからづか」の目次を見ていたら、第十七号掲載の「飯野藩上方領分支配とその担い手についてー近世中後期を中心にー木村修二」なる文字が飛び込んできた。
本書三四ページに「表3 近世中後期の大庄屋制の変遷(川辺郡)」がある。
冒頭の御触は天明五乙已年正月三拾日(一七八五年)に津田九兵衛名義で出されている。「表3」では、この三年前の天明二年三月に「摂州川辺郡触頭 津田九兵衛・田中喜八郎」の記載がある。この時期以前、大庄屋は月番制であったが、天明九年までは津田・田中の両名義、寛政八年(一七九六年)から十二年後の文化五年まで戸之内の田中家、文化六年四月にはじめて「川辺郡触頭 岩屋村平治(早川家)」の名前が出てくる。以後川辺郡で大庄屋の二人制が定着する嘉永五年(一八五二年)まで、早川家、田中家、津田家が交代で大庄屋を務めていたが、こののち明治までは田中家(戸之内)、早川家(岩屋)の両名が、川辺郡の大庄屋を世襲している。
飯野藩の上方領分はどうなっていたのだろうか。
本書三拾ページの「表1」によると、摂津豊島郡(十三村)、摂津川辺郡(九村)、攝津有馬郡(六村)、摂津能勢郡(四村)、近江伊香郡(三村)の計三十五村、全石高一万一千百五石の内、川辺郡は三分の一弱の三千百七十石であった。
川辺郡内の九村は、戸之内村、富田村之内、岩屋村、酒井村、桑津村、若王寺村之内、岡院村之内、米谷村之内、堀池村である。
さてこの九村を上下どのように分けるか、もう一度「名所大絵図」を睨む。
「上村」・・・岩屋村―米谷、桑津、酒井、堀池、「下村」・・・戸之内村―若王子、富田、岡院でどうだろうか、堀池の位置関係が微妙だが、これらを立証する資料にはまだお目にかからない。
これでやっと冒頭の「御触」の疑問が解けたが、もう少し「岩屋村」を調べる。
「伊丹市史 近世篇 5 村明細帳」(三二七ページ)に【岩屋村明細帳】(吉岡忠夫文書)があった。
摂州川辺郡 岩屋村
一 高三百八十石壱 斗
但、諸役勤高
以下つぎのような説明が綴られている。
右ハ文録三年九月十六日船越五郎右衛門様御検地
御改高則御帳面御座候処、田畑持主名付・字名等
古帳ニ而ハ難見分候ニ付、貞享二乙丑年奉願上名
寄帳相認、殿様御役人中様御印御願奉申候処、御
吟味之上貞享三乙寅年三月八日御印被 成下候、
則只今ニ至右名寄帳用来申候、併当時諸役勤高并
永荒・荒起・新開・流作場等此度書上申候通少も
相違無御座候、
人口とその構成はどのようになっているのか。
一 竈数八十軒 但、寺庵共
内
弐十壱軒 株 百 姓
拾五軒 同別レ百姓
拾弐軒 無役屋敷高持
三拾軒 無 高
その所在地は・・・
一 当村より所々え道法
浜村御陣屋(*)え四拾七町 但、御陣屋より戌亥ニ当ル、
京都え 拾弐里 大坂え 三里半 但、御城より戌亥ニ当ル、
堺え 五里半 神崎え 壱里
尼崎え 弐里 西宮え 三里
昆陽え 一里半 小浜え 二里
伊丹え 廿弐町 池田え 一里半
多田院え二里半 」
(*)浜村御陣屋・・・現豊中市浜三丁目付近にあった飯野藩攝津国内
藩領管理の役所(『源右衛門蔵』別冊五七ページ)
その周辺の村々は、どうであったのか。
東 勝部村 原田村 西 酒井村 森本村
一 当村御田地領境
南 田能村 北 桑津村 箕輪村 」
これらの村々にとって、猪名川からの取り入れ用水は農業を営むにあたって死活問題であった。これらの「井(ゆ)」をめぐる争いは現在の周辺「市史」にも多くのページが割かれているが、この文書ではどのように記録されているのだろうか。
猪名川表西桑津村地先
一 九名井井堰 東郷・西郷九個村立会
右用水分水樋或は小溝より九ヶ村え相掛り申候、
則惣掛り高左之通ニ御座候、
として、西郷(酒井村、森本村、田能村、岩屋村)の合計千四百三拾石、東郷(勝部村、原田村、桜塚村、岡山村)の合計弐千六十石、用水惣掛高合三千五百石と取り決めている。
明細帳は以下の役職者の署名で締めくくられている。
右之通此度御吟味ニ付委細帳面書記差上申候処相違
無御座候、以上
岩屋根村 庄屋 幸 吉 郎
年寄 六 兵 衛
洞断 伊左衛門
“ 九 兵 衛
秋晴れの休日、阪急川西能勢口から猪名川を下る。
北攝の山なみが照り映えている。
河川敷では、バーベキューを囲んでいるグループ、キャッチボールに興じる親子、行き交うジョギングのひとたち・・・。
猪名川大橋を過ぎ、東久代の運動公園に差し掛かると川幅は狭く、ブッシュに遮られて視界から消える。
背丈を越えるススキをかき分け、水辺にたどり着く。
川幅は十メートルもあるか、対岸の高台では中年の夫婦が弁当を広げていた。
亀は甲羅干しに余念が無く、そのかたわらを水鳥が餌をついばんでいた。
そのまま川下へ十分ほど歩くと、流れが二分して前に進めない。
茨にさかもがれ、ヒッツキムシだらけの、難行・苦行の末、やっと元の河川敷にたどりつく。外野を守っていた少年がキョトンと見つめるが、我ながらのむざんな有様。
休憩を入れ三時間あまりで、目指す桑津橋に到着。
伊丹豊中線の西はJR伊丹駅、東は空港地下道に連なる。スカイランドHARADA(のちに猪名川流域下水道原田処理場の上部に設けられた多目的広場と知る)に沿って南折、道行く人に案内を乞い、岩屋八幡神社に到着した。裏手の墓地は、空港のフェンスに向かい合っている。
道角に「岩屋の旧地名」という案内が建てられていた。
「岩屋の地名の由来は窟(いわや)があったことからとする説がありますが、確かなことはわかりません。
岩屋の集落は、もとは字下岩井にありました。氏神は八幡神社で、天正6年(1578)羽柴秀吉が伊丹城主荒木村重と戦ったとき、当時の境内に陣を布いたと伝えられています。
寺院は浄土真宗福勝寺があります。同寺の門徒鼓庵は紅葉の名所と知られていましたが、明治期に廃絶しました。(略)
昭和39年(1964)に主要地方道伊丹・豊中線の南側一帯に大阪国際空港が拡張されたことにより、現在地に全戸が移転し、併せて八幡神社、福勝寺そして墓地も移転しました。そして伊丹・豊中線は地下道になりました。(略)
ここを南下すると猪名川の堤防に突き当たる。その右手に田能遺跡、左手にごみ処理場の熱を利用したクリーンスポーツランドがある。ここから東は、わたしが独断と偏見でマイルーツと勝手に決めて繋っている「原田村」になる。
(平成拾九丁亥年壱月)