くに楽

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徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾六

2013-10-17 09:10:27 | はらだおさむ氏コーナー
ルビコンの川


“七十の手習い”で学びはじめた近世地方文書(じかたもんじょ)は、庄屋さんなどが備忘録として書き残した村方文書が主で、あとではご本人も判読に苦しむような、書きなぐりのものも多い。
はじめて参加した学習会(月二回)は、わたしより数歳年長の方が指導される10名ほどのクラスであった。二時間の学習時間では、受講生三名が順番にテキストの文書を釈文して黒板に書き、それをみんなで検討しあって誤りを正し、最後にリーダーがその内容を解説するという仕組みであった。
文頭の「乍恐・・・」も読めないわたしは、つぎの「以書付奉願上候」が読めるはずがない。順番が回ってくるたびにパスを繰り返していたが、あるときリーダーから「ルビコンの川を、思いきって渡りなさい」との指摘を受けた。
わたしのあたまに一瞬「クワイ川マーチ」(映画「戦場にかける橋」主題歌)のメロディが流れかけたが、あわててさにあらずとストップ、あの「賽は投げられた」の故事のことと思いついた。そうだ、古代ローマの時代、ルビコン川より内側に軍隊を連れて入ってはいけないとされていたが、カエサル(シーザー)はこの規則を無視して渡河、ローマに向かった。爾来「ルビコン川を渡る」とは、ある重大な決断・行動をすることのたとえとなっている。リーダーはわたしの古文書学習態度を、この比喩を使って叱正されていたのであった。


♪人生~いろいろ♪、そう、わたしの人生にも、いろいろと決断を迫られる場面があった。
22歳 さる中小企業経営者と意気投合して、社員がわたしひとりの日中貿易の会社に入り、実務も経営の何たるかもわからずに船出したこと。32歳 湿性肋膜炎で加療・養生半年のあと、まだそれほど施術の確立していなかった胸部外科手術で右肺三分の一を切除したこと。48歳 こと志と異なり和議再建が実らず、会社破産で一年の浪人のあと、対中投資コンサルタントとして再出発したことなど、いくたびか、わたしもルビコンの川を渡ってきている。

86年の初夏のこと、これはさほどの決断をしたという記憶はないが、伊丹から上海へ向かうJALで搭乗直前 ストップがかかったことがある。
同上海支店からの緊急連絡で、わたしたちを招聘先が受け入れできないと連絡してきたとか。なにを馬鹿な、わたしたちは正式のビザを取得している、大丈夫と機内に乗り込もうとすると、もし上海で入国拒否された場合、帰国便の費用は自費負担をご確認下さいと書類に署名を求めてきたのであった。
 これにはつぎのような事情が背景にあった。
 その前年の一月 日系合弁製造業第一号の設立批准を受けていたが、日本にあるスイス製プラントの解体・輸送と上海における工場建屋の新設遅れなどでまだ操業には至らず、スイス人の技術者が現場でプラントの組立て指導に着任した直後のことであった。かれは上海での生活環境がなじめないと中国側に無断で、日本経由で帰国してしまった。突然姿を消したこの技術者の行方を捜していた中国側は、かれが虹橋空港から帰国前に投函していた手紙を見て一安心するやら、これは日本側の手引きに違いないと、今度はわたしたちにその怒りを突きつけてきた。誤解もいいところ、わたしたちはこの事件発生以前から今後の業務推進打ち合わせに訪中の予定であったが、何はともあれ、事態の改善にと空港へ駆けつけたのである。
 上海虹橋空港の入国ゲイトを出ると、いつもの中国側担当者が出迎えに来ていた。ぎこちない会談のスタートであったが、話せばわかる、誤解は氷解し、仕事の改善策が話し合えるようになった。もちろんキーパーソンの、スイス人技術者の再訪中のため、日中双方がそれぞれ役割分担をして対処することになった。
 もしも伊丹空港で、あのまま搭乗せずにいたらと思うと、いまでもゾッとするときがある。


先日 リービ英雄さんの「国境越える文学」を読んで思うことがあった(8月24日「日経」夕刊)。
 少し長くなるが、以下引用する。
 「・・・中国にも強い関心を寄せ、頻繁に訪れ、作品のテーマにしている。
 『中国に行くのは子供のころ台湾で育ち、中国語が話せることが大きい。僕は日米という枠の中で生き、米国人だからどうのこうのとずっと言われてきた。結構、息苦しかったのですが、中国というもう一つの軸ができて、逆に小説の日本語が深まった気がする。日米、日中など二つの国だけの視点だと、どうしても優劣を比較することになる。これに第三国が加わることで、初めてそれぞれの文化の特徴が比較でき、広い世界が見えてくるのです』
 『日本もこれから欧米とは違ったアジアの国々との国際化が重要になります。でも日中韓のナショナリズムの高まりが心配です。特に中国のそれを見ていると、どこか戦前の日本に似ていて、現代の出来事とは思えない。中国は19世紀に受けたトラウマ(心的外傷)を今になって癒そうとしている。19世紀は民族、人種で発想する時代でしたが、21世紀は言語と文化の時代です。世界全体が21世紀に向かうよう望んでいます』(聞き手:編集委員 藤巻秀樹)」

 昨年ひとつき遅れで開催された中国共産党第18回党大会の開幕式で、十年前に引退、一時死亡説も出ていた老幹部が意気揚々と壇上に姿を見せたのには驚いた。最近このことを中国消息筋に聞くと、解放軍の総参謀長を含む人事がかれの思惑通りに実現したからだろうとのことであった。日本でも引退した古老がときおり政界の裏で暗躍することはあるが、ここまであからさまなことはないし、その実力もない。
昨年8月の北戴河での“駆け引き”はまったく報道されないが、秋の党大会の開催が一月延長されたのは、あの「島の問題」が原因ではない。まさに死力を尽くした“権力闘争”が展開されていたのである。この状況を日本政府がどこまでつかんでいたのか、外交は内政の反映とも言われるが、日本はその火中に“栗”を投げ込んでしまったのである。


故事によると、ルビコンの川を渡ってライバルを倒し、独裁の道を歩みはじめたシーザーは、「王」への階段を昇りはじめる。しかし、ローマの伝統的な元老院による共和政治を、シーザーの専制政治にしてはならぬとするグループは、決起して白昼かれを刺殺したのであった。

ブルータス、お前もか・・・。

(2013年9月11日 記)