くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

2月になりました

2014-02-05 13:04:28 | 四季おりおり
節分の行事も今年は恵方まきを食べるのみ

東北東に向かって、心に健康と平和を祈りながら食べた

数日は暖かかったのに、立春になった途端に寒さが帰った

春は、日差しだけだ

10日からポルトガルに行くので

昨日ユーロが136円になったので、両替に出かけた

139円で両替できた(3年前のスペイン、2年前のフランスはもっと高かった)

そろそろ準備に取り掛からないと





<あのとき・あのころ>第二部(1983-2003) [4]

2014-02-05 12:58:49 | イギリスの旅
ラオジィエパオリュイチュイ


 このカタカナはお呪いではない、日本語読みすると、ロウガイホリュウクとなる中国語、老害?労咳?まさか?

ワードで一度に転換できないが、老街保留区、日本流にいうならば、古い町並みの保存地区、となるのだが、

昨今日本のあちこちで話題になる“町おこし”の、例えてみるならば「長浜」のそれとは少し趣を異にするのではあるが・・・。

 私が<経済>の仕事にたずさわる前年の秋、いまは亡き杉野団長(当時大阪市大教授)、松野秘書長(立命館大教授)の学者・専門家で構成された視察団が協会から派遣されていた。

その報告書が遅ればせながらわたしの仕事始めに出来上がり、その配布などの打ち合わせで松野先生がよく事務所に立ち寄られていた。

松野先生はご夫妻ともわたしの大学の先輩で、その後先生が学術交流で一年余り北京と上海に滞在されていたときは、季節の衣類の運び屋をご夫妻から承ることになるのだが、このときは報告書に記載されていない視察のこぼれ話などを幾度となく拝聴した。

 そのひとつが、上海の住宅事情。

日本でも戦後から高度成長に入るまでのころ、私もふくめて新所帯―核家族の住宅難はあったが、上海の場合、市内では元々は一家族の住居に最低三家族が同居して、一人当たりの居住面積は平均3㎡、バス・トイレはなし、流しも共同使用とあって、“新婚さん”も住むに家なし、と別居生活を余儀なくされる状況が続いていた。

松野先生のご紹介で、団員として参加されていた大阪市大の斎藤先生(前会長)にお目にかかり、ご専門の都市計画(その数年前に交換教授として同済大学でも教鞭をとられていた)をふまえた、上海との経済交流を志向することになる。

これが斎藤先生との、今に至る20余年のお付き合いの始まりである。

なにはともあれ上海の現状を、さらに専門家の立場から考察し、対策を立案・献策することからはじめようと、窓口の上海友協に連絡したが、反応が鈍い。

訪中の都度、窓口の責任者に当方の意図を説明、当初の要らんお節介、という段階から、上海の専門家も参加した「共同考察」という形の
受け入れに至るまで、数回の面談と一年近い時間がかかった。

 市内の「共同考察」の対象となったのは、南市区(いまは隣接の黄浦区に吸収)の老西門を起点に、復興東路・中華門路・蓬莱路に囲まれた地区、中心には文廟(孔子廟)もある古い街並みで、住居のほかに商店や小さな工場が散在していた。

 初めて現地に足を踏み入れた日本の専門家が、魚眼レンズなどで周辺の家並みを撮影していると、住民たちに取り囲まれ、難詰される事件も発生した。

「共同考察」は、地元住民の、厳しい“監視”のなかでスタートしたのであった。
   
(2004年5月26日 記)